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望まぬ異動

新しい仕事

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 とうとう、異動先での初日を迎えてしまった。朝になるのが本当に嫌で、昨日は随分深酒をしてしまい、頭が痛い。社会人失格だな、と自嘲しつつ、洗面台で顔を整える。窓から差し込む日の光が憎い。鏡に映る三十二歳の女の皮膚の衰えを、これでもかと突きつけてくれる。

「……しばらくお酒、控えよう」

 ボソボソと独り言を呟いて、冷たい水で顔を洗う。お湯で洗うと肌に悪いらしい、と、この間テレビで誰かが言っていた。美容情報なんて、若い時は一ミリも気にしなかったはずなのに、最近は記憶に留めている自分がいる。私もそれなりに、歳をとりながら変化をしているのだ。

(淡白で、疑り深くて、人との関係構築に消極的なのは、ずっと変わらないけどね)

 そう自虐しながら、昨日のうちにしっかりとアイロンをかけておいた、ペールブルーのカットソーに身を包む。見た目だけはかっちりとしていて、ストレッチ素材で楽なコスパ重視のスーツを身につけ、家を出た。

 仕事にやる気を出して取り組んでいた時は、あんなに張り切って服も選んでいたのに。人間はやる気を失うと服装にも出るものだと学んだ。

 特別事業部第一部。社内では変わり者の掃き溜めだと聞かされている。他の部署と一緒に仕事をすることのない、孤立した部門。そのほとんどが男性で、マサチューセッツだとか、ハーバードだとか、とにかく海外の有名大や、国内の技術系の最高峰の大学を出た人間のみが集められている。

 防衛事業が主たる収益の柱で最新鋭の戦闘機を作っている、というのが社内外の認識だが、それ以上の情報は謎に包まれていた。

 今回、特別事業部第一部に異動させられるのは私ともう一名。葛木さんという女性だ。辞令で「春子」と書いてあったから女性だと分かっただけで、それ以上の情報はない。

 特別事業部は私が元々勤めている本社ビルの二十九階に位置していた。執務エリアに到達するまで何回もカードキーをかざさないと入れない作りで、あまり外には出せない情報を扱っている部署というのがよく分かる。

 指定時刻に出勤すると、二十九階のエレベーターホールで、私より少し上くらいの年齢の男性が立っていた。

「おはようございます」

「おはようございます。ええと、君は山並さんかな?」

 山崎、と名乗った彼は、手元のタブレットと私を見比べていた。社員証の写真と照合していたのだろう。

 私が彼の問いかけに答えると同時に、背後のエレベーターが開く音が聞こえた。

「おはようございます」

 振り返ると、そこには長身の美女が立っていた。年齢は、こちらも私よりちょっと上くらいだろうか。仕事のできそうなパリッとしたグレーのスーツと白いワイシャツを身につけていて、踵の高いヒールを履いていた。

「おはようございます。あなたが葛木さんですね」

 山崎さんは、私にしたのと同じように、入念にタブレットの画像をチェックした。変人の集まりと聞いていたが、今のところ彼の印象について特に変わったところはない。その辺にいそうな、落ち着いた雰囲気の、礼儀正しいサラリーマンだ。

「ではまず、研修室に移動します。初日のオリエンを受けていただいたあと、いくつかオンライントレーニングを受けていただいてから、部長やチームとの顔合わせ、明後日から実際の業務に入っていただきます。研修室までは今お持ちのIDカードで入れますけど、執務エリアへの入室はできません」

「別途権限が必要なんですね」

 私の質問に、山崎さんがうなづく。

「はい。研修を全て終了し、特別事業部の業務内容に特化した秘密保持誓約書にサインをいただいたあと、権限申請の書類にご記入いただき、それから入室できるようになります」

彼の案内に従い、私たちは研修室に入った。そこは真っ白な飾り気のない空間で、ラボのようなイメージを抱かせる。個人貸与のパソコンではなく、研修専用のものがあるようで、オンライントレーニングはそれらを使って受けるように指示された。

「荷物はそこの棚に入れていただいて、ジャケットは脱がれるようなら、そこのコートハンガーを使ってください。僕は自分のパソコンを取ってくるので、それまでお互い自己紹介でもしていてくださいね」

 研修室を出ていく山崎の背中を見送り、私たちはお互いに笑顔を向け合った。

「葛木春子といいます。先月まで航空機事業部のマーケティング部にいました。よろしくお願いしますね」

 彼女の慈愛に満ちた笑顔は、大人の包容力を感じさせる。とりあえず優しそうな人が同僚でホッと胸を撫で下ろした。

「初めまして、山並美冬です。私は財務経理本部からの異動で。秘書業務は全く経験がないので、ご迷惑をおかけしないように頑張ります」

「財務経理本部? そっか、それは大変ですね……私は昔、一時期秘書課にいたこともあったので、困ったことがあったら言ってくださいね」

 葛木さんと会話を続ける中で、ようやくまともに呼吸ができるようになってきた。この部屋に入ってから、あまりの無機質で空虚な空間に圧倒されて、押しつぶされるような感覚に襲われていたのだ。他愛無い会話を彼女とすることで、少しずつ落ち着きを取り戻すことができた。

「でも、珍しいですねえ……財務経理からここの事業部の秘書のポジションへ異動だなんて。ご自身で希望を出されたの?」

「いえ、元々ずっと経理畑で……今回の辞令はほんと、寝耳に水なんです」

「そうなの……」

 彼女は眉尻を下げて、同情の眼差しを私に向けた。

「私もね、急に異動を言い渡されて。もっと色々、前の部でやりたいことがあったんだけど。やっぱり、ワーママっていうのが引っかかったのかな」

「お子さんがいるんですか。全然見えないです」

 私の驚いた様子を見て、葛木は、ふふ、と恥ずかしそうな笑みを漏らした。

「嬉しいことを言ってくれますね。二歳の双子がいるの。とても可愛い盛りなのだけど、定期的に熱を出してね。一人が治ればもう一人が感染して、もう大変。旦那は仕事が多忙で、あんまり家にいなくて。子どものことでちょくちょく早退してたし、もしかしたらそれが人事評価に響いたのかなって」

 おどけた様子で、仕方がないわね、といった彼女は、少し悲しそうだった。まだ初対面なので、彼女の人となりはわからないが、丁寧で優しげな話し口を見る限りでは、真摯に仕事をしていた人なのだろう。ほとんどワンオペ育児をしながら、彼女なりに頑張ってきた中で、認められずに異動させされてしまったことが、彼女の心に影を落としていることは容易に想像できた。

「戦力にならないから異動させられたって訳じゃないかもしれないじゃないですか。もしかしたら、葛木さんの能力を買って、ぜひにってことで異動になったのかもしれませんし」

 ふわり、と大輪の花のような笑顔を見せた彼女は、女の私が見惚れてしまうほど美しい。まつ毛が長くて、色が白くて。お人形さんみたいな人、というのはこういう人のことを言うのだろう。

「ありがとう。優しいのね」

 和むと同時に、心がちくり、と痛んだ。さっきのセリフは、半分自分への慰めでもあった。でも、いつまでも塞ぎ込んでばかりはいられない。男に頼らずに生きると決めている以上、自分の身は自分で立てていかなければならない。

 その後も女子トークに花が咲き、和やかに会話が進む間に、ノートパソコンを小脇に抱えて山崎さんが戻ってくるのが見えた。

「遅くなりました。では、今日のオリエンを始めますね」

 メガネをかけた、スポーツ刈りの彼が演台に立っていると、なんだか大学の講義を受けている気分になった。しかし、単なる部署異動でこんなにきちんとオリエンの日程とオンライントレーニングの日程が取られているなんて珍しい。転職したわけではあるまいし。

「まず、今日行うオリエンの意義についてご説明しますね。お二方が所属されることになる、特別事業部はですね、三河重工の中でも最もサイバー攻撃の標的になる部署なんです。そのため、他の部署よりもより高レベルなセキュリティ意識を身につけていただきたく、こうした場を設けています。オンライントレーニングも、ほとんどが情報セキュリティ関連のものなんです」

 防衛事業っていうくらいだから、それなりに想像はしていたが、そこまで脅威にさらされているとは思っていなかった。明らかに怪しい迷惑メールなどは、うちの部署でもよく受け取っていたが。

「まず、PCは持ち出し禁止。どっかに置いてきちゃったりしたらアウトですからね。USBメモリの使用も基本禁止。マルウェアの感染経路になる可能性があるからです」

 私は恥を偲んで、遠慮がちに聞いた。

「あの、マルウェアって……」

「コンピューターウイルスのことよ」

 葛木さんが優しく教えてくれた。彼女はずっとうなづきながら聞いているので、私よりセキュリティについては明るいのかもしれない。

「あとはね、うちの場合『標的型攻撃』っていうのを受けがちです。標的型攻撃っていうのは、無差別に攻撃してくるんじゃなくて、何かしらの目的を持って付け狙ってくる攻撃のことです。標的型攻撃の犯人は、金銭目的のサイバー犯罪グループであることもあれば、国家の支援を受けたサイバー犯罪集団や、軍隊のこともあります。うちが契約しているようなサイバーセキュリティ会社とかだと、こうした標的型攻撃を行うグループを特定して付番して、監視していたりします。攻撃のパターンを分析して、対策を取ったりするんですね」

 楽しそうに若干話が脱線した山崎を見て、多分この手の話題が彼は好きなのかもしれないと思った。そんな中、既に少し眠たくなり始めている私がいる。

「ちなみに、かつて東京でオリンピックがあった時。開催期間中、大会関係者・関係機関にどれくらいのサイバー攻撃が行われたかご存知ですか? 山並さん」

「え! えーと……存じ上げません」

 しまった、あくびを必死に噛み殺しているのがバレただろうか。まるで先生にたしなめられた子どものように、しおれながら答える。

「四億五千回です」

「えっ、億ですか」

 私も驚いていたが、今回は隣の葛木さんも驚いていた。

「はい。ちなみに、うちが戦闘機の開発事業を拡大するという発表をして、現在までの期間、それと同等くらいの攻撃を受けてます」

 私たちは絶句した。IT担当者ではないので、実際の脅威に対処するわけではないのだろうが。それだけ管理する情報や、怪しいメールに対して気を配っておかなければならないということだ。

「だからね、今日から三日間の研修は、たかが研修と思わず、会社の財産を守る覚悟で挑んでください。私たちみんなが戦闘の最前線にいることを忘れないように」


 今日予定されているオリエン項目を全て終えた山崎は、男所帯の特別事業部にやってきた紅二点を、エレベーターホールまで見送った。

 精神的に疲れた様子の二人の姿が扉の向こうに消えるのを見届け、自分の業務に戻ろうと振り返ると、想定外に目の前にあった鋼鉄の胸板にぶつかった。

「うわっ、部長」

 驚いて飛び退く山崎を、鋭い眼光で睨んだ男––––特別事業部第一部を預かる部長の、伊藤晋也は、部下のリアクションには特に言及せず、用件を聞いた。

「どうだ、新人は」

 質問に対応する体勢を整えた山崎は、手短に印象を答える。伊藤は長い説明を嫌うのだ。

「真面目そうですし、人柄も問題ないかと。ただ、事業部としてはありがたい人材ですが、これまでの彼女たちのキャリアを考えると、ご本人たちは今回のポジション、不服に思われるかもしれません」

「仕方あるまい。国と会社の未来がかかってるんだ。たとえ雑用係だろうと、使えない人材は選べない。不服と思われるなら、テスト期間の間に辞めてもらうまでだ」

 自衛隊上がりの伊藤は、筋肉質な腕を胸の前で組み、エレベーターホールを睨んでいる。

「相変わらず、手厳しいですね」

「当たり前だ。俺たちは子どものおもちゃを作ってるんじゃない。国防の要となる製品を作ってるんだ」

 そう言うと伊藤は、特に他の用件はなかったらしく、すぐに山崎に背を向け、部長室へ戻っていった。事務職らしからぬ体格の圧力から解放され、その場に残された山崎は、ホッと息をついた後、執務エリアへと戻っていった。
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