斎王君は亡命中

永瀬史緒

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8. 出立

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8出立


「幾百の時を越えて星の海を渡りてこの地に降りて数千年の後、災厄来たれり。苦難の旅を終えて地に満ちしわが子らを案じて、赤い星の神らこの地へ至れり。地に落ちなんとする星くずを払いて、震えるわが子の末裔を四族へと分かちたもう」
 ルカが低く詠唱するのは経典の「災厄後」の最初の一節。新年の神事にまず詠唱されるこの節は、熱心な信徒でなくとも自然と覚えている有名な物だった。
 凍る空気を吸い込む喉は寒さに痛むが、背後から流れてくる詠唱の声は低くともよく透り、夜明け前の青い視界に呼気とともに白く溶ける。
 並足程度の速度の荷車は、凍った雪道に轍を付けてじりじりと進む。一足を踏み出す毎に爪を出した足を包む靴の下で、凍った雪がきしむような音を立てた。
「……その靴はどうだろう? 壊れたりはしておるまいな?」
 心地よい詠唱が途絶えて、やや心配そうな声音に替わる。ユディは一旦歩みを止めて、自分の足の形にぴったり沿うように作られた「豹用短靴」を覗き込んでみる。
 紐で編み上げる形の靴は、屋根裏の木箱から引っ張りだしてきた竜革と、台所のコルク板を組み合わせて、ルカが器用に拵えてくれた物だった。
 夏期であれば、管理人が滞在する間は山荘にも鶏、コルフォなどの家畜がおり、卵や乳を得たり荷車を引かせる事もできる。だが、冬季には管理人が家畜を連れて避寒のために麓の農村へと移動してしまうため、山荘は空になる。荷車はあっても、それを引く家畜がいないのだった。
 だが、たとえ麓までの短距離であっても、食料やら生活必需品やらを積んだ荷車を本性である黒豹姿のユディが引く事にルカは反対していた。もともと本性が豹人であるユディと、竜人であるルカの二人がいれば、化生の姿のままであっても四輪の幌付荷車を麓まで降ろす事は可能ではある。
 だが、主人である斎王君に荷車を引かせるなど、露見した場合にユディの身が危うくなる。たとえルカが庇ったとしても、破門、追放はまず免れないだろう。夜明け前の出立、目的地は麓の温泉街の小神殿であっても、目撃者が出ないとも限らないのだ。
 そこで、ユディが本性の姿で荷台を引く代わりに、ルカが本性用の靴を作る事で不毛な議論にどうにか決着を見たのだった。
大きい肉球♪と大喜びで四本分の型を取り、時々試着などさせる斎王君様(あえて様付けをしたい)は、仕事を越えて楽しそうで、ユディは主人の機嫌が良いならばまあいいか、と「星教の規範」とやらをさっさと引っ込めた。
 己の破門の危機は乗り越えられたのだ、細かい事までは文句は言うまい。
 そうして、細々と準備を整えてようやく出立したこの朝は、夜明け前の空は雲一つなく青く、ルカの天気予報のままに「絶好の旅日より」であった。
 山の頂上に近い寮から、麓の街まで一番近い道ではなくあえて迂回して他の街にもつながる街道に出るのは、雪解け前のこの時期に無理に旅をする者が少ないために、来た方向を悟らせないための小細工でもある。
「御身様、小神殿に着いたら口を閉ざしてください。そして、決してベールを上げない事」
 山肌を折れ曲がって下る路は狭いが、まだ夜明け前であれば麓から上がってくる車の心配をする必要もない。軽く背後を振り返れば、荷引き装具の手綱を軽く持ったルカが御者台に座ったまま首を傾げた。もこもこに着ぶくれた上に海老茶の外套を着ているせいか、体形はほとんど分からない。長い銀髪も円筒状の黒い毛皮の帽子の上から被ったベールの下でみつあみに結ってまとめているので目立たなかった。首元の襟巻で口元を覆って、さらに今は捲ってあるベールを降ろしてしまえば、信仰篤く慎み深いシレギアの夫人にしか見えないだろう。
「承知している。この服装は、シレギア地方の既婚女性の恰好だから、私はつまり配偶者以外の異性とは口をきかずとも咎められないのだろう?」
「左様です。……ここを出て北上し、中規模の街に出るまでは足跡は完全に隠した方が良いでしょう」
 シレギアの女性は大ぶりの帽子とベールを被った姿をしているため、遠目であってもそれと知れる。周囲の人、特に男性は礼儀としてシレギアの女性の顔を覗き込んではならないので、身分を隠して移動するルカには都合が良い。
 あと何年かすれば、女性に変装するのは、たとえ容貌が抜きんでて美しいルカであっても難しくなるだろう。竜人としては幾分華奢ではあるが、二十歳を越えて数年もすれば他の四族よりも背が高くしっかりした骨格と、しなるような柔らかい筋肉を持つ、竜人男性らしい体格に育つだろう。ルカの祖父、現オリハン大公レクラムは美丈夫として有名で、おそらくルカもきちんと成長すれば祖父に似た体格になると思われた。
だから、ルカがまだ女装して周りを欺ける時期であったことに、ユディはひっそりと胸をなでおろす。夫婦で行商しつつ旅をする巡礼は珍しくもない。実際、ユディがオリハン領の端から星都までの道すがらでもっとも遭遇した旅人だった。ユディは彼らに護衛として雇われつつ道中を共にしたので、彼らの事情に詳しくなっていた。
「王都の近くの街までは、この格好か。……暖かくていいかもしれない」
 ぼそりと呟いたルカが首元の襟巻を顎まで引き上げた。青白い夜明け前の視界の中で、銀青の瞳がわずかに滲んで光る。
「……しばらくは、ご辛抱ください」
 ごと、と大き目の音を立てて荷台が軋んだ。コルフォの飼料に食料、衣服、その他換金できそうな物やら薬草やら、その上燃料までぎっちり詰め込んだ荷車は重い。鋭い爪を鋲代わりにして山道を進むのは、毛長コルフォなどでは難しかっただろう。正直なところ、ユディは自分が体格の大きな豹人であったことに感謝していた。欲を言えば、獅子人や虎人であればなお望ましかったのだが。
「……ところで、豹や獅子や虎、狼に狐、という獣はこの地上には存在しないのでしょうか」
 ふと思いついて疑問を投げかけてみれば、背後からううん、と唸るような声音が聞こえた。
「神々がおわした赤い星に、かつて存在していた動物なのだそうだ。……この星とはきっと、生態系が違ったのだろうとオッタル師が言っていた。四族のなかで、この地に実際に存在しているのは竜だけゆえ」
「その竜も、北のこの国では鳥となって空を飛び、その姿をかなり変えていますが」
「……寒いからね。鱗のままでは北の地では生きていけまい」
 よく晴れた冬の空ゆえ無風ではあるが、夜明け直前のひととき、気温はぐっと下がる。荷台を引いて進むユディはほとんど寒さを感じていないが、御者台に座るルカには寒さがこたえるらしい。海老茶の外套の内側で関節を折り曲げて手足を縮こまらせた。山道をやっと降りきって、きしきしと音を立てて雪を踏みしめてすすむ荷車が凍った雪の上でわずかに滑って、ユディは胸の内側を氷塊で撫でられたような気分に陥る。
「恒温性を得た竜たちは、体温を維持するために体積を増やす一派と、羽毛を得た一派とに分かれた、という説ですね。……たしかにアスカンタの北側には身体の大きな竜が多いですが」
「……私は、羽毛を生やす方がいいな。というか、今すぐにでも生やしたい」
「御身様、竜人は頭部以外には体毛はございませんよね」
「そのせいで、こんなに寒いのだろうか」
 ぶるっと肩を震わせてから、ルカは捲り上げていた濃い黒のベールを降ろして顔を隠した。進行方向に建物が見えて、その向こうには夜明けに近い白い光が上空を照らしている。
「さ、小神殿まではもう少しです」
「わかった。……この街を出るまでは、私は無言でいる」
 了承の代わりに尾を振れば、背後の気配が少しだけ浮き立ったようだ。しばし足を止め振り返った視界の中で、黒紗のベールを降ろした年若いシレギアの婦人が、生真面目に手綱を持ち直した。眉の上まで深く帽子を被り、唇の下まで襟巻を引き上げて、さらに黒紗のベールで覆っているというのに、黒紗を通してさえ斎王君の冴え冴えとした美貌は隠しようもなく、思わずユディは小さく溜息を零した。



小神殿の場所は遠目からも高い鐘つき堂が見えるのでわかりやすいため、人気のない街中を迷わずに進む。雪解け後、特に初夏には湯治客が多く訪れると聞く温泉街は、厳冬期の夜明け前ともなればひっそりと寝静まっている。あちこちから白く上がる湯気は、温泉の湧きだし口なのだろう。山の反対側、国境を越えた谷の神殿にも同じように湯治の施設はあるが、北側に位置するこちらの街の方が規模は小さいようだった。
 遠目にも判る神殿は白一色だが、雪を落としやすく急な角度の濃い色合いの屋根の間でよく目立つ。街の規模にしては神殿は小さめで、冬季に街に留まる人口が少ないのだろうか、とルカは首を傾げる。
 この街は、北国ポーラスタにしてみれば南端にあたる。だが地形や気流の関係で雪の最も多い地方でもあるらしい。避寒地は国内の他の地にあるのかもしれなかった。
「……もうし、早朝にお騒がせします」
 ほとほと神殿の通用口をたたくユディは、長靴と外套を着ただけの化生の姿へと転じている。ルカは、荷引き具の間の残された肉球用の短靴を拾って雪を払う。荷台に押し込んでいる頃合いに、ようやく通用口から神官が顔を出した。
「これは、このような早朝にどうされましたか」
 おっとりと問う神官は、老年にさしかかった頃合いだろうか。神事を行う市井の神殿の神官にふさわしく、穏やかな笑みを浮かべている。
「……実は、昨晩この街の外で野宿をしたところ……荷車を引いていた毛長コルフォに逃げられてしまい……」
「それはお困りでしょう。……ここまではご自分で引いてこられたのですか」
 年老いた神官が、空の荷引き装具を付けた荷車を驚いたように見上げる。ユディは薄く笑みを浮かべて、毛皮で裏打ちした外套一枚の胸元へ片手を当てた。
「私は豹人ですので、このくらいの荷車なら引けます。ですが、これからの巡礼の旅をずっと引いて行くのは、さすがに。……神殿で毛長コルフォを売っていただけますか、もしくはどこか良心的な売り手をご存じでしたら……」
「それはご苦労でございました。……まず荷車を納屋へ入れてください。中でお茶を差し上げましょう」
「ありがとうございます」
 口上を疑われる事もなく、神殿の内側に招きいれられる。ユディは荷台を手早く納屋へ引き入れてから、予め用意してあった小さめの木箱を荷台から出した。ルカは、畳んだユディの服を両手に抱えて、しずしずと後に続く。
「奥方は、シレギアのご出身ですか。……この国はお寒いでしょう」
「あちらはイスファの傍ですから。夜はかなり冷えるのですが、雪がこたえるようです」
「そうでしょうね」
 神官に促されて裏口の木戸を越えると、ふんわりと暖かい空気に包まれる。神事を行う祈り堂はきっと底冷えがするのだろうが、神官たちが普段暮らす台所とそれに続く食堂は、しっかりと火が焚かれて暖かかった。
「さあ、どうぞ。奥方はこちらへ、お茶を進ぜましょう。神殿所有の毛長コルフォは、数はあまりおりませんが、きちんと手をかけておりますよ。お支払いは宝石ですか? 行商されているのならば、お手持ちの商品も見たいのですが」
 粗末な木の椅子へルカを招いた中年と思しい神官が、薬草茶の入った碗を供してくれる。ユディは老年の神官の後に付いて、納屋へ向かったようだ。
 ルカは小さく会釈して、湯気の立つ碗をありがたく手に取った。顔を覆う黒紗のベールを軽く持ち上げて、薄甘い薬草茶を啜った。
 食堂はそれなりに広く、置いてある長卓と椅子は粗末だが、十人以上が一度に食事が摂れる大きさだった。磨き込まれた床は黒光りして、だが歩くとわずかにたわんで軋んだ音を立てた。
「この時期に巡礼とはお珍しい。そろそろ食料の乏しくなる頃なので、行商は私たちにはありがたいのですけれども」
 愛想よく微笑んだ神官は所作の機敏さから中年らしかったが、気候のせいか肌荒れとおぼしい皴がいくつも顔に刻まれて、実年齢よりも老けて見えた。
「……おお、これは失礼を。シレギアのご婦人は、夫以外の男性とは話さないのでしたね」
 少し大げさに会釈して、神官が皿に盛った焼き菓子を出してくれる。ルカはもう一度小さく会釈して、素朴な焼き菓子を一つ摘まんだ。
 木の実の油を使っているらしく、香ばしいが甘味には欠けて、鄙びた温泉街の小さな神殿にふさわしい味わいがした。
 なるほど、冬場には実入りが少なく、神殿の運営もかつかつなのだろう。
 神官たちの使う厨房は割と大きめで、だが実際に使っている竈の数は二つ、というところ。夏はおそらく、寄進客を泊めたり、巡礼客に食事を出したり、にぎわうのだろう。だが、極寒の今は、街に残る少数の住民のため、最低限の神官が暮らしているのが判った。
 毛長コルフォを一頭買う代金として、耳飾りに付いていた宝石二つと、黒糖を一袋、木の実の飴掛けを渡せばおそらくは十分だろう。
 ユディが当初に出した見積で十分賄えそうな事に、ルカはほっと息を吐いた。
 甲斐甲斐しく朝食の準備をする神官の服装は、国境を越えていても谷とほとんど変わらない生成りの素朴な、だが袖の長い優雅な形で、それがどうにも懐かしく思える。袖口と裾を飾る刺繍は藍色で、この中年の神官とさきほどの老年の神官とは、二人とも中位であることが判別できた。
 たった二人、この一冬をとおして神殿を守りつつ、住民のために薬を作り神事を行うのだろう。
 ふと、ルカはそんな神官二人を羨ましく思っている自分に気がついた。貧しくも清々しく、日々を過ごす。本来の神官らしい暮らしぶりに、自分もこんなふうに日々を過ごせたら、と思わず考えてしまう。
 だとしても、護衛騎士としてユディは絶対に自分の傍にいてくれる。
 謎の確信に少しだけ慰められて、実際は追われる状態の自分から少しだけ逃避してみる。手の中に抱えた碗の、薬草茶は冷めてしまったが暖かい食堂にいたせいか、手足の冷えは幾分よくなっていた。
「……どのコルフォも、健康で良い状態でした」
「ええ、貴方がたのようにこの街でコルフォを買い替える方も珍しくないので、神殿では若いコルフォを必ず用意しておりますから」
商談が済んだらしい老神官とユディとが、雑談をしながら食堂へと戻ってくる。
「それではお支払いはこちらで」
 あらかじめ持ち出していた木箱をそのまま老神官へと渡して、ユディはルカが膝に抱えていた服を受け取った。
「これから朝食を出しますので、どうぞご一緒に」
「せっかくですが、服を着たらすぐに出発します。こちらの冬は、本当に昼が短いのですね」
「そうですか。冬場はお客様が少ないので、何かお話を伺えると思ったのですが、残念です」
 素早く騎士服を着こむユディの背に、薬草茶を碗に注いでいた中年の神官が声をかけた。革帯を締めたユディの姿を、眩しそうに見上げる。
 どうやら、この二人の神官はどちらも人族のようだった。本性の姿で荷物を満載した荷車を引いて街中まで来られた事にも、興味があるらしい。
「この街は、人族が多いのです。ポーラスタは寒く、特にここは降雪も多い。雪を気にしないのは人族と狗族なので、大猫族や竜族の方は珍しいんですよ」
 さあ、と暖かい薬草茶を淹れた碗を差し出されて、ユディは立ったまま軽く会釈する。ルカはぼんやりと食堂の天井を見上げて、粗末な板張りの天井にも創成神話の絵が描かれている事に気づいた。一部は剥落し、絵具の色も退色しているが、天の船から降りる神々とそれを迎える人々の姿が、青と黄の絵具で生き生きと描かれている。
「狼人ならばあの荷車も引けましょうが、人にはなかなか難しい。大猫族の方は本当に力持ちなのですね」
「ええ、ここから近くの村くらいまでは引いて行けます……が、私も寒がりなので、できれば毛長コルフォに任せたいです」
 笑って茶を啜るユディは、普段の寡黙さとは打って変わって快活に見える。現在ユディとルカとが所持している旅券はカムンガリエ出身の商人ユードとその妻でシレギア出身のルルーー旅券の発行元は星教総本山。夫婦は行商しつつ子宝を授かる祈願の巡礼の旅の途中、という事になっている。この他にも、いくつかの組み合わせの旅券を持っていて、星教総本山が発行元である以上、木札さえあえばどのような旅券であってもルカの花押で発行できた。
 老神官は、すっかり良い取引ができたとご満悦で、おそらくルカ達が出立したら中年の神官と二人で朝食の後に木の実の飴がけを楽しむ算段なのだろう。裏口から出て、納屋から引き出された荷車に乗り込めば、凍る空気に白い息をまとわせて、神官二人が並んで見送ってくれた。
「それでは、どうぞ道中お気をつけて」
「ありがとうございました。良いコルフォを売っていただけて、助かりました」
「お二人の安全な道中のために、お祈りいたしますよ」
 笑って手を振る神官たちに会釈して、ユディが見事な手綱さばきで荷車を出発させる。外はいつの間にか朝日が昇って、白々とした陽光に照らされた街並みは、いっそ夜明け前よりも冷え込んだ空気が肌に痛いほどだった。
「……そろそろ口を開いてもいいだろうか」
 並んで御者台に腰かけたルカは、恐る恐る横に座る侍従騎士に許可を願う。
「もう少し、完全に街を抜けるまでお待ちください」
 すっかり元の寡黙さを取り戻したのか、浅黒い肌に黒の巻き毛の侍従騎士は器用に手綱を操っていまだ人通りの少ない道を郊外へ向けて走る。
 石を積んだ街の外壁は低く、凍った雪が積もって嵩を増している。もともと領主の館の置かれていない小さな街だからか、外敵への備えはなおざりで、街と郊外とを隔てる道にも衛兵などは配置されていない。
「街を出ました。……もうベールを上げてもいいですよ」
「……寒いからやめておく」
 凍った道を進む車輪は硬い雪を噛んで軋む。旅に新しく加わった毛長コルフォは、背後の二人の小声のやりとりなど全く気にせずに、一定の足取りで歩を進める。ユディは毛皮が内張された外套の襟を掻き合わせて、荷車を引くコルフォに街道を逸れないよう方向を知らせてやる。
「……ずいぶんと雪が積もっている。街道を見失いそうだな」
「道の際に低木が植えられているので、なんどか見分けはつきそうです。とはいえ、ぼんやりしていたら本当に逸れそうだ」
 二人とも毛皮の帽子を目深に被り、口元までを襟巻で覆ってはいるものの晴れて冷えた空気はわずかに露出した肌を刺して、手袋の縁から袖口へ時折冷たい風が吹き込む。
「春分が来たとしても、いきなり春にはならなさそうですね」
「……これから北上するのだから、きっと王都の方が寒いのだろう」
 二人ともに温暖なアスカンタの出身、殊にユディはオリハン領の南端に位置する土地の出身だから、寒さはことさらに堪える。どれほど重ね着して、温石を懐に抱えても手足の先からじわじわとしびれるように冷えてくるのがつらいのだ。
「……お風呂に入りたい」
「本当に」
 思えば、湯本からの温泉で暖められ豊富な湯を使えた山荘の暮らしは、いわゆる極楽だったのではないか。名残惜しく出発前に湯を使って来たというのに、すっかり冷えてしまった手足をルカはぎこちなく動かした。
 山荘に着いたばかりのころは物珍しく美しく感じた雪景色も、二か月近くも眺めていれば単調で変化がなく、そろそろ色の着いた景色を眺めたい、とすら思ってしまう。
 斎王院で暮らしていた時には、いっそどこかへ逃げる事になって神殿を出奔できるのならば、面白いだろうと思っていたものを、今となっては十余年を過ごした谷が恋しく思える。
「……春分までには着ける、のだろう?」
「その予定ですが」
 今のところ至って順調な旅の滑りだしではある。行商の若夫婦を装って毛長コルフォを手に入れ、目的地へ粛々と進んでいるのだ。
 はあ、と二人ともに重たい溜息を零して、寒さに弱い豹人と竜人の主従は、眼前に広がる雪原と針葉樹の林とを茫然と眺めていた。



 昼食のために荷車を道の端へ停めて、コルフォに飼料と水を与える。ガフガフと音を立てて水を飲むコルフォの首を掻いてから、ユディは雪上に火を熾す道具を設置する主人を見ていた。
「……相変わらず手際のよい」
 何度か山荘の庭で練習したとはいえ、針葉樹の枯葉を着火剤にして薪を燃やす所作は手慣れて、遠目からも旅慣れたシレギアの婦人が炊事を行っているようにしか見えなかった。
「……薄焼きパンを炙ります」
「うん、よろしく」
 金属製の焚火台の上の薪が赤く燃え、吊るした鍋の中でくつくつと具材とスープが煮える。薄く雲のかかった空には午の太陽がやや頼りない光を投げて、針葉樹の林が風を避けてくれるからか、辺りは静かに穏やかで、鳥の囀りすら聞こえてこない。
「鳥はいないが、長耳ねずみはいるようです」
 ぼんやりと鍋を見ていたルカは、ユディの少し弾んだ声音に顔を上げる。薪で差し示したのは林の中、頭上を突くように立つ木の根元に小さな足跡が雪を窪ませている。
「あの足跡の大きさでは、腹の足しにはならないだろう」
「そうですね、せめてあの倍はほしい」
 狩りを得意とする侍従騎士が、名残惜しげな声を出した。斎王の侍従騎士として仕えてすでに八年、狩りなど故郷にいた頃までしかやっていなかったけれども、獲物をしとめる自信があるのは頼もしい。ルカなど、一度だけユディの狩猟に付いて行きたいと申し出て、乳母のノルチアにユディともどもこってりとしかられた思い出しかない。
「……耳長ねずみ、北の方が大きい種類が多いのではなかったろうか」
「その筈ですが。どうもここら辺りの林には小さい種類しかいないようですね。……とはいえ、村の近くの林では、旅人が狩りをするのは難しいでしょうけれども」
「煮えたようだ。……王都までの道すがら、人の手の入っていない原生林などあるのだろうか」
「道によっては。街道を外れて山沿いを行く頃には、おそらく」
 木椀によそったスープはもうもうと湯気を立てて、だが早めに口を付けなければ、すぐにも冷めてしまうだろう。
「……寒いな」
「ええ、本当に」
 この日何度目かも分からないやり取りにうんざりして、スープを吸ってふっくらと緩んだ薄焼きパンの、香ばしい焼きめだけがほんの少しだけ心を慰めた。
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