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第二章

67.逃げ場なんてなかった

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 街の中は静まりかえっていた。逃げ出すなら今だ。昨夜、突然現れた蝙蝠は各家を襲撃した。貴族も平民も関係なく、人間と見れば噛み付く。血を吸われた後、豹変して周囲の人に襲い掛かる住民に恐怖を覚えた。住み込みで働く居酒屋は、すでに襲われた後だろう。

 このままじゃ殺される。自分も狂ってしまう。逃げ込んだのは酒蔵の奥、大きな樽の影だった。ずっと息を潜めて隠れ、騒ぎが落ち着いたのを見計らって顔を出したのだ。

 街はひどい有様だった。白い壁、青い屋根、温暖な気候。冷害や水不足と縁がない観光地として繁栄した街は、人の血や肉が飛び散る廃墟と化していた。うろうろと歩き回る人影は、一様に濁った目をしている。あれは死体と同じだろう。狂った奴らだ。

 狂わせた蝙蝠は引き上げたらしく、見かけない。今しかないと物陰を移動しながら、徐々に門へと近づいた。ここを出れば街道が隣国まで続く。道に迷う心配はないが、食べ物はある程度持ち出さないと旅ができなかった。

 心苦しくはあるが、門を守る砦の中に忍び込む。ここなら兵隊用の備蓄があるはず。携帯食料や水筒があれば最高だった。顔を顰める生臭さの中、奥へと入っていく。書類が散らばる部屋を抜け、その先は居住スペースか。ベッドは大量の血に濡れ、赤く染まっていた。

 蝙蝠か、化け物になった人間に噛まれると、同じ化け物になる。だが切り傷がぱっくりと口を開けた男は死んでおり、生き返る様子はなかった。噛まれずに死ぬことが出来れば、化け物にならないらしい。だが死ぬのは怖い。出来たら隣国へ助けを呼びに行き、そのまま住み着きたいと考えた。

 ゆっくり奥へ入り、部屋にあったバッグを持ち出す。中を確認すると、携帯食料と水筒が詰められていた。兵が持つセットだろう。包帯に使える布やシャツも数枚詰め込まれている。これを持って、隙間にもう少し携帯食料を詰めたら逃げよう。

 早くしないと夜が来る。もう日暮れが近い窓の外はオレンジ色に染まった。暗くなる前にと焦って、近くのバッグを引き寄せる。中を探り、食料だけを詰め直した。パンパンに膨らんだバッグを背中に回し、用心しながら門へ向かう。馬車が通れる大きな門は、滑車を使った仕掛けで開けるので使えないが、隣に通用門がある。

 人間が通れる程度の小さな扉を開け、慌てて閉めた。狼の群れがいる。悲鳴をあげかけた口を両手で押さえ、震えながら扉の閂を戻した。どこから逃げたら……。

「なあ」

 ぽんと肩を叩かれ、ひっと息を詰まらせる。目の前にいたのは黒髪に黒い瞳の青年だった。

「逃げるの? なら、こっち」

 抜け道を知っているのだろうか。ついていこうとして、やたら身軽な彼の姿に眉を顰める。何も持たずに逃げる気か? 忠告しようと近づいたところで、伸ばした手の指に痛みが走った。出来の悪い人形のように、指がぽろりと落ちる。

「え?」

「忍び足で近づかれると、つい反応しちまう。悪かった。痛いだろ? すぐに楽にしてやる」

 意味がわからず目を見開いた。首筋に何かが触れる。ヒヤリとしたそれが首に突き立てられ……意識は途絶えた。



「奴隷として働かせるのに、指を切ったのはまずかった。使えなくなっちゃったか? まだくっつくかも」

「馬鹿を言うな。さっさと狩りを終わらせるぞ」

 黒く大きな蝙蝠は青年を叱り飛ばし、空に舞い上がった。指揮を取る彼の足元で、昨夜を生き残った人間は根絶やしにされる。青白い光を放つ月は、素知らぬ顔で赤い地上を照らし続けた。
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