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1章

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 雲一つない月だけが美しく輝く、夏も本番に近づいた夜。

 夜になり日中の暑さはやわらいだ。今日は熱帯夜になることはなさそうだ。風を切る感触が気持ちいい。

 この日も夜叉やしゃ阿修羅あしゅらと共にいつものように飛行訓練を行っていた。

 この夜間飛行も始めてから3ヶ月近く経ち、今では阿修羅のあとをついて跳んでいくのではなく自分で着地点の目星をつけて跳ぶことができるようになった。

 屋根、電柱、家の塀、はたまたフェンスのへりなど。跳んでいる間はまるで体重が無いかのように、足をつけた場所に音が立ったり軋むことは無い。本当に鳥になったのではないかと錯覚しそうな時がある。

 夜叉は屋根から一際跳びあがって空中で一回転し、地上に向かって急降下。危なげなく着地すると、追うように阿修羅が横に降り立った。

「やー様…。さすがは朱雀すざく様のご息女。成長するのがお早いですね。もしかしたらあなたも炎翼えんよくの持ち主なのかもしれませんね」

「炎翼って?」

「背中から炎の翼が生えて鳥のように飛べるのですよ。朱雀族の中でごく稀にそれを覚醒させる者がいるんです」

「ほぉ~…」

 鳥のように飛べたら登校するのが楽になりそうだ…と考えて顔がゆるみそうになったが慌てて引き締めた。またおバカなことを考えて、と母親である霊体の舞花まいかに目を細められる…と思ったが、彼女は今はいない。

 舞花は今までは夜叉の周りを浮遊していたがこの度青龍せいりゅうのオファーを受け、彼ら戯人族ぎじんそくの本拠地で彼の仕事の手伝いをしている。

 花の香りと共に姿を見せて静かにほほえんだり、夜叉を煙管で小突いたり助言する彼女がそばにいないというのは初めてではないがこれほど長期間に渡って離れているのは、夜叉が成長して舞花に再会する幼少期ぶりだった。

 表向きの両親とは高校入学から離れてくらしているのだからそれと同じ。あまり寂しがることではないと、夜叉は気持ちをごまかすようにまた跳び立つ。慌てて阿修羅が追いかける気配を後ろに感じた。

「今宵は長く跳ぶのですね!」

 スピードを出しているせいか、阿修羅がいつもより一際大きい声になった。

「まぁね!」

 彼に届かないかもしれないと思い、夜叉も同じくらいの声量で答えた。

 電柱の先につま先を乗せて跳び、家の塀に着地して電線に引っかからないように斜め上を目がけて跳ねあがる。気づくと夜叉たちが通っている藍栄らんえい高校の門が見えてきた。

 夜中なので当然校舎には誰もおらず、月の光を浴びているが薄暗く不気味さを醸し出している。

「もうすぐ期末テストで勉強ばっかしてるけど体がなまるから。こうして体動かさなきゃ太りそう」

「やー様はまだ体の成長が続いているのですね」

「…あ、そうみたい」

 夜叉は小さな声でつぶやくように答え、門を飛び越えて校庭に入った。

 太るなんて嘘だ。身長だってもう伸びない。今年受診した身体測定は、1年生に受けた時のものと全く同じで自分には戯人族の血が流れているのだと恐怖にも似た感情を抱いた。

「阿修羅はテスト勉強はどう?」

「正直するまでもありません。なんせ一族の能力で、授業内容は全て脳内に入っておりますから」

 他の人間が聞いたら嫌みにも受け取れるかもしれないな…と思ったが、阿修羅のそういう包み隠さずに本音を言えることは嫌いではなかった。

 それに彼が話すことも分かる。夜叉も弟の和馬かずまほど熱心に机に向かうことはなく、テスト直前に教科書を読むだけだ。それは高校に入る前でも同じ。

 今夜も和馬が寝静まった頃に家を抜け出したが、彼はテスト勉強のためにいつもより遅く起きていた。夜叉の部屋に”おやすみ”とだけ伝えに来た時も随分眠そうに目が今にも閉じそうに遅い瞬きを繰り返していた。

「これが終われば夏休みだし楽しみだなー。ウチの高校って他に比べたら宿題が少ないんだって。それでも提出物が終わらない人はいるけど…」

彦瀬ひこせさんですか」

「うん。もうお察しの通り。去年もみーちゃんと一緒に出校日とか夏休みが終わった日に手伝ったもん。そもそも普段からそうだしね…」

 彦瀬とみーちゃんこと瑞恵みずえは夜叉が学校でよく一緒に過ごすクラスメイト。高校生にしてバイト先ですでに社畜と化している彦瀬はバイトのシフトを入れ過ぎて(店長に懇願されたというのもある)学生としての本分が果たせていないところがある。

 夜叉は腕を振り回しながら校舎に背を向けた。

「さーてさすがにそろそろ帰るかね。夜の学校って怖いね。なんか出そう」

「事実ここには出るみたいですよ」

「ひィッ!?」

 首を横に揺らしたり手首を回している彼女に、阿修羅はあっさりとした表情で答えた。

 背筋が一瞬にして凍った夜叉はとびあがり、その勢いで慌てて校庭から跳びたって帰路についた。阿修羅はあっさりと置いていかれ、余計なことを話してしまったかと少しだけ後悔した。



 同じ時間、校舎から2人のことを見つめる影があった。

 男の体は月の光を浴びてぼんやりとゆらめいている。彼はボロボロの甲冑を身に着けており、血とほこりにまみれた震える手で窓ガラスにふれようとしたがすり抜けた。やるせない怒りをこめた拳で叩き割ろうともしたが結果は同じ。

「か…して…」

 声にならない叫びをあげても彼らに聞こえるはずもなく。彼らが突然跳びはねてどこかへ行ってしまった。

 時々夜にあそこへやってくる2人は何者なのだろう。突然跳んでくるあたり人間ではないのだろうが見当がつかない。

 いつか彼らと声を交わせる日がくるだろうか。ただものではない彼らであれば自分の願いを叶えられるかもしれない。

 男は2人が去っていった方向をうつろな目でいつまでも見つめていた。
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