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第6章 公国復興編
第482話 たとえ貴方が平気でも、私は絶対平気じゃない
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「俺はもう……皆と一緒に居られない」
喉の奥から絞り出されたような声は、ノエルの心に深く刺さった。
彼女も同じだったから。
剣聖のクラスを得たと同時に発生した暴走の危険性から、腫れものを扱うような目で見られるようになった。
実際危険だったし、周囲の反応や対応は正しかったと今でも言える。
それでも、本人の精神に悪影響であることは言うまでもない。
いつだってアラタはギリギリだった。
初めて会った時から今に至るまで、彼が全力を出し切らない日はほとんど存在しない。
体力を気力と、それから魔力を毎日のように使い切る生活は、身体的な疲労だけでなく精神的な疲労も蓄積していく。
本来は適切な休息を取ることで疲労を軽減・回復させるわけだが、最近のアラタはそれすら難しくなっていた。
彼の心の均衡は、崩れるべくして崩れたのだ。
「離してください」
アラタは敬語で言った。
「ヤダ。離さない」
ノエルは【身体強化】まで使って彼を引き留める。
その間にクリスは抜身の刀を拾い上げ、鞘に納めて玄関に置いた。
この状況下に関わらず、刃物が転がっているのは普通に危ない。
「いつか……いつか! 俺はやってはいけないことをやってしまう」
「ダイジョブ。そうはならないよ」
「なるんだよ!」
アラタは自らを掴むノエルの手を強引に振りほどき、向かい合って叫んだ。
「もう無理なんだ……ここは人が多すぎて、俺の耳も、鼻も、眼も、何もかもがぶっ壊れそうになるんだ。そんな状況で、どうやって生きていけばいいんだよ」
「……分かんない」
「俺、もう出てくから、1人にしてくれ、ほっといてくれ」
「ダメ」
「どっちなんだよ!」
「分かんないけど、絶対私が何とかするから、だから一緒にいようよ。大声は控えるし、アラタのこと精一杯支えるよ。だから、またいなくなったりしないでよ。置いてかれる方だって、結構寂しいんだよ?」
分かっていた。
アラタは自分がこう言いだせば、ノエルが必ず止めてくることを分かっていた。
それでも、耐えきれなかった。
限界だと口にしなければ、体の内側から爆ぜてしまいそうなくらい、彼の中に蓄積した炸薬は大きなものになっていた。
風船から空気をゆっくりと抜くように、緩やかに鎮静化するために、アラタは心中を吐露していく。
しかしその上で、やはり自分は1人で過ごした方がいいと思っている。
「いつか取り返しがつかないことをしてしまったら、俺はお前らの親や友達になんて謝ればいいんだ」
「ごめんなさいしか言えないよ」
「それじゃ済まないことになるかもしれない」
「私もアラタのこと斬っちゃったけど、ごめんなさいしか出来なかったよ。でもアラタはそれで許してくれたじゃないか」
「俺は死んでない」
「そうだね」
「でも今度は殺してしまうかもしれない」
「大丈夫。私は——」
「さっき殺されそうになっただろうが!」
大の大人の男の怒声は、ノエルを委縮させるのに十分すぎる。
アラタはしまったと思いながらも、言葉を止めることが出来ない。
もう彼は、誰の意志で喋っているのかすら定かではないから。
「俺は、周囲10mに他の人がいるだけで落ち着くことが出来なくなる。飯も暖かいものは受け付けない。手元に刀がないだけで手が震える。休むときは壁を背に座るだけ、眠る事すらできなくなった。気を抜いている時に誰か来ると反射で攻撃しそうになる。頼む、頼むから、護り抜いたと思わせてくれ。護ったものを壊させないでくれ。お前らを傷つけたら、俺はもう、生きてる意味が分からなくなるんだ」
アラタは膝をついて座り込んだ。
まるで死刑執行を待つ罪人のように、首を差し出すように、膝を屈した。
「確かに、アラタなら1人ボッチでも生きていけるかもしれない」
「ノエル?」
突然何を言い出すのかと、クリスが反応した。
まあ確かにその通りなのだが、この場では否定しなければならないだろう。
アラタが出ていくことを助長するような事実の陳列は厳に慎むべきだ。
でも、ノエルはそのまま続けた。
「もしかしたら、アラタは寂しさなんて感じないかもしれない。だから、私は私のことを言う事しかできない」
ノエルはしゃがみこむと、アラタの顔を覗き込むように視線を合わせた。
深い闇に沈んだ瞳と、紅玉のように光り輝く瞳。
「アラタが平気でも、私はアラタがいないと寂しいよ」
ノエルはアラタの右手を取って、両手でそっと握った。
強化されたアラタの嗅覚には、ノエルの放つ匂いが届いている。
彼女の誕生日にプレゼントした香水だ。
好みなんて分からなかったから、調香と販売のパッケージにしてもらい、その権利をあげた。
後日、ノエルはウキウキで完成品を見せに来て、選んでよかったと思った。
自分で渡したはずの匂いすら、今は鼻につく。
でも、人の厚意を受け取る心の感覚だけは、まだ壊れていない。
普通の人間らしい機能として、彼の中で働き続けている。
「前にも言ったじゃないか。せっかく元通りになれたのに、すぐサヨナラなんて嫌だって」
「…………うん」
「この世界にはね、まだまだアラタの知らない楽しいことが沢山あるんだよ。私だって知らないようなワクワクすることで溢れているんだ。まだアラタはこの世界のこと何も知らない、まだ私はアラタに何もしてあげられてない」
「うん」
「一緒に冒険者やってくれて、大公選で頑張ってくれて、戦争だって自分で1人行って、それで終わりなんて許さないし認めない。アラタが辛かったり苦しかったりした分、楽しかったり嬉しかったりしてもらわなきゃ、バランスが取れないもん。だからさ、1人にならないで。まだ私と一緒にいてよ。まだ皆と一緒にいようよ」
「……ごめん。少しおかしくなってた」
「アラタはちょっと変な人だからね」
「うるせえ」
アラタはノエルに手を引かれながら立ち上がった。
扉の外側で裸足のまま、足の裏を石材がこれでもかと冷やしてくる。
アラタは確かに強くなった。
剣術は日に日に上達し、魔力量も増加し、果てなき訓練で魔力制御も伴うようになった。
習得したスキルの数はもう少しで10に届きそうな勢いで、文字も覚えたし部隊の指揮も取れるようになった。
だが、精神面はまだ人並みの域を出ない。
彼の持つエクストラスキル【不溢の器】は、本人が鍛えようと思ったことしか鍛えない。
彼は強くなりたかったから、強くなって周りを護りたかったから、自分以外の人を護る為の力を身につけた。
だから、自分を護る事には長けていない。
他人のために踏ん張る精神力はあっても、自身に降りかかるストレスを管理する能力は止まったまま。
それでも他人よりは随分とストレス耐性はある方だ。
でも、足りない。
まだ足りない。
望めば、手に入れようとすれば、鍛えれば精神力、メンタリティだって手に入れることが出来る。
ただ、彼にはその意識が足りていなかっただけ。
これから伸ばしていけばいいのだ、仲間たちと共に。
「ほら、お風呂入ってきて。ね?」
「うん」
彼はある種のPTSD、心的外傷後ストレス障害を患っていた。
よくある戦争病というやつだ。
パニック行動を起こすことがあるし、彼の場合それがシャレにならない被害をもたらすことがある。
アラタは風呂に入っている間、自分の力との向き合い方を考えていた。
いくら強くなっても、力に振り回されるようではいつか限界が来る。
取り返しのつかないことをしてしまうことが必ず来る。
そうならないためには自分を律すること、制御すること、客観視すること、道を踏み外さないための、確かな道標が必要だった。
それが何のことなのか、何を意味していることなのか、彼自身はっきりとしていない。
曖昧模糊な考えを削って削って、いつしか形になることを夢見て、生きていかなければならない。
アラタが風呂から上がり2階の部屋に戻ろうとすると、リビングから彼のことを呼ぶ声が聞こえた。
「ねえねえ、ちょっと来てよ」
「なにそれ?」
アラタはノエルの手がグーになっているのを見て、中に何があるのか訊いた。
ノエルはニコニコしているだけで、ソファの隣を叩くだけ。
「いいから!」
アラタは言われるがまま座ると、ノエルの方を向く。
「なにそれ?」
「へへ、耳栓だよ」
「なんだ」
「なんだとはなんだ! これは凄いんだぞ!」
ノエルが差し出したのは、水色の半透明な耳栓だった。
ウレタンなんてものは無いので、ゴムなのかそれ以外なのか。
「何の耳栓?」
「スライムだよ」
「うわぁ」
「大丈夫。もう生きてないから動かないよ」
「そういうことじゃないんですけど……」
「ほら、着けて!」
グミのような、スライムのような、形が定まっているのかそうでないのかよく分からない感触。
耳の中に詰めたとして、果たしてバラバラにならずに取り出せるのか心配だ。
アラタは恐る恐るそれを耳に入れていく。
ひんやり冷たいスライムは、夏なら気持ちよく冬なら少し不快かもしれない。
「どう?」
「普通に聞こえるな」
「えー!」
「いや、いい意味で。聞こえすぎることはないかも」
久しぶりの静かな世界に、アラタは思わず少し笑った。
それを見て、ノエルはもっと笑う。
花が咲いたような笑顔で嬉しそうに笑った。
「どう? どう?」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして!」
「大切にする」
そう言いながら、アラタはソファから立ち上がろうとした。
しかしノエルがそれに待ったをかける。
またアラタの右手を掴んで離さない。
「今度はなに?」
「座って」
「はいはい」
腰を落ち着けると、ノエルがどこからか毛布を持ってきた。
それを大きく広げてアラタに渡す。
「くれるの?」
「っていうか、ここで寝る練習だ。今なら出来るでしょ?」
「俺ソファとかベッドはあまり……」
「そんなのダメ! 一刻も早くベッドで寝る練習しなきゃダメだよ!」
「……分かった。頑張る」
「分かればヨシ!」
アラタは隣からの期待の眼差しが気になりつつも、ひとまず目を瞑った。
こうしなければ何も始まらない。
隣にノエルが座っている気配を感じていて、その向かい側にはクリスもいる。
いつの間にか帰って来たシルはダイニングキッチンに立っていて、ダイフクは暖炉の近くに座っている。
……考えるな、信じて情報を遮断しろ。
感情論ではなく機械的に寝るために、明示的にスキルをオフにする。
【感知】、【痛覚遮断】をオフにして、周囲から情報を取ることを完全にやめる。
そうすれば、今までとは違った景色が見えるかもしれない。
そして、アラタは寝ようとした。
※※※※※※※※※※※※※※※
「ただいま帰りましたー」
綺麗な金髪をロングからショートに切ったリーゼ。
彼女は今日も今日とて実家であるクラーク伯爵家立て直しのために忙しく働いていた。
そしてアラタの首輪として、この屋敷に毎日帰ってきている。
彼女は部屋に荷物を置いた後、手洗いついでに今日の夜ご飯はなんなのか台所に確認しに来た。
この家は改装工事によってダイニングキッチンになっていて、そのまま壁を隔てることなくリビングが1つある。
リーゼは台所の入り口から中に入り手を洗い始めた。
「シルちゃん、今日の夜ご飯は——」
「シーッ」
シルは人差し指を立てて静かにするように促した。
何事? と思いつつそれに従うリーゼ。
「どうしたんですか?」
「あれ」
小声で訊いたリーゼに、シルも小声で応える。
彼女の指差した方にはリビングがあって、暖炉の方を向くソファの上から黒髪の頭が2つ垣間見えていた。
リーゼは手を拭きながらゆっくりとソファの方に回り込む。
「あら、あらあらあらあら、あら~」
数時間前の騒ぎが嘘のような、穏やかな寝顔が2つ並んでいた。
無表情のアラタの隣には、心底幸せそうなノエルの寝顔。
事態が良い方向に転がったことを理解するには、それだけで十分だった。
「画家を、絵師の方を呼ばないとっ!」
ニコニコのリーゼは、帰って来たその足でクラーク家に向かって走り出したのだった。
喉の奥から絞り出されたような声は、ノエルの心に深く刺さった。
彼女も同じだったから。
剣聖のクラスを得たと同時に発生した暴走の危険性から、腫れものを扱うような目で見られるようになった。
実際危険だったし、周囲の反応や対応は正しかったと今でも言える。
それでも、本人の精神に悪影響であることは言うまでもない。
いつだってアラタはギリギリだった。
初めて会った時から今に至るまで、彼が全力を出し切らない日はほとんど存在しない。
体力を気力と、それから魔力を毎日のように使い切る生活は、身体的な疲労だけでなく精神的な疲労も蓄積していく。
本来は適切な休息を取ることで疲労を軽減・回復させるわけだが、最近のアラタはそれすら難しくなっていた。
彼の心の均衡は、崩れるべくして崩れたのだ。
「離してください」
アラタは敬語で言った。
「ヤダ。離さない」
ノエルは【身体強化】まで使って彼を引き留める。
その間にクリスは抜身の刀を拾い上げ、鞘に納めて玄関に置いた。
この状況下に関わらず、刃物が転がっているのは普通に危ない。
「いつか……いつか! 俺はやってはいけないことをやってしまう」
「ダイジョブ。そうはならないよ」
「なるんだよ!」
アラタは自らを掴むノエルの手を強引に振りほどき、向かい合って叫んだ。
「もう無理なんだ……ここは人が多すぎて、俺の耳も、鼻も、眼も、何もかもがぶっ壊れそうになるんだ。そんな状況で、どうやって生きていけばいいんだよ」
「……分かんない」
「俺、もう出てくから、1人にしてくれ、ほっといてくれ」
「ダメ」
「どっちなんだよ!」
「分かんないけど、絶対私が何とかするから、だから一緒にいようよ。大声は控えるし、アラタのこと精一杯支えるよ。だから、またいなくなったりしないでよ。置いてかれる方だって、結構寂しいんだよ?」
分かっていた。
アラタは自分がこう言いだせば、ノエルが必ず止めてくることを分かっていた。
それでも、耐えきれなかった。
限界だと口にしなければ、体の内側から爆ぜてしまいそうなくらい、彼の中に蓄積した炸薬は大きなものになっていた。
風船から空気をゆっくりと抜くように、緩やかに鎮静化するために、アラタは心中を吐露していく。
しかしその上で、やはり自分は1人で過ごした方がいいと思っている。
「いつか取り返しがつかないことをしてしまったら、俺はお前らの親や友達になんて謝ればいいんだ」
「ごめんなさいしか言えないよ」
「それじゃ済まないことになるかもしれない」
「私もアラタのこと斬っちゃったけど、ごめんなさいしか出来なかったよ。でもアラタはそれで許してくれたじゃないか」
「俺は死んでない」
「そうだね」
「でも今度は殺してしまうかもしれない」
「大丈夫。私は——」
「さっき殺されそうになっただろうが!」
大の大人の男の怒声は、ノエルを委縮させるのに十分すぎる。
アラタはしまったと思いながらも、言葉を止めることが出来ない。
もう彼は、誰の意志で喋っているのかすら定かではないから。
「俺は、周囲10mに他の人がいるだけで落ち着くことが出来なくなる。飯も暖かいものは受け付けない。手元に刀がないだけで手が震える。休むときは壁を背に座るだけ、眠る事すらできなくなった。気を抜いている時に誰か来ると反射で攻撃しそうになる。頼む、頼むから、護り抜いたと思わせてくれ。護ったものを壊させないでくれ。お前らを傷つけたら、俺はもう、生きてる意味が分からなくなるんだ」
アラタは膝をついて座り込んだ。
まるで死刑執行を待つ罪人のように、首を差し出すように、膝を屈した。
「確かに、アラタなら1人ボッチでも生きていけるかもしれない」
「ノエル?」
突然何を言い出すのかと、クリスが反応した。
まあ確かにその通りなのだが、この場では否定しなければならないだろう。
アラタが出ていくことを助長するような事実の陳列は厳に慎むべきだ。
でも、ノエルはそのまま続けた。
「もしかしたら、アラタは寂しさなんて感じないかもしれない。だから、私は私のことを言う事しかできない」
ノエルはしゃがみこむと、アラタの顔を覗き込むように視線を合わせた。
深い闇に沈んだ瞳と、紅玉のように光り輝く瞳。
「アラタが平気でも、私はアラタがいないと寂しいよ」
ノエルはアラタの右手を取って、両手でそっと握った。
強化されたアラタの嗅覚には、ノエルの放つ匂いが届いている。
彼女の誕生日にプレゼントした香水だ。
好みなんて分からなかったから、調香と販売のパッケージにしてもらい、その権利をあげた。
後日、ノエルはウキウキで完成品を見せに来て、選んでよかったと思った。
自分で渡したはずの匂いすら、今は鼻につく。
でも、人の厚意を受け取る心の感覚だけは、まだ壊れていない。
普通の人間らしい機能として、彼の中で働き続けている。
「前にも言ったじゃないか。せっかく元通りになれたのに、すぐサヨナラなんて嫌だって」
「…………うん」
「この世界にはね、まだまだアラタの知らない楽しいことが沢山あるんだよ。私だって知らないようなワクワクすることで溢れているんだ。まだアラタはこの世界のこと何も知らない、まだ私はアラタに何もしてあげられてない」
「うん」
「一緒に冒険者やってくれて、大公選で頑張ってくれて、戦争だって自分で1人行って、それで終わりなんて許さないし認めない。アラタが辛かったり苦しかったりした分、楽しかったり嬉しかったりしてもらわなきゃ、バランスが取れないもん。だからさ、1人にならないで。まだ私と一緒にいてよ。まだ皆と一緒にいようよ」
「……ごめん。少しおかしくなってた」
「アラタはちょっと変な人だからね」
「うるせえ」
アラタはノエルに手を引かれながら立ち上がった。
扉の外側で裸足のまま、足の裏を石材がこれでもかと冷やしてくる。
アラタは確かに強くなった。
剣術は日に日に上達し、魔力量も増加し、果てなき訓練で魔力制御も伴うようになった。
習得したスキルの数はもう少しで10に届きそうな勢いで、文字も覚えたし部隊の指揮も取れるようになった。
だが、精神面はまだ人並みの域を出ない。
彼の持つエクストラスキル【不溢の器】は、本人が鍛えようと思ったことしか鍛えない。
彼は強くなりたかったから、強くなって周りを護りたかったから、自分以外の人を護る為の力を身につけた。
だから、自分を護る事には長けていない。
他人のために踏ん張る精神力はあっても、自身に降りかかるストレスを管理する能力は止まったまま。
それでも他人よりは随分とストレス耐性はある方だ。
でも、足りない。
まだ足りない。
望めば、手に入れようとすれば、鍛えれば精神力、メンタリティだって手に入れることが出来る。
ただ、彼にはその意識が足りていなかっただけ。
これから伸ばしていけばいいのだ、仲間たちと共に。
「ほら、お風呂入ってきて。ね?」
「うん」
彼はある種のPTSD、心的外傷後ストレス障害を患っていた。
よくある戦争病というやつだ。
パニック行動を起こすことがあるし、彼の場合それがシャレにならない被害をもたらすことがある。
アラタは風呂に入っている間、自分の力との向き合い方を考えていた。
いくら強くなっても、力に振り回されるようではいつか限界が来る。
取り返しのつかないことをしてしまうことが必ず来る。
そうならないためには自分を律すること、制御すること、客観視すること、道を踏み外さないための、確かな道標が必要だった。
それが何のことなのか、何を意味していることなのか、彼自身はっきりとしていない。
曖昧模糊な考えを削って削って、いつしか形になることを夢見て、生きていかなければならない。
アラタが風呂から上がり2階の部屋に戻ろうとすると、リビングから彼のことを呼ぶ声が聞こえた。
「ねえねえ、ちょっと来てよ」
「なにそれ?」
アラタはノエルの手がグーになっているのを見て、中に何があるのか訊いた。
ノエルはニコニコしているだけで、ソファの隣を叩くだけ。
「いいから!」
アラタは言われるがまま座ると、ノエルの方を向く。
「なにそれ?」
「へへ、耳栓だよ」
「なんだ」
「なんだとはなんだ! これは凄いんだぞ!」
ノエルが差し出したのは、水色の半透明な耳栓だった。
ウレタンなんてものは無いので、ゴムなのかそれ以外なのか。
「何の耳栓?」
「スライムだよ」
「うわぁ」
「大丈夫。もう生きてないから動かないよ」
「そういうことじゃないんですけど……」
「ほら、着けて!」
グミのような、スライムのような、形が定まっているのかそうでないのかよく分からない感触。
耳の中に詰めたとして、果たしてバラバラにならずに取り出せるのか心配だ。
アラタは恐る恐るそれを耳に入れていく。
ひんやり冷たいスライムは、夏なら気持ちよく冬なら少し不快かもしれない。
「どう?」
「普通に聞こえるな」
「えー!」
「いや、いい意味で。聞こえすぎることはないかも」
久しぶりの静かな世界に、アラタは思わず少し笑った。
それを見て、ノエルはもっと笑う。
花が咲いたような笑顔で嬉しそうに笑った。
「どう? どう?」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして!」
「大切にする」
そう言いながら、アラタはソファから立ち上がろうとした。
しかしノエルがそれに待ったをかける。
またアラタの右手を掴んで離さない。
「今度はなに?」
「座って」
「はいはい」
腰を落ち着けると、ノエルがどこからか毛布を持ってきた。
それを大きく広げてアラタに渡す。
「くれるの?」
「っていうか、ここで寝る練習だ。今なら出来るでしょ?」
「俺ソファとかベッドはあまり……」
「そんなのダメ! 一刻も早くベッドで寝る練習しなきゃダメだよ!」
「……分かった。頑張る」
「分かればヨシ!」
アラタは隣からの期待の眼差しが気になりつつも、ひとまず目を瞑った。
こうしなければ何も始まらない。
隣にノエルが座っている気配を感じていて、その向かい側にはクリスもいる。
いつの間にか帰って来たシルはダイニングキッチンに立っていて、ダイフクは暖炉の近くに座っている。
……考えるな、信じて情報を遮断しろ。
感情論ではなく機械的に寝るために、明示的にスキルをオフにする。
【感知】、【痛覚遮断】をオフにして、周囲から情報を取ることを完全にやめる。
そうすれば、今までとは違った景色が見えるかもしれない。
そして、アラタは寝ようとした。
※※※※※※※※※※※※※※※
「ただいま帰りましたー」
綺麗な金髪をロングからショートに切ったリーゼ。
彼女は今日も今日とて実家であるクラーク伯爵家立て直しのために忙しく働いていた。
そしてアラタの首輪として、この屋敷に毎日帰ってきている。
彼女は部屋に荷物を置いた後、手洗いついでに今日の夜ご飯はなんなのか台所に確認しに来た。
この家は改装工事によってダイニングキッチンになっていて、そのまま壁を隔てることなくリビングが1つある。
リーゼは台所の入り口から中に入り手を洗い始めた。
「シルちゃん、今日の夜ご飯は——」
「シーッ」
シルは人差し指を立てて静かにするように促した。
何事? と思いつつそれに従うリーゼ。
「どうしたんですか?」
「あれ」
小声で訊いたリーゼに、シルも小声で応える。
彼女の指差した方にはリビングがあって、暖炉の方を向くソファの上から黒髪の頭が2つ垣間見えていた。
リーゼは手を拭きながらゆっくりとソファの方に回り込む。
「あら、あらあらあらあら、あら~」
数時間前の騒ぎが嘘のような、穏やかな寝顔が2つ並んでいた。
無表情のアラタの隣には、心底幸せそうなノエルの寝顔。
事態が良い方向に転がったことを理解するには、それだけで十分だった。
「画家を、絵師の方を呼ばないとっ!」
ニコニコのリーゼは、帰って来たその足でクラーク家に向かって走り出したのだった。
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