上 下
509 / 1,397
37章 翡翠竜が運んだ嫉妬

506. なぜ殴られたか、おわかりですね?

しおりを挟む
 軽く頭を叩いたあと、アスタロトはぐっと握った拳で勢いよく頬を殴りつけた。常時展開している結界をルシファーが消したのに気づき、全力で殴る。口の端を切ったルシファーが倒れかけ、とっさに右手で身体を支えた。

 左腕で抱いたリリスが「アシュタ、痛いでしょ」と文句をつける。口の端を伝う血を、リリスの小さな手が拭った。

「なぜ殴られたか、おわかりですね?」

「ああ」

 素直に頷いたルシファーの様子に、本当に落ち着いたのだと安堵の息をついた。あのまま暴走してアムドゥスキアスを殺したら、彼は自責の念に堪え切れなかっただろう。今ですらこれほど後悔しているのだから。大公が止めた時は、一度立ち止まって考える理性を求めるしかない。

 取り出したハンカチでリリスの手を拭い、彼女が強請るままにハンカチを渡す。切れた口元を手で撫でているリリスが「痛いの、飛んでけ~」と幼いおまじないをした後で振り返った。じっと見つめてくる大きな赤い瞳がぱちりと瞬きして、小さな白い手が伸ばされる。

 強く握った拳は、手のひらに爪を食い込ませていた。そのまま殴ったのだから、爪が突き刺さる手は血を滲ませる。ルシファーの治癒魔法陣より後で負った傷へ、リリスが温かな魔力を注いだ。魔法陣も作らずに治癒を施し、にっこり笑う。

「アシュタもいいこ」

 殴ったまま握っていた拳を撫でたリリスは、ずりずりと膝の上から下りようとする。咄嗟に押さえて抱き締めたルシファーの手が震えた。愛想を尽かされたのでは? そんな恐怖がルシファーの表情を曇らせる。

「どこへ……っ」

「パパも行く?」

 どうやら離れるつもりではない。彼女の言葉からどこかに行きたいのだと察して頷けば、無邪気に指さした先はベルゼビュート達が座り込んだ方角だった。

 手が届く手前の距離で止まり、首に抱き着いたリリスごと頭を下げる。

「悪かった、お前達まで傷つけてしまった」

「あたくしは構わないわ。数万年前までよくあったことですもの」

 意見が対立した大公と魔王の間で実力によるが何度もあった。懐かしいくらいだと苦笑いしたベルゼビュートは、あっさりした態度で許す。自らの剣先をルシファーに向けたこともあったし、逆に叩きのめされた経験もある。

 命がけで互いの意見をぶつけた経緯があるから、大公達は魔王の本質をよく理解していた。暴走は誰にでも起こるが、ルシファーの場合は止められる実力者が限られる。それ故に何度も本気で戦ったベルゼビュートは「またか」程度の感想しかなかった。

「そなた達にも苦しめたことを謝ろう。すまなかった」

 何らかの償いを申し出るが、少女達は一斉に首を横に振った。魔王の妻となるリリスに侍る覚悟は、彼女達も持っている。多少の危険があったとしても、それは自ら選んだ道だった。

 やっと顔を見せたヤンは元の大きさに戻り、鼻先を撫でられるとほっとした表情を見せる。本能的な恐怖を感じることはあっても、名付け親であり庇護者であるルシファーを嫌うことはない。怖かった分を取り戻そうと甘えるフェンリルの鼻や顎を何度も撫でた。

「……ん、ぁ」

 身を起こしたアムドゥスキアスが、ぼんやりとした顔で座る。広げようとした翼が木の枝に引っ掛かり、不思議そうに小型化した。彼の中で記憶が繋がっていないのは、見ればわかる。少女達にもう一度頭を下げて詫びてから、小型犬サイズの翡翠の竜に近づいて膝をついた。

「すまなかった。そなたを傷つけた」

「え? 傷……ですか? え、あれ」

 慌てて自分の身体を確認し、ミニチュアドラゴンは首をかしげた。特にどこも痛くないし、最後の記憶は唐揚げを頬張って……黒髪の幼女に……。そこでようやく自分の発言とその後の展開を思い出した。ぶるりと身体が震える。本能的な恐怖に顔が引きつった。

「陛下の番だなんて知らなくて、ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げる。ドラゴン種にとって『番』は特別な存在だった。唯一絶対の存在で、他者に奪われることを極端に嫌う。寝ていて世間の噂に疎いとはいえ、魔王の番に手を出そうとしたなら生きている現状の方が不思議だった。

 だから素直に首をかしげて尋ねる。

「殺さなくていいんですか?」

「いや。きちんと説明する前に暴走したオレが悪い」

 言い訳をせず頭を下げる。純白の髪が地面についているのだが、まったく気にしていなかった。それどころか上質な服も土で汚れている。痛みや傷がないので謝られても実感が薄いアムドゥスキアスは、困ったようにアスタロトやベルゼビュートへ視線を向けた。

 なんとかして欲しい。

 居心地の悪さから必死な金の瞳に、くすりと笑ったアスタロトが仲裁に入る。

「ルシファー様は彼にきちんと説明してください。アムドゥスキアスにはお詫びを用意しましょう」

 誤解と無知から生じた騒動が鎮静化しかけたとき、頭上から雷が落ちた。
しおりを挟む
感想 851

あなたにおすすめの小説

【完結】聖獣もふもふ建国記 ~国外追放されましたが、我が領地は国を興して繁栄しておりますので御礼申し上げますね~

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
 婚約破棄、爵位剥奪、国外追放? 最高の褒美ですね。幸せになります!  ――いま、何ておっしゃったの? よく聞こえませんでしたわ。 「ずいぶんと巫山戯たお言葉ですこと! ご自分の立場を弁えて発言なさった方がよろしくてよ」  すみません、本音と建て前を間違えましたわ。国王夫妻と我が家族が不在の夜会で、婚約者の第一王子は高らかに私を糾弾しました。両手に花ならぬ虫を這わせてご機嫌のようですが、下の緩い殿方は嫌われますわよ。  婚約破棄、爵位剥奪、国外追放。すべて揃いました。実家の公爵家の領地に戻った私を出迎えたのは、溺愛する家族が興す新しい国でした。領地改め国土を繁栄させながら、スローライフを楽しみますね。  最高のご褒美でしたわ、ありがとうございます。私、もふもふした聖獣達と幸せになります! ……余計な心配ですけれど、そちらの国は傾いていますね。しっかりなさいませ。 【同時掲載】小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ ※2022/05/10  「HJ小説大賞2021後期『ノベルアップ+部門』」一次選考通過 ※2022/02/14  エブリスタ、ファンタジー 1位 ※2022/02/13  小説家になろう ハイファンタジー日間59位 ※2022/02/12  完結 ※2021/10/18  エブリスタ、ファンタジー 1位 ※2021/10/19  アルファポリス、HOT 4位 ※2021/10/21  小説家になろう ハイファンタジー日間 17位

特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった

なるとし
ファンタジー
 鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。  特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。  武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。  だけど、その母と娘二人は、    とおおおおんでもないヤンデレだった…… 第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。

【完結】過保護な竜王による未来の魔王の育て方

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
魔族の幼子ルンは、突然両親と引き離されてしまった。掴まった先で暴行され、殺されかけたところを救われる。圧倒的な強さを持つが、見た目の恐ろしい竜王は保護した子の両親を探す。その先にある不幸な現実を受け入れ、幼子は竜王の養子となった。が、子育て経験のない竜王は混乱しまくり。日常が騒動続きで、配下を含めて大騒ぎが始まる。幼子は魔族としか分からなかったが、実は将来の魔王で?! 異種族同士の親子が紡ぐ絆の物語――ハッピーエンド確定。 #日常系、ほのぼの、ハッピーエンド 【同時掲載】小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/08/13……完結 2024/07/02……エブリスタ、ファンタジー1位 2024/07/02……アルファポリス、女性向けHOT 63位 2024/07/01……連載開始

【1/21取り下げ予定】悲しみは続いても、また明日会えるから

gacchi
恋愛
愛人が身ごもったからと伯爵家を追い出されたお母様と私マリエル。お母様が幼馴染の辺境伯と再婚することになり、同じ年の弟ギルバードができた。それなりに仲良く暮らしていたけれど、倒れたお母様のために薬草を取りに行き、魔狼に襲われて死んでしまった。目を開けたら、なぜか五歳の侯爵令嬢リディアーヌになっていた。あの時、ギルバードは無事だったのだろうか。心配しながら連絡することもできず、時は流れ十五歳になったリディアーヌは学園に入学することに。そこには変わってしまったギルバードがいた。電子書籍化のため1/21取り下げ予定です。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

逃げて、追われて、捕まって

あみにあ
恋愛
平民に生まれた私には、なぜか生まれる前の記憶があった。 この世界で王妃として生きてきた記憶。 過去の私は貴族社会の頂点に立ち、さながら悪役令嬢のような存在だった。 人を蹴落とし、気に食わない女を断罪し、今思えばひどい令嬢だったと思うわ。 だから今度は平民としての幸せをつかみたい、そう願っていたはずなのに、一体全体どうしてこんな事になってしまたのかしら……。 2020年1月5日より 番外編:続編随時アップ 2020年1月28日より 続編となります第二章スタートです。 **********お知らせ*********** 2020年 1月末 レジーナブックス 様より書籍化します。 それに伴い短編で掲載している以外の話をレンタルと致します。 ご理解ご了承の程、宜しくお願い致します。

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!

みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した! 転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!! 前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。 とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。 森で調合師して暮らすこと! ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが… 無理そうです…… 更に隣で笑う幼なじみが気になります… 完結済みです。 なろう様にも掲載しています。 副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。 エピローグで完結です。 番外編になります。 ※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。

処理中です...