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柏木の家は、十年ほど前まで住人は一人ではなかった。
あの頃は結婚して妻がいた。
柏木は高校を卒業してすぐに今の会社に就き、同級生の中では早くに結婚した。妻が専業主婦になっても余裕がある給料がもらえるようになった頃に。実家からは結婚祝いだ、と言って一戸建てを建ててもらった。
誰から見ても順風満帆な結婚生活を送っていたと思う。
しかし、”子どももそろそろほしいね”と話し始めた頃に妻との別れを決意した。
きっかけは妻の”カンスケとの子どもじゃなくてもいいかな”という言葉からだった。
柏木は妻との間に子どもがほしかった。決して双方の親に急かされているからとか、遺伝子を残したいという本能からではなく。
もっと早くに出会って愛を深めたかった、と変な後悔をするくらい妻を愛していたからだ。彼女は高校の同級生で、柏木にとって最初で最後の女性だった。
『なんでそんなこと言うんだよ……』
浮気相手でもいるのかと疑いたくなる内容と、自分のことを拒絶したような発言にショックを受けた。妻に悪気がなさそうなことにも。頭に岩をぶつけられたような衝撃は何日も続いた。
『ん~……。直感? 浮気ではないわ。あなたのことは好きだもの』
今思えば、自分はお前との子どもがほしいと説得すればよかったのに、と思う。当時はそんな簡単なことすら思いつかないくらい頭の中が真っ白になった。
それから夜は別々で寝るようになり、日中に交わす言葉も減っていった。離婚届を無機質に記入するまで、さほど時間はかからなかった。
あれから元妻は別の男と結婚し、まもなく出産したと共通の友人から聞いた。彼女は他の男を知りたかったのかもしれない、と友人たちが噂していることも。
ユリの話を聞いてから、柏木は初めて気づかされた気がした。
自分が知らない間に妻に何かしら我慢を強いていたのだろうか、と。だからあんな斜めな理由で断られたのかもしれない。
柏木はリビングのソファで寝ているユリを思い、寝室のベッドで寝返りを打った。
「おはよーございます……。おはようございます!!」
なんだこの騒がしい声は。目覚ましの音と共に耳の中を突き刺す声に、柏木はしかめ面で布団をめくった。
「ンだよお嬢……。もっと優雅に起こせコラ」
「だって柏木さん、つついても起きないんだもん。目覚まし鳴ったの何回目だろ……。遅刻しちゃいますよ」
昨日の落ち込んだ様子とは打って変わって、ユリの声ははつらつとしていた。その様子にひっそりと胸をなでおろした。
柏木はベッドの上で身を起こすと、顔やら頭をかいた。かくだけかくと大あくび。
「そんなん余裕だし……。俺がサッと起きれないのを見越してセットしてあんだよ」
「これで余裕……? 私じゃ絶対間に合わないな……」
彼女はすでに寝間着から普段着に着替えていた。化粧まで施してある。
「お前は化粧するからだろ。男は髭を剃るだけで終わりだもん。ドヤ」
あごをながら得意げにすると肩をはたかれた。
「ドヤって口で言うな。ほら、早くご飯食べて下さい。冷めちゃう」
「ご飯……?」
「朝ごはん。男の一人暮らしって本当に冷蔵庫カラなんですね……。さっきコンビニでいろいろ買ってきましたよ。田舎だけどここはコンビニまで歩いて行ける距離でいいですね」
ユリの剛腕によってベッドからひきずり下ろされた。背中を押されながらリビングに入ると、二人分の朝食が用意されていた。
白米とみそ汁がよそってある椀からは湯気がおだやかにゆらめいている。
「あったかい朝ごはんとか久しぶりだな……」
感動混じりにつぶやくと、ユリが隣で”えっ”と口に手を当てた。
「いつも何食べてるんですか?」
「あればパン。なければ会社行く途中で缶コーヒー」
「それだけ!? ド不健康な食生活じゃないですか、ダメですよ。だから柏木さんはガリガリなんです」
「退職間近で幸せ太りしたヤツに食生活あーだこーだ言われる筋合いは無ぇ」
「幸せ太り……。ふ、ふん! 最近は食欲落ちて痩せてきてるからいいんです」
ユリは腕を組んで鼻を鳴らしたが、それは自慢することじゃないと冷静にツッコんだ。そんな彼女の前にあるご飯は、柏木の分より少なくよそってある。
随分久しぶりに拝むまともな朝食。柏木は手を合わせると、箸を持ってみそ汁のお椀を持ち上げた。
「あ、普通に美味いじゃん」
「仕事辞めて時間ができましたから。料理の練習してました」
「ふーん。大したモンだな」
買っただけで放置してあった炊飯器。使ったのはいつぶりだろう。いつからか米を炊くのも面倒になって、パックご飯に頼ることが多くなった。
「調理道具が謎にそろってますよね。助かりました」
「元妻が"これはいらん。買い直す"っていろいろ置いてったからな」
「お、おぉ……。それはなんかすみませんでした」
「気にすんな。俺がバツイチなんて皆知ってるし、俺もネタにするくらいだし」
「そうでしたね……」
会社だと周りと一緒に笑っていたユリが、苦笑いの苦い部分だけを残して乾いた声を上げた。さすがに一対一では気まずいらしい。
ユリはソファから立ち上がると、台所から新たな皿を持ってきた。卵焼きと漬物が並んでいる皿をそれぞれの前に置いた。
「忘れるところでした……。これも作ってたんです」
「朝からよくやるなー。これ甘い?」
「甘くないです。醤油しか入れてないです」
「ふーん。お前は甘い卵焼き作るイメージがあるわ」
卵焼きを箸でひょいと持ち上げ、口に放り込む。柔らかくてきれいな黄色で、確かに甘くない。
「甘い卵焼きは苦手なんです。昔、父が作ってくれたことがあるけど」
「お父さんが作ってくれるの? すごいな」
柏木は料理は元妻に任せっぱなしだった。台所に立っても、できるのは米を炊くことくらい。
横でユリは卵焼きを半分に切り、口に運んだ。
「たまに母の手伝いをしてますから。柏木さんにも自炊をオススメします。ちゃんと栄養取ってください」
「そうは言っても帰ってきてから飯の準備すんのめんどくさくない? 朝早く起きるのもめんどくさくない?」
「めんどくさいめんどくさいうるさい」
ユリが卵焼きの皿を自分の方に引こうとしたので、柏木は慌てて卵焼きを箸でつまみ上げた。
あの頃は結婚して妻がいた。
柏木は高校を卒業してすぐに今の会社に就き、同級生の中では早くに結婚した。妻が専業主婦になっても余裕がある給料がもらえるようになった頃に。実家からは結婚祝いだ、と言って一戸建てを建ててもらった。
誰から見ても順風満帆な結婚生活を送っていたと思う。
しかし、”子どももそろそろほしいね”と話し始めた頃に妻との別れを決意した。
きっかけは妻の”カンスケとの子どもじゃなくてもいいかな”という言葉からだった。
柏木は妻との間に子どもがほしかった。決して双方の親に急かされているからとか、遺伝子を残したいという本能からではなく。
もっと早くに出会って愛を深めたかった、と変な後悔をするくらい妻を愛していたからだ。彼女は高校の同級生で、柏木にとって最初で最後の女性だった。
『なんでそんなこと言うんだよ……』
浮気相手でもいるのかと疑いたくなる内容と、自分のことを拒絶したような発言にショックを受けた。妻に悪気がなさそうなことにも。頭に岩をぶつけられたような衝撃は何日も続いた。
『ん~……。直感? 浮気ではないわ。あなたのことは好きだもの』
今思えば、自分はお前との子どもがほしいと説得すればよかったのに、と思う。当時はそんな簡単なことすら思いつかないくらい頭の中が真っ白になった。
それから夜は別々で寝るようになり、日中に交わす言葉も減っていった。離婚届を無機質に記入するまで、さほど時間はかからなかった。
あれから元妻は別の男と結婚し、まもなく出産したと共通の友人から聞いた。彼女は他の男を知りたかったのかもしれない、と友人たちが噂していることも。
ユリの話を聞いてから、柏木は初めて気づかされた気がした。
自分が知らない間に妻に何かしら我慢を強いていたのだろうか、と。だからあんな斜めな理由で断られたのかもしれない。
柏木はリビングのソファで寝ているユリを思い、寝室のベッドで寝返りを打った。
「おはよーございます……。おはようございます!!」
なんだこの騒がしい声は。目覚ましの音と共に耳の中を突き刺す声に、柏木はしかめ面で布団をめくった。
「ンだよお嬢……。もっと優雅に起こせコラ」
「だって柏木さん、つついても起きないんだもん。目覚まし鳴ったの何回目だろ……。遅刻しちゃいますよ」
昨日の落ち込んだ様子とは打って変わって、ユリの声ははつらつとしていた。その様子にひっそりと胸をなでおろした。
柏木はベッドの上で身を起こすと、顔やら頭をかいた。かくだけかくと大あくび。
「そんなん余裕だし……。俺がサッと起きれないのを見越してセットしてあんだよ」
「これで余裕……? 私じゃ絶対間に合わないな……」
彼女はすでに寝間着から普段着に着替えていた。化粧まで施してある。
「お前は化粧するからだろ。男は髭を剃るだけで終わりだもん。ドヤ」
あごをながら得意げにすると肩をはたかれた。
「ドヤって口で言うな。ほら、早くご飯食べて下さい。冷めちゃう」
「ご飯……?」
「朝ごはん。男の一人暮らしって本当に冷蔵庫カラなんですね……。さっきコンビニでいろいろ買ってきましたよ。田舎だけどここはコンビニまで歩いて行ける距離でいいですね」
ユリの剛腕によってベッドからひきずり下ろされた。背中を押されながらリビングに入ると、二人分の朝食が用意されていた。
白米とみそ汁がよそってある椀からは湯気がおだやかにゆらめいている。
「あったかい朝ごはんとか久しぶりだな……」
感動混じりにつぶやくと、ユリが隣で”えっ”と口に手を当てた。
「いつも何食べてるんですか?」
「あればパン。なければ会社行く途中で缶コーヒー」
「それだけ!? ド不健康な食生活じゃないですか、ダメですよ。だから柏木さんはガリガリなんです」
「退職間近で幸せ太りしたヤツに食生活あーだこーだ言われる筋合いは無ぇ」
「幸せ太り……。ふ、ふん! 最近は食欲落ちて痩せてきてるからいいんです」
ユリは腕を組んで鼻を鳴らしたが、それは自慢することじゃないと冷静にツッコんだ。そんな彼女の前にあるご飯は、柏木の分より少なくよそってある。
随分久しぶりに拝むまともな朝食。柏木は手を合わせると、箸を持ってみそ汁のお椀を持ち上げた。
「あ、普通に美味いじゃん」
「仕事辞めて時間ができましたから。料理の練習してました」
「ふーん。大したモンだな」
買っただけで放置してあった炊飯器。使ったのはいつぶりだろう。いつからか米を炊くのも面倒になって、パックご飯に頼ることが多くなった。
「調理道具が謎にそろってますよね。助かりました」
「元妻が"これはいらん。買い直す"っていろいろ置いてったからな」
「お、おぉ……。それはなんかすみませんでした」
「気にすんな。俺がバツイチなんて皆知ってるし、俺もネタにするくらいだし」
「そうでしたね……」
会社だと周りと一緒に笑っていたユリが、苦笑いの苦い部分だけを残して乾いた声を上げた。さすがに一対一では気まずいらしい。
ユリはソファから立ち上がると、台所から新たな皿を持ってきた。卵焼きと漬物が並んでいる皿をそれぞれの前に置いた。
「忘れるところでした……。これも作ってたんです」
「朝からよくやるなー。これ甘い?」
「甘くないです。醤油しか入れてないです」
「ふーん。お前は甘い卵焼き作るイメージがあるわ」
卵焼きを箸でひょいと持ち上げ、口に放り込む。柔らかくてきれいな黄色で、確かに甘くない。
「甘い卵焼きは苦手なんです。昔、父が作ってくれたことがあるけど」
「お父さんが作ってくれるの? すごいな」
柏木は料理は元妻に任せっぱなしだった。台所に立っても、できるのは米を炊くことくらい。
横でユリは卵焼きを半分に切り、口に運んだ。
「たまに母の手伝いをしてますから。柏木さんにも自炊をオススメします。ちゃんと栄養取ってください」
「そうは言っても帰ってきてから飯の準備すんのめんどくさくない? 朝早く起きるのもめんどくさくない?」
「めんどくさいめんどくさいうるさい」
ユリが卵焼きの皿を自分の方に引こうとしたので、柏木は慌てて卵焼きを箸でつまみ上げた。
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