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第七章 働く上での「幸せ」
暗転
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「はあー、今日もいい香りがしてきたわね。焼き鮭と、この香りは肉じゃがもあるかしら。あぁ、お腹すいた」
編集室の自席でグッと伸びをし、刹那は食欲をそそる香りにうっとりと目を閉じている。
「私、米村さんを手伝ってくる」
「佐和子は律儀ねえ。席で待ってればいいのに」
刹那の言葉を背中に受けながら、佐和子は編集室の襖をあけて台所へ向かう。
正直を言えば、落ち着かなかったのだ。
これまで仕事を覚えるのに必死で、「嫁候補」という肩書きについてろくに考えもしてこなかった。永徳が冗談めかして言っているのもあって、真面目に受け取っていなかったというのもある。
昨日のことがあって、変な方向へ意識が働いてしまった。
鬼灯堂への提案が終わったので、もう永徳と取り組んでいる仕事はない。おかげで今日は打ち合わせの予定もなく、午前中は彼が外出なので、関わる機会はなかった。
だが、永徳は昼には編集室へやってくる。
––––どんな顔をして会ったらいいのか、全然わからなくなっちゃった。
一人で百面相をしているうち、台所の前についた。
手際よく配膳の準備を進めている米村の背中に、佐和子は声をかける。
「米村さん、配膳お手伝いします」
「毎度お気遣いいただきありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「いえいえ、二人でやった方が早いですから」
米村はおかずのたっぷり入った大ぶりの保存容器を乗せた木製の配膳車を、あやかしたちの待つ編集室へと押していく。佐和子は漆の大きなお盆を棚から取り出し、その上に載せられるだけの食器を置き、米村のうしろへと続いた。
あやかし瓦版では福利厚生の一環として昼食が提供されている。昼十二時には編集室の壁際に食事が並べられるので、あやかしたちは自分でそこから食事をよそい、自席や編集室内に設置されたテーブルセット、または縁側などで食事をしているのだ。
襖の前に到着し、先に米村が中へと入っていく。佐和子も続いて中に入ろうとしたが、黒いリボンがかけられた大きな赤い箱を抱えたマイケルが、玄関の方からやってくるのを見て、足を止めた。
「あ、葵さん、鬼灯堂から葵さん宛にお荷物です」
「荷物? 鬼灯堂さんから?」
「はい、椿さんからですね。品目は……ギフト、としか書いていませんねえ。なんでしょう? あれっ」
黒いリボンが、ひとりでに解け出す。
スルスルと勢いよく解けていくリボンは、床に落ち、赤い蓋が開かれる。
箱に入っていたのは、蝶を模ったガラス製の香水瓶だった。
中には赤黒い液体が入っている。
「サンプルでも……くれたのかな……?」
おそるおそる箱の中を覗き込むと、まるで生きているかのようにガラスの蝶がはためく。その瞬間、慌てて玄関の方の廊下から飛び出してきた永徳の姿が視界に入った。
「葵さん、その瓶から離れて!」
「え」
永徳の指先が触れる間際、ガラスの瓶が勢いよく割れ、中身が佐和子に向かって降りかかった。
食器をのせた漆の盆が佐和子の手を離れ、お椀や箸などが周囲に勢いよく転がる。咄嗟に顔を覆った佐和子の腕には、赤い液体が染み込み、袖に濡れた感触が広がった。
鉄臭い匂いに顔を顰め、まじまじと自分の袖を見て佐和子は唖然とした––––これは、血液だ。
瞬間、勢いよく床に叩きつけられ、背中に鋭い痛みが走る。
––––なに……? なにが起きたの?
目の前には額に血管を浮き立たせ、血走った目を大きく見開き、永徳の腕に牙を立てるマイケルの姿があった。
肩を上下させるような荒い息遣いで、完全に正気を失い、獣のような唸り声をあげている。
「ひ……うわ……さ、笹野屋さん……」
佐和子に向かってマイケルが飛びかかってきた瞬間、永徳が佐和子との間に割って入ったのだ。おかげで、噛みつかれずに済んだようだ。
ギリギリと腕にねじ込まれる牙の痛みに、永徳は額を歪ませる。
吸血されているためか、血液は漏れ出てこない。
「さすが若いだけあって、なかなか力が強いね」
噛みつかれた状態のまま、もう一方の手で永徳はマイケルの顔面を掴んだ。すると気を失ったのか、マイケルの体からは力がぬけ、ずるずると床に倒れ込む。
「葵さん、大丈夫かい? ごめんね。不穏な気配を感じたからとんできたんだけど、少々遅かったようだ」
「いえ、私は……」
大丈夫です、そう言おうとしたのに、言葉が出なかった。
これまであやかしと働いてきて、驚くことは多かったが。佐和子を狙って真正面から襲ってくるマイケルの姿を見て初めて、人外の生き物たちと仕事をしているのだと、ようやく認識できた気がする。
「怖かっただろう」
頭に優しくのせられた永徳の手に、気が緩んだのか涙が溢れた。
「あ……」
カクカクと震え始めた佐和子の唇に、涙の雫が落ちる。
怖かった。
どんなに打ち解けていても。仲間だとわかっていても。
たった今感じた「怖い」という感情を、拭うことはできなかった。
「あら残念。不発だったみたいねえ」
悪意に満ちた笑い声に、その場にいた全員が声の方を振り返る。楽しそうに惨状を眺めながら、優雅な笑顔を浮かべてその場に立っていたのは、「ギフト」の贈り主––––椿だった。
「椿、ずいぶんとたちの悪い悪戯をしてくれたね」
言葉は丁寧だったが、永徳の表情は怒りに満ちていた。佐和子を背に庇い、鋭い視線を鬼女へと向ける。
「ああ、その表情、とってもゾクゾクする。永徳さん、どんなに話しかけても、私に感情を向けてくださらないんだもの。ようやく私に感情を向けてくださって、とっても嬉しい」
恍惚とした椿の表情は狂気をはらんでいる。好きな人から向けられる感情なら、それがたとえ怒りでさえも嬉しいという彼女の感覚は、佐和子には理解できなかった。
「ちょっと、なんかすごい音がしたけど、どうしたのよ? って、椿じゃない! このストーカー女、いったい何してくれちゃってんのよ……」
異変に気がつき編集室から飛び出てきたらしい刹那は、惨状を目の当たりにし唖然としている。
「永徳さんと話しているときに、首を突っ込んでこないでくれる? 首長女」
こぼれ落ちそうなほどに目を見開き、虫ケラでも見るような視線を刹那に向ける恐ろしげな椿の顔は、佐和子の中で忘れることにしていた、雨の日に見た女の顔に重なった。
「もしかして……椿さん……。あなたって以前、東池公園の前で……」
佐和子がそう口にすれば、椿は視線を佐和子に向け、三日月型に赤い唇を歪ませる。
「あら、ようやく思い出してくれたの。あの時は酷い目にあったわ」
「葵さん、どういうこと?」
永徳は険しい顔で佐和子に向き直る。彼の心配の種になるようなことをうっかり口にしてしまい、佐和子はしまったと思った。
「ええと……。一度、東池公園の前で、椿さんによく似たあやかしに襲われそうになったことがあって。でも、根付に守ってもらって」
「どうして言わなかったんだ!」
凄まじい剣幕でそう言う永徳に、佐和子は慄く。
「心配を……かけたくなかったんです。ご迷惑を、かけてばかりだったので」
佐和子と永徳のやり取りを憎らしげに見ていた椿は、雨の中での出来事を語り始める。
「永徳さんとの接点が途切れた後も。私ずっと笹野屋の屋敷の周りで永徳さんの姿を追っていたの。そしたら人間の若い女が出入りしているのを見かけて……あんたが持っているお守り、あれさえなければ、人間なんて一捻りで殺して頭から食べてやったのに」
話しながら鬼女の表情は、憎悪に歪んでいた。
「返り討ちにあってからすぐ、『笹野屋永徳が人間の嫁候補を連れて歩いてる』って噂を聞いたの。これまでそんな人いたことなかったのに」
美しい彼女の姿は、もはやかけらも無く、禍々しい憎しみの権化となりつつあった。
「遠くから観察して、自分の会社でのポジションも利用して探りを入れて。あなたに危害を加える別の方法を探ったわ。いろいろ試してみて、明確な悪意を持ってその女に近づかなければ、お守りは反応しないということ、編集部員に対しては危害を加えられないってことがわかって。ヴァンパイアの彼はちょうどいい駒だったわ。失敗してしまって残念だけど」
椿の手には、先日手渡しした企画書が握られていた。
笹野屋の屋敷には、約束があるか、笹野屋家の人間から手渡された物品がなければ入ってこれない。
永徳から椿に手渡された佐和子の企画書が、彼女の侵入を許す鍵の働きをしてしまったのだ。
「さあ、血ならいっぱいあるわよ。もう一度目覚めなさい」
椿の鞄から取り出されたガラスの小瓶が宙を舞い、粉々に砕ける。霧のように散った血液が、雨のように廊下の上に降った。直後、マイケルが意識を取り戻し、再び獣のように唸り始める。
「ここを誰の屋敷と思っているんだい? みくびってもらっては困るねえ」
永徳が指笛を吹く。直後、廊下の突き当たりから手に宝玉を持った龍が飛び出してきた。金色の鱗を輝かせ、体をうねらせながら蛇のようにマイケルを取り囲み、彼の体を締め上げる。
よく見れば、それは玄関にかけられていた額縁に納められていた玉龍だった。
「笹野屋さん、この龍って…」
「俺の眷属だよ。刺繍絵の付喪神さ。普段は玄関で日向ぼっこしているんだけど」
「眷属? 編集部の皆さんとは違うんですか?」
「編集部員たちは雇用関係、眷属は主従関係があるって言ったらわかるかな」
佐和子の疑問に答えながら、永徳は椿に向かって鋭い視線を向ける。
「観念しなさい、椿」
「ちっ、分が悪いわね」
冷ややかな空気を纏う永徳に、にこりと笑いかける椿。追い詰められているにも関わらず、臆する様子は微塵もない。
「永徳さん、覚えておいて。私は何度でもこの女を襲う。守りの術なんてかけたって無駄よ。今回みたいに頭を使えば、いくらでも彼女に危害を加えられる。人間の女なんて脆いものより、鬼の私の方がよっぽど笹野屋家の嫁には相応しいわ。考え直さない?」
「俺にも好みってものがあるからねえ」
「まあ、酷い」
永徳の足元の影がみるみる膨らみ、天井まで伸びていく。音もなく影は椿に飛び掛かるが、その手は敵を捉えられずに空を掻いた。椿は薄笑いを浮かべたまま、そのまま霧のように消えていった。
編集室の自席でグッと伸びをし、刹那は食欲をそそる香りにうっとりと目を閉じている。
「私、米村さんを手伝ってくる」
「佐和子は律儀ねえ。席で待ってればいいのに」
刹那の言葉を背中に受けながら、佐和子は編集室の襖をあけて台所へ向かう。
正直を言えば、落ち着かなかったのだ。
これまで仕事を覚えるのに必死で、「嫁候補」という肩書きについてろくに考えもしてこなかった。永徳が冗談めかして言っているのもあって、真面目に受け取っていなかったというのもある。
昨日のことがあって、変な方向へ意識が働いてしまった。
鬼灯堂への提案が終わったので、もう永徳と取り組んでいる仕事はない。おかげで今日は打ち合わせの予定もなく、午前中は彼が外出なので、関わる機会はなかった。
だが、永徳は昼には編集室へやってくる。
––––どんな顔をして会ったらいいのか、全然わからなくなっちゃった。
一人で百面相をしているうち、台所の前についた。
手際よく配膳の準備を進めている米村の背中に、佐和子は声をかける。
「米村さん、配膳お手伝いします」
「毎度お気遣いいただきありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
「いえいえ、二人でやった方が早いですから」
米村はおかずのたっぷり入った大ぶりの保存容器を乗せた木製の配膳車を、あやかしたちの待つ編集室へと押していく。佐和子は漆の大きなお盆を棚から取り出し、その上に載せられるだけの食器を置き、米村のうしろへと続いた。
あやかし瓦版では福利厚生の一環として昼食が提供されている。昼十二時には編集室の壁際に食事が並べられるので、あやかしたちは自分でそこから食事をよそい、自席や編集室内に設置されたテーブルセット、または縁側などで食事をしているのだ。
襖の前に到着し、先に米村が中へと入っていく。佐和子も続いて中に入ろうとしたが、黒いリボンがかけられた大きな赤い箱を抱えたマイケルが、玄関の方からやってくるのを見て、足を止めた。
「あ、葵さん、鬼灯堂から葵さん宛にお荷物です」
「荷物? 鬼灯堂さんから?」
「はい、椿さんからですね。品目は……ギフト、としか書いていませんねえ。なんでしょう? あれっ」
黒いリボンが、ひとりでに解け出す。
スルスルと勢いよく解けていくリボンは、床に落ち、赤い蓋が開かれる。
箱に入っていたのは、蝶を模ったガラス製の香水瓶だった。
中には赤黒い液体が入っている。
「サンプルでも……くれたのかな……?」
おそるおそる箱の中を覗き込むと、まるで生きているかのようにガラスの蝶がはためく。その瞬間、慌てて玄関の方の廊下から飛び出してきた永徳の姿が視界に入った。
「葵さん、その瓶から離れて!」
「え」
永徳の指先が触れる間際、ガラスの瓶が勢いよく割れ、中身が佐和子に向かって降りかかった。
食器をのせた漆の盆が佐和子の手を離れ、お椀や箸などが周囲に勢いよく転がる。咄嗟に顔を覆った佐和子の腕には、赤い液体が染み込み、袖に濡れた感触が広がった。
鉄臭い匂いに顔を顰め、まじまじと自分の袖を見て佐和子は唖然とした––––これは、血液だ。
瞬間、勢いよく床に叩きつけられ、背中に鋭い痛みが走る。
––––なに……? なにが起きたの?
目の前には額に血管を浮き立たせ、血走った目を大きく見開き、永徳の腕に牙を立てるマイケルの姿があった。
肩を上下させるような荒い息遣いで、完全に正気を失い、獣のような唸り声をあげている。
「ひ……うわ……さ、笹野屋さん……」
佐和子に向かってマイケルが飛びかかってきた瞬間、永徳が佐和子との間に割って入ったのだ。おかげで、噛みつかれずに済んだようだ。
ギリギリと腕にねじ込まれる牙の痛みに、永徳は額を歪ませる。
吸血されているためか、血液は漏れ出てこない。
「さすが若いだけあって、なかなか力が強いね」
噛みつかれた状態のまま、もう一方の手で永徳はマイケルの顔面を掴んだ。すると気を失ったのか、マイケルの体からは力がぬけ、ずるずると床に倒れ込む。
「葵さん、大丈夫かい? ごめんね。不穏な気配を感じたからとんできたんだけど、少々遅かったようだ」
「いえ、私は……」
大丈夫です、そう言おうとしたのに、言葉が出なかった。
これまであやかしと働いてきて、驚くことは多かったが。佐和子を狙って真正面から襲ってくるマイケルの姿を見て初めて、人外の生き物たちと仕事をしているのだと、ようやく認識できた気がする。
「怖かっただろう」
頭に優しくのせられた永徳の手に、気が緩んだのか涙が溢れた。
「あ……」
カクカクと震え始めた佐和子の唇に、涙の雫が落ちる。
怖かった。
どんなに打ち解けていても。仲間だとわかっていても。
たった今感じた「怖い」という感情を、拭うことはできなかった。
「あら残念。不発だったみたいねえ」
悪意に満ちた笑い声に、その場にいた全員が声の方を振り返る。楽しそうに惨状を眺めながら、優雅な笑顔を浮かべてその場に立っていたのは、「ギフト」の贈り主––––椿だった。
「椿、ずいぶんとたちの悪い悪戯をしてくれたね」
言葉は丁寧だったが、永徳の表情は怒りに満ちていた。佐和子を背に庇い、鋭い視線を鬼女へと向ける。
「ああ、その表情、とってもゾクゾクする。永徳さん、どんなに話しかけても、私に感情を向けてくださらないんだもの。ようやく私に感情を向けてくださって、とっても嬉しい」
恍惚とした椿の表情は狂気をはらんでいる。好きな人から向けられる感情なら、それがたとえ怒りでさえも嬉しいという彼女の感覚は、佐和子には理解できなかった。
「ちょっと、なんかすごい音がしたけど、どうしたのよ? って、椿じゃない! このストーカー女、いったい何してくれちゃってんのよ……」
異変に気がつき編集室から飛び出てきたらしい刹那は、惨状を目の当たりにし唖然としている。
「永徳さんと話しているときに、首を突っ込んでこないでくれる? 首長女」
こぼれ落ちそうなほどに目を見開き、虫ケラでも見るような視線を刹那に向ける恐ろしげな椿の顔は、佐和子の中で忘れることにしていた、雨の日に見た女の顔に重なった。
「もしかして……椿さん……。あなたって以前、東池公園の前で……」
佐和子がそう口にすれば、椿は視線を佐和子に向け、三日月型に赤い唇を歪ませる。
「あら、ようやく思い出してくれたの。あの時は酷い目にあったわ」
「葵さん、どういうこと?」
永徳は険しい顔で佐和子に向き直る。彼の心配の種になるようなことをうっかり口にしてしまい、佐和子はしまったと思った。
「ええと……。一度、東池公園の前で、椿さんによく似たあやかしに襲われそうになったことがあって。でも、根付に守ってもらって」
「どうして言わなかったんだ!」
凄まじい剣幕でそう言う永徳に、佐和子は慄く。
「心配を……かけたくなかったんです。ご迷惑を、かけてばかりだったので」
佐和子と永徳のやり取りを憎らしげに見ていた椿は、雨の中での出来事を語り始める。
「永徳さんとの接点が途切れた後も。私ずっと笹野屋の屋敷の周りで永徳さんの姿を追っていたの。そしたら人間の若い女が出入りしているのを見かけて……あんたが持っているお守り、あれさえなければ、人間なんて一捻りで殺して頭から食べてやったのに」
話しながら鬼女の表情は、憎悪に歪んでいた。
「返り討ちにあってからすぐ、『笹野屋永徳が人間の嫁候補を連れて歩いてる』って噂を聞いたの。これまでそんな人いたことなかったのに」
美しい彼女の姿は、もはやかけらも無く、禍々しい憎しみの権化となりつつあった。
「遠くから観察して、自分の会社でのポジションも利用して探りを入れて。あなたに危害を加える別の方法を探ったわ。いろいろ試してみて、明確な悪意を持ってその女に近づかなければ、お守りは反応しないということ、編集部員に対しては危害を加えられないってことがわかって。ヴァンパイアの彼はちょうどいい駒だったわ。失敗してしまって残念だけど」
椿の手には、先日手渡しした企画書が握られていた。
笹野屋の屋敷には、約束があるか、笹野屋家の人間から手渡された物品がなければ入ってこれない。
永徳から椿に手渡された佐和子の企画書が、彼女の侵入を許す鍵の働きをしてしまったのだ。
「さあ、血ならいっぱいあるわよ。もう一度目覚めなさい」
椿の鞄から取り出されたガラスの小瓶が宙を舞い、粉々に砕ける。霧のように散った血液が、雨のように廊下の上に降った。直後、マイケルが意識を取り戻し、再び獣のように唸り始める。
「ここを誰の屋敷と思っているんだい? みくびってもらっては困るねえ」
永徳が指笛を吹く。直後、廊下の突き当たりから手に宝玉を持った龍が飛び出してきた。金色の鱗を輝かせ、体をうねらせながら蛇のようにマイケルを取り囲み、彼の体を締め上げる。
よく見れば、それは玄関にかけられていた額縁に納められていた玉龍だった。
「笹野屋さん、この龍って…」
「俺の眷属だよ。刺繍絵の付喪神さ。普段は玄関で日向ぼっこしているんだけど」
「眷属? 編集部の皆さんとは違うんですか?」
「編集部員たちは雇用関係、眷属は主従関係があるって言ったらわかるかな」
佐和子の疑問に答えながら、永徳は椿に向かって鋭い視線を向ける。
「観念しなさい、椿」
「ちっ、分が悪いわね」
冷ややかな空気を纏う永徳に、にこりと笑いかける椿。追い詰められているにも関わらず、臆する様子は微塵もない。
「永徳さん、覚えておいて。私は何度でもこの女を襲う。守りの術なんてかけたって無駄よ。今回みたいに頭を使えば、いくらでも彼女に危害を加えられる。人間の女なんて脆いものより、鬼の私の方がよっぽど笹野屋家の嫁には相応しいわ。考え直さない?」
「俺にも好みってものがあるからねえ」
「まあ、酷い」
永徳の足元の影がみるみる膨らみ、天井まで伸びていく。音もなく影は椿に飛び掛かるが、その手は敵を捉えられずに空を掻いた。椿は薄笑いを浮かべたまま、そのまま霧のように消えていった。
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