上 下
5 / 37
1章

しおりを挟む
 ある日の授業後、夜叉は鬼子母神きしぼじん毘沙門天びしゃもんてんの住むマンションに訪れた。

 阿修羅がおらずとも気軽に遊びに来てほしいと誘われたのもあるし、夜叉の特訓に付き合ってもらったり近況を報告するためでもある。

 そして毘沙門天の愛犬であるハニーに会うため。夜叉がリビングに姿を現すと勢いよく跳びはね、小さくてふわふわとした尻尾を全力で振って出迎えた。心なしか表情も喜んでいるように見える。カーペットの上をぐるぐると周り、夜叉が近づいてくると彼女にとびついた。

「おわっふ! ハニーは今日も元気だね…また後でお散歩に行こうね」

 夜叉の言葉を理解したのかどうなのかは分からないが、彼女に頭を撫でられるとハニーは元気に一声鳴いた。

 授業後はここへ来て着替えた後、阿修羅とランニングをするのが習慣だったが最近は毘沙門天とハニーと散歩をするようになった。

 それでも時々1人でランニングをしている。たまに和馬も付き合ってくれる。さすがに跳躍訓練は行えないが、絡新婦じょろうぐもと一戦交えた時に自信がついた。

 今までは狭く障害物が多くある街で跳んでいたが、あの日は海に放たれた水槽の魚のような気分だった。どこまでもどんなようにも跳べる。夜の跳躍訓練で確実に力がついているのだ。

「おかえりなさい。今日も暑いわね」

 キッチンからトレーを持った鬼子母神が現れた。トレーの上にはアイスティーが入ったグラスが3つ並んでいる。

「遊んでくれる相手が1人減ったけど夜叉ちゃんがいれば寂しくないな。な、ハニー」

 リビングのテーブルの横に座る毘沙門天は、戻ってきて隣に伏せたハニーの背中を”よしよし”とさすった。

 同じようにテーブルの前に座ってバッグを下ろし、夜叉は自分の前に置かれたアイスティーを見て礼を言った。グラスの中の氷がカラン、と音を立てた。

「学校始まってどう?」

「まだ暑いのが嫌ですね…」

「季節に文句を言っても仕方ないわよ」

 鬼子母神は夜叉の前に座り、グラスを傾けた。短い水色の髪が涼しげだ。横の髪をかきあげると閉ざされた右目がのぞく。

 夜叉はアイパッチで覆った右目にふれ、左目を斜め下へ向けた。

「あの…ずっと思っていたんですけど。力を開放している時・・・・・・・・・って性格が変わるんですか?」

「性格?」

「はい。ずっと聞くに聞けなかったんですけど。今まで阿修羅に手を上げられたことなかったのにあの日初めて傷つけられました…。なんでだろってしばらく考えてみたら、そういえばあの時はいつもの阿修羅じゃなくなっていたな、って思って」

「夜叉ちゃんは時々鋭いな…」

 ハニーを撫でながら毘沙門天は感心したように息を吐いた。夜叉は左目をわずかに見開いて表情を強張らせた。

「じゃあやっぱり…」

「あぁ。だが性格が、と言うよりは人格が変わる。単に力が開放されているからというわけでもない。何かのきっかけで豹変してしまう」

「私が阿修羅と同じようにならなかったのはそういうことですかね…」

「おそらくは。暴走するきっかけは人によって違う。俺も鬼子母神も何度か力を開放したことがあるが自我を失ったことはない」

 暴走するきっかけ。確かに日奈子の夢に入って絡新婦と対峙した時、既に2人とも右目を開いていた。彼はいつものように冷静さを保っていたし夜叉を鼓舞していた。

「阿修羅は血に酔ったのだろう。あれだけ血を浴びていたし、いつもだったらどんな相手でもあんなむごい仕打ちを受けさせない   し、何より君の声が耳に入らないわけがない。まして傷つけることもね」

 毘沙門天に見つめられ自分の頬を手でそっとふれた。阿修羅に爪で引っかかれた直後、流れ落ちるほど出血していたが今では傷跡が残ることなく綺麗に癒えた。

「だから力を開放することを嫌う者は多い。頭領たちもはっきりと止めはしないが推奨はしていない」

「あなたたちがあの時力を開放するのを私たちが止めなかったのは、夢の中に入るには力が必要だったから。きっと大丈夫だと高を括っていたせいだわ…」

 鬼子母神は額を押さえて首を振った。阿修羅が夜叉を傷つけたと知った時、彼女は誰よりも怒って殴りつけた。近くで見ていた夜叉がドン引くほど。

 あの時は怒りに任せて阿修羅を怒鳴りつけていた鬼子母神だが、あの日の真実が判明してからは思い出しては悔やんでいる。そんな彼女にかける言葉が見つからず、鼻を鳴らして身を寄せてきたハニーをそっと撫でた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

伝える前に振られてしまった私の恋

メカ喜楽直人
恋愛
母に連れられて行った王妃様とのお茶会の席を、ひとり抜け出したアーリーンは、幼馴染みと友人たちが歓談する場に出くわす。 そこで、ひとりの令息が婚約をしたのだと話し出した。

婚約破棄されなかった者たち

ましゅぺちーの
恋愛
とある学園にて、高位貴族の令息五人を虜にした一人の男爵令嬢がいた。 令息たちは全員が男爵令嬢に本気だったが、結局彼女が選んだのはその中で最も地位の高い第一王子だった。 第一王子は許嫁であった公爵令嬢との婚約を破棄し、男爵令嬢と結婚。 公爵令嬢は嫌がらせの罪を追及され修道院送りとなった。 一方、選ばれなかった四人は当然それぞれの婚約者と結婚することとなった。 その中の一人、侯爵令嬢のシェリルは早々に夫であるアーノルドから「愛することは無い」と宣言されてしまい……。 ヒロインがハッピーエンドを迎えたその後の話。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】【35万pt感謝】転生したらお飾りにもならない王妃のようなので自由にやらせていただきます

宇水涼麻
恋愛
王妃レイジーナは出産を期に入れ替わった。現世の知識と前世の記憶を持ったレイジーナは王子を産む道具である現状の脱却に奮闘する。 さらには息子に殺される運命から逃れられるのか。 中世ヨーロッパ風異世界転生。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

幼馴染が好きなら幼馴染だけ愛せば?

新野乃花(大舟)
恋愛
フーレン伯爵はエレナとの婚約関係を結んでいながら、仕事だと言って屋敷をあけ、その度に自身の幼馴染であるレベッカとの関係を深めていた。その関係は次第に熱いものとなっていき、ついにフーレン伯爵はエレナに婚約破棄を告げてしまう。しかしその言葉こそ、伯爵が奈落の底に転落していく最初の第一歩となるのであった。

五歳の時から、側にいた

田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。 それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。 グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。 前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

処理中です...