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32.神の放牧地を荒らす狼

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「もらうぞ」

 嬉しそうな声色にため息ひとつ、諦めの表情で目を伏せた。

 冷たい手が首筋を這い、ぞくりと肌が粟立つ。触れる指が何かを探り当てたのか、ぐっと首を引き寄せて抱きつかれた。同時に触れる唇の柔らかい感触と、鋭い牙が食い込む違和感に眉を顰める。

 向かい合うアモルの手が背に回り、片手が頭を引き寄せるように髪に触れた。その手つきは優しく、どこか懐かしい気がした。

「……大量に飲むなよ」

 貧血は嫌だと告げるオレへ、牙を突きたてたアモルは返事を返さない。数回喉を鳴らして飲んだことで満足したのか、オレが想像していたより少ない量で吸血行為は終わった。

 ぺろりと肌を舐めたアモルの手が再び首に触れるが、今度は冷たいとは感じない。吸血後は体温が上がるらしく、しっとりとした肌の柔らかさだけが伝わってきた。吸われた分だけオレの体温が下がったのか、指先が冷たい。

「この量ならば問題あるまい?」

 小首をかしげて笑う無邪気な姿は、普通の少年のよう。しかし唇を染める鮮血が、違和感を与える。ぺろりと唇の赤を舐めとり、悪魔は嫣然と笑った。

「お前から呼び出されるのは気分が良い」

 嘘ではない。そう感じるのは、アモルの表情が楽しそうだったから。魅惑的な笑みを口元に湛えながら、オレの三つ編みを指先で弄る姿は無邪気で、悪魔と呼ばれる存在だという事実を忘れそうだった。

「気分が良いついでに、教えてやろう――神が放牧した羊たちを狼が大量に狩るぞ」

 神が放牧した羊という表現は、すなわち信者の人間を示すのだろう。ならば、獲物を大量に狩る狼は……アモルたち悪魔を指す。アモルの艶やかな唇から語られた言霊が真実であるとするなら、狼を追い払う羊飼いにそれを教えた理由は?

 誘導であり、罠である可能性も否定できない。

 目を細めて唇を噛むオレに笑みを深めたアモルの指が、そっと噛みしめた唇の上をたどる。少し冷たく感じられる指が滑る先から、ため息が零れた。

「なんで教える?」

 不信感が滲んだオレの声色に、傷ついた様子なくアモルは答える。

「俺はお前を気に入っている。真名を教え、こうしてお前の望む契約にも応じた……その延長だ」

 あくまでも気に入った相手への好意の欠片に過ぎない。アモルの言い分に、オレは首を横に振った。

 悪魔祓いをしていれば、いやでも連中のやり方には詳しくなる。彼らには、思考力が低く本能に忠実な『魔物』と計算高くずる賢い『悪魔』が存在する。翼を持つアモルはその美しい外見からも判断できるとおり、最上位の悪魔であり『堕天使』だった。

 魔王という存在があるとするなら、アモルと同列レベルの実力を誇るだろうと推定するほどに……アモルのような上級悪魔が人間に興味を持ち加担するなど珍しい。だからこそ、その言葉の裏に隠されているはずの罠を探ってしまう。

「気まぐれってことか?」

「少し違う」

「何が目的だ?」

 その問いに、アモルが答えることはなかった。月が去った明け方の空に目をやったアモルは、ずっと掴んでいた三つ編みを名残惜しそうに離して大きく息を吐く。

「アモルっ!」

 ばさりと羽が音を立てて彼の姿は一瞬でかき消えた。反射的に手を伸ばしたオレの指先に残されたのは、数枚の白い羽根だけ。舌打ちして羽根を床にたたきつける。

 ――神が放牧した羊たちを狼が大量に狩る、悪魔の言葉を信じるのか。疑う気持ちがある反面、アモルが嘘を吐かなかった現実がある。彼は濁したり誤魔化すことはあっても、嘘で惑わしたことはなかった。

 悪魔による人間狩りがあるとしたら……それは阻止しなければならない。かつて魔女狩りが世界を震撼させた頃……実際に本物の悪魔が狩られていた。人間の中に紛れ込み、心と信仰を惑わせ堕落させた彼らの手口は狡猾で……たくさんの善良な人々が犠牲になり、また多くの悪魔狩りが殺された。

 あの暗黒の時代が再び訪れる可能性があるとしたら、事前に防ぐのがオレたちの役目だろう。

 窓の外から差し込んだ明るい日差しが、徐々に室内を照らしていく。徹夜明けでしぶる瞼越しに沁みる光を手でさえぎり、オレは踵を返した。

 苛立ちを滲ませた靴音が向かう先は荘厳な扉がある聖堂ではなく、ある人物の私室だ。普段は自ら顔をみせることはないが、今回はそんなことを言っている場合ではない。

 早朝だが、きっと起きている。確信をもってドアをノックした。
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