斎王君は亡命中

永瀬史緒

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11.デナリ新市街ー1

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11.デナリ新市街


 国境間の街道の三差路でシャリヤ商会の隊商に同道するアロンとエリとに別れを告げたイスカが、もしも彼らと同道していたらポーラスタの王都で斎王達と合流できたかもしれないが、そうはならずにイスカは単独でイスファへの道を急ぐ。
 ちょうどその頃、ポーラスタ王都までの道をようやく三分の二を以上踏破したルカとユディとが、今まで通って来たよりも少し規模の大きい街へと到達していた。
 街を囲む石積みの塀もまだ新しく、どうやら最近になって急速に発展した街らしかった。門の上に掲げた額には「デナリ 新市街」と刻まれている。凍った道を軋んだ音を立てて進む幌車の前後には、冷たい風に身を屈ませて進む旅人の姿がちらほら見受けられた。陽光は弱くわずかに煤けたような雪が大地を覆い、どんよりとした灰色の雪雲で空は低く、いかにも北国の冬らしい景色だった。
「確か旧市街は、ここよりもさらに北側、王都へ続く峠の道の途中にあったかと」
「旧市街よりも新市街の方が栄えているのかな。……商人や巡礼客の出入りも多そうだ」
 襟巻で口元を覆い直したルカは、門に近づくにつれて多くなる幌車や徒歩の旅人の姿に珍しそうな顔をする。ポーラスタの南端の街から地道に王都を目指しつつも、足跡を辿られるのを忌避して主だった街は迂回して来た。だが、南側から王都に入るためにはデナリという中規模の街を経由する他はない。新市街で荷物を調えて、領主の住まう旧市街の向うの峠を越えれば、ポーラスタの王都はもう目の前となる。
「デナリの新市街は、王都へ行く道と西のイスファへ続く道が交差する上に、王都に行くための急峻な峠越えの準備にちょうど良い場所だから、という事で新しく拓かれた街だそうです」
 一つ前の村の小さな神殿でアレコレと地理について情報を仕入れていたユディが、手綱を器用に操って毛長コルフォを道の端へと誘導する。対面から現れた、似たような幌車の御者がすれ違う時に小さく会釈してくれる。
「確かデナリは、ポーラスタで二番目だか三番目だかに大きな都市ではなかったか。……5年程前に緋衣の地位を授けた神官は、確かギータ―といったな。彼が派遣されたのがデナリ旧市街の神殿だったと思うが」
「……御身様が最初に緋衣の位をさずけた神官でしたか」
 ちょうどその頃、ユディは花街へ出向していた。したがって、ユディにはギーター高位神官との面識はない。緋色の肩帯は高位神官の象徴で、それを授ける事ができるのは高位神官で構成される長老院か、斎王(大神官)のみ。13歳になった斎王が、最初に行った公務が高位神官の任命だった。以降、形式とはいえ全ての神官の任命は斎王の名の下に行われており、すなわち罷免もルカの一声で可能とされている。
「当時すでに相当な高齢であったと記憶しているが、息災だろうか」
「隠遁されたという噂は聞いておりませんね」
 13の子どもが18となるまでの5年は長いが、75の神官が80となるまでの時間はきっと、ルカが考えているよりもずっと短いだろう。
つらつらと考えつつ、門の前に並んだ人の列の最後尾に幌車を付けて、じりじりと列が進むのを待つ。まだ昼前の時間ではあるが、街道が三つ重なる地点の街ともなれば、行き交う人の数は多い。
「巡礼と行商で参りました」
 ユディは門番に二人分の旅券を渡す。旅券と二人とを見比べた門番が、顎をしゃくって先へ進めと促した。態度の横柄な門番はきちんと竜革の鎧をまとってはいるものの、袖なしの外套はいささか華美で、ユディはわずかに眉をひそめた。
 新しい街だというから、それなりに整備され治められていると想像したが、どうやらそうでもないらしい。
 門番が身分不相応な服装をしているとしたら、それはおそらく門を通すのに不適切な客から賄賂を取っているからだろう。だとしたら、門の内側であっても治安はあまりよくないと思った方がいい。
「……御身様、ここまではずっと野営か神殿の巡礼宿でしたから、この街に滞在している間はちゃんとした宿へ泊りましょう」
「お風呂があると良いのだが」
 ほとんど吐息だけで囁いて眉を下げたルカの顔は、黒紗のベール越しであっても、青白い。もともと色白ではあるが、赤みの抜けた肌は少し乾燥して、疲弊を滲ませている。
 無理もない、とユディは思う。
 星教の本殿のある谷の、そのまた奥の院で大切に育てられて来たものを、いきなり市井に放りだされて幌車での野営を余儀なくされている。普通ならばとっくに我儘の一つも言って従者を困らせていそうな状態なのに、ここまで文句の一つもなく淡々とユディと供に王都を目指して旅しているのだ。
「お疲れでしょう。……宿につきましたらすぐに湯を用意させます」
「うん。ユディもゆっくり入っておくれ」
 谷の斎王院も、百日行を行った岩屋も、そして山の反対側の寮も温泉が通っていたので風呂には不自由しない生活を送っていた。そのおかげで、これまでの旅程で風呂に入れないのが殊更に堪えている。
たっぷりの暖かい湯に浸かって、ゆっくりと手足を伸ばせたら。髪と身体を良い匂いのする石鹸で洗って、湯気に頬を当ててのんびりとくつろぎたい。
 言葉には出さずとも、二人の気持ちは一つになっていたのだろう。御者台に並んで座って、へにゃりと緩い笑みに相好を崩した。
「……っと、市街地に入りましたね」
 凍った土を踏みしめられた雪が覆う門の傍から、薄く雪の積もる石畳の道へと入る。コルフォの蹄が軽く響く音から、路はきちんと整備されているのが判る。目抜き通りに差し掛かれば、途中に大きな広場が設けられていた。
「人が多いな」
 広場の外周には小さな露店が軒を連ね、食品や雑多な小物を売っている。露店の数に比べて、昼飯時の前のせいなのか買い物客の姿はあまり多くない。ちらほらと、ただの巡礼客とは思えないような体格の男たちが見受けられて、さらにユディは眉間の皴を深くした。装備は兵士なみ、だが服装はまちまちで統率が取れているようにも見えない。あれは、どこかの私兵ではないか、とおおよその見当をつけてみるが、対処方法は『出来るかぎり近寄らない、関わらない』でしかない。
 ふう、と小さく溜息を吐き出して、ユディは幌車を広場の脇、人通りの邪魔にならない場所へ停めた。
「御身様、宿の評判等を少し尋ねて参ります。ついでに昼食も手に入れてきますので、少しお待ちください」
「……気を付けて」
 手綱をルカに預けて身軽に御者台を下りる。人通りの良い場所に屋台を出している串焼きの店に近寄れば、背後から毛長コルフォが鼻を鳴らす大きな物音がした。なだめるルカの声は細くほぼ吐息だけで、山荘のあった麓街の神殿で買ったコルフォに付けた名を小さく呼んでいる。
 ルカがムナンと名付けたコルフォは、こまめに世話をするせいかルカによく懐いている。ユディには、手綱をしっかり握るおかげで従順に従うが、ルカには時折甘えて、ユディが休憩している間に文字通りの道草を食ったりしているようだった。
 ユディが選んだ屋台の造りは粗雑で、いかにも短期間だけ出店しているように見えた。炭火を熾す石の台と、その向こう側に中年の女が外套の上に前掛けを着こんでせっせと肉串を焼いている。
「その肉は、コルフォかい?」
「お兄さん、巡礼客だね。ここらじゃあ、耳長鼠をよく食べるのさ」
 炭火の上に並べた肉串に、香ばしいたれをかけた中年の女がにかっと笑う。肉から脂がしたたって、赤く燃える炭から小さな炎が上がる。
「美味そうだ、四本くれるか」
「あいよ、1本1タウス半だよ。……もうちょっと待ってな」
 パッと香辛料を振って、手際よく串を回して火を通す。ぼんやりとその手元へ視線をやってから、ユディはそっと背後の気配を伺った。ちらと肩越しに確かめれば、大人しく佇む毛長コルフォにひかれた幌車は周りの風景から浮かない程度にくたびれて、御者台に座るシレギア風の服装をした婦人もさほど人目を引かないように見えた。
「……奥さん、綺麗な人だねぇ。シレギアの人もたまにこの街には来るけど、あんなふうに綺麗な人は見た事ないよ。目から口元しか出してないのに、判るもんなんだねぇ」
「……そうだろうか」
 言葉に詰まって、ユディは再度背後へと視線を戻す。振り返ったのに気づいたルカが、小さく手を振った。
「まあ、心配にもなるだろうさ、あんな美人じゃあ」
「ところで、ここら辺りで良い宿を知らないか。王都に入る前に、巡礼の長旅の埃をおとして身なりを整えたいんだが」
「うーん、そうだねぇ」
 香ばしく焼けた串を選んで、油紙で包みながら女将が小首を傾げる。目抜き通りへ視線を移してから、目の前に立つユディへと顔を向けた。
「ここらで一番格が高いのは、黒瑪瑙館だけど。最近は、目抜き通りも裏通りと変わりなくごろつきどもが幅を利かせているから、奥さんを一人で使いに出すのは、やめた方がいいかもね」
 気風の良さそうな女将が、少しばかり歯に物の挟まったような言い回しをする。ユディは油紙の包を受け取って、銅貨を7枚彼女の掌に握らせた。
「黒瑪瑙館か、ありがとう。ついでに、この街の神殿は何処に?」
「この通りをずっと北へ進んだ端の方、芸人宿の近くにあるよ。……って、お客さん、1枚多いよ」
「手間賃に」
「ありがとう、さすがとびきり美人の奥さんをもらう男は違うね」
 笑い含みに返されて、ユディは踵を返しかてら小さく肩を竦める。いつの間にか、広場にはそれなりの人の流れが出来ていて、幌車に戻るのに少しだけ迂回する。先ほどまでは人のいなかった一角に結構な人垣が出来ていた。人影の間から、流暢な弦楽の音が聞こえてくるので、おそらく旅芸人がいるのだろう。
 よどみない音色は、おそらく弧胴琴かな、とユディは小首を傾げる。ルカが神学の授業で使っていたのを思い出して、いささかぼんやりとしか覚えていない楽器の形を脳裏に思い描いた。ユディは音楽の素養はたいしてないが、全ての神官は歌、踊り、楽器をこなすので、神殿に仕えていればそれなりに詳しくなった。神事で必須とされるから、神官見習いたちは皆必死でそれらを習得するのだ。
「確か、しずく型の胴と短めの竿の後ろ側が円弧形状で、弦が5本か、それとも6本だったか」
 ぼんやりと考えつつ、人垣を避けて幌車へ戻る。少し離れた場所から、弦の音に乗って艶やかな男声が甘い詩を歌い始めた。
「……あれが、吟遊詩人というのか」
 御者台によじ登ると、ルカが待ちかねたようにユディへ声を掛けた。どうやら、近寄って見物したいのを我慢していたようだ。
「おや、御者台からだとよく見えますね。……地面へ降りると、人垣で歌手の姿は見えなくなりますよ」
「そうか、ではここから眺めよう」
 にこにこ笑うルカへ、ユディは肉串の包を渡す。主人が2本取ったのを確認してから、残りを掴んで串の端の肉へとかぶりつく。香ばしい匂いのままに、甘辛く香辛料の効いた味に、一気に口内が唾で満たされる。
「……うまいな、これ」
「香ばしいですね」
 黒紗のベールを器用に片手で浮かせて、ルカも肉串へ噛みついている。口元はせわしなく肉を噛んでいるのに、視線は人垣の向うの吟遊詩人から動かない。いつの間にか、詩人の吟ずる歌は新しい曲となっていて、貴種たる騎士が魔物を倒す旅に放浪する流離譚が朗々と歌われる。
「なかなかに良い歌手だ」
 いつもは曖昧な表情を崩さないルカが、珍しく満面の笑みを浮かべる。好物の木の実の飴掛けを大碗一杯に出された時に匹敵する笑顔に、ルディは微笑ましさを感じて唇の端を上向かせた。
 人垣からやんやの喝采を浴びた吟遊詩人は、くすんだ灰色の外套と、それには似合わない派手な朱赤の襟巻姿で、北方の国に多い白茶けた金髪を綺麗に巻いている。甘い容貌は集まったご婦人方のために柔らかい笑みを浮かべて、やや大袈裟な身振りで観客に礼をしてみせた。
ルカは満面の笑みを浮かべて、吟遊詩人へ惜しみない拍手を送る。
「それにしても人が多い。何か祭りでもあるのかな」
 気が付けば、かなりの人が集まって来ている。このままここへ幌車を停めていると身動きがつかなくなりかねないので、ユディは手綱を繰って毛長コルフォを出発させた。
「あと10日もすれば春分のお祭りです。雪解けにはまだ早くとも、種まき前の農閑期の終わりと、早い春の訪れを願うお祭りがあるのだそうです」
「なるほど」
 重々しく頷いたルカは、視線の端で新しい歌を奏で始めた吟遊詩人をチラと振り返った。
「あの弧胴琴、結構な値段ではないだろうか」
 口元についた肉汁とたれを楚々とした動作でぬぐいつつ、ルカが小首を傾げる。顎の下へ落としていた襟巻を引き上げつつ、通り過ぎる広場の露店や、観客を集める旅芸人らを珍しそうに眺めた。
「私はあまり詳しくはないのですが、あの吟遊詩人の腕前は他の芸人の群を抜いていると思われます」
「私は、こういう所の芸人を見るのは初めてなので他との比較はできないが、彼は神官にしても立派に神事をこなせそうだったな」
 はあ、と小さく溜息を落とすのは、神学の中でもルカは楽器の演奏を少しだけ苦手にしているからだろう。ユディからしてみれば、立派に演奏していると思うのだが、自己評価ではイマイチの腕前らしい。
「あれだけの腕であれば、滞在先で貴族に招かれたり、その縁で楽器を送られたりすることもあるかと」
「そうか。……私など、想像もつかないような生活を送っているのだろうな」
 感嘆ともつかない呟きに、ユディは思わず眉を顰める。ルカ程に波乱万丈な人生を送っている人物もいないだろうに、本人にはそういう自覚はさっぱりないらしい。
「先ほど、肉串の屋台で聞きましたが、この辺りでは黒瑪瑙館が良い宿だそうです」
「そう。久しぶりに風呂に入れるなら嬉しいな」
 ほんわりと目元を緩める己の主人に小さく頷き返してから、ユディは慎重に幌車を目抜き通りへと向けた。



「では、幌車を裏の厩舎へ回してくる」
「……はい」
 幸いにも目当ての黒瑪瑙館はすぐに見つかった。新市街の門からつながる目抜き通りの、一番繁華な場所に立つひと際立派な建物だった。石造りの街並みは新市街といってもそれなりに歴史があるようだった。街の中心部分は古い建物が多く、外側になるにつれて新しくなる。
 露店の立っていた広場から、目抜き通りの黒瑪瑙館を越えて北側の神殿までが、新市街として大きく広がる前の街を構成していたのだろう。この範囲の建物は古いがしっかりとした造りで、その外周の建物は新しく、そして急ごしらえなのが見て判る。
 黒瑪瑙館に幌車を着けて、ユディはひとまず二泊分の宿を押さえた。風呂のある部屋を、という注文に帳場に立っていた従業員がわずかに声をひそめて「少々お高こうございますよ」と忠告する。いささかわざとらしい潜め方ではあったが、相場を知らない田舎者ならば、その声音だけで尻込みしたかもしれない。
 だが、こちらは人類最古の王国の星都から来た客なのだ。ましてやデナリ新市街がポーラスタ王都よりも相場が高い訳もない。
「結構、こちらで足りるだろうか」
 ユディは道中の商売で得た銀貨ではなく、万が一に備えて手元に持っていたアスカンタ王国の銀貨を6枚並べる。星都の繁華街にある老舗の宿ならば一泊分の値段だが、おそらくこの地ならば数泊は可能だろう。
 並べられた銀貨に、帳場に立つ男が絵に描いたような商人らしい笑みを浮かべる。
「ええ、5枚で二泊分に十分でございますよ。夕飯は暮れ頃から、朝は日の出の一刻前からご準備が可能です」
「1枚は厩舎用に。荷物を一部降ろすので、人を回してほしい」
「承知しました」
 昼食時のせいか、宿の入り口に近い帳場には人が少ない。アスカンタ銀貨に笑みを深くした受付の男が小さな鈴を振ると、荷物番らしい従業員が奥からのっそりと現れた。石造りの玄関口から帳場のある広間はそれなりに広いが、灯りの数が少ないので薄暗い。入り口に止めた幌車からあれこれと荷物を降ろすのを、ルカは脇に控えて黙って眺めていた。幌車は裏の納屋へ、毛長コルフォのムナンは厩舎へ入れて、これから数日は待機となる。この後水と餌をもらってゆっくり休めると知っているのか、ムナンが嬉しそうに鼻を鳴らした。
「こちらの木箱の上に。その絨毯は高価だから部屋へ引き上げる」
 人が一人寝転がれる程度の大きさの絨毯は、最初に避難した山荘から持ち出した物だった。きつく巻いて紐で縛って、幌車の寝台の下に押し込んでここまで持って来たが、貴族の館に置いておけるだけの品だったので、これまでの小さな街では商いに出す機会がなかったのだった。
「納屋への道は?」
「案内します」
 木箱やら絨毯巻やらを玄関横に積み上げた後に、ユディが荷物番の男とともに幌車を出した。それを、木箱の横にぼんやりと立って見送る。本来ならばルカもそれなりの力持ちなので(なにしろ見た目は細いが竜人なので)、荷下ろし等を手伝いたい気持ちはあったが、一応シレギア人の妻という事になっているので大人しく荷物番をしている。少しばかり歯がゆい気持ちもあるが、これはこれで立派な役目だ、と抜けかけた気合を入れ直した。
 さすがに「一番立派」と言われるだけあって、黒瑪瑙館の玄関は艶のある黒い石を使った階段を数段上がれば、黒光りするほどに磨き上げられた美しい彫刻の扉で飾られている。荷物番は、今はユディを厩舎に案内するために離れているが、常時人が玄関口に控えているのも、老舗宿だからこそだろう。
(ふむ、そろそろ私も少しは市井の暮らしに慣れてきた気がする)
 積み上げられた荷物の横に立って、目抜き通りを行き交う人を眺めつつ、ルカは独り言つ。これまでの生活で、谷の神殿から離れて生活したことなどほぼ皆無、数えるほどの機会に星都の繁華な街にある神殿を尋ねた事はあったが、それも周りを侍女や侍従騎士、衛士や神官に囲まれての移動だったので、神殿や学院にいるのとさして変わりはなかった。
 だが、この逃亡劇が始まって以来、ユディとたった二人でここまでの道のりを踏破したのだ。
 市井の暮らしの右も左も分からなかった以前と比べてみれば、今の自分が少しばかり誇らしく思える。道中にちまちまと刺繍した手巾は、行く先々でご婦人方によく売れたし、最近は年嵩のご婦人からの鋭い質問もそれなりにあしらえるようになって来た。
 何事も経験なのだなぁ、などと呑気な感想を胸中に抱いていると、通りの向うで見覚えのある顔がこちらへ向かって手を振っているのに気づいた。
(広場で歌っていた、吟遊詩人か)
 首元の朱赤の襟巻が記憶に残って、ルカは小首を傾げた。少し離れて御者台から見物していたので、おそらくあちらからも見えたのだろうが、今頃になって見物料の徴収だろうか。
 雪のまばらに覆う石畳の路を越えつつ、吟遊詩人の男が声を張る。歌手だけあって、よく透る声音にルカは半歩を踏み出した。
「シレギアの奥方、危な……っ!」
 言葉の意味を理解する前に、右側から衝撃が襲う。肩口を強く打たれて、左の壁際に寄せてあった荷物へ叩きつけられた。運よく、壁に立てかけてあった絨毯巻に肩と頭が当たったらしく、衝撃は大きいが痛みはさほどでもなかった。
「……っく」
 そのまま右側へ倒れ込むのを、かろうじて足を踏み出して堪える。数歩先は階段、そしてその下は目抜き通りだから、もしも落ちてしまったら命に係わる。
 右側で男の下卑た声音が何事かをがなっているが、意味を理解するよりも身体の均衡を失わないために神経を全てそちらへと注ぐ。踏みしめた筈の足元は奇妙に柔らかく、黒紗のベールの向うに見えている筈の、たった数段の階段と雪道とがじわりと歪む。
「こちらへ」
 すいと左腕を取られて、ルカは自分を引き寄せた人へと体重を預けた。鼓膜の内側で間延びする音は意味をなさず、弱い筈の陽光が踏み絞められた雪に滲んで視界を塞ぐ。
「……ユ……デ」
 胸郭から息を絞りだすようにして、頼もしい侍従騎士の名前を呼ぶ。しっかりと胸に引き寄せられて、ルカは安心して意識を手放した。



「……おい、お前。広場で歌っていた芸人、確かカナンと言ったな」
 デナリ新市街一の老舗宿、黒瑪瑙館の玄関口でカナンは自分よりも上背のある騎士崩れの男と対峙していた。片手には、かろうじて崩れ落ちない程度の意識を保っているのだろうシレギアの奥方を抱きかかえた状態では、たとえカナンが見かけとは違って片手剣の使い手であっても不利すぎるだろう。
「お兄さん方、いきなりご婦人に蹴りを入れるのは、白昼堂々卑怯が過ぎるのでは?」
 カナンが笑みを絶やさないのを、媚と受け取った男たちが下卑た笑い声を上げた。繁華な街によく居るようなごろつきにしては、竜革の鎧は手入れが行き届いている。腰に下げた剣はどれも同じ型で、カナンはつい遠い目をしてしまう。
この新市街にやって来てまだ日は浅いが、他の芸人たちからデナリの憲兵の噂は聞いている。広場で日銭を稼ぐ芸人から、気まぐれに見物料を巻き上げて、従わなければ殴る蹴るの暴行を加える事もあるのだとか。
 しかも、暴行を加えている輩たちこそが訴え出るべき先の憲兵だというのだから、始末に悪い。領主は旧市街に籠ったきり、その領主ですら悪い噂が絶えない。曰く、禁制の品を王都へ運ぶのを見ないふりをしているとか、好みの女人が通りかかれば、拐して無理やり妾として囲い、飽きれば南方の奴隷商に売り払う等々、上げればきりがないのだという。
「なんだ、お前もこの女狙いか。……目を引く美貌だが、こっちが先だからな」
「一緒にしないでくれるかな」
 ごろつきの先頭に立った男の上背はカナンよりも頭一つ分抜けている。大仰な仕草で腰の剣を抜いて、右手でゆるく構え直した。対してカナンは、といえば、右手にほとんど失神状態のシレギアの奥方を抱えて、しかも背中には弧胴琴を背負っている。腰には短めの片手剣を下げてはいるが、この状態で喧嘩になるのは出来れば避けたいのが本音だった。特に、商売道具の弧胴琴を傷つけるのだけは避けたい。
「久しぶりのご領主のお眼鏡に適う女、渡してもらおうか」
「……それは、どうかな」
 ぐら、と奥方の頭が傾いで、被っていた帽子が足元へ落ちた。その直後、黒紗のベールが帽子に引っ張られて滑り剥がれて、銀青の髪が露わになる。
「ほう、銀の髪か。尚更、譲る訳にはいかねぇ」
 ああ、面倒臭いな、とカナンは独り言つ。
 どうやら領主雇いの憲兵らしいごろつきどもは、元はそれなりの腕だったのだろうが、最近の怠惰な生活で動きからキレが失われている。ここで、カナンがシレギアの奥方を傍らの木箱の上に置いて、剣を使えば、おそらくは彼らを退ける事はできる。だが、乱闘の次第によっては背負った大事な弧胴琴を傷つけるかもしれないし、彼らを退けたらもう、後はイスファへと街道を逃れるしかない。ポーラスタの王都に向かうためには、是非ともデナリ旧市街を通って峠を越えねばならないのだし、だから成り行きで領主の権力機構と対立するのは、カナンにとっては全く望まざる事態だった。
 ただ、この商人の若夫婦の乗る幌車の行き先が知りたかっただけなんだが。
もしも王都へ向かうのならば、峠越しの間だけ幌車に同乗させてほしいと、そう持ちかけるつもりだった。
「どうしたもんか」
 そう口中で呟きつつ、左手で腰の剣を抜こうとしたカナンの前に、さっと割って入る影があった。黒い騎士服に、ざっくりとした毛織の外套の男は、すでに剣を抜いて油断なく構える。その背中は殺気に満ちて、庇われているカナンですら背筋が泡立った。
「……お前ら、妻に何をした」
 ごく低い唸り声は虎か、それとも豹だろうか。目の前に立つ男は、さほど大柄ではなく、筋肉質であってもどちらかといえば痩身だが、全身を包む殺気に空気が震える。頭髪の黒く短い癖毛すら、逆立っているように見えた。
「……っ」
 だらけた態度で剣を構えていたごろつきたちが、ぱっ身を引く。剣の腕でも気迫でも叶わない事を察したのか、男たちは一言も発しないままに脱兎のごとく目抜き通りを駆け去っていった。撤退の見事さだけは、きちんと力量を計る事が出来る正規兵のそれだと、カナンは妙な感心をする。
「ルル……ッ!」
 前屈みに腰を折るようにして動かない奥方の身体へと、騎士服の男が両腕を差し出した。カナンはふっと息を吐いて、奥方の肩口を少し捻って上向かせてから騎士服への男へと引き渡した。かろうじて肩に引っかかっていた黒紗のベールが、軽い音を立てて石床へ落ちた。
「何があった」
 がっくりと意識を落として、夫だろう男の腕に抱え上げられた奥方の顔を見てカナンは息を呑む。神殿の女神の像ですら、この人の前では霞んで見えるに違いない。
意識もなく、薄く開いた唇は心もとなく、青白い肌に影を落とす長い睫毛の苦しげに震える様子までが心を奪う。
 思いもかけない美貌に絶句して、ただ凝視しているのに気づいたのか、騎士服の男が片手で奥方の顔を自分の胸側へと傾けた。
「……貴方は庇ってくれたのだろう。礼を言うが……一体何があったんだ」
「とりあえず、奥方を部屋へ。荷物も早々に運んだ方がいい。この街は、本当に治安が悪いようだから」
 短く頷いた騎士服の男が、荷物番を呼ぶ。その隙に、カナンは足元に落ちたベールを拾い上げて、騎士服の男の腕の中で昏倒する美人の顔へとかけた。



「まずは奥方を寝台へ」
 通された部屋は2階の一角を占めており、ゆったりした間取りと高価な調度に、それなりに値の張る物だと知れる。カナンは他の従業員たちと運んだ荷を入り口近くの壁際に積み上げて、部屋の奥、壁際に作り着けられた広い寝台に奥方を寝かす男の背を見守った。
 騎士崩れの商人らしい男は、意外な勤勉さで奥方の外套と靴を脱がせて寝台に寝かせ、乱れた髪をひとまとめして枕へと流す。寝台の傍の鏡台の上にあった陶製の洗面器に水差しから水を注いで、手ぬぐいを浸してから几帳面な仕草できっちりと絞る。わずかに赤みを帯びた左側のこめかみ付近に手拭いを当てて冷やしてやる所作は淀みなく、意外な事にこの騎士崩れの商人風の男が誰かの世話を焼くことに熟練している事実を伺わせる。
寝台の天蓋から垂れる生成りの紗の帳を引いて、カナンや従業員の視線から奥方を隠すと、ようやく短い息を吐いて振り返った。
「……助かった。少ないが、取ってくれ」
 差し出された掌には人数分の銀貨があって、カナンはありがたくその一枚を手に取った。荷物を運んで来た従業員たちも目元を緩めて、だが怪我人の出た手前神妙な表情を崩さずに部屋を辞す。
「それで、一体どうしてこんな事になったのだろうか」
 困惑と怒りとをほぼ等分に滲ませた商人の男は、ユードど名乗った。子宝祈願のために巡礼しているのだと言われれば、確かにその言い分はもっともらしい。だが、カナンは奥方を胸に抱き込んでいたので、一見誠実そうな若い商人――ユードが真実を話していない事を知っていた。
「奥方はまだ目覚めないか。ならば、神官を呼びにやった方がいいのでは?」
 中程度の規模の街であれば、それなりに医師や薬師もいる。だが、医師を名乗るのに特別な免許や試験がある訳でもないので、きちんとした医師を引き当てられるかはほぼ運でしかない。特に旅行先など勝手を知らない街では、確かな医術と薬学を身に着けているだろう神官を呼ぶ方が間違いがない。
 貧者にはほぼ無料か使役などでの支払いを可能とする神殿だが、それなりに持てる者からはしっかりと布施を取る。したがって、懐に余裕のある者にとっては神官の治療の方が高額となる事が多かった。
「……確かにそうだ。使いを頼もう」
 チリ、と小さな鈴を振れば、隣室に控えていたらしい宿付きの小間使いがすぐに顔を出した。小銭と書付を握らせて神殿までの使いを頼むユードの姿は物慣れていて、これは確かに小商会を切り盛りする若旦那にふさわしい態度に見えた。
「茶でも淹れようか」
「お願いする」
 カナンは背負っていた弧胴琴を入り口脇に積んだ木箱の上へ置いて、部屋の中央の卓へと歩み寄った。毛皮で裏打ちした灰色の外套を脱いで椅子の背へかけてから、卓上の茶器へ手を伸ばす。
「……どうも、奥方はここの領主への献上品として目を着けられたようだ」
「――は?」
 身もふたもない言い方に、顎を落としたユードが茫然とした声を上げる。
「という事は、あのごろつきどもは白昼堂々と拐しをしようとしていたのか。……いきなり肩を蹴って昏倒させて?」
「乱暴にも程があるが」
 重々しく頷けば、浅黒い肌に癖の強い黒髪の男が胸の底から深く息を吐いて、椅子の一つへとがっくりと座り込んだ。
「……憲兵は何をしているのだろう。三差路に立つ街ならば、治安も大事だろうに」
 顔の映るほどに磨かれた黒檀の卓へ両肘を付いて、溜息とともに呟く。それを、カナンは香りの良い茶を碗へ注ぎながら静かに眺めた。
「どうやら、奥方を蹴った男たちが憲兵らしい」
「それはなんとも……度し難い」
 湯気の立つ碗を両手で覆ったユードが大げさに顔を顰める。ふと、部屋に沈黙が降りて、カナンは彼らの素性を詮索するべきかを迷った。素晴らしく美しい奥方が、実は男性だというのは、抱き寄せた時の身体付きで判明していた。面立ちだけ見れば、全くの美女にしか見えないのだが。胸に抱き込んだ身体は若く伸びやかだが引き締まった筋肉に覆われて、大猫族か竜族の血が入っていると推測された。銀の髪色からしても、そのどちらかなのはまず間違いがない。
 一方、目の前で憮然として茶を啜る若い男の肌は浅黒く、癖のある短い黒髪にくっきりと黒い睫毛が影を落とす金色の瞳は隙もなく、佇まいからして大猫族なのはまず間違いがない。その上で、子宝祈願の巡礼の旅、と聞けばおそらく奥方は四族違い、すなわち竜族なのだろうというのが判った。
 だが、とカナンは胸中に独り言つ。美貌の青年を妻と偽って連れる騎士だろう男の、旅の真実の目的は何なのか、と。
 カナンはとりあえず峠を越えて、王都までの路のりを幌車に乗せてもらえればいいのであって、ここでわざわざ他人様の事情を云々しなくても良いのではないか。
 とはいえ、ここでカナンが知らぬふりで口裏を合わせて、これから診察をする神官に彼らがどのような話をするのかを聞かずにいるのも一手だろう。だが、持ち前の好奇心がむくむくと頭をもたげて、殊に峠越えで同乗を頼むのであれば、できれば訳ありの彼らの事情など聴いておきたいな、と思ってしまう。カナンにはカナンの事情があって、まずはさっさと峠越えの車を確保しておきたいのだ。
「……藍衣の神官様がお見えです」
 控えめに扉を叩く音がして、小間使いが生成りの衣の神官を室内へと案内する。藍色の刺繍で飾られた長い衣の襟元を片手で押さえて、薬の類を入れた鞄を下げた神官が小さく頭を下げた。
「こちらの神殿を任されております中位神官のルドラと申します」
 小間使いが下がるのを待って口を開いたルドラが、チラと奥の寝台へと気づかわしげな視線を送る。一つにまとめて背に流した髪は燃えるような赤毛で、思慮深い光るを浮かべる瞳も明るい赤茶色だった。年のころは見た通りならば四十の半ばだろうか。中肉中背のとりたてて特徴のない体形ゆえ、おそらく人族と思われた。
「奥方様が暴行に遭われたと聞きましたが」
「こちらへ。……昏倒して、まだ目を覚ましておりません」
 分厚い帳を引いて、外側からの視線を遮ってからユードがルドラを手招きする。二人で何事か囁きあいつつ、神官が診察を始めたらしい。
 カナンは素知らぬ振りで、湯気をたてる陶器のやかんに水を足してルドラ神官のための茶を淹れる準備を始める。
 二煎目とはいえ十分に香りのい茶を新しい碗へ注ぐ頃に、ルドラが診察を終えて卓上に薬草と調剤用の薬を広げ始めた。打ち身のための湿布の用意か、薬研で薬草を細かく刻むと、室内に爽やかな香りが薄く広がる。
「……実は、私はこの街へ赴任してまだ日が浅く、こちらの事情を全て承知している訳ではないのですが」
 手札程の大きさの、肌理の細かい布へ薬を塗りつけて、小さな盆の上へ並べる。几帳面に巻かれた包帯を添えてから、ルドラは寝台へと向き直った。
「憲兵が我が物顔で巡礼客を脅かすので、再三領主や旧市街の神殿へ苦情を入れているのです。……が、全て旧市街で止められてしまって、王都の神殿へ届くことはございませんでした」
「……それは」
 寝台の枕元へ立つユードが、困惑した声を出した。しばらくは衣擦れの音がして、治療に専念しているらしいルドラが沈黙する。小さく、お労しい、と呟きが聞こえた。
 卓に着いたまま手持無沙汰に茶を啜るカナンをそのままに、ユードとルドラが低い囁きを交わす。湿布の取り換えの間隔や、目を覚まさない場合の対処など、短いやり取りの後にルドラが短く息を吐いて、鏡台の上の洗面器で手を濯ぐ。
「そちらの方は、たしか吟遊詩人のカナン殿でしょうか。毎日、神殿の前を通って目抜き通りの広場へ向かわれるのを見ております。奥方をあのごろつきから守られたとか。お怪我などはありましたか?」
 先ほど淹れた茶はすっかり冷めてしまっていたが、ルドラは気にすることなく卓へ付いて茶を啜る。
「いいえ、ルドラ様。ありがたいことに、私も弧胴琴も無事です。こちらの奥方様には災難でございましたね」
 にこやかに返すカナンに、ルドラがわずかな困惑を眉ににじませる。デナリ新市街の神殿は、外観こそ立派ではあるがその実神官の数は少なく、低位神官が数名と中位神官が一人だけで切り盛りしていると聞いている。
 神官本人は自らの地位を名乗る時に、低位、中位と付けるが、一般的に外部の人間は、敬意を持って衣を飾る刺繍の色を差していうのが習わしだった。
 すなわち、藍色の刺繍で衣を飾る中位神官は藍衣、緋色の刺繍で飾る高位神官は緋衣の神官様、と。因みに、茶から黄色の刺繍の衣を着る、もっとも庶民に親しみのある低位神官は、単に神官様、とだけ呼ばれている。
 確かこの藍衣の神官は、先月この国の王が星都への旅の途中に立ち寄ったおりに、前任の藍衣の神官が事故で急逝したために、代わりにと留め置いた者だったと聞いた。何かと不穏な動きの多い領主と、全く役に立たない緋衣の神官と、そして諫言していた藍衣の神官の交代ともなれば、新市街から旧市街まで、庶民は口さがない噂話に忙しく、行き来する旅芸人はそれを面白おかしい俗歌にしてさらに煽る。
「とうとう、白昼堂々巡礼客を狙って狼藉を働くまでになるとは」
 ルドラが途方に暮れたような声を出した。
 王の一声でいきなりこの街の神殿に赴任となってしまったルドラには、きっと災厄のようにも思えるのだろう。深い溜息を落として、手の中の茶杯を意味もなく見つめる。
「……ユディ、私は……どうしたのだろう」
「ルカ様!」
 ふと満ちた沈黙に被せるようにして、掠れた、だが若い声音が白紗の向うに落ちた。枕元に背を向けて、ルドラの背後に立っていたユード、否、ユディが弾かれたように踵を返した。
「お加減は、いかがですか」
 小さく溜息を零してゆっくりと椅子から立ちがったルドラも寝台へ進んで、しばらくは粛々と問診が進められる。あらかじめ診察と治療が済んでいるからか、部屋の中の空気がわずかに軽くなった。
 カナンは、菓子盆から焼き菓子をひとつ取って、ゆっくりと嚙み締めた。普段、滅多に口にすることのない高級な菓子の、歯に染みる甘さに少し辟易しつつも、せっかくだからと二枚目を手に取った。
 低く交わされる囁き声を特に拾う事もなく、カナンは悠々と二枚目の焼き菓子を食べ切る。手に着いた粉を卓上へ払う頃になって、ルドラと、枕元に跪いたユディとがカナンへと向き直った。
 小首を傾げるカナンへと、ユディが短く咳払いをする。
「あの時、胸に抱き込んで庇ってくれたゆえ、お気づきだと思うが……、こちらは星都の……谷の神殿に所属される中位神官のルカ様であられる」
「谷、ですか」
 へえ、ともう一度小首を傾げるのに、寝台の中で寝ている人がわずかに身体を動かした。
「……寝たままで失礼する。私は谷の衣装部刺繍課に属する中位神官のルカと言う。貴方は私を庇ってくれたと聞いた。ありがとう」
 やや吐息に交じりとはいえ、青年らしい声は距離があってもよく透る。毎日の祝詞を欠かさない神官らしさを感じて、カナンは無意識に微笑を浮かべた。
「いいえ、藍衣のルカ様。貴方様を助けられて、私は幸運でした」
 にっこりと笑って返したカナンは、椅子から立って片足を引き、いつも観客にするような身振りで深く礼を取る。
「月の光も適わぬような、御身のかんばせを間近に拝見できましたゆえ。この身は吟遊詩人であれば、ルカ様のことを歌に唄う許可をいただけますか?」
「それは光栄だが……どうか、夏を越えた頃までは待っておくれ」
「仰せのままに。ですが何故夏なのかを伺っても?」
 不躾な質問をずけずけと投げれば、枕元に控えるユディがあからさまに不愉快そうな顔をする。一方、白紗を引いた寝台の上のルカが、小さく笑い声を上げた。
「そればかりは説明はできぬ。……けれども、夏を過ぎれば良しとしよう」
「承知いたしました。このカナン、藍衣のルカ様とのお約束は必ず守りましょうぞ」
「……助かる。ユディ、彼に何か褒美を」
 すでに銀貨一枚をもらっているとはいえ、それは荷運びを手伝った宿の従業員も貰っている。ルカが言うのは、ごろつきから彼を守ったことに対する褒賞だろう。
「カナン殿、何か希望がありますか」
 少しばかり渋い顔で、ユディが尋ねる。一方ルドラは静かに脇に控えているばかりで、彼らのやりとりに口を挟むつもりはないようだった。同じ藍衣でも、ポーラスタの地方都市の神殿詰めと、星都の神殿在籍では身分に差があるのが部外者のカナンにも見て取れた。
「そうですね、実は、私がルカ様へお声をかけましたのは、峠を越えて王都に向かわれるのならば、幌車に同乗させてもらいたかったのです」
「なるほど」
 ここでようやく、ルドラが相槌を打った。旧市街から峠を越える路は険しく、毎年徒歩で越えようとする不慣れな旅人が谷へ落ちて命と荷を失っている。できれば慣れた御者の操る車に同乗させてもらうのか、安全に王都へ向かう秘訣なのだと説明してくれる。
「なるほど、了解しました。我らはしばらく街に滞在しますが、その日程でよければどうぞ」
 主の許可を取るまでもなく、あっさりとユディがカナンの同乗を許可する。
「それはありがたい」
 にこやかに返すカナンに、ふとユディが厳しい視線を向けた。わずかに肩越しに振り返って、背後の主人が眠ったのを確認してから、声を潜める。
「ただし、王都に着くまでは我々二人を巡礼の若夫婦商人として扱ってもらいます。……ルカ様はこのようなご容貌ですから……」
 言葉に詰まったのか、語尾があやふやに途切れる。それをカナンは口元に人差し指を当てて、眉をひそめた。
「ですが、その変装もどうやらこの街ではあまり有効ではないようです。……ユディ殿は護衛騎士であれば、奥方様のお傍を離れないようになさった方がよろしいかと」
「……それは、そうですが」
 たった二人の旅の上、峠越えのための荷を揃えなければならない。それが判っているからか、ユディの言葉は歯切れが悪い。
「明日か明後日になって容体が落ち着けば、ルカ様を神殿の宿坊へ移すこともできましょう。そうしましたら、ユディ様が外出することも可能かと」
「是非、お願いする」
 ルドラの提案に、ほっとしたようにユディが頭を下げる。その姿に、ルドラがやや表情を改めた。
「それから、こちらの宿は領主の親族の経営ですので、どうかルカ様をおひとりにはされませんよう」
「……それは」
 不意にもたらされた最悪の情報に、思わず絶句する。カナンは茶器を操って、すっかり味の抜けた茶を自分の椀に注ぎつつ、苦々しい顔をする黒髪の騎士へと微笑みかけた。
「明日は、午前中であれば私が付き添いましょうか。王都までご一緒していただけるのであれば、お役に立ちますとも」
「それは、確かにありがたいが」
 即答を避けた黒衣の護衛騎士が、脇に控えるルドラへと視線を送る。ルドラはカナンへと視線を合わせてから、ゆっくりと頷いてくれた。
「カナン殿のお噂は、神殿での毎朝の神事の後に信者の皆さまから伺ってはおりますが、歌や弦楽の良さについてばかり。……まあ少しばかりご婦人方からの苦情もありますが、信用に足る御仁かと」
 思いがけないルドラの援護に、カナンは芝居じみた仕草で礼をする。
「吟遊詩人カナン、王都までの旅路をご一緒させていただきたく」
 深く腰を折って頃合いを計って顔を上げれば、ルドラとユディとが視線を交わして苦笑いを返してくれた。
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