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とある男の視点

とある男の視点(2)

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 場面が変わる。

 重い雲から雨が降りしきる。
 
 ここは・・・。
 
 俺は、辺りを見回す。
 遠くから聞こえる喧騒。
 濡れた埃の臭い。
 肌を舐め回すような不快な湿度。
 そして世界を閉ざすように空間を挟み込む濡れた壁。
 公園近くの路地裏だ。
 
 じゃあ、この先にいるのは・・。
 
 俺は、壁に沿ってゆっくりと前に進む。
 雨がタンクトップと黒いズボン、そして鳥の巣のように盛り上がった髪を濡らしていく。
 あの時は黒い傘を持っていたはずだが今は持っていない。隔たるように左右に伸びる壁が道となって歪み、俺を案内するように伸びていく。

 夢・・か。

 俺は、何となくそう感じた。
 明晰夢というやつだろうか?
 夢だと自覚する夢。
 そうだとすれば妹があんなリアルに現れたのも納得できる。
 そしてこの先に誰がいるのかも・・・。
 俺は、濡れるのも構わず壁が導くままに進んでいく。
 そしてあいつは現れた。
 黒く濡れた壁に寄り添うように座り込み、薄汚れた外套に身を包み、傷だらけ、凹みだらけの鎧を纏い、壁に巨大な大鉈を立てかけている。
 雨に濡れて張り付く三つ編みにした燻んだ金糸の髪、感情を移さない水色の瞳、そして驚くほどに整った顔立ち。
「エガオ」
 俺は、少女の名を呼ぶ。
 少女の水色の瞳が俺を見る。
 俺は、口元を釣り上げる。
「こんなところにいたら風邪引くぞ」
 俺は、エガオに向かって手を伸ばす。
 しかし、エガオはその手を見るだけで動こうとはしない。
 あの時はもう少し反応リアクションがあったけどな。
 さて、どうしたものか・・。
 俺は、無精髭を摩りながら考える。
 熱を感じる。
 目の端に青白い炎が見える。
 振り返るとそこにあったのは小さなコンロであった。
 しかもそれはあまりにも使い慣れたキッチン馬車に設置されたコンロ。
 それだけではない。
 コンロの隣に調理台が現れ、フライパン、フライ返し、包丁、そして卵、牛乳、蜂蜜・・・。
 右手に何が固いもの感触が現れる。
 いつの間にか右手に小さな歯形のついた石のようなパンが握られていた。
 俺は、パンを見て、そして作業台を見て、そしてエガオを見る。
 俺は、口元に笑みを浮かべ、作業台の上に硬いパンを置く。
 いつの間にかタンクトップの上に白いエプロンが巻かれていた。
「んじゃやるか!」
 俺、袖捲りする真似をして包丁を持つと固いパンに当てる。
 かてえ!
 夢なのになんでここだけリアルなんだ?
 そんなことを思いながら腕が痺れる思いでパンを6等分に切る。
 ボールの中に卵を割り、牛乳を流し、蜂蜜を垂らすと泡立て器で一気にかき混ぜる。
 夢の中だと言うのに甘い香りが広がって鼻腔を擽る。
 横目でエガオを見ると固い表情が少しだけ和らいだ気がする。
 完全に混ざった液に六頭分に切ったパンを放り込み、握り込みながら駅を染み込ませていく。
 あまりに硬くて手が重くなる。
 夢でここまで再現しなくていいだろうが。
 どうなってんだ俺の深層心理。
 俺は、疲れ果てた手でフライパンを握る。
 夢だけに手が汚れてないのはありがたい。
 フライパンの上にバターを塗り、液が充分に染み込んだパンを落とす。
 バターと液が混じり合って焼ける音が耳に心地よく響く。心地よい甘い香りが湿った空間の色を変えていく。
 エガオは、いつの間にか円卓に座っていた。
 あの時と同じように。
 白いテーブルの表面を見ながら俺の方を気にしている。
 俺は、左手に現れた白い皿の上に料理を並べる。
「完成」
 そう呟いてエガオのいる円卓に進み、サーブする。
「フレンチトーストだよ」
 俺は、小さく唇を上げる。
「どうぞ召し上がれ」
 エガオの手にはいつの間にかナイフとフォークが握られていた。
 エガオは、丁寧にナイフを使って切り分けて、フォークをゆっくり刺して口に運ぶ。
 品のある綺麗な食べ方だ。
 エガオの頬が涙に濡れる。
 泣きながら夢中で食べ続ける。
 あの時と同じように。
 しかし、あの時と違うものもある。
「エガオ」
 俺は、エガオの頭に手を置く。
「嫌な思いをさせちまったな」
 エガオは、俺が頭を撫でても、声を掛けても振り向きもしない。
 黙々とフレンチトーストを食べている。
「今のお前はもう少し愛想がいいはずなんだけどな」
 俺は、苦笑を浮かべて手を離す。
 このエガオはエガオじゃない。
 俺の夢が生み出した形代。
 彼女への罪悪感と後ろめたさ、そして彼女に対して決して持ってはいけなかったものを持ってしまった俺の心の痛みが生み出した虚偽の産物だ。
「エガオ・・・」
 俺は、もう一度彼女の頭の上に手を置く。
 いつの間にかこの行為は俺の習慣になっていた。
「きっとお前のことだから俺を傷つけたことに泣いて絶望してることだろうな」
 俺は、エガオの髪を優しく撫でる。
「あの時はああするしか手がなかったんだ。お前にあの子を傷つけさせたくなかったから」
 俺は、エガオの髪を撫でる。
 エガオは、黙々とフレンチトーストを食べる。
「俺はたった一人の大切な妹に何もしてやることができなかった。本当は嫌なはずなのに、怖いはずなのに俺たちの目的の為に何もしてやることが出来なかった」
 エガオは、なにも言わない。
 黙々とフレンチトーストを食べる。
「初めてお前を見た時、妹が現れたと思った。年も違えば姿形も違うのに何言ってんだかと思うかもしれないけど俺にはそう見えたんだ。そしてこう言ってるように聞こえた。"寂しいよ。助けて"って」
 エガオの手が止まる。
 空虚な目で俺を見る。
 いや、見てるのは俺だ。
 エガオを通して俺が俺を見てるんだ。
「本当はお前をうちで働かせるつもりなんてなかった。目的の為には余計なものは背負えない。それが俺が妹に出来る唯一のことだから」
 マダムのごり押しには正直、辟易したがそれでも俺の意思は変わらない。
 俺は、断るつもりでいたが・・・いたはずなのに・・。
「結果は分かってるだろう?」
 エガオは、空虚な水色の目でじっと俺を見る。
「きっと俺は本能的に分かってしまってたんだろうな。お前と絆が出来てしまったらもう切ることが出来ない、離すことが出来なくなるって」
 そして実際にそうなってしまった。
 俺は、もうこの娘を手離すことが出来なくなってしまっていた。
 それなのに俺は自分の使命とこの娘を天秤にかけて中途半端なことばかりしてしまっている。
 俺は、その場にしゃがみ込むと幻のエガオの身体をそっと抱きしめる。
 幻のはずなのに温かい。
 愛しい温もりが俺の身体の中を循環する。
「手前勝手なことは重々承知なんだけどもう少し待っててくれな。今回のことが終わったら直ぐに迎えにいくから」
 俺は、強くエガオを抱きしめた。
 エガオは、何も言わない。
 俺は、ゆっくりと立ち上がる。
 いつの間にかコンロも作業台も消えていた。
 壁の道の奥に小さな光が見える。
 ゴールはあそこだと本能が伝える。
「またな。エガオ」
 俺は、振り返らずに歩き出そうとする。
「カゲロウ」
 後ろから声が聞こえる。
 俺は、咄嗟に振り返る。
 エガオが笑っていた。
 あの月夜のデートの時のように嬉しそうに、美しく笑っていた。
「またね」
 そう言ってエガオは、微笑む。
 俺は、唇を震わせる。
 枯れたはずの涙が溢れそうになる。
「ああっ」
 俺の声は無様なくらいに震えていた。
「またな」
 俺は、エガオに見送られて光の方に歩いていった。
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