斎王君は亡命中

永瀬史緒

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17. 癇癪

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 薄暗く狭い部屋の中、古びた棚の壁に隠れてルカは細く息を吐く。

 ああ、これは、いつも具合の悪い時に見る夢だ、とどこかで理解しているのに、ルカは解けない緊張の中隠れている場所からは死角になる部屋の入り口の方の気配を伺った。

 狭く暗い部屋は、普段使っていない小間使いのための控え室だが、まだ歩き始めたばかりのルカにとっては十分な広さがある。何か怖い物が追いかけてくるから隠れなくてはいけないのに、山荘の部屋数は十分とはいえず、きっとすぐに見つかってしまうのは目に見えていた。

 ああ、どうしよう。アレに見つかってしまったら、きっとグレタに怒られる。

 棚の影に身を潜めて、だが避けようのない未来に気が重くなる。三つになったばかりのルカにとっては、日々甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるグレタこそが母と呼べる人であって、主寝室に籠ったまま碌に顔も合わせないソーヤは、ルカにとっては『滅多に遭わない隣人』という程の認識だった。

 今になって思えば、物質的には恵まれていたとはいえ、精神的には難のある幼児期だった。そう省みて、ルカはふと己の状況に疑問を抱く。

 さて、追いかけて来るアレとはなんだったか。……というよりも、私はどうしてこんな夢を見ているのだろうか。

「……のか、リシタン商会長ユードの妻、ルル!」
「……っ、こ、ここに」

 いきなり耳元で怒鳴られたに等しい怒声に、ルカは咄嗟に起き上がった。納屋に停めた幌車の内側、昼間とはいえ灯を入れていないので内部は暗い。手探りで帽子とベールを付け、乱れかけていた髪を手櫛で調える。うたた寝していた時間はごく短いものだったのか、カナンが結ってくれた後ろ髪は崩れていなかった。

「……来い、領主様のお呼び出しだ」
 乱雑に幌が巻き上げられて、納屋の内側の弱い光が幌車の内部へと差し込む。こちらを覗き込んでいる領兵は片手に槍を携えて、たかだか非力な婦人一人を相手に、『領主様のお呼び出し』というのは随分と物騒なのだな、とルカは皮肉に考える。

「……ただいま、参ります」

 起き抜けの時に裏声を忘れなかった自分を胸の内で褒めつつ、ルカは幌車から降りて納屋の内側を見回した。カナンはまだ戻っていないらしく、狭い納屋の内側には完全武装した領兵が4、5人幌車を囲んでいる。それだけで納屋の内側はほぼ一杯で、ムナンが獣房の中で不満そうに唸った。

「この度の騒動について、領収様が直々に奥方に問いたいとの事だ。……大人しく付いてくるように」
「承知いたしました」

 海老茶の外套の裾を持って、膝を折り深々と礼を取る。ルカの従順な態度に、向かい合った領兵が満足そうな顔をした。

「そなたの態度いかんでは、夫の罪も軽減されようぞ」

 領主に会った奥方がどのような目に遭わされるのか、容易く想像できるような、下卑た声音にルカは思わず顔を顰める。だが、前後を挟んで歩く領兵は、顔を伏せたまま唯々諾々と従うルカに疑問を持ったりはしないようだった。

 雪に覆われた神殿の裏庭を過ぎ、領主の館への通用門へと差し掛かった時、視界の隅に灰色の外套と朱赤の襟巻がちらと見えたような気がしたが、ルカはあえて振り向く事はしなかった。

 きっと、カナンがメーダに知らせてくれる。

 そう確信しているがゆえ、ルカは視線を落としたまま、凍った雪を踏みしめて古びた通用門を潜った。



 初めて入った領主の館は、神殿と同じくらい古く荘厳で、だが神殿と同じかそれ以上に荒廃が目立った。

 この土地の名前を取ってデナリ領主と呼ばれる男の名はなんだったか、ルカは知らない。巡礼者ならばその程度の認識だし、よもや自分が領主に呼び出されるような目に遭うとは、毛筋ほどにも考えたりはしない。

 他国からの巡礼客は、粛々と各地の神殿を巡り、己の祈願成就のために香を捧げて祈り、いくばくかの寄進をし、次の神殿を目指して発つ。その前後に、街で少しばかりの売り買いをしてゆくだけの存在なのだ。

 ルカは、ふ、と息を吐いて寒々しい廊下の天井を見上げる。かつては贅を凝らした作りだったのだろう廊下の天井には間隔を置いて煌びやかな瑠璃の欠片を下げた金属の燭台が吊り下げられて、だが埃に塗れて見る影もない。

 広々とした館に、どれだけの使用人がいるのだろうか。古びた扉の使用人入り口から入って、おそらくは主寝室へ連れていかれるのだろうが、そこまでの道で下僕の一人、下女の一人とすらすれ違わない。

 これは、まるで幽霊屋敷のようではないか。

 ルカは、実際に幽霊屋敷というのを見た事はないが、神殿の図書館に治められた数多の蔵書には、そういった恐ろしげな噂話を集めた物もあった。

 かつて大災厄の時に打ち捨てられた都の、大地震をまぬかれて残った屋敷には、逃げ遅れて死んだかつての住人たちが夜な夜な宴を開き、うっかり遭遇してしまった旅人を引き込むのだとか。

 その類の噂を好む神官もいて、せっせと書き集めて本にし、神殿図書館へと送ってくるのだと聞いた。また、神殿には庭番と呼ばれる諜報組織もあり、彼らは巡礼者などに身をやつして国々を巡り、後々の火種となりかねない物騒な噂を集めている。

 物語で読んだ、所謂「幽霊屋敷」を目の当たりにして、少々興奮しないでもなかったが、それよりも自分を待ち構えているだろう領主の事を思うと気が重かった。

「あの、ご領主様は」

 目的の部屋の前に着いたようだったので、ルカは先導をしていた領兵へと話しかけた。

「ご領主様は、何故私を」

 振り向いた領兵は無言のまま顎をしゃくって、重厚な造りの扉を指し示した。冷え冷えとした廊下も、そして黒光りする大きな扉の向う側にも、他の人の気配は無く、ルカは扉を開くのを躊躇した。

「入って、直接領主様へ伺うといい」

 さっと扉を開いた領兵に突き飛ばされて、ルカは室内へと転がり込む。背後では、扉が無慈悲に閉じられた。たとえ扉を開こうと把手を回したとしても、きっと抑え込まれてしまっているだろう事は明らかだった。

「……っつ、この匂い」

 壁の一面が斜めに張り出している部屋は、白い壁に美しい織柄の絨毯や、絵画が掛けてある。張り出した壁面は外側に面しているらしく、手の込んだ細工の桟に囲まれた窓が並んで、玻璃を透かして外の白い雪景色が見える。

 部屋のほぼ真ん中に置かれている大きな天蓋付きの寝台は、今朝領主が使った時の状態で放置されているのか、布団も敷布も乱れたままだった。そして、その部屋の全ての景色をうっすらと覆う白い靄は、どうやら寝台の枕元で焚かれている香炉が出所のようだった。

 甘く、だがその甘ったるさの下には、鼻の奥を刺す刺激臭が隠されている。

 その特徴的な匂いは夢幻香と呼ばれる類の、酒よりも強い刺激を求める輩が手にする幻覚剤の一種で、長く摂取すれば身体を損ない命を縮める。催眠効果が高いので、ラサ教徒が布教のためによく使うとルカは聞いていた。

 夢幻香は、ほんの少しを煙草に混ぜた物が学生の間でよく出回ってはいるが、匂いも効き目も、ほんのお遊びであって教授たちもそこまで強く咎めたりはしない。

 だが、この部屋に漂う匂いは違う。

 部屋に入った途端、ルカは慌てて袖口で口元を覆う。ルカは竜人だから、薬や酒の許容量は各段に大きく、他の四族の人に効く程度の量では全く効き目がなかった。

 だが、そのルカが長く吸うのは危険だと感じるほどの濃度だから、おそらく他の四族の者ならばその場に昏倒してもおかしくはないだろう。

「……窓がっ」

 慌てて窓際へ駆け寄って換気を試みるも、瀟洒な桟に囲まれた玻璃の窓はご丁寧に膠でガチガチに硬められていて、押しても引いてもびくともしない。

 ルカは片手で口元を抑えたまま、一つ大きな溜息を落とした。

「……美しい上に歴史的価値のありそうな部屋だが、致し方あるまい」

 寝台の傍に据えられた椅子は、精緻な彫りに覆われて美しく塗装されている。この椅子一つで庶民の一家族のひと月分の生が賄えるだろうな、と最近磨かれた金銭感覚で値踏みしつつ、ルカは躊躇なく椅子を持ち上げた。

「……それッ!」

 渾身の力で窓へと投げつければ、びっくりするほど大きな音を立てて庭側へと張り出していた窓が壊れる。せっかくだから、と壁際に並べてあった椅子も残りの窓に投げつけて、たった数分の間に部屋は随分と換気が良くなったようだ。

 最後の仕上げに、物騒な香煙をくゆらせる香炉も窓の外へ放りだして、ルカは両手を払って頷いた。

「よし、まずはこれで……」

 すっかり自分の所業に満足して、扉へと踵を返す、その直前に襟首を掴まれて寝台へと放り投げられていた。

 うつ伏せに寝台の上へと倒れ込んだ途端、黒紗のベールと外套とが毟り取られる。藍衣神官の身分を示す短い円筒状の帽子は、引きはがされた黒紗のベールに飾り針で留められたまま床へと転がった。

「ッ、なっ……!」

 跳ね起きようとして背中を抑えられて一瞬だけもがき、背後の誰かを蹴り退かした。慌てて身を翻して、寝台の上で反転してルカを放り投げた相手を見る。

「……ほう、兵士らの言うとおりの、素晴らしい美貌だ」

 年の頃は五十絡み、とはいえそれはこの男が人族であった場合だが。ちらほらと白髪の混じる髪色は金茶、酒精と夢幻剤に濁った目はごく薄い水色だが、白目が血走っているせいで薄い紫色にも見えた。

 一応領主らしい服装をしてはいるものの、詰襟の釦は外されて鎖骨の下までだらしなく開いて、見える年齢にしては張りの無い皮膚からして、日頃の不摂生が身体に現れていのが分かった。

「……そなたが、領主か」

 ルカは寝台の上に片膝を着いて上体を起こした。藍衣と、身に着けた紫の肩帯から神官であるのは一目瞭然だろうに、領主らしい男は鈍く小首を傾げるばかり。

「……夫の罪を贖え」
「断る」

 不明瞭な領主の言葉を一蹴すれば、いつもの状態と違う相手の物言いに、また領主が小首を傾げた。

「不可解な事だ。……己の立場を知らぬとみえる」

 ぼそぼそと呟く領主の言葉に、ルカは胸中に「そちらこそ」と苦々しく思う。だが、わざわざ言葉にしてやるほどにルカは優しくはないし、呑気に言い返している暇もなかった。

「…………ッ!」

 寝台から降りようとしたルカの肩を強く押して、寝台へと押し戻し、さらに上から伸し掛かって動きを封じる。領主の見た目は背が高く、少し痩せ気味で、さらに肌つやからして不健康そうに見えた。

 彼が人族であったなら、ルカは重心を崩すことすらなかったろうし、大猫族や狗族であれば、押し返して距離をとる事ができた筈だ。

 ……この男、同族か。

 竜族の中でも、殊に竜人は数が少ない。高位の貴族か、緋衣の神官か、一国の中でも数えるほどの家系しか存在しない。竜族といえば、普通は翼竜人を差していうし、生粋の竜人ともなれば王族かそれに準じる血筋にしか残されていない、それが一般的な認識なのだ。

 それ故、ルカも竜人に近く接したのは幼少の頃まで。神殿に入ってからは翼竜人はともかく、ルカと全くの同族と接した事は数えるほどしかなかった。

 ルカの傍にいた竜人はほぼ翼竜人、そうでない竜人は長老院の高位神官が数人のみ、高齢の彼らはついぞルカに手を上げた事なぞありはしない。

「我に仕えよ」
「……ッ」

 押し戻そうとして叶わず、ルカは寝乱れたままの敷布の上でじたばたともがいた。その間にも、領主が唾棄すべき目的を達するために、ルカの着衣を脱がせようと身体をまさぐる。

 刺繍で飾られた神官服は金具で留めた革の帯(ここに、小刀や文房具の小袋などを下げておく)の上から、さらに刺繍で飾られた細帯を結ぶ。着脱は一人で出来るとはいえ、着替えには手間がかかるのも本当だった。帯を解こうとした領主の片手が、飾り帯の下の革帯の上でもどかしそうに動いた。

「……不可解な」

 何故いつものように易々と事が運ばないのか、そういぶかしむだけの機転は残されているものの、目の前に押し倒している相手が藍衣を着けた神官、すなわち男だからという事実を汲むだけの余裕はないらしい。

 それが、夢幻剤と強い酒の常用による知能の後退なのか、それともルカの面立ちから目の前の相手は女であると信じているせいなのかは、ルカには判別がつかなかった。

「ああもう、鬱陶しい」

 渾身の力を込めて、覆い被さる男を蹴り退かしたルカはすっかり風通しの良くなった部屋の中央へと降り立った。



「……さあ、どうぞ外へ」

 促されて牢房の外へと出れば、薄暗い廊下の端で牢番の兵が少しばかり不服そうな、だがある種の安堵を滲ませてユディを見る。牢の鍵を開けてユディを手招いてくれてた藍衣の神官は黒髪を首裏で一本に縛って、目尻に皴を寄せて微笑む。年季の入った藍衣の衣を付けた神官は、牢番の兵へ軽く会釈してユディを外へと導く。

「藍衣様、その……」
「私はメーダと申します。侍従騎士様」

 その呼びかけに、ユディは大まかな事情を察して浅く頷いた。ルカは既にメーダと、おそらくはギータ―高位神官にも己の身分を明かしている。

 ほんの少しだけ、残念だな、という気持ちがユディの心を波打たせた。黒紗のベールを身に着けた敬虔なシレギアの婦人が、ベールを外して、斎王君へと戻る瞬間の、冷たく輝く月にも似た容貌を、間近で見届けたかったのだ。

「先ほど、カナン殿がルカ様が領主の館へと連行された、と教えてくれまして。……私では兵を相手には役には立てませぬゆえ、こちらへ参った次第です」
「承知しました」

 牢番の兵の前を通り過ぎ、ほとんど小走りに階段を上がる。鈍い陽光の下、凍った庭に出たその一瞬だけ周囲が白い光に溶けるが、すぐさま本来の色合いを取り戻す。

 雪と氷に覆われた庭はただ寒々しく、灰色の曇天からは時折小雪がちらちらと舞う。墨染の騎士服の下は毛織の上下で、その上から生成りの袖なしの外套を着ているので左程の寒さは感じない。それよりも、淀んだ地下に長く籠められていたので、雪の匂いを孕んだ空気が心地よく感じられた。

「こちらへ。……ルカ様は藍衣をお召しだと聞きましたので、まさか領主も狼藉を働きはしますまいが……」

 地下牢への入り口からは、前庭の横を通って通用口に向かうのが一番近い、とメーダが説明する。足元で砕ける氷の破片は凍った雪と混じって、時折思わぬ方向へと滑らせて行く手を遮った。

「……いえ、言いにくいのですが……御身様の面立ちのせいで、神官服を着ていてもそれと認識される可能性は低いと」
「……え、しかし」

 まあ、それは普通の男ならばそう思うよな。

 上から下まできっちりと、それはもう見間違えようもなく神官らしい服装の神官を、「とびきり美しい少女がいたので攫おうと思った」という理由で襲い掛かる馬鹿者(しかも神殿の中で!)が現れるのが、ルカの日常なのだ。

 はあ、とユディは大きな溜息を落とす。

「御身様は、ご自身を『ことなかれ主義』だと称していらっしゃいますが、私から見ると度を越して許容範囲が広いだけで、一線を越えると一切の躊躇をなさらないのです」

 領主の館を右手に見て、メーダの先導で庭を横切りつつユディは言葉を継ぐ。

「なので、今回の領主の出方によっては……」

 歯に物の挟まったようなユディの台詞の語尾に被せて、派手な破壊音が響き渡った。ほんの数歩だけ館側の雪の上に、ひしゃげた椅子と瑠璃の破片が撒き散らされる。

「……このように、思い切った手段に出られるのです」

 絶句するメーダの目の前に、次々と壊れた椅子と瑠璃の破片とが落下してくる。見上げれば、つい先程まで玻璃の入った窓があった場所にぽっかりと大穴が開いている。

 茫然と見上げるメーダの目の前に、細い煙をまとった香炉が落下して、雪に埋もれて見えなくなった。

「……急ぎましょう! あそこは領主の寝室です」
「ええ、手遅れになる前に!」

 一致団結して通用口を目指すも、ユディは目の前を走るメーダはきっと、ルカの身の上を心配しているのだろうな、と推測する。

 だがしかし、実際ユディが心配しているのは、全く躊躇されないであろう領主の方だった。ルカは満点の弟子ではないとはいえ、星教随一の剣の手練れと称されるユディの一番弟子でもある。

「……領主が、生きていればいいのだが」

 ぼそりと口の中だけで呟いたが、幸いにも先を走るメーダの耳には入らなかったようだ。
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