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第5章 第十五次帝国戦役編
第367話 ここにいなくて良かった
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「お嬢、こちらは片付きました」
おちゃらけていることの多いモルトク達騎士団は、一人も欠けることなく与えられた任務を完遂した。
団員のうち3名をアリソン・フェンリルの護衛に残し、残りのメンバーで河川敷の防衛隊を無力化して回っていたのだ。
流石に、彼らだけで全ての機能を停止させるには時間が足りない。
そこはディラン・ウォーカーと協力したり、後に続く帝国本軍に任せる予定になっている。
彼らとしては、任務は最小限度の達成で構わないので、一刻も早くアリソンの元に帰りたかった。
彼らは宮廷武官でも、高名な冒険者でもない。
1人1人が達人級の戦闘力を有していても、アリソンの私兵としての立場を優先している。
それのどんなに歪な事か、猛者たちにそこまでさせる彼女はいったい何者なのか。
疑問が尽きることは無いが、彼らの周りにそれを聞いてくる人間は誰もいない。
河川敷は、血に染まっていた。
「ここで待ちましょ。飽きた」
「まあ、ウォーカー殿もやる気を出し始めたようですし、我々の仕事はここまでですな」
「早く帰ってお風呂に入りたいわ」
「戦場でも準備しますが?」
「そういうことじゃないの」
呆れた顔も可愛いなぁと、モルトク達はデレデレになっていた。
サークルの姫を思わせるほんわかとした様子と、周囲に転がる数多くの遺体が正反対の情景を映し出させる。
とにかく、コートランド川の河川敷は陥落した。
「敵が止まりません! 決断を!」
ひっきりなしに到着する報告の中に、公国軍にとって好ましい情報は何一つとして存在しなかった。
どこかの戦場では持ちこたえているとか、逆に押し返したとか、そんな希望の種はひと欠片もない。
念入りに、丁寧に、細心の注意を払って、微に入り細を穿ち、慢心なく、順序立てて予め決められた結末に向かって、この戦場の終わりが近づきつつあった。
「司令官殿……」
部隊を繰り出しても繰り出しても壊滅。
戦闘力の高い小規模部隊は先の包囲殲滅作戦であらかた使い切ったとはいえ、精鋭は残っていた。
冒険者の等級換算でDランクを最低ラインとする部隊も組織して、投入した。
結果、出撃から15分後に壊滅報告。
報告にこぎつけた生き残りはその後死亡した。
高台から見下ろしていると、その彼方から帝国軍が大挙して押し寄せているのが見える。
川の防衛網は滅茶苦茶に破壊され、今なお公国軍を蹂躙し続けている敵兵がいる。
「アボット閣下!」
よしんば先行している敵兵を倒すことが出来たとして、河川敷の戦闘が果たして可能なのか。
「…………無理であろうなぁ」
あんなに苦労して、苦心して、時間を使って、心血を注いで、そうしてようやく皆の力でもぎ取った勝利。
あそこまで尊いものもそうないだろう。
そしてそんなに大事な物でも、ふとした瞬間に壊れてしまう。
不注意だったとは思わない。
将兵の責任では、もちろんない。
全ては、自分の認識不足。
人間を相手にしていると、そう考えていた。
そう考えていた時点で、公国軍は負けていた。
「全軍、退却の準備を。後方のレイクタウンまで下がる」
アイザック・アボット大将は、うつむいてそう言った。
「……撤退」
「撤退だ! 後方から順次動かせろ!」
刹那の膠着の後、我に返った指揮官たちが指示を伝達する。
退却するとなれば、動き始めるまでにそれなりの余裕が必要で、この状況下で時間を無駄にするという事は、前線の兵士の命が散ることと同義だった。
次々に司令部が片付けられていき、荷物を載せて馬は走り出す。
退却先のレイクタウンには馬でも1日は確実にかかる。
追いつかれたところから敵に食われる、その事実が公国兵の手を急がせる。
「閣下、準備が整いました」
ティボールド・ネルソン大佐は、乗馬している。
無礼であることは承知の上で、いちいち下馬している余裕は無いのだ。
混迷を極める司令部、ひいては公国軍の中で、アイザックはただ一つの答えを胸に秘めたまま、思い切りがつかずにいた。
だが、眼下に広がる阿鼻叫喚の地獄絵図を見て、ようやく踏ん切りがついたみたいだ。
「貴官らは先に行け。私はこの陣と最期を共にする」
「なにバカなことを……正気ですか」
「あれだけ多くの兵士の命を使って一度は勝利しておきながら、このような結果になった責任を取らなければならない。のうのうと逃げかえれば、遺族に申し訳が立たない」
「なら生きて償うべきでしょうが!」
ネルソン大佐の怒声は、混乱の中で掻き消されてほとんど聞こえない。
それでも彼は、自分に怒ってくれているのだと、アイザックは深く感謝した。
「遺書もある、そうしなければならない理由も、すべて揃ってしまった。誰かが責任を負わねばならないのだよ」
「それは……おい、おい! 閣下をお連れしろ!」
「断る! もう決めたことだ」
こうしている間にも、味方は敵に食われ続けている。
まだ主力が渡河を終えるには早くとも、いずれその時は来てしまう。
上級将校が捕縛されれば、戦局がますます不利になる。
これ以上言い争っている時間は無く、ネルソン大佐もアボット大将の主張は理解していた。
第八次だか、九次だか、過去の戦争において序盤で敗北を喫した公国軍の参謀部に対して、国内から批判と責任を追及する声が上がった。
今となっては敵国の印象操作や煽動ありきの事件だと分かっているが、今回も同じことだ。
誰かが国民の溜飲を下げなければならない。
誰かが兵士に戦う意志を残さなければならない、それがたとえ憎しみからくる感情だったとしても。
ただ負けたよりも、率いる将が鮮烈な最期を迎えた方が、兵士の士気は維持できる芽が残る。
当然この後、将官たちによる鼓舞があってこその話で、ネルソン大佐はお供することが出来ない。
がっくりとうなだれた大佐は、唇を強く噛み締めるあまり、口の端から血が滴っていた。
鉄の味が口内に広がる。
この味を、屈辱を生涯忘れるものかと心に誓う。
自分たちの力が及ばず、士官学校時代の恩師を死なせてしまうことになるとは、在学当時は考えもしなかっただろう。
だが、これが現実だ。
戦場は、理不尽に溢れている。
「長旅、ご苦労様でした」
「君の旅が私のそれより長くなることを、心の底から祈っているよ」
「………………撤退だ。行くぞ」
背を向けた大佐の表情は、アボット大将からでは窺い知ることが出来ない。
我ながら酷なことをしたと、男は反省した。
ただ、もうすぐすべてが終わる。
前線はすでに崩壊しており軍は敗走、後方の部隊は辛うじて隊列を形成して退却している。
物資も最低限しか持ち出せず、多くは帝国軍に接収されてしまうのだろう。
口惜しいが、火を点ける時間すらなかった。
司令部跡地に残されたのは、アイザック・アボットとその直属の部下数名のみ。
「閣下、お供いたします」
「いや、いい」
「しかしそれでは……」
「介錯は不要。貴官らも撤退せよ」
「しかしご遺体を運ぶ役が必要です」
「問題ない。古い馴染みからの貰い物でな、大規模爆発術式魔道具だ」
男の手に握られていたのは、アラン・ドレイクの制作したワンオフの魔道具。
事前に充填された魔力と、クロックタイマーの仕掛けによって、高密度に組み込まれた魔術回路が暴走する。
暴走と言っても、あくまで計算に基づいて崩壊するだけだ。
その緻密に論理立てされた珠玉の一品は、一切の誤作動無く周囲数十メートルを吹き飛ばす。
遺体は残さない、敵には渡さない。
側仕えの兵士たちは、それでも一緒に最期を迎えたかった。
しかし、先ほど浅からぬ縁を持つネルソン大佐までもが感情を押し殺して撤退されたばかり。
自分たちのような若輩者の意見が通るわけがなく、通していいはずもなかった。
彼らは涙ながらに最後の別れを惜しむと、敵に追いつかれる前に馬の横腹を蹴って走り出した。
それを見送る司令官の表情は、ただひたすらに穏やかなものだった。
「さて……」
人っ子一人いなくなった司令部に、敵はまだ到達していない。
警戒しているのか、それとも包囲を先にしているのか、残党狩りを優先しているのか。
いずれにせよ、彼の目論見は半ば成功したようなものだ。
司令部の天幕を引き剥がすと、白い布を地面に敷く。
四隅をやや大きめの石で固定すると、それから先もたった1人で準備を進める。
こうも孤独だと、様々なことに思いを馳せる余裕が生まれる。
現公国軍士官学校、旧幼年学校での青春の日々は、今でも輝かしい思い出として彼の中に残っている。
よく怒られた、班員に迷惑をかけた、喧嘩もしたし、悪さもした。
それから先、10年20年に一度、戦争に参加した。
どの戦いでも近しい仲間を失わなかったことなどない。
中には見るも無残な姿になって発見された戦友もいる。
怨嗟の念が無かったと言えば嘘になる。
そうでもなければ、54歳にもなって戦場に出てきたりしない。
「私は…………」
天幕から入手した白地の布の上に、会議所に敷かれていた絨毯を下ろす。
絨毯もこんな使い方をするとは夢にも思わなかったことだろう。
既に防具は全て外していて、あとはシャツを脱ぐだけだ。
槍、弓、それから通常の剣は、消耗品であるがゆえに永遠に同じものを使うわけにはいかない。
ただし、短剣は別だ。
それをメインの武装として好む者以外は、近接格闘戦を除いてそれを使うことはほとんどない。
物持ちが良いのか、それともクロスレンジの戦いに弱かったのか、彼の手に握られた短剣は既に逝去している元帥閣下から預けられたものである。
借りたまま、彼は帰らぬ人となってしまっていた。
「長い旅路であったなぁ」
上半身裸になり、それから短剣の鞘を払う。
装飾品としての要素が強く、使い心地はさほど良くない。
それでも、最後を締めるのには十分すぎる格式を備えていた。
「ここにいなくて良かった」
遠目に見えたが、あれは倒せない。
我ながら良い判断だった。
しかし……歳か。
若者の成長を見たいと思ってしまうとは、老いたなぁ。
アラタがあの化け物に勝利する所を見てみたいなんて、彼もいい迷惑だろう。
——どうでもいい。
人智を超えた化け物に勝つことなんて、些事である。
彼だけではない。
この公国に生きとし生けるすべての国民たちが、理不尽に侵される事の無きよう、人並みの幸せを享受できるよう、本当の苦しみと絶望を知らぬままに天寿を全うできるよう、国を守ってほしい。
それだけが我が願いであり、その為に我は命を懸けるのだ。
これは決して犬死などではない。
私は、私の思い描いた輝かしい未来のために、己が命を懸けるのだ。
「公国に、栄光あれ」
※※※※※※※※※※※※※※※
「あちゃー。流石に逃げられたか」
「ウォーカー殿、こちらへ」
「んー?」
もぬけの殻となった司令部で、ディランやアリソン、その取り巻き達は一般兵と共に周囲を捜索していた。
捜索していれば、自然と見つかるものがある。
理想に殉じた、一人の男の生き様が。
「生きているのか?」
「死んでいるだろう。それに見ろ、首元に傷がない。一人でやっている」
「割腹なんて俺には無理だな」
興味深くモルトク達が故アイザック・アボットの亡骸を観察している。
それを遠巻きに見つめるディラン・ウォーカー。
ちなみにアリソンは見たくないと別の所を探索に向かった。
「おい、それなんだ?」
間抜けな声をあげた団員は、足元に転がっている球体状の金属の塊を指さした。
よくみると硝子? のような部分と金色の金属フレーム、シースルー状になった内部構造には魔道回路が散見される。
あれだけ戦闘に秀でているのだから、もう少し危機察知能力を磨くべきだと、ディランは思った。
「あっひょ、ブービートラッ——」
「……君たち、貸し1つね」
定刻になり、爆発機構が作動し始めた瞬間、ディランは剣を引き抜いて『ここだ』という場所に刃を突き立てた。
魔道具の理論的な話はそこまで詳しくなく、あくまでも彼の勘に基づいた行動。
まあ最悪暴発したとしても、自分だけは無事でいられるという自信があっての行動だった。
結果、彼だけではなく騎士団員まで無事だ。
「食えない爺だ」
1人で切腹するなんて、一体どれほどの苦痛を味わったのか想像すらしたくないというのに、前向きに倒れているこの老人の横顔は、心なしか安らかなものだった。
「死んだあとは見られたくないよね」
「自分はお嬢に看取って欲しいっす」
「あーそういうのいいから。軍の連中に見つかるとどうせろくなことにならないし、僕らで弔ってあげよう」
「えぇー! なんで俺らが——」
「貸し、1つや2つじゃないよね?」
「はい………………」
1万4千いたはずの公国軍は、散り散りになって離散した。
はぐれた兵士と脱走兵の区別もつかないような混乱では、もう立て直しは利かないかもしれない。
その日、帝国軍はコートランド川以西数十キロを支配下に収め、主要な戦いに勝利した。
おちゃらけていることの多いモルトク達騎士団は、一人も欠けることなく与えられた任務を完遂した。
団員のうち3名をアリソン・フェンリルの護衛に残し、残りのメンバーで河川敷の防衛隊を無力化して回っていたのだ。
流石に、彼らだけで全ての機能を停止させるには時間が足りない。
そこはディラン・ウォーカーと協力したり、後に続く帝国本軍に任せる予定になっている。
彼らとしては、任務は最小限度の達成で構わないので、一刻も早くアリソンの元に帰りたかった。
彼らは宮廷武官でも、高名な冒険者でもない。
1人1人が達人級の戦闘力を有していても、アリソンの私兵としての立場を優先している。
それのどんなに歪な事か、猛者たちにそこまでさせる彼女はいったい何者なのか。
疑問が尽きることは無いが、彼らの周りにそれを聞いてくる人間は誰もいない。
河川敷は、血に染まっていた。
「ここで待ちましょ。飽きた」
「まあ、ウォーカー殿もやる気を出し始めたようですし、我々の仕事はここまでですな」
「早く帰ってお風呂に入りたいわ」
「戦場でも準備しますが?」
「そういうことじゃないの」
呆れた顔も可愛いなぁと、モルトク達はデレデレになっていた。
サークルの姫を思わせるほんわかとした様子と、周囲に転がる数多くの遺体が正反対の情景を映し出させる。
とにかく、コートランド川の河川敷は陥落した。
「敵が止まりません! 決断を!」
ひっきりなしに到着する報告の中に、公国軍にとって好ましい情報は何一つとして存在しなかった。
どこかの戦場では持ちこたえているとか、逆に押し返したとか、そんな希望の種はひと欠片もない。
念入りに、丁寧に、細心の注意を払って、微に入り細を穿ち、慢心なく、順序立てて予め決められた結末に向かって、この戦場の終わりが近づきつつあった。
「司令官殿……」
部隊を繰り出しても繰り出しても壊滅。
戦闘力の高い小規模部隊は先の包囲殲滅作戦であらかた使い切ったとはいえ、精鋭は残っていた。
冒険者の等級換算でDランクを最低ラインとする部隊も組織して、投入した。
結果、出撃から15分後に壊滅報告。
報告にこぎつけた生き残りはその後死亡した。
高台から見下ろしていると、その彼方から帝国軍が大挙して押し寄せているのが見える。
川の防衛網は滅茶苦茶に破壊され、今なお公国軍を蹂躙し続けている敵兵がいる。
「アボット閣下!」
よしんば先行している敵兵を倒すことが出来たとして、河川敷の戦闘が果たして可能なのか。
「…………無理であろうなぁ」
あんなに苦労して、苦心して、時間を使って、心血を注いで、そうしてようやく皆の力でもぎ取った勝利。
あそこまで尊いものもそうないだろう。
そしてそんなに大事な物でも、ふとした瞬間に壊れてしまう。
不注意だったとは思わない。
将兵の責任では、もちろんない。
全ては、自分の認識不足。
人間を相手にしていると、そう考えていた。
そう考えていた時点で、公国軍は負けていた。
「全軍、退却の準備を。後方のレイクタウンまで下がる」
アイザック・アボット大将は、うつむいてそう言った。
「……撤退」
「撤退だ! 後方から順次動かせろ!」
刹那の膠着の後、我に返った指揮官たちが指示を伝達する。
退却するとなれば、動き始めるまでにそれなりの余裕が必要で、この状況下で時間を無駄にするという事は、前線の兵士の命が散ることと同義だった。
次々に司令部が片付けられていき、荷物を載せて馬は走り出す。
退却先のレイクタウンには馬でも1日は確実にかかる。
追いつかれたところから敵に食われる、その事実が公国兵の手を急がせる。
「閣下、準備が整いました」
ティボールド・ネルソン大佐は、乗馬している。
無礼であることは承知の上で、いちいち下馬している余裕は無いのだ。
混迷を極める司令部、ひいては公国軍の中で、アイザックはただ一つの答えを胸に秘めたまま、思い切りがつかずにいた。
だが、眼下に広がる阿鼻叫喚の地獄絵図を見て、ようやく踏ん切りがついたみたいだ。
「貴官らは先に行け。私はこの陣と最期を共にする」
「なにバカなことを……正気ですか」
「あれだけ多くの兵士の命を使って一度は勝利しておきながら、このような結果になった責任を取らなければならない。のうのうと逃げかえれば、遺族に申し訳が立たない」
「なら生きて償うべきでしょうが!」
ネルソン大佐の怒声は、混乱の中で掻き消されてほとんど聞こえない。
それでも彼は、自分に怒ってくれているのだと、アイザックは深く感謝した。
「遺書もある、そうしなければならない理由も、すべて揃ってしまった。誰かが責任を負わねばならないのだよ」
「それは……おい、おい! 閣下をお連れしろ!」
「断る! もう決めたことだ」
こうしている間にも、味方は敵に食われ続けている。
まだ主力が渡河を終えるには早くとも、いずれその時は来てしまう。
上級将校が捕縛されれば、戦局がますます不利になる。
これ以上言い争っている時間は無く、ネルソン大佐もアボット大将の主張は理解していた。
第八次だか、九次だか、過去の戦争において序盤で敗北を喫した公国軍の参謀部に対して、国内から批判と責任を追及する声が上がった。
今となっては敵国の印象操作や煽動ありきの事件だと分かっているが、今回も同じことだ。
誰かが国民の溜飲を下げなければならない。
誰かが兵士に戦う意志を残さなければならない、それがたとえ憎しみからくる感情だったとしても。
ただ負けたよりも、率いる将が鮮烈な最期を迎えた方が、兵士の士気は維持できる芽が残る。
当然この後、将官たちによる鼓舞があってこその話で、ネルソン大佐はお供することが出来ない。
がっくりとうなだれた大佐は、唇を強く噛み締めるあまり、口の端から血が滴っていた。
鉄の味が口内に広がる。
この味を、屈辱を生涯忘れるものかと心に誓う。
自分たちの力が及ばず、士官学校時代の恩師を死なせてしまうことになるとは、在学当時は考えもしなかっただろう。
だが、これが現実だ。
戦場は、理不尽に溢れている。
「長旅、ご苦労様でした」
「君の旅が私のそれより長くなることを、心の底から祈っているよ」
「………………撤退だ。行くぞ」
背を向けた大佐の表情は、アボット大将からでは窺い知ることが出来ない。
我ながら酷なことをしたと、男は反省した。
ただ、もうすぐすべてが終わる。
前線はすでに崩壊しており軍は敗走、後方の部隊は辛うじて隊列を形成して退却している。
物資も最低限しか持ち出せず、多くは帝国軍に接収されてしまうのだろう。
口惜しいが、火を点ける時間すらなかった。
司令部跡地に残されたのは、アイザック・アボットとその直属の部下数名のみ。
「閣下、お供いたします」
「いや、いい」
「しかしそれでは……」
「介錯は不要。貴官らも撤退せよ」
「しかしご遺体を運ぶ役が必要です」
「問題ない。古い馴染みからの貰い物でな、大規模爆発術式魔道具だ」
男の手に握られていたのは、アラン・ドレイクの制作したワンオフの魔道具。
事前に充填された魔力と、クロックタイマーの仕掛けによって、高密度に組み込まれた魔術回路が暴走する。
暴走と言っても、あくまで計算に基づいて崩壊するだけだ。
その緻密に論理立てされた珠玉の一品は、一切の誤作動無く周囲数十メートルを吹き飛ばす。
遺体は残さない、敵には渡さない。
側仕えの兵士たちは、それでも一緒に最期を迎えたかった。
しかし、先ほど浅からぬ縁を持つネルソン大佐までもが感情を押し殺して撤退されたばかり。
自分たちのような若輩者の意見が通るわけがなく、通していいはずもなかった。
彼らは涙ながらに最後の別れを惜しむと、敵に追いつかれる前に馬の横腹を蹴って走り出した。
それを見送る司令官の表情は、ただひたすらに穏やかなものだった。
「さて……」
人っ子一人いなくなった司令部に、敵はまだ到達していない。
警戒しているのか、それとも包囲を先にしているのか、残党狩りを優先しているのか。
いずれにせよ、彼の目論見は半ば成功したようなものだ。
司令部の天幕を引き剥がすと、白い布を地面に敷く。
四隅をやや大きめの石で固定すると、それから先もたった1人で準備を進める。
こうも孤独だと、様々なことに思いを馳せる余裕が生まれる。
現公国軍士官学校、旧幼年学校での青春の日々は、今でも輝かしい思い出として彼の中に残っている。
よく怒られた、班員に迷惑をかけた、喧嘩もしたし、悪さもした。
それから先、10年20年に一度、戦争に参加した。
どの戦いでも近しい仲間を失わなかったことなどない。
中には見るも無残な姿になって発見された戦友もいる。
怨嗟の念が無かったと言えば嘘になる。
そうでもなければ、54歳にもなって戦場に出てきたりしない。
「私は…………」
天幕から入手した白地の布の上に、会議所に敷かれていた絨毯を下ろす。
絨毯もこんな使い方をするとは夢にも思わなかったことだろう。
既に防具は全て外していて、あとはシャツを脱ぐだけだ。
槍、弓、それから通常の剣は、消耗品であるがゆえに永遠に同じものを使うわけにはいかない。
ただし、短剣は別だ。
それをメインの武装として好む者以外は、近接格闘戦を除いてそれを使うことはほとんどない。
物持ちが良いのか、それともクロスレンジの戦いに弱かったのか、彼の手に握られた短剣は既に逝去している元帥閣下から預けられたものである。
借りたまま、彼は帰らぬ人となってしまっていた。
「長い旅路であったなぁ」
上半身裸になり、それから短剣の鞘を払う。
装飾品としての要素が強く、使い心地はさほど良くない。
それでも、最後を締めるのには十分すぎる格式を備えていた。
「ここにいなくて良かった」
遠目に見えたが、あれは倒せない。
我ながら良い判断だった。
しかし……歳か。
若者の成長を見たいと思ってしまうとは、老いたなぁ。
アラタがあの化け物に勝利する所を見てみたいなんて、彼もいい迷惑だろう。
——どうでもいい。
人智を超えた化け物に勝つことなんて、些事である。
彼だけではない。
この公国に生きとし生けるすべての国民たちが、理不尽に侵される事の無きよう、人並みの幸せを享受できるよう、本当の苦しみと絶望を知らぬままに天寿を全うできるよう、国を守ってほしい。
それだけが我が願いであり、その為に我は命を懸けるのだ。
これは決して犬死などではない。
私は、私の思い描いた輝かしい未来のために、己が命を懸けるのだ。
「公国に、栄光あれ」
※※※※※※※※※※※※※※※
「あちゃー。流石に逃げられたか」
「ウォーカー殿、こちらへ」
「んー?」
もぬけの殻となった司令部で、ディランやアリソン、その取り巻き達は一般兵と共に周囲を捜索していた。
捜索していれば、自然と見つかるものがある。
理想に殉じた、一人の男の生き様が。
「生きているのか?」
「死んでいるだろう。それに見ろ、首元に傷がない。一人でやっている」
「割腹なんて俺には無理だな」
興味深くモルトク達が故アイザック・アボットの亡骸を観察している。
それを遠巻きに見つめるディラン・ウォーカー。
ちなみにアリソンは見たくないと別の所を探索に向かった。
「おい、それなんだ?」
間抜けな声をあげた団員は、足元に転がっている球体状の金属の塊を指さした。
よくみると硝子? のような部分と金色の金属フレーム、シースルー状になった内部構造には魔道回路が散見される。
あれだけ戦闘に秀でているのだから、もう少し危機察知能力を磨くべきだと、ディランは思った。
「あっひょ、ブービートラッ——」
「……君たち、貸し1つね」
定刻になり、爆発機構が作動し始めた瞬間、ディランは剣を引き抜いて『ここだ』という場所に刃を突き立てた。
魔道具の理論的な話はそこまで詳しくなく、あくまでも彼の勘に基づいた行動。
まあ最悪暴発したとしても、自分だけは無事でいられるという自信があっての行動だった。
結果、彼だけではなく騎士団員まで無事だ。
「食えない爺だ」
1人で切腹するなんて、一体どれほどの苦痛を味わったのか想像すらしたくないというのに、前向きに倒れているこの老人の横顔は、心なしか安らかなものだった。
「死んだあとは見られたくないよね」
「自分はお嬢に看取って欲しいっす」
「あーそういうのいいから。軍の連中に見つかるとどうせろくなことにならないし、僕らで弔ってあげよう」
「えぇー! なんで俺らが——」
「貸し、1つや2つじゃないよね?」
「はい………………」
1万4千いたはずの公国軍は、散り散りになって離散した。
はぐれた兵士と脱走兵の区別もつかないような混乱では、もう立て直しは利かないかもしれない。
その日、帝国軍はコートランド川以西数十キロを支配下に収め、主要な戦いに勝利した。
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平凡な能力値、野望など抱いていない彼は、冒険者としてスローライフを目標に日々を過ごしていく。
果たして、彼を待ち受ける出会いや試練は如何なるものか……
ファンタジー世界に向き合う、平凡な冒険者の物語。
魔境に捨てられたけどめげずに生きていきます
ツバキ
ファンタジー
貴族の子供として産まれた主人公、五歳の時の魔力属性検査で魔力属性が無属性だと判明したそれを知った父親は主人公を魔境へ捨ててしまう
どんどん更新していきます。
ちょっと、恨み描写などがあるので、R15にしました。
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