上 下
3 / 21

しおりを挟む
 柏木の家は、十年ほど前まで住人は一人ではなかった。

 あの頃は結婚して妻がいた。

 柏木は高校を卒業してすぐに今の会社に就き、同級生の中では早くに結婚した。妻が専業主婦になっても余裕がある給料がもらえるようになった頃に。実家からは結婚祝いだ、と言って一戸建てを建ててもらった。

 誰から見ても順風満帆な結婚生活を送っていたと思う。

 しかし、”子どももそろそろほしいね”と話し始めた頃に妻との別れを決意した。

 きっかけは妻の”カンスケとの子どもじゃなくてもいいかな”という言葉からだった。

 柏木は妻との間に子どもがほしかった。決して双方の親に急かされているからとか、遺伝子を残したいという本能からではなく。

 もっと早くに出会って愛を深めたかった、と変な後悔をするくらい妻を愛していたからだ。彼女は高校の同級生で、柏木にとって最初で最後の女性だった。

『なんでそんなこと言うんだよ……』

 浮気相手でもいるのかと疑いたくなる内容と、自分のことを拒絶したような発言にショックを受けた。妻に悪気がなさそうなことにも。頭に岩をぶつけられたような衝撃は何日も続いた。

『ん~……。直感? 浮気ではないわ。あなたのことは好きだもの』

 今思えば、自分はお前との子どもがほしいと説得すればよかったのに、と思う。当時はそんな簡単なことすら思いつかないくらい頭の中が真っ白になった。

 それから夜は別々で寝るようになり、日中に交わす言葉も減っていった。離婚届を無機質に記入するまで、さほど時間はかからなかった。

 あれから元妻は別の男と結婚し、まもなく出産したと共通の友人から聞いた。彼女は他の男を知りたかったのかもしれない、と友人たちが噂していることも。

 ユリの話を聞いてから、柏木は初めて気づかされた気がした。

 自分が知らない間に妻に何かしら我慢を強いていたのだろうか、と。だからあんな斜めな理由で断られたのかもしれない。

 柏木はリビングのソファで寝ているユリを思い、寝室のベッドで寝返りを打った。










「おはよーございます……。おはようございます!!」

 なんだこの騒がしい声は。目覚ましの音と共に耳の中を突き刺す声に、柏木はしかめ面で布団をめくった。

「ンだよお嬢……。もっと優雅に起こせコラ」

「だって柏木さん、つついても起きないんだもん。目覚まし鳴ったの何回目だろ……。遅刻しちゃいますよ」

 昨日の落ち込んだ様子とは打って変わって、ユリの声ははつらつとしていた。その様子にひっそりと胸をなでおろした。

 柏木はベッドの上で身を起こすと、顔やら頭をかいた。かくだけかくと大あくび。

「そんなん余裕だし……。俺がサッと起きれないのを見越してセットしてあんだよ」

「これで余裕……? 私じゃ絶対間に合わないな……」

 彼女はすでに寝間着から普段着に着替えていた。化粧まで施してある。

「お前は化粧するからだろ。男は髭を剃るだけで終わりだもん。ドヤ」

 あごをながら得意げにすると肩をはたかれた。

「ドヤって口で言うな。ほら、早くご飯食べて下さい。冷めちゃう」

「ご飯……?」

「朝ごはん。男の一人暮らしって本当に冷蔵庫カラなんですね……。さっきコンビニでいろいろ買ってきましたよ。田舎だけどここはコンビニまで歩いて行ける距離でいいですね」

 ユリの剛腕によってベッドからひきずり下ろされた。背中を押されながらリビングに入ると、二人分の朝食が用意されていた。

 白米とみそ汁がよそってある椀からは湯気がおだやかにゆらめいている。

「あったかい朝ごはんとか久しぶりだな……」

 感動混じりにつぶやくと、ユリが隣で”えっ”と口に手を当てた。

「いつも何食べてるんですか?」

「あればパン。なければ会社行く途中で缶コーヒー」

「それだけ!? ド不健康な食生活じゃないですか、ダメですよ。だから柏木さんはガリガリなんです」

「退職間近で幸せ太りしたヤツに食生活あーだこーだ言われる筋合いは無ぇ」

「幸せ太り……。ふ、ふん! 最近は食欲落ちて痩せてきてるからいいんです」

 ユリは腕を組んで鼻を鳴らしたが、それは自慢することじゃないと冷静にツッコんだ。そんな彼女の前にあるご飯は、柏木の分より少なくよそってある。

 随分久しぶりに拝むまともな朝食。柏木は手を合わせると、箸を持ってみそ汁のお椀を持ち上げた。

「あ、普通に美味いじゃん」

「仕事辞めて時間ができましたから。料理の練習してました」

「ふーん。大したモンだな」

 買っただけで放置してあった炊飯器。使ったのはいつぶりだろう。いつからか米を炊くのも面倒になって、パックご飯に頼ることが多くなった。

「調理道具が謎にそろってますよね。助かりました」

「元妻が"これはいらん。買い直す"っていろいろ置いてったからな」

「お、おぉ……。それはなんかすみませんでした」

「気にすんな。俺がバツイチなんて皆知ってるし、俺もネタにするくらいだし」

「そうでしたね……」

 会社だと周りと一緒に笑っていたユリが、苦笑いの苦い部分だけを残して乾いた声を上げた。さすがに一対一では気まずいらしい。

 ユリはソファから立ち上がると、台所から新たな皿を持ってきた。卵焼きと漬物が並んでいる皿をそれぞれの前に置いた。

「忘れるところでした……。これも作ってたんです」

「朝からよくやるなー。これ甘い?」

「甘くないです。醤油しか入れてないです」

「ふーん。お前は甘い卵焼き作るイメージがあるわ」

 卵焼きを箸でひょいと持ち上げ、口に放り込む。柔らかくてきれいな黄色で、確かに甘くない。

「甘い卵焼きは苦手なんです。昔、父が作ってくれたことがあるけど」

「お父さんが作ってくれるの? すごいな」

 柏木は料理は元妻に任せっぱなしだった。台所に立っても、できるのは米を炊くことくらい。

 横でユリは卵焼きを半分に切り、口に運んだ。

「たまに母の手伝いをしてますから。柏木さんにも自炊をオススメします。ちゃんと栄養取ってください」

「そうは言っても帰ってきてから飯の準備すんのめんどくさくない? 朝早く起きるのもめんどくさくない?」

「めんどくさいめんどくさいうるさい」

 ユリが卵焼きの皿を自分の方に引こうとしたので、柏木は慌てて卵焼きを箸でつまみ上げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる

春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。 幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……? 幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。 2024.03.06 イラスト:雪緒さま

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

お飾り公爵夫人の憂鬱

初瀬 叶
恋愛
空は澄み渡った雲1つない快晴。まるで今の私の心のようだわ。空を見上げた私はそう思った。 私の名前はステラ。ステラ・オーネット。夫の名前はディーン・オーネット……いえ、夫だった?と言った方が良いのかしら?だって、その夫だった人はたった今、私の足元に埋葬されようとしているのだから。 やっと!やっと私は自由よ!叫び出したい気分をグッと堪え、私は沈痛な面持ちで、黒い棺を見つめた。 そう自由……自由になるはずだったのに…… ※ 中世ヨーロッパ風ですが、私の頭の中の架空の異世界のお話です ※相変わらずのゆるふわ設定です。細かい事は気にしないよ!という読者の方向けかもしれません ※直接的な描写はありませんが、性的な表現が出てくる可能性があります

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

処理中です...