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第5章 第十五次帝国戦役編
第458話 まだ何も返してねぇ
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ウル帝国軍第19大隊の大隊長、イェール・グスタフ大尉は部下の少尉との賭けに勝った。
彼らがカウントアップを開始してから実に4分54秒でカナン公国軍の防衛線が決壊。
アラタが完全にガス欠に陥って、それが引き金となり撤退の流れが確定した。
「動けっ、動け!」
震える足を叩いても、尋常ではない乳酸を溜め込んだ彼の太ももは言うことを聞かなくなっている。
握力も、腕力も、思考力も、持久力も、魔力も、何もかもがガス欠。
ただ気力だけがほんの僅かばかり残されているが、それだけでは何も為すことはできやしない。
「アラタ! 来い!」
「急げ!」
「カイワレ、アラタを援護しろ」
「了解」
この流れに乗じてアラタを仕留めようと殺到してきた帝国兵はカイワレが割り込んで対処した。
彼も既に満身創痍のはずなのに、まだ体力が残っている。
そう、アラタがいなくても彼が、トマスが、ルークがいるのだ。
だからまだ防衛を諦める段ではなかったのだが、流れというものは残酷である。
一度出来上がってしまえば、よほどのことがない限りそれを覆すことは非常に難しい。
勢いよく流れる川の水の流れを抑えるためには、まず川幅を広げて圧力を減らし、それから徐々に水を横道に避けていく。
そうやってじっくりと流れを削ることこそが正解な訳だが、それができるのならだれも苦労していない。
公国軍第32特別大隊が撤退を開始した。
※※※※※※※※※※※※※※※
殿の中の殿。
元々、公国軍第1師団の殿を第32大隊他2つの大隊が務めていたわけで、アラタたちはその中でもさらに最後尾、本当の最終列なのだ。
普通ならある程度時間を稼いだ後、力尽きて敵に飲み込まれハイお終いというところを、彼らは奇跡的に軍の形を維持することに成功している。
後世に語り継がれるレベルの奮戦を続けている彼らは、一体どこまで戦い続けることができるのか。
それは誰にも予測がつかないが、少なくとも限界がすぐそこまでやってきていることは確かだった。
主戦力、エース級のアラタが脱落。
味方に肩を貸してもらって辛うじて歩き続けることが出来ているという状況。
その後ろではルーク、トマス、カイワレが最前列に立って敵の猛追を凌いでいる。
しかし、アラタという大黒柱を失った彼らも徐々に疲弊していく。
何より治癒魔術師のタリアも倒れたのだから、もう彼らを治療したり回復したりしてくれる人がいないのだ。
あるのは残り少ないポーションだけ。
それも長く使うために2倍に希釈して量をかさまししている分効果は薄い。
帝国軍が勢いづくのは明白だった。
「ここを乗り越えれば平野だぞ! 無限の田畑だぞ!」
「おぉ!」
「やっとだぜ!」
「全軍全速前進!」
勝手なこと言いやがってと公国兵は唇をかむ。
それこそ血が滴るくらい噛み締めて、悔しさを滲ませる。
蛮族もいいところだ。
彼ら帝国人とは永遠に分かり合えないと、この戦争に参加した全ての公国兵は魂に刻み込まれたことだろう。
だがそれは勝敗とは何にも関係ないことだ。
善も悪も、信仰も、主義主張も、生まれも育ちも何もかも関係がない。
勝った方が偉い、勝った方が強い、勝った方が言い分を通すことができる。
それが戦争だ。
なんと素晴らしい仕組みなのだろう。
人間的、倫理的、国際秩序的正しさなんてどこにもない。
見渡して目に入るのはただ人の死体のみ。
血を流して川を作り、野生動物が食いきれないほどの量の臓物をまき散らし、木々を燃やし、自然を壊し、家を乗っ取り、街を焼き、畑を荒らし、そうした先に戦争は終わる。
両国は共に思うだろう。
こんな凄惨な事もう2度とやらないべきだと。
そう考えるのだが、残念なことに人間は忘れる事で明日を生きていくことが出来る。
辛いことを忘れることが出来るから人類はここまで発展してきた、それは否定しようがない。
だとすれば、戦争で負った痛みもいつか忘れてしまうことになる。
そうなれば何か理由を探してまた戦争だ、何百年何千年の幾年月を巡ろうと変わらない、人類の歴史の1ページだった。
「375小隊! これより我々は反転して敵を食い止める!」
「了解!」
「やってやりましょう!」
「俺に続け!」
Cランク冒険者バーンの率いる小隊が反転した。
小隊と言っても、その数は10名程度しかいない。
公国軍の小隊は本来20名以上で構成されるはずなのだが、五体満足な編成を組んでいる余裕は残されていなかった。
まだ道は狭く、道のすぐそばには地雷がばら撒かれている。
公国兵が手動で起動する必要がある為、この状況下ならもしかしたら爆破しないかもしれない。
ただ足を吹っ飛ばしてもいいから行ってくるという頭のおかしい人間がいればの話ではあるのだが。
それに、公国兵も馬鹿ではない。
きっと先頭切って駆け抜ける兵士は傷つけず、それを追いかけてきた後続の兵士たちを爆殺しようと考えているに違いない。
一度爆発を起こせば敵は引き返すことが極端に難しくなるし、敵軍の馬鹿は生かしておいて敵を混乱させるために使うに限る。
そんな思考があったうえで公国軍は後退しているので、帝国軍もおいそれと踏み込むことができない。
結局375小隊は敵の攻撃を真正面から受け止めることに成功して、アラタたちは少しだけ距離を確保することができた。
まあ、一時の違いでしかないのだが。
圧倒的劣勢で戦い続けている公国軍も、全員が一騎当千の強者とは言えない。
むしろ大多数は平均的な帝国兵よりも弱い。
それを何とか拮抗させているのはルークたちごく少数の特殊な人間たちで、彼ら抜きで帝国兵とまともにかち合えばどうなるか、今までの戦績が証明している。
「バーンさんたちが飲み込まれました」
ルークの隣の兵士はただ淡々と事実を伝えた。
ぶつかり合ってから数十秒、たったそれだけの時間で彼らは敵軍の波に呑まれた。
普通と言えば普通、むしろよくここまで持った。
バーンたちも歴戦の公国兵、最後の最後まで良く戦ったとたたえるべきだ。
彼らの紡ぎ出した数十秒が今後活きてくることがあるかもしれない。
冒険者たちと距離が生まれた公国兵は、騎兵を繰り出そうと後方に要請を出している。
ただ何事も今すぐにというのは難しく、いましばらく時間がかかるらしい。
ではどうするか。
指揮官の指示で、弓兵が矢をつがえた。
「よぉーく狙えよ。……斉射!」
鏃が風を切る音が鳴る。
切れ味鋭い音のすぐ後ろでは、ブゥンと羽が空気で震えている。
角度を付けて飛距離を稼ぐことで、少し先を行く公国兵たちに十分到達する飛距離を達成した。
中々いい狙いをしている。
「防御! 回避! 回避ー!」
空を見上げた兵士が叫ぶ。
その直後、公国軍に雨あられと矢が降り注いだ。
本当に雨みたいな量の矢が降り注いだ。
雨を防ぐには傘を差す必要があって、矢を防ぐなら盾が好ましい。
しかし全員が盾を装備しているわけでも、矢を防ぐための魔術を習得しているわけでもない。
結果、アラタには奇跡的に矢が当たらなかった。
もしかしたら無意識のうちに魔術で矢の軌道を逸らしていたという説もある。
その代わりと言ってはなんだが、隣を歩く味方に直撃した。
彼はアラタに肩を貸して、アラタの撤退を助けていた兵士だ。
肩や腕あたりなら痛い、それでも動こうで済むかもしれない。
ただ、当たり所が悪いことに矢が刺さったのは首の後ろ側。
一撃で致命傷足りうる箇所だ。
喉仏から突き出る銀色の鏃から、血が地面に滴り落ちる。
虚ろな目をしていたアラタはそれを見てギョッとして目を見開く。
すると逆に、彼のことを担いでくれていた兵士の眼から光が消えていく。
足も、腕も、手も、体中の力が抜けて、そのまま地面に倒れ込んだまま動かなくなった。
「アラタ! 立て!」
共に倒れ込んだ彼に対して、ルークが必死に叫ぶ。
叫びながら引き返そうとしたルークをトマスが止める。
そしてその代わりにカイワレを派遣し、自らは先を行く。
彼らの後ろから追いかけてくるのは、矢を撃ち終えた帝国兵。
そんな弓兵の壁が中心付近で割れて、騎兵が飛び出してきた。
どうやっても追いつかれる、万事休すだ。
アラタは動かなくなった戦友の身体を引き剥がすと、そのまま立ち上がろうとして地面に手を突いた。
ブルブル、ガクガクと震えて力が入らない。
後ろからはみるみるうちに敵が迫る。
カイワレも走っているものの、間に合うかどうかは分からない。
よしんば間に合ったとしても、あれだけの騎兵からアラタを護りながら下がるのは無理だ。
諦めの2文字がアラタの頭にちらついた。
——あー俺、死ぬのかな。
そんなシンプルで分かりやすく、かつ清々しいほど現状を受け入れた言葉が浮かんだ。
——握力ゼロだし。
つーか起き上がれん。
眠…………
きっと全部夢だったんだ。
寝れば夢から醒めるかも……
物理法則すら違う世界に連れてこられて、訳の分からないまま生きた1年と半年。
理不尽な事ばかりで、良いことなんて1つもない。
悲しいことばかり、悪いことばかり起こる。
ゲームにしてもフィクションにしても少しやりすぎなくらい、アラタは悲しみに満ちた異世界で時間を過ごしていく。
これは夢なんだ、通り魔に刺されてから今の今まで昏睡状態で、夢の中で生きていただけなんだ、そっちの方がまだいくらかマシだと、そう言っている。
家族もいない、友達にも会えない、恋人にも、先生にも、バイト仲間にも、人並みの娯楽も、現代的な暮らしも、何もかも失って生きてきた。
もう眠りたい、眠りから醒めたい、アラタはそう願った。
『アラタが死んじゃったら悲しいよ』
ノエル…………
アラタの名を呼び、手を握り、共に笑い、怒り、喜び、悲しみ、彼の帰りを待つ人がまだ残っている。
全てを失ったと絶望するにはまだ早い。
「……まだだ」
アラタの手に、失われたはずの力が籠められた。
あの子は日本から来た得体の知れない俺なんかに、数えきれないくらいたくさんの物をくれた。
生き残る力も、ここでの暮らし方も、冒険者の心構えも、金も、立場も。
たとえ打算が含まれていたとしても、俺はまだ生きていけると、生きていていいんだと、そう思えた。
大したことじゃないと言われても、それくらい俺には大きなことだった。
ただの人間として扱ってくれて、俺がどんなに救われたのか、まだありがとうと伝えていない。
……まだ何も返せてねぇ。
まだ何も!
返してねぇ!
血溜まりの中で男はもがく。
惨めったらしく、精一杯。
吐血しながらも刀を握り、空いた左手で地面を押し返す。
寸前まで騎兵が迫り、カイワレが【狂化】を起動した。
間に合う事には間に合った。
ただ彼だけではこの窮地を乗り越えることができそうにない。
【不溢の器】が起動条件を満たした。
「……全てを貫け」
片膝立ちの状態で、アラタは刀を敵に向けた。
枯渇状態だったはずの魔力は、いつの間にか少しだけ戻っている。
起動するのは雷槍のアレンジ。
鋒をいくつにも分割することで攻撃範囲を拡大している。
それなりに当たれば、敵の動きを鈍らせるくらいのことはできる。
「雷槍!!!」
その日、ミラ丘陵地帯は晴れのはずなのに落雷の音が聞こえたという。
彼らがカウントアップを開始してから実に4分54秒でカナン公国軍の防衛線が決壊。
アラタが完全にガス欠に陥って、それが引き金となり撤退の流れが確定した。
「動けっ、動け!」
震える足を叩いても、尋常ではない乳酸を溜め込んだ彼の太ももは言うことを聞かなくなっている。
握力も、腕力も、思考力も、持久力も、魔力も、何もかもがガス欠。
ただ気力だけがほんの僅かばかり残されているが、それだけでは何も為すことはできやしない。
「アラタ! 来い!」
「急げ!」
「カイワレ、アラタを援護しろ」
「了解」
この流れに乗じてアラタを仕留めようと殺到してきた帝国兵はカイワレが割り込んで対処した。
彼も既に満身創痍のはずなのに、まだ体力が残っている。
そう、アラタがいなくても彼が、トマスが、ルークがいるのだ。
だからまだ防衛を諦める段ではなかったのだが、流れというものは残酷である。
一度出来上がってしまえば、よほどのことがない限りそれを覆すことは非常に難しい。
勢いよく流れる川の水の流れを抑えるためには、まず川幅を広げて圧力を減らし、それから徐々に水を横道に避けていく。
そうやってじっくりと流れを削ることこそが正解な訳だが、それができるのならだれも苦労していない。
公国軍第32特別大隊が撤退を開始した。
※※※※※※※※※※※※※※※
殿の中の殿。
元々、公国軍第1師団の殿を第32大隊他2つの大隊が務めていたわけで、アラタたちはその中でもさらに最後尾、本当の最終列なのだ。
普通ならある程度時間を稼いだ後、力尽きて敵に飲み込まれハイお終いというところを、彼らは奇跡的に軍の形を維持することに成功している。
後世に語り継がれるレベルの奮戦を続けている彼らは、一体どこまで戦い続けることができるのか。
それは誰にも予測がつかないが、少なくとも限界がすぐそこまでやってきていることは確かだった。
主戦力、エース級のアラタが脱落。
味方に肩を貸してもらって辛うじて歩き続けることが出来ているという状況。
その後ろではルーク、トマス、カイワレが最前列に立って敵の猛追を凌いでいる。
しかし、アラタという大黒柱を失った彼らも徐々に疲弊していく。
何より治癒魔術師のタリアも倒れたのだから、もう彼らを治療したり回復したりしてくれる人がいないのだ。
あるのは残り少ないポーションだけ。
それも長く使うために2倍に希釈して量をかさまししている分効果は薄い。
帝国軍が勢いづくのは明白だった。
「ここを乗り越えれば平野だぞ! 無限の田畑だぞ!」
「おぉ!」
「やっとだぜ!」
「全軍全速前進!」
勝手なこと言いやがってと公国兵は唇をかむ。
それこそ血が滴るくらい噛み締めて、悔しさを滲ませる。
蛮族もいいところだ。
彼ら帝国人とは永遠に分かり合えないと、この戦争に参加した全ての公国兵は魂に刻み込まれたことだろう。
だがそれは勝敗とは何にも関係ないことだ。
善も悪も、信仰も、主義主張も、生まれも育ちも何もかも関係がない。
勝った方が偉い、勝った方が強い、勝った方が言い分を通すことができる。
それが戦争だ。
なんと素晴らしい仕組みなのだろう。
人間的、倫理的、国際秩序的正しさなんてどこにもない。
見渡して目に入るのはただ人の死体のみ。
血を流して川を作り、野生動物が食いきれないほどの量の臓物をまき散らし、木々を燃やし、自然を壊し、家を乗っ取り、街を焼き、畑を荒らし、そうした先に戦争は終わる。
両国は共に思うだろう。
こんな凄惨な事もう2度とやらないべきだと。
そう考えるのだが、残念なことに人間は忘れる事で明日を生きていくことが出来る。
辛いことを忘れることが出来るから人類はここまで発展してきた、それは否定しようがない。
だとすれば、戦争で負った痛みもいつか忘れてしまうことになる。
そうなれば何か理由を探してまた戦争だ、何百年何千年の幾年月を巡ろうと変わらない、人類の歴史の1ページだった。
「375小隊! これより我々は反転して敵を食い止める!」
「了解!」
「やってやりましょう!」
「俺に続け!」
Cランク冒険者バーンの率いる小隊が反転した。
小隊と言っても、その数は10名程度しかいない。
公国軍の小隊は本来20名以上で構成されるはずなのだが、五体満足な編成を組んでいる余裕は残されていなかった。
まだ道は狭く、道のすぐそばには地雷がばら撒かれている。
公国兵が手動で起動する必要がある為、この状況下ならもしかしたら爆破しないかもしれない。
ただ足を吹っ飛ばしてもいいから行ってくるという頭のおかしい人間がいればの話ではあるのだが。
それに、公国兵も馬鹿ではない。
きっと先頭切って駆け抜ける兵士は傷つけず、それを追いかけてきた後続の兵士たちを爆殺しようと考えているに違いない。
一度爆発を起こせば敵は引き返すことが極端に難しくなるし、敵軍の馬鹿は生かしておいて敵を混乱させるために使うに限る。
そんな思考があったうえで公国軍は後退しているので、帝国軍もおいそれと踏み込むことができない。
結局375小隊は敵の攻撃を真正面から受け止めることに成功して、アラタたちは少しだけ距離を確保することができた。
まあ、一時の違いでしかないのだが。
圧倒的劣勢で戦い続けている公国軍も、全員が一騎当千の強者とは言えない。
むしろ大多数は平均的な帝国兵よりも弱い。
それを何とか拮抗させているのはルークたちごく少数の特殊な人間たちで、彼ら抜きで帝国兵とまともにかち合えばどうなるか、今までの戦績が証明している。
「バーンさんたちが飲み込まれました」
ルークの隣の兵士はただ淡々と事実を伝えた。
ぶつかり合ってから数十秒、たったそれだけの時間で彼らは敵軍の波に呑まれた。
普通と言えば普通、むしろよくここまで持った。
バーンたちも歴戦の公国兵、最後の最後まで良く戦ったとたたえるべきだ。
彼らの紡ぎ出した数十秒が今後活きてくることがあるかもしれない。
冒険者たちと距離が生まれた公国兵は、騎兵を繰り出そうと後方に要請を出している。
ただ何事も今すぐにというのは難しく、いましばらく時間がかかるらしい。
ではどうするか。
指揮官の指示で、弓兵が矢をつがえた。
「よぉーく狙えよ。……斉射!」
鏃が風を切る音が鳴る。
切れ味鋭い音のすぐ後ろでは、ブゥンと羽が空気で震えている。
角度を付けて飛距離を稼ぐことで、少し先を行く公国兵たちに十分到達する飛距離を達成した。
中々いい狙いをしている。
「防御! 回避! 回避ー!」
空を見上げた兵士が叫ぶ。
その直後、公国軍に雨あられと矢が降り注いだ。
本当に雨みたいな量の矢が降り注いだ。
雨を防ぐには傘を差す必要があって、矢を防ぐなら盾が好ましい。
しかし全員が盾を装備しているわけでも、矢を防ぐための魔術を習得しているわけでもない。
結果、アラタには奇跡的に矢が当たらなかった。
もしかしたら無意識のうちに魔術で矢の軌道を逸らしていたという説もある。
その代わりと言ってはなんだが、隣を歩く味方に直撃した。
彼はアラタに肩を貸して、アラタの撤退を助けていた兵士だ。
肩や腕あたりなら痛い、それでも動こうで済むかもしれない。
ただ、当たり所が悪いことに矢が刺さったのは首の後ろ側。
一撃で致命傷足りうる箇所だ。
喉仏から突き出る銀色の鏃から、血が地面に滴り落ちる。
虚ろな目をしていたアラタはそれを見てギョッとして目を見開く。
すると逆に、彼のことを担いでくれていた兵士の眼から光が消えていく。
足も、腕も、手も、体中の力が抜けて、そのまま地面に倒れ込んだまま動かなくなった。
「アラタ! 立て!」
共に倒れ込んだ彼に対して、ルークが必死に叫ぶ。
叫びながら引き返そうとしたルークをトマスが止める。
そしてその代わりにカイワレを派遣し、自らは先を行く。
彼らの後ろから追いかけてくるのは、矢を撃ち終えた帝国兵。
そんな弓兵の壁が中心付近で割れて、騎兵が飛び出してきた。
どうやっても追いつかれる、万事休すだ。
アラタは動かなくなった戦友の身体を引き剥がすと、そのまま立ち上がろうとして地面に手を突いた。
ブルブル、ガクガクと震えて力が入らない。
後ろからはみるみるうちに敵が迫る。
カイワレも走っているものの、間に合うかどうかは分からない。
よしんば間に合ったとしても、あれだけの騎兵からアラタを護りながら下がるのは無理だ。
諦めの2文字がアラタの頭にちらついた。
——あー俺、死ぬのかな。
そんなシンプルで分かりやすく、かつ清々しいほど現状を受け入れた言葉が浮かんだ。
——握力ゼロだし。
つーか起き上がれん。
眠…………
きっと全部夢だったんだ。
寝れば夢から醒めるかも……
物理法則すら違う世界に連れてこられて、訳の分からないまま生きた1年と半年。
理不尽な事ばかりで、良いことなんて1つもない。
悲しいことばかり、悪いことばかり起こる。
ゲームにしてもフィクションにしても少しやりすぎなくらい、アラタは悲しみに満ちた異世界で時間を過ごしていく。
これは夢なんだ、通り魔に刺されてから今の今まで昏睡状態で、夢の中で生きていただけなんだ、そっちの方がまだいくらかマシだと、そう言っている。
家族もいない、友達にも会えない、恋人にも、先生にも、バイト仲間にも、人並みの娯楽も、現代的な暮らしも、何もかも失って生きてきた。
もう眠りたい、眠りから醒めたい、アラタはそう願った。
『アラタが死んじゃったら悲しいよ』
ノエル…………
アラタの名を呼び、手を握り、共に笑い、怒り、喜び、悲しみ、彼の帰りを待つ人がまだ残っている。
全てを失ったと絶望するにはまだ早い。
「……まだだ」
アラタの手に、失われたはずの力が籠められた。
あの子は日本から来た得体の知れない俺なんかに、数えきれないくらいたくさんの物をくれた。
生き残る力も、ここでの暮らし方も、冒険者の心構えも、金も、立場も。
たとえ打算が含まれていたとしても、俺はまだ生きていけると、生きていていいんだと、そう思えた。
大したことじゃないと言われても、それくらい俺には大きなことだった。
ただの人間として扱ってくれて、俺がどんなに救われたのか、まだありがとうと伝えていない。
……まだ何も返せてねぇ。
まだ何も!
返してねぇ!
血溜まりの中で男はもがく。
惨めったらしく、精一杯。
吐血しながらも刀を握り、空いた左手で地面を押し返す。
寸前まで騎兵が迫り、カイワレが【狂化】を起動した。
間に合う事には間に合った。
ただ彼だけではこの窮地を乗り越えることができそうにない。
【不溢の器】が起動条件を満たした。
「……全てを貫け」
片膝立ちの状態で、アラタは刀を敵に向けた。
枯渇状態だったはずの魔力は、いつの間にか少しだけ戻っている。
起動するのは雷槍のアレンジ。
鋒をいくつにも分割することで攻撃範囲を拡大している。
それなりに当たれば、敵の動きを鈍らせるくらいのことはできる。
「雷槍!!!」
その日、ミラ丘陵地帯は晴れのはずなのに落雷の音が聞こえたという。
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