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第一章

17.彼女にだけは逆らうな

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「失敗ならもう知ってるわ」

 帰るなり、冷たい一言が降ってきた。引きつった笑みを浮かべて見上げた城壁で、リリィが笑顔で手招く。あれに従ったら説教されて特訓が待っているが、断ったらさらに怖い。気の毒そうなアベルの眼差しに背中を押されながら、嫌々足を踏み出した。

 水浴びで冷えた手足をぎこちなく動かし、中庭に入る。少し離れた廊下を、カインに預けた少女が歩いていくのが見えた。大きく左右に尻尾を揺らす彼女は、城に住む獣人達のグループに入ったらしい。同族がいることで、多少なり安心して暮らしてくれればいいが。

「魔法の失敗は致命傷になりえる――私はそう教えなかったかしら?」

「それが、その……緊急措置、そう緊急措置で仕方なく」

 突然の攻撃で避けられなかった。だから無理やり魔力を引き出してしまい、あの状況に陥ったのだ。だからオレは悪くないぞ。なんとかシゴキから逃げようと必死で言い訳を並べるオレの鼻先を、何かが掠めた。咄嗟に後ろに飛んで避けるが、あと少し遅ければ顔に穴が開いていたかも知れない。ぞっとした。

 風が抉ったのは何もない場所だが、オレの鼻先だ。避けられなければ鼻か頬に穴が開く状況を作り出した美女は、こてりと首を傾げた。頬に朱が走る。ぴりりと痛む頬の傷は風圧が作ったものだった。切れ味抜群である。背筋が冷えるような状況で、リリィは微笑んだ。

「いま、避けられたじゃない。そうよね?」

 はいと言えば、人間相手に避けられなかったのかと叱られる。いいえと言えば、リリィを嘘つき呼ばわりしたことになり……おそらく夕食抜きで特訓させられる。どちらが自分にプラスか。考えるまでもなかった。ここは逆らわないの一択だ。

「はい、すみません」

 肩を落として出来るだけ「反省してます」と態度で示す必要がある。リリィは綺麗に手入れした指で赤い唇を押さえた。何も言わずに微笑んでいてくれたら、本当に女神のような女性だ。整った顔立ちと見事なプロポーション、知識の豊富さや魔力の扱いに関しても一流だった。性格がきついのだけが玉に瑕なのだ。

「言い訳は好きじゃないの。前に教えなかったかしら?」

「教わりました。ごめんなさい」

 デフォルトで後ろに「すみません」「ごめんなさい」を連発する。この方法しか思いつかないくらい、彼女は厳しかった。この5年、鍛えてくれて助かったのは事実だ。復讐に必要な力や知識を惜しみなく与えた彼女に感謝している。同時に恐怖も植え付けられていた。

 ――リリィにだけは逆らうな。

 魔王城の掟ともいえる不文律だった。城で唯一の人間であるオレも、多くの魔族も彼女には服従だ。本能が怖いというんだから、逆らいようがなかった。

 腰に手を当てて「困った子ね」と呟く姿は、いつもより穏やかだ。今日はさほど厳しくないかも知れない。一瞬の希望を打ち砕くように、リリィは言い放った。

「倒れて動けなくなるまで、もう一度体に教えましょう」

 気が遠くなるような宣言のあと、死にそうになるほど追いまくられた。必死で逃げまくり、後ろに宙返りして着地したところへ、今度は横から攻撃される。それを避けて前転したところで、がくりと膝から崩れた。もう無理、動けない。

 肩で息をしながら、体が泥だらけだと気づいた。折角水浴びして綺麗になったのにな。関係ないことを考え始めたのは、現実逃避を兼ねている。もう動けないから、リリィに攻撃されたら受けるしかない。体内に残った魔力をかき集めて張り巡らせた。

 異世界知識なら「結界」と呼ばれる状態だけど、この世界にその概念はない。ただ魔力を体の周囲に凝らせて、魔法や魔力による攻撃を中和するものだった。そのため固定された形ではなく、炎のようにゆらゆらと動くのが一般的だ。

「……守りだけは優秀ね」

 苦笑いしたリリィが手を差し伸べる。象牙色の柔らかな手は武器を手にしない貴族令嬢のようだった。だがこの手が作り出す魔法と剣技の恐ろしさを知るオレとしては、短剣を突きつけられた気分だ。恐る恐る手を掴むと、ぐいっと引き起こされた。

「今日は終わりよ、汗を流していらっしゃい」

 その言葉に安堵したオレは……情けなく地面に懐いた。くそっ、いつか勝ってみせるぞ。
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