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43章 魔の森は秘密だらけ

582. 一足早い春が来た

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 オルトロスを見送ったアベルは、薄暗い空を見上げて息を吐いた。溜め息とは違う、白い息が視界を曇らせる。

「いいなぁ」

「帰りたかったのか?」

 イザヤの不思議そうな響きに、首を横に振った。残ると決めたのは自分自身だ。生まれ育った世界に未練がないといえば嘘になる。しかし、あの世界に帰って何がしたいかと考えた時、思いつかなかった。

 だから残る決断が出来た。魔法が好きだから、憧れの世界で生きたいという本音もある。戻った先に未来が見えないなら、不透明で美しい世界に残りたい。

「いや、帰らないっすけど……先輩達は良かったんですか?」

 財産の鍵扱いの自分より、兄妹で来てしまった清野家の方が問題だと思う。他に兄弟はいなかったはずで、親が泣いているんじゃないか。そんな疑問を込めた質問に、イザヤは肩を竦めて軽く言い放った。

「杏奈が望んだなら尊重する」

「はぁ……シスコンですもんね」

「シスコンではなく、杏奈を女性として愛している」

 迷いなく言い切った先輩の顔を食い入るように見つめてから、アベルは今度こそ溜め息をついた。

「残った理由は、アンナさんか」

 正直、羨ましいと思った。愛する人だと断言できる状況もだけど、覚悟が定まっている人は迷いがない。心の中で「今夜が最後のチャンスだ」と囁く自分がいる。「このまま残ればいい」と唆す自分もいて……天秤のように感情が定まらなかった。言い切れるだけの強さや、諦める弱さが欲しい。

「実は……杏奈に告白しようと思う」

「……独り身の僕の前で、惚気?」

「妹に欲情する兄なんて最低だと思うが、この世界ならやり直せる気がした」

 言い切るイザヤに苦笑いし、アベルはぽんと背中を叩いた。羨んだり妬んだり、そんな感情で自分の人生を濁している時間はない。勇者だから250歳まで生きると予想されたが、魔法を覚えたり、冒険していれば時間なんていくらあっても足りないんだから。

 そもそもこの世界の住人である魔族に比べたら、寿命は短い種族に分類される。足踏みしていたら、このまま終わりそうだった。魔法陣を解析して帰れないと言われた時、覚悟したつもりだ。なのに、別の帰れる手段が示されたら……ぐらついた。

「お兄ちゃん」

 駆け寄ったアンナに、イザヤは穏やかに微笑んだ。よく似た表情で微笑み返すアンナを見て、アベルがくすくす笑い出す。

「どうした、アベル」

「馬に蹴られますよ。僕は屋台を冷やかしてきますね」

 さっさと離れないと、イザヤがアンナに告白できない。城門の方へ向かいながら、我慢できずに振り返った。イザヤが妹の肩を掴んで何かを口にする。感激した様子で頷きながら、アンナは兄の腕に飛び込んだ。迷いなく抱き返すイザヤに「お幸せに」と唇だけで祝いを贈る。

「僕にもいい出会いがあるかな」

 赤い髪をかきあげる。こちらにきて染め直していないので、根本の黒が目立ち始めた。元の黒髪に戻すつもりなので、放置している。

「あら、髪の色が2色なの?」

 無遠慮に毛先へ触れた兎耳の女性に、驚いて固まる。アベルの反応を無視して、彼女はペタペタと獣耳がないか確かめた。そして嬉しそうに笑って尋ねる。

「ねえ、一緒に屋台を回らない?」

「うん」

 子供のような受け答えしか出ない。積極的な兎耳の女性は美しいと言うより、可愛いタイプだった。すこしふくよかな身体は、ぴたりとした服に包まれてはち切れそうだ。身長はアベルと同じか少し高いくらい。

「僕、君みたいな人がタイプなんだ」

 抱擁力のあって抱きしめてくれる女性で、妖艶さは要らない。まさに理想の人だった。そう伝えると兎耳を忙しなく動かしながら、赤くなった顔で彼女は手を繋いだ。

「私だって……タイプじゃなきゃ、声かけてないわ」

 ちらりと振り返った先のイザヤと目が合う。ぐっと親指を立てての激励に、同じサムズアップで応えた。

 あと少しで春が来る。
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