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107.心に染み付いた黒いインク
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薄い珈琲を飲み干したクラリーチェ様が合図を出す。まだカップを手にした私は、視線をそちらへ向けた。部屋に入ってきたサーラは、両腕を前に揃え……深く頭を下げる。
「申し訳ございませんでした」
何に対して謝ったのか。息を呑んだ私は、次の言葉を待つ。
「お嬢様を傷つける意図ではありません。ですが、頼られたいと願う気持ちが溢れ、お嬢様の記憶がないことで魔が差しました」
サーラによれば、お母様とロベルディから付いてきた侍女達の関係が羨ましかった。まるで家族のようにみえる。区別された訳ではないが、疎外感を覚えた。自分もロベルディ出身なら、あの輪に入れたのだろうか、と。
お母様が亡くなった後、侍女達は揃って修道院行きを希望した。お父様は止める事なく許可を出す。けれど……サーラだけが拒まれた。まだ若いのだし、結婚でもしたらいいと言われる。一回り若いサーラを修道院へ道連れにするのは、気が引けたのだろう。その気遣いを、サーラは別方向に受け止めた。
やはり仲間ではないから。ロベルディの貴族令嬢ではないから、一緒に連れて行ってくれないのだ。そう考えて落ち込んだ。望まれるまま侍女として屋敷に残り、女主人亡き屋敷で令嬢付きとなった。経験と年齢、何より男爵家の出身であったことが決め手だ。
穏やかな日常の中、サーラは孤独に苛まれていた。修道院に行きたいのではなく、彼女らと一緒に過ごしたい。亡きアリッシア元王女のために祈る生活に、同行させてほしかった。その感情は、叶わない願いだからこそ強くなる。
ところが、私が記憶を失った。何も覚えておらず、怯えながらサーラに縋った。家族さえ信じられない状況で頼る私を、サーラは歓喜で迎え入れる。彼女にとって、母と侍女達の関係は理想だった。その関係を私との間に築けるのではないかと、希望が膨らむ。
だから父や兄がいない場所で、母の侍女だった話を持ち出した。自分に都合がいいように、己の理想に近い作り話を交えて――。
ここまで一気に話したサーラは、床に座り込んだ。頭を擦り付けるように詫びる。涙を溢して謝り続けるサーラに、私は何を言えばいいのか。頼った私がいけないの? サーラに縋ったことが増長させた理由? それ以前に、私の記憶がない状況が原因なのかも。
「……お茶の、虫……は?」
絞り出した疑問に、サーラはゆっくり首を横に振った。お茶には何もしていない。眠らないつもりと聞いたので、濃いめに淹れただけだと。ここまで来て嘘は言わないだろう。
そこで、ふと……あの夜の行動が浮かんだ。赤い日記帳に黒インクで書いて、そのペン先を洗った。専用の水を張ったお皿……本当にお皿だったかしら。ゆっくりと右手が動く。斜め前、ここには緑茶の注がれたカップも置いてあったわ。
「……伯母様、犯人は」
顔を上げた私に、クラリーチェ様は無言で頷いた。
「私自身だわ」
黒インクを洗ったのは、用意された皿ではなく緑茶。比重が違う液体は一度混じり、やがて分離した。カップの底に沈むインクは、手に取ったことで揺れる。滲むように混じり、その姿がまるで虫のように見えた。いいえ、違う。私の恐怖心が虫だと思い込んだ。
「ごめんなさい」
誰かのせいだと、息をするように当たり前に考えた。でも、危害を加えようとした犯人はいない。私が一人で勘違いして騒いだだけ。カップを落とした後、絨毯は緑茶を吸い取った。でも、黒いインクはシミとして表面に残る。
「リチェ、それだけ君の心の傷は深いんだ」
悲しそうにお兄様が呟く。静かな声なのに、食堂に響いた。
「申し訳ございませんでした」
何に対して謝ったのか。息を呑んだ私は、次の言葉を待つ。
「お嬢様を傷つける意図ではありません。ですが、頼られたいと願う気持ちが溢れ、お嬢様の記憶がないことで魔が差しました」
サーラによれば、お母様とロベルディから付いてきた侍女達の関係が羨ましかった。まるで家族のようにみえる。区別された訳ではないが、疎外感を覚えた。自分もロベルディ出身なら、あの輪に入れたのだろうか、と。
お母様が亡くなった後、侍女達は揃って修道院行きを希望した。お父様は止める事なく許可を出す。けれど……サーラだけが拒まれた。まだ若いのだし、結婚でもしたらいいと言われる。一回り若いサーラを修道院へ道連れにするのは、気が引けたのだろう。その気遣いを、サーラは別方向に受け止めた。
やはり仲間ではないから。ロベルディの貴族令嬢ではないから、一緒に連れて行ってくれないのだ。そう考えて落ち込んだ。望まれるまま侍女として屋敷に残り、女主人亡き屋敷で令嬢付きとなった。経験と年齢、何より男爵家の出身であったことが決め手だ。
穏やかな日常の中、サーラは孤独に苛まれていた。修道院に行きたいのではなく、彼女らと一緒に過ごしたい。亡きアリッシア元王女のために祈る生活に、同行させてほしかった。その感情は、叶わない願いだからこそ強くなる。
ところが、私が記憶を失った。何も覚えておらず、怯えながらサーラに縋った。家族さえ信じられない状況で頼る私を、サーラは歓喜で迎え入れる。彼女にとって、母と侍女達の関係は理想だった。その関係を私との間に築けるのではないかと、希望が膨らむ。
だから父や兄がいない場所で、母の侍女だった話を持ち出した。自分に都合がいいように、己の理想に近い作り話を交えて――。
ここまで一気に話したサーラは、床に座り込んだ。頭を擦り付けるように詫びる。涙を溢して謝り続けるサーラに、私は何を言えばいいのか。頼った私がいけないの? サーラに縋ったことが増長させた理由? それ以前に、私の記憶がない状況が原因なのかも。
「……お茶の、虫……は?」
絞り出した疑問に、サーラはゆっくり首を横に振った。お茶には何もしていない。眠らないつもりと聞いたので、濃いめに淹れただけだと。ここまで来て嘘は言わないだろう。
そこで、ふと……あの夜の行動が浮かんだ。赤い日記帳に黒インクで書いて、そのペン先を洗った。専用の水を張ったお皿……本当にお皿だったかしら。ゆっくりと右手が動く。斜め前、ここには緑茶の注がれたカップも置いてあったわ。
「……伯母様、犯人は」
顔を上げた私に、クラリーチェ様は無言で頷いた。
「私自身だわ」
黒インクを洗ったのは、用意された皿ではなく緑茶。比重が違う液体は一度混じり、やがて分離した。カップの底に沈むインクは、手に取ったことで揺れる。滲むように混じり、その姿がまるで虫のように見えた。いいえ、違う。私の恐怖心が虫だと思い込んだ。
「ごめんなさい」
誰かのせいだと、息をするように当たり前に考えた。でも、危害を加えようとした犯人はいない。私が一人で勘違いして騒いだだけ。カップを落とした後、絨毯は緑茶を吸い取った。でも、黒いインクはシミとして表面に残る。
「リチェ、それだけ君の心の傷は深いんだ」
悲しそうにお兄様が呟く。静かな声なのに、食堂に響いた。
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