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第3章 大公選編
第232話 大切にするべきもの
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「……よしっ」
準備を整え、荷物を持ち、少女は家を出た。
向かうのはアラタの元。
もう来ないでほしいと言われてしまったが、そう言われてはいそうですかと大人しく引き下がる彼女ではない。
きっとアラタは心底嫌そうな顔をするだろうが、今回に関しては判断に迷うところだ。
家に閉じこもってしまった人間を、無理矢理外に引きずり出そうとするのはいただけない。
しかし、だからと言って放っておくことが正しいとも思えない。
回復に時間が必要なのは大前提で、そこに疑いの余地はない。
それでも、回復に必要な時間というのは努力した時間であって、何もしなかった時間はカウントされない。
「おはよう!」
不安を押し殺すように、明るく元気な声を出す。
少しすると、玄関の引き戸が開き、家主が顔を出した。
「おはようございます。さ、どうぞ」
「ドレイク殿。アラタは…………」
「まあお入りくだされ」
答えを知らぬまま、ノエルは家に上がり込んだ。
昨日も通った廊下を抜けて、いつも通される居間にある椅子に着席した。
朝ご飯を食べてすぐ出てきた彼女に、ドレイクはダージリンの紅茶を淹れて、テーブルに置いた。
無難なチョイスは、彼の危機意識の表れだろうか。
居間に、アラタの姿はない。
昨日言われてしまった通りに、彼は顔を出す気が無いらしい。
ノエルは知らないが、夕食時に彼が放った一言、『他人の人生の責任を、もう俺は背負えないです』という言葉が、如実にそれを表している。
また一緒に冒険者として活動したいノエルと、そんなことをして何か事件にでも巻き込んでしまったら自分には責任の取りようがないと、逃げるアラタは出会うことが出来ない。
一口紅茶を飲み、熱かったのかフーフーと息を吹きかけるノエルの耳に、何やら騒々しい音が届く。
「ドレイク殿、あれは?」
「あ、いやー、ははは……」
笑ってはぐらかそうとする彼の笑みには強さが無い。
隠し事を隠し通す強さが。
父親譲りの真っ赤な瞳で見つめられ、たまらずドレイクは降参する。
「クリスが暴れていて、ハルツ殿がそれを抑え込んでおる」
ノエルの脳裏に、黒い眼帯を付けた女の顔が浮かぶ。
きっと、あれは『今の』アラタの仲間なのだろう。
彼女やリーゼがいない間、アラタが一人ぼっちだったわけがない。
ノエルが知っているアラタの足跡と言えば、レイフォード家に向かい、ティンダロスの猟犬もしくは協力組織に所属して、その後黒装束を身に纏って活動していたことくらい。
一応処刑されて死亡したことになっている彼に関して、ここまで知っているだけでも彼女はそれなりに詳しい情報に触れている立場だ。
それでもクリス個人や、アラタ達に何があったのかまでは知らない。
「ドレイク殿」
「何ですか」
「少し、アラタのことを教えてほしい」
紅茶カップに手を添えて、熱が掌に伝播する。
男は自分の分の紅茶を淹れて、反対側のテーブルについた。
「凄惨な話になります」
「構わない」
「ではまず、エリザベス・フォン・レイフォードの本当の名から、お話ししましょうか」
※※※※※※※※※※※※※※※
「そこをどけ」
「これでも仕事熱心でね」
「部外者に何がわかる、何が出来る」
「君は少々過保護じゃないかい?」
「圧し通る!」
外に出て、ノエルを追い出したいクリスと、それをさせまいとするハルツ。
クリスの武器はドレイクが預かっており、刃物の類はこの部屋に存在しない。
それでも、素手でもクリスはそこそこ戦える。
「君も体調は良くないはずだ。静養に努めなさい」
「アラタの方がよほど酷い!」
「君の話をしているんだけどねっ!」
感情的になっていても、クリスは意外と後ろ重心だ。
ジャブを放ち、位置を探り、右手を使うタイミングを計っている。
対してハルツは積極的には仕掛けない。
迫りくる攻撃を捌き、何とか拘束できないかと苦心している。
「傷口が開いているぞ。もうやめるんだ」
「やめない」
動き続ける彼女の服には、赤いものが滲み始めている。
服の下で、傷口が開いて出血しているのだ。
「アラタを大切に思う気持ちは理解する。だが、それと同じくらい、君は君を大切にすべきだ」
「だまれ」
「アラタは気性の荒い女性を引き寄せる運命なのか」
すれすれのところでクリスの右ストレートを躱し、そのまま腕を取った。
肘関節を極め、流れのまま投げ飛ばす。
床は畳でも、マットでもない。
ただの木材だ。
「かはっ!」
受け身を取ったが、しっかりと叩き付けられればダメージは入る。
ましてや彼女は要安静状態のけが人だ。
息が肺の外に押し出されてしまったクリスは、荒く呼吸をしてそれを取り戻す。
ハルツの勝利である。
「俺のパーティーに治癒魔術師がいる。呼んでやるから治療を受けろ」
「……必要ない。アラタの方が重傷だ」
「君というやつは、強情にも程がある。自分を大切に——」
「アラタは、あいつはあいつ自身を大切にしようとしない。だから、私があいつを大切にする。そう頼まれた。エリに、キィに、何より私がそうすべきだと考えている。だから……」
失われた左目の視力は、そうして彼女が捧げたものの一つ。
アラタの負担を肩代わりしようとした結果、彼女は世界を半分失った。
ハルツは彼女を見下ろすと、なんて声を掛ければいいか、答えに詰まった。
それは違うと断言できるが、じゃあどうすればいいか、さしたる答えを持ち合わせていないから。
アラタの言った人生の責任と同様、この問題に答えは無いのかもしれない。
近似的な解を各々の胸に、それで辻褄合わせをするほかない。
「大切にするのなら、両方とも大切にしなさい」
そう言い、クリスが起き上がらないように見張ることしかできなかった。
※※※※※※※※※※※※※※※
クリスとハルツのいる部屋から音が止んだ頃、居間でも丁度一区切りついていた。
ドレイクの口から間接的に、事件の顛末が語られた。
エリザベスが異世界人であること、しかもそれがアラタの幼馴染であること、アラタが彼女に想いを寄せ、彼女もまた同じ想いだったこと、ノエル暗殺計画を機にアラタはレイフォード家を離れたこと、それから黒装束、八咫烏として、大公選の裏で暗躍し、時にノエルの護衛もしていたことも。
そして、戦いに敗れ、自らエリザベスを斬ったことも。
「あ奴はもう、ノエル様の知っている男ではない。勧誘は諦めた方がよろしい」
ドレイクは、ノエルに諦めさせるためにこの話をした。
もうあの頃には戻れないと、現実を突きつける為に。
「アラタは今どこにいる」
「わしから答えることが出来ませぬ」
ドレイクは空になったカップを見て、お代わりを淹れる為に席を立とうとした。
そしてその手を掴むノエル。
ドレイクは視線をそらしているが、刺すような目力を感じる。
「頼む。私をアラタに会わせてくれ」
握る力はどんどん強くなり、怪我をしないために【身体強化】で対応を余儀なくされる。
魔力が奔り、腕の痛みは消えた。
「ドレイク殿!」
——責任は負いかねる。
「玄関を入って左側の3つ目と4つ目の扉。その間に地下訓練場へと続く階段がある」
賢者は折れた。
これ以上は隠しきれない、あとは自分で何とかせいと、全ての面倒ごとを弟子に押し付けることにした。
普段なら弟子のアラタから猛抗議が来るところだが、今回ばかりはどう転ぶか分からない。
もしかしたら、強引に城門を突破して出ていくかもしれない。
そしてその逆も。
全ては、剣聖の少女に託された。
「ありがとう。行ってくる」
そして、ノエルは居間から出て行った。
「ここか」
見た目は何の変哲もない壁。
ただ、部屋の間取りを考えれば、少々壁が分厚過ぎる。
あいだには、人が通れるサイズの空間がある。
ここに人が埋められているとかだったらホラー系の話になるのだが、流石にそれは無い。
決められた箇所に決められた魔力を注ぐと、それは動き出す。
賢者の家に相応しい仕掛けだ。
ぽっかりと口を開けた暗闇に、ノエルは一瞬躊躇する。
アラタは【暗視】を持っているが、彼女は持っていない。
照明器具が無いと、視界を確保することも難しいのだ。
それでも剣聖のクラスの力を引き出せば、ある程度周囲の状況は把握できる。
どんな階段なのかとか、どのあたりまで続いているのかとか、道の幅はどれくらいだとか、そんなことだ。
階段を下りていくと、結構下まで降りたところでそれは終わりを迎えた。
平地は、右側に通路を伸ばしている。
続く道は暗闇、幽霊病院みたいな怖さがある。
その奥から聞こえてくる、風切り音。
土をこする音がして、誰かが足を動かしている。
そして、彼女の眼に光が射した。
見つけた。
見知った後ろ姿。
見知った武器。
見知った顔。
アラタは、そこで刀を振っていた。
「来ないでほしいと言ったはずですが」
彼の敬語が、距離を引き延ばす。
途方もないくらい、徒歩ではたどり着けないような、姿が消えてしまうくらいの遠さ。
それでも、ノエルは彼を諦めきれない。
正直、引っ込みがつかなくなっている部分も大いにあるのだろう。
彼が出て行った直後、必ず連れ戻すと喧伝し、結果が伴わない状況に、ノエルは少し疲れた。
でも、それでも戻ってきてほしいと、始めの方は本気で思っていた。
それから時は過ぎて、アラタと過ごした時間より多くの時間が流れた。
今となっては、あの屋敷で過ごした日々は極々短い思い出となって、それ以外の記憶に埋もれている。
全力疾走で追いかけていたはずなのに、それはいつしかランニングに代わり、ジョギングにまで落ち、徒歩となり、そして止まった。
もう二度と会えないかもしれない、そうなれば追いかける意味もなくなってしまう。
大公選が激化し、東奔西走しているうちに、ノエルはそれでいっぱいいっぱいになっていた。
だから、余裕が出来た今だからこそアラタを捕まえようとしているなんて、虫の良いはなしなのかもしれない。
自分の中のもう一人の人格が、主導権を寄越せと騒ぎ出す。
それを押さえつけて、ノエルは前を見た。
まだ、自分はこの男に償っていない。
背中を斬った罪を、贖っていない。
異世界人のアラタを巻き込んで、彼の人生をめちゃくちゃにした責任を、まだ取っていない。
だから、もう一度全力で走ろうと思う。
「おはようアラタ」
準備を整え、荷物を持ち、少女は家を出た。
向かうのはアラタの元。
もう来ないでほしいと言われてしまったが、そう言われてはいそうですかと大人しく引き下がる彼女ではない。
きっとアラタは心底嫌そうな顔をするだろうが、今回に関しては判断に迷うところだ。
家に閉じこもってしまった人間を、無理矢理外に引きずり出そうとするのはいただけない。
しかし、だからと言って放っておくことが正しいとも思えない。
回復に時間が必要なのは大前提で、そこに疑いの余地はない。
それでも、回復に必要な時間というのは努力した時間であって、何もしなかった時間はカウントされない。
「おはよう!」
不安を押し殺すように、明るく元気な声を出す。
少しすると、玄関の引き戸が開き、家主が顔を出した。
「おはようございます。さ、どうぞ」
「ドレイク殿。アラタは…………」
「まあお入りくだされ」
答えを知らぬまま、ノエルは家に上がり込んだ。
昨日も通った廊下を抜けて、いつも通される居間にある椅子に着席した。
朝ご飯を食べてすぐ出てきた彼女に、ドレイクはダージリンの紅茶を淹れて、テーブルに置いた。
無難なチョイスは、彼の危機意識の表れだろうか。
居間に、アラタの姿はない。
昨日言われてしまった通りに、彼は顔を出す気が無いらしい。
ノエルは知らないが、夕食時に彼が放った一言、『他人の人生の責任を、もう俺は背負えないです』という言葉が、如実にそれを表している。
また一緒に冒険者として活動したいノエルと、そんなことをして何か事件にでも巻き込んでしまったら自分には責任の取りようがないと、逃げるアラタは出会うことが出来ない。
一口紅茶を飲み、熱かったのかフーフーと息を吹きかけるノエルの耳に、何やら騒々しい音が届く。
「ドレイク殿、あれは?」
「あ、いやー、ははは……」
笑ってはぐらかそうとする彼の笑みには強さが無い。
隠し事を隠し通す強さが。
父親譲りの真っ赤な瞳で見つめられ、たまらずドレイクは降参する。
「クリスが暴れていて、ハルツ殿がそれを抑え込んでおる」
ノエルの脳裏に、黒い眼帯を付けた女の顔が浮かぶ。
きっと、あれは『今の』アラタの仲間なのだろう。
彼女やリーゼがいない間、アラタが一人ぼっちだったわけがない。
ノエルが知っているアラタの足跡と言えば、レイフォード家に向かい、ティンダロスの猟犬もしくは協力組織に所属して、その後黒装束を身に纏って活動していたことくらい。
一応処刑されて死亡したことになっている彼に関して、ここまで知っているだけでも彼女はそれなりに詳しい情報に触れている立場だ。
それでもクリス個人や、アラタ達に何があったのかまでは知らない。
「ドレイク殿」
「何ですか」
「少し、アラタのことを教えてほしい」
紅茶カップに手を添えて、熱が掌に伝播する。
男は自分の分の紅茶を淹れて、反対側のテーブルについた。
「凄惨な話になります」
「構わない」
「ではまず、エリザベス・フォン・レイフォードの本当の名から、お話ししましょうか」
※※※※※※※※※※※※※※※
「そこをどけ」
「これでも仕事熱心でね」
「部外者に何がわかる、何が出来る」
「君は少々過保護じゃないかい?」
「圧し通る!」
外に出て、ノエルを追い出したいクリスと、それをさせまいとするハルツ。
クリスの武器はドレイクが預かっており、刃物の類はこの部屋に存在しない。
それでも、素手でもクリスはそこそこ戦える。
「君も体調は良くないはずだ。静養に努めなさい」
「アラタの方がよほど酷い!」
「君の話をしているんだけどねっ!」
感情的になっていても、クリスは意外と後ろ重心だ。
ジャブを放ち、位置を探り、右手を使うタイミングを計っている。
対してハルツは積極的には仕掛けない。
迫りくる攻撃を捌き、何とか拘束できないかと苦心している。
「傷口が開いているぞ。もうやめるんだ」
「やめない」
動き続ける彼女の服には、赤いものが滲み始めている。
服の下で、傷口が開いて出血しているのだ。
「アラタを大切に思う気持ちは理解する。だが、それと同じくらい、君は君を大切にすべきだ」
「だまれ」
「アラタは気性の荒い女性を引き寄せる運命なのか」
すれすれのところでクリスの右ストレートを躱し、そのまま腕を取った。
肘関節を極め、流れのまま投げ飛ばす。
床は畳でも、マットでもない。
ただの木材だ。
「かはっ!」
受け身を取ったが、しっかりと叩き付けられればダメージは入る。
ましてや彼女は要安静状態のけが人だ。
息が肺の外に押し出されてしまったクリスは、荒く呼吸をしてそれを取り戻す。
ハルツの勝利である。
「俺のパーティーに治癒魔術師がいる。呼んでやるから治療を受けろ」
「……必要ない。アラタの方が重傷だ」
「君というやつは、強情にも程がある。自分を大切に——」
「アラタは、あいつはあいつ自身を大切にしようとしない。だから、私があいつを大切にする。そう頼まれた。エリに、キィに、何より私がそうすべきだと考えている。だから……」
失われた左目の視力は、そうして彼女が捧げたものの一つ。
アラタの負担を肩代わりしようとした結果、彼女は世界を半分失った。
ハルツは彼女を見下ろすと、なんて声を掛ければいいか、答えに詰まった。
それは違うと断言できるが、じゃあどうすればいいか、さしたる答えを持ち合わせていないから。
アラタの言った人生の責任と同様、この問題に答えは無いのかもしれない。
近似的な解を各々の胸に、それで辻褄合わせをするほかない。
「大切にするのなら、両方とも大切にしなさい」
そう言い、クリスが起き上がらないように見張ることしかできなかった。
※※※※※※※※※※※※※※※
クリスとハルツのいる部屋から音が止んだ頃、居間でも丁度一区切りついていた。
ドレイクの口から間接的に、事件の顛末が語られた。
エリザベスが異世界人であること、しかもそれがアラタの幼馴染であること、アラタが彼女に想いを寄せ、彼女もまた同じ想いだったこと、ノエル暗殺計画を機にアラタはレイフォード家を離れたこと、それから黒装束、八咫烏として、大公選の裏で暗躍し、時にノエルの護衛もしていたことも。
そして、戦いに敗れ、自らエリザベスを斬ったことも。
「あ奴はもう、ノエル様の知っている男ではない。勧誘は諦めた方がよろしい」
ドレイクは、ノエルに諦めさせるためにこの話をした。
もうあの頃には戻れないと、現実を突きつける為に。
「アラタは今どこにいる」
「わしから答えることが出来ませぬ」
ドレイクは空になったカップを見て、お代わりを淹れる為に席を立とうとした。
そしてその手を掴むノエル。
ドレイクは視線をそらしているが、刺すような目力を感じる。
「頼む。私をアラタに会わせてくれ」
握る力はどんどん強くなり、怪我をしないために【身体強化】で対応を余儀なくされる。
魔力が奔り、腕の痛みは消えた。
「ドレイク殿!」
——責任は負いかねる。
「玄関を入って左側の3つ目と4つ目の扉。その間に地下訓練場へと続く階段がある」
賢者は折れた。
これ以上は隠しきれない、あとは自分で何とかせいと、全ての面倒ごとを弟子に押し付けることにした。
普段なら弟子のアラタから猛抗議が来るところだが、今回ばかりはどう転ぶか分からない。
もしかしたら、強引に城門を突破して出ていくかもしれない。
そしてその逆も。
全ては、剣聖の少女に託された。
「ありがとう。行ってくる」
そして、ノエルは居間から出て行った。
「ここか」
見た目は何の変哲もない壁。
ただ、部屋の間取りを考えれば、少々壁が分厚過ぎる。
あいだには、人が通れるサイズの空間がある。
ここに人が埋められているとかだったらホラー系の話になるのだが、流石にそれは無い。
決められた箇所に決められた魔力を注ぐと、それは動き出す。
賢者の家に相応しい仕掛けだ。
ぽっかりと口を開けた暗闇に、ノエルは一瞬躊躇する。
アラタは【暗視】を持っているが、彼女は持っていない。
照明器具が無いと、視界を確保することも難しいのだ。
それでも剣聖のクラスの力を引き出せば、ある程度周囲の状況は把握できる。
どんな階段なのかとか、どのあたりまで続いているのかとか、道の幅はどれくらいだとか、そんなことだ。
階段を下りていくと、結構下まで降りたところでそれは終わりを迎えた。
平地は、右側に通路を伸ばしている。
続く道は暗闇、幽霊病院みたいな怖さがある。
その奥から聞こえてくる、風切り音。
土をこする音がして、誰かが足を動かしている。
そして、彼女の眼に光が射した。
見つけた。
見知った後ろ姿。
見知った武器。
見知った顔。
アラタは、そこで刀を振っていた。
「来ないでほしいと言ったはずですが」
彼の敬語が、距離を引き延ばす。
途方もないくらい、徒歩ではたどり着けないような、姿が消えてしまうくらいの遠さ。
それでも、ノエルは彼を諦めきれない。
正直、引っ込みがつかなくなっている部分も大いにあるのだろう。
彼が出て行った直後、必ず連れ戻すと喧伝し、結果が伴わない状況に、ノエルは少し疲れた。
でも、それでも戻ってきてほしいと、始めの方は本気で思っていた。
それから時は過ぎて、アラタと過ごした時間より多くの時間が流れた。
今となっては、あの屋敷で過ごした日々は極々短い思い出となって、それ以外の記憶に埋もれている。
全力疾走で追いかけていたはずなのに、それはいつしかランニングに代わり、ジョギングにまで落ち、徒歩となり、そして止まった。
もう二度と会えないかもしれない、そうなれば追いかける意味もなくなってしまう。
大公選が激化し、東奔西走しているうちに、ノエルはそれでいっぱいいっぱいになっていた。
だから、余裕が出来た今だからこそアラタを捕まえようとしているなんて、虫の良いはなしなのかもしれない。
自分の中のもう一人の人格が、主導権を寄越せと騒ぎ出す。
それを押さえつけて、ノエルは前を見た。
まだ、自分はこの男に償っていない。
背中を斬った罪を、贖っていない。
異世界人のアラタを巻き込んで、彼の人生をめちゃくちゃにした責任を、まだ取っていない。
だから、もう一度全力で走ろうと思う。
「おはようアラタ」
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