32 / 61
32.神の放牧地を荒らす狼
しおりを挟む
「もらうぞ」
嬉しそうな声色にため息ひとつ、諦めの表情で目を伏せた。
冷たい手が首筋を這い、ぞくりと肌が粟立つ。触れる指が何かを探り当てたのか、ぐっと首を引き寄せて抱きつかれた。同時に触れる唇の柔らかい感触と、鋭い牙が食い込む違和感に眉を顰める。
向かい合うアモルの手が背に回り、片手が頭を引き寄せるように髪に触れた。その手つきは優しく、どこか懐かしい気がした。
「……大量に飲むなよ」
貧血は嫌だと告げるオレへ、牙を突きたてたアモルは返事を返さない。数回喉を鳴らして飲んだことで満足したのか、オレが想像していたより少ない量で吸血行為は終わった。
ぺろりと肌を舐めたアモルの手が再び首に触れるが、今度は冷たいとは感じない。吸血後は体温が上がるらしく、しっとりとした肌の柔らかさだけが伝わってきた。吸われた分だけオレの体温が下がったのか、指先が冷たい。
「この量ならば問題あるまい?」
小首をかしげて笑う無邪気な姿は、普通の少年のよう。しかし唇を染める鮮血が、違和感を与える。ぺろりと唇の赤を舐めとり、悪魔は嫣然と笑った。
「お前から呼び出されるのは気分が良い」
嘘ではない。そう感じるのは、アモルの表情が楽しそうだったから。魅惑的な笑みを口元に湛えながら、オレの三つ編みを指先で弄る姿は無邪気で、悪魔と呼ばれる存在だという事実を忘れそうだった。
「気分が良いついでに、教えてやろう――神が放牧した羊たちを狼が大量に狩るぞ」
神が放牧した羊という表現は、すなわち信者の人間を示すのだろう。ならば、獲物を大量に狩る狼は……アモルたち悪魔を指す。アモルの艶やかな唇から語られた言霊が真実であるとするなら、狼を追い払う羊飼いにそれを教えた理由は?
誘導であり、罠である可能性も否定できない。
目を細めて唇を噛むオレに笑みを深めたアモルの指が、そっと噛みしめた唇の上をたどる。少し冷たく感じられる指が滑る先から、ため息が零れた。
「なんで教える?」
不信感が滲んだオレの声色に、傷ついた様子なくアモルは答える。
「俺はお前を気に入っている。真名を教え、こうしてお前の望む契約にも応じた……その延長だ」
あくまでも気に入った相手への好意の欠片に過ぎない。アモルの言い分に、オレは首を横に振った。
悪魔祓いをしていれば、いやでも連中のやり方には詳しくなる。彼らには、思考力が低く本能に忠実な『魔物』と計算高くずる賢い『悪魔』が存在する。翼を持つアモルはその美しい外見からも判断できるとおり、最上位の悪魔であり『堕天使』だった。
魔王という存在があるとするなら、アモルと同列レベルの実力を誇るだろうと推定するほどに……アモルのような上級悪魔が人間に興味を持ち加担するなど珍しい。だからこそ、その言葉の裏に隠されているはずの罠を探ってしまう。
「気まぐれってことか?」
「少し違う」
「何が目的だ?」
その問いに、アモルが答えることはなかった。月が去った明け方の空に目をやったアモルは、ずっと掴んでいた三つ編みを名残惜しそうに離して大きく息を吐く。
「アモルっ!」
ばさりと羽が音を立てて彼の姿は一瞬でかき消えた。反射的に手を伸ばしたオレの指先に残されたのは、数枚の白い羽根だけ。舌打ちして羽根を床にたたきつける。
――神が放牧した羊たちを狼が大量に狩る、悪魔の言葉を信じるのか。疑う気持ちがある反面、アモルが嘘を吐かなかった現実がある。彼は濁したり誤魔化すことはあっても、嘘で惑わしたことはなかった。
悪魔による人間狩りがあるとしたら……それは阻止しなければならない。かつて魔女狩りが世界を震撼させた頃……実際に本物の悪魔が狩られていた。人間の中に紛れ込み、心と信仰を惑わせ堕落させた彼らの手口は狡猾で……たくさんの善良な人々が犠牲になり、また多くの悪魔狩りが殺された。
あの暗黒の時代が再び訪れる可能性があるとしたら、事前に防ぐのがオレたちの役目だろう。
窓の外から差し込んだ明るい日差しが、徐々に室内を照らしていく。徹夜明けでしぶる瞼越しに沁みる光を手でさえぎり、オレは踵を返した。
苛立ちを滲ませた靴音が向かう先は荘厳な扉がある聖堂ではなく、ある人物の私室だ。普段は自ら顔をみせることはないが、今回はそんなことを言っている場合ではない。
早朝だが、きっと起きている。確信をもってドアをノックした。
嬉しそうな声色にため息ひとつ、諦めの表情で目を伏せた。
冷たい手が首筋を這い、ぞくりと肌が粟立つ。触れる指が何かを探り当てたのか、ぐっと首を引き寄せて抱きつかれた。同時に触れる唇の柔らかい感触と、鋭い牙が食い込む違和感に眉を顰める。
向かい合うアモルの手が背に回り、片手が頭を引き寄せるように髪に触れた。その手つきは優しく、どこか懐かしい気がした。
「……大量に飲むなよ」
貧血は嫌だと告げるオレへ、牙を突きたてたアモルは返事を返さない。数回喉を鳴らして飲んだことで満足したのか、オレが想像していたより少ない量で吸血行為は終わった。
ぺろりと肌を舐めたアモルの手が再び首に触れるが、今度は冷たいとは感じない。吸血後は体温が上がるらしく、しっとりとした肌の柔らかさだけが伝わってきた。吸われた分だけオレの体温が下がったのか、指先が冷たい。
「この量ならば問題あるまい?」
小首をかしげて笑う無邪気な姿は、普通の少年のよう。しかし唇を染める鮮血が、違和感を与える。ぺろりと唇の赤を舐めとり、悪魔は嫣然と笑った。
「お前から呼び出されるのは気分が良い」
嘘ではない。そう感じるのは、アモルの表情が楽しそうだったから。魅惑的な笑みを口元に湛えながら、オレの三つ編みを指先で弄る姿は無邪気で、悪魔と呼ばれる存在だという事実を忘れそうだった。
「気分が良いついでに、教えてやろう――神が放牧した羊たちを狼が大量に狩るぞ」
神が放牧した羊という表現は、すなわち信者の人間を示すのだろう。ならば、獲物を大量に狩る狼は……アモルたち悪魔を指す。アモルの艶やかな唇から語られた言霊が真実であるとするなら、狼を追い払う羊飼いにそれを教えた理由は?
誘導であり、罠である可能性も否定できない。
目を細めて唇を噛むオレに笑みを深めたアモルの指が、そっと噛みしめた唇の上をたどる。少し冷たく感じられる指が滑る先から、ため息が零れた。
「なんで教える?」
不信感が滲んだオレの声色に、傷ついた様子なくアモルは答える。
「俺はお前を気に入っている。真名を教え、こうしてお前の望む契約にも応じた……その延長だ」
あくまでも気に入った相手への好意の欠片に過ぎない。アモルの言い分に、オレは首を横に振った。
悪魔祓いをしていれば、いやでも連中のやり方には詳しくなる。彼らには、思考力が低く本能に忠実な『魔物』と計算高くずる賢い『悪魔』が存在する。翼を持つアモルはその美しい外見からも判断できるとおり、最上位の悪魔であり『堕天使』だった。
魔王という存在があるとするなら、アモルと同列レベルの実力を誇るだろうと推定するほどに……アモルのような上級悪魔が人間に興味を持ち加担するなど珍しい。だからこそ、その言葉の裏に隠されているはずの罠を探ってしまう。
「気まぐれってことか?」
「少し違う」
「何が目的だ?」
その問いに、アモルが答えることはなかった。月が去った明け方の空に目をやったアモルは、ずっと掴んでいた三つ編みを名残惜しそうに離して大きく息を吐く。
「アモルっ!」
ばさりと羽が音を立てて彼の姿は一瞬でかき消えた。反射的に手を伸ばしたオレの指先に残されたのは、数枚の白い羽根だけ。舌打ちして羽根を床にたたきつける。
――神が放牧した羊たちを狼が大量に狩る、悪魔の言葉を信じるのか。疑う気持ちがある反面、アモルが嘘を吐かなかった現実がある。彼は濁したり誤魔化すことはあっても、嘘で惑わしたことはなかった。
悪魔による人間狩りがあるとしたら……それは阻止しなければならない。かつて魔女狩りが世界を震撼させた頃……実際に本物の悪魔が狩られていた。人間の中に紛れ込み、心と信仰を惑わせ堕落させた彼らの手口は狡猾で……たくさんの善良な人々が犠牲になり、また多くの悪魔狩りが殺された。
あの暗黒の時代が再び訪れる可能性があるとしたら、事前に防ぐのがオレたちの役目だろう。
窓の外から差し込んだ明るい日差しが、徐々に室内を照らしていく。徹夜明けでしぶる瞼越しに沁みる光を手でさえぎり、オレは踵を返した。
苛立ちを滲ませた靴音が向かう先は荘厳な扉がある聖堂ではなく、ある人物の私室だ。普段は自ら顔をみせることはないが、今回はそんなことを言っている場合ではない。
早朝だが、きっと起きている。確信をもってドアをノックした。
0
お気に入りに追加
254
あなたにおすすめの小説
幽閉王子は最強皇子に包まれる
皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。
表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。
婚約破棄された悪役令息は従者に溺愛される
田中
BL
BLゲームの悪役令息であるリアン・ヒスコックに転生してしまった俺は、婚約者である第二王子から断罪されるのを待っていた!
なぜなら断罪が領地で療養という軽い処置だから。
婚約破棄をされたリアンは従者のテオと共に領地の屋敷で暮らすことになるが何気ないリアンの一言で、テオがリアンにぐいぐい迫ってきてーー?!
従者×悪役令息
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
エスポワールで会いましょう
茉莉花 香乃
BL
迷子癖がある主人公が、入学式の日に早速迷子になってしまった。それを助けてくれたのは背が高いイケメンさんだった。一目惚れしてしまったけれど、噂ではその人には好きな人がいるらしい。
じれじれ
ハッピーエンド
1ページの文字数少ないです
初投稿作品になります
2015年に他サイトにて公開しています
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
【完結】僕の大事な魔王様
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
BL
母竜と眠っていた幼いドラゴンは、なぜか人間が住む都市へ召喚された。意味が分からず本能のままに隠れたが発見され、引きずり出されて兵士に殺されそうになる。
「お母さん、お父さん、助けて! 魔王様!!」
魔族の守護者であった魔王様がいない世界で、神様に縋る人間のように叫ぶ。必死の嘆願は幼ドラゴンの魔力を得て、遠くまで響いた。そう、隣接する別の世界から魔王を召喚するほどに……。
俺様魔王×いたいけな幼ドラゴン――成長するまで見守ると決めた魔王は、徐々に真剣な想いを抱くようになる。彼の想いは幼過ぎる竜に届くのか。ハッピーエンド確定
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/11……完結
2023/09/28……カクヨム、週間恋愛 57位
2023/09/23……エブリスタ、トレンドBL 5位
2023/09/23……小説家になろう、日間ファンタジー 39位
2023/09/21……連載開始
普通の学生だった僕に男しかいない世界は無理です。帰らせて。
かーにゅ
BL
「君は死にました」
「…はい?」
「死にました。テンプレのトラックばーんで死にました」
「…てんぷれ」
「てことで転生させます」
「どこも『てことで』じゃないと思います。…誰ですか」
BLは軽い…と思います。というかあんまりわかんないので年齢制限のどこまで攻めるか…。
兄たちが弟を可愛がりすぎです
クロユキ
BL
俺が風邪で寝ていた目が覚めたら異世界!?
メイド、王子って、俺も王子!?
おっと、俺の自己紹介忘れてた!俺の、名前は坂田春人高校二年、別世界にウィル王子の身体に入っていたんだ!兄王子に振り回されて、俺大丈夫か?!
涙脆く可愛い系に弱い春人の兄王子達に振り回され護衛騎士に迫って慌てていっもハラハラドキドキたまにはバカな事を言ったりとしている主人公春人の話を楽しんでくれたら嬉しいです。
1日の話しが長い物語です。
誤字脱字には気をつけてはいますが、余り気にしないよ~と言う方がいましたら嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる