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第1章 出産から始まる騒動

08.名前が短すぎてはいけない

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 魔王の肩書きは常にルシファーと共にあった。魔族が発生して数千年で統一された世界は、圧倒的強者である魔王を頂点に形成されている。かつて魔王位を争った3人の大公、アスタロト、ベール、ベルゼビュートは側近としてルシファーを支える側に回った。

 この時点で、他の魔族が魔王の地位を狙うことは事実上不可能となる。1万5千年ほど前に、新たな大公ルキフェルが加わるまで、4人でこの世界のバランスを保ってきた。色が淡いほど強い魔力を有する魔族は、侵略者であった人族を滅ぼして、ようやく平和を得たばかりだ。

 湧いて出て襲い掛かる野蛮な人族を排除したことで、魔族は繁栄の道を辿り始めた。簡単に言えば、母なる魔の森が大量放出した魔力の影響による出産ラッシュだ。リリスやルシファーもその恩恵に与ったのは間違いない。

「可愛いなぁ」

 頬ずりした赤子は、見開いた銀の目で父である魔王を見つめる。リリスの育児を経験したおかげで、首が座らぬ赤子の抱っこも板についたルシファーは、我が子の顔にキスを降らせた。それを止めたのはベルゼビュートだった。

「陛下、に菌が付きます! 大人のキスは汚いのですよ」

「そ……そんなこと、ないぞ……たぶん」

 不安げに否定するルシファーへ、大人がいかに菌を保有しているか力説される。ベルゼビュート優勢の状況で、アスタロトがあっさり否定した。

「問題ありません。なぜなら我らは魔族ですよ? 菌だか病気だか知りませんが、赤子が病気に罹ったことありますか?」

 言われて考え込む。風邪はもちろん、大病の記憶がないルシファーが唸る。視線を向けた先でリリスがにこっと笑った。そうだ、彼女も病気らしい病気はしなかった。これは問題ない。アスタロトと頷きあい、ルシファーは再び我が子の頬にキスを贈った。アスタロトは、自分が孫に触れる理由を奪われるのが嫌だったらしい。

「ベルゼ、その知識はどこから仕入れた?」

「日本人のご夫婦です」

「……イザヤとアンナか。日本での知識だろうな」

 なるほどと納得し、ルシファーは手を広げて待つリリスの腕にイヴを降ろした。

「イヴ、ママよ」

 頬ずりして微笑むリリスは天使だ。うっとりしながら、妻と娘の姿に身悶える魔王……威厳も迫力もない。

「名前の件は、きっちり魔王妃殿下と話し合ってくださいね。魔王陛下」

 アスタロトが公式の呼び方をするときは、仕事モードだ。逆らうと後が怖いので頷いた。

「なぁに? 何かあったの?」

 イヴに決まったと思っていた名前について、ルシファーは説明を始めた。正式名は「イヴリース」になり、普段はイヴと呼ぶ。魔族にとって名前は重要で、魔王の娘となれば威厳のある名前が好まれる。魔王自身が問題と思わなくても、周囲の貴族は別だった。

「ふぅん……いいわよ、それで」

 あっさりとリリスが承諾した。あまりの聞き分けの良さに理由を尋ねると、欠伸を手で隠しながら魔王妃リリスは我が子を愛おし気に見つめる。

「だって私はイヴって呼ぶもの。同じよ」

「うん、リリスがいいなら構わない」

 幼い頃から溺愛し続けたリリスの願いに、ルシファーが否を唱えることは少ない。正式な会議もないまま、名前は決まってしまった。イヴがくしゃっと顔を歪めて泣く前の深呼吸をする。大きく息を吸って吐き出した瞬間、泣き声と同時にルシファーがイヴを抱き上げた。

「おむつだな」

 慣れた手つきでベビーベッドへ横たえ、アスタロトを追い払う。心得たもので背を向けた側近を確かめ、愛娘のベビーオールを脱がせた。湿ったおむつを交換し、尻を綺麗に浄化してから手早く元に戻す。おむつの上から浄化しても構わないが、触れ合う時間は大切だと育児書にも書いてあった。

 かつてリリスを育てる際に参考にした育児書は、今回も大活躍である。同じ本が大量に複製され、あちこちの保育所や図書館に並べられた。各種族の特徴や育て方のコツを付け足しながら、別冊が増えている最中だ。いずれ編纂へんさんする必要があるだろう。

「ところで、どうしてお嬢様と呼ぶんだ?」

 湿ったおむつが交換され気持ちよくなったイヴが目を閉じたところで、リリスの隣に横たえた。途端に泣き出したので、慌てて抱いてあやす。その間にベルゼビュートに疑問をぶつけた。

 現時点で「お嬢様」という呼称を使うのは、彼女だけだった。

「……主君の娘はお嬢様よね?」

 間違ってないが、何か違う。アスタロトもルシファーも眉を寄せ、どう説明したものか考え込んだ。
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