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第3章 大公選編
第216話 蹂躙、狂化(烏鷺相克10)
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突然だが、土は汚い。
失敬、汚いという表現は適切ではない。
人体にとって、好ましくないというのが正しい気がする。
ヒトは雑食で、食物連鎖の頂点に君臨している以上、当然そのサイクルの中に身を置いている。
火葬する国が多いと言っても、人間を構成していたエネルギーは微生物によって分解されるし、それらを栄養素と一緒に取り込んだり共生することで発育する植物を、ヒトは食べている。
あくまでも、斬り落とされた指を転がしてしまう場所として、地面は不適切だという話だ。
指絡めという技を、彼が使ってくることは想定外だったのか、思いのほかあっさりとユウの右手にある人差し指、中指、薬指は落ちた。
節くれ立ったそれは、ウインナーのようなフォルムをしている。
切断面はきれいで、状態次第では元通りになるかもしれないくらいだ。
ただ、落ちた場所が悪い。
そして、その場所を思い切り踏みつけにする足があった。
「おぉぉぉおおお!」
チャンスは今を置いて他にないと、誰だってそう思う。
アラタが渾身の力を込めて踏み込んだ足は、ユウの指を踏みつけにして、再利用不可能な状態にしてしまう。
するりと抜いた刀の向きをそのままに、今日何度目になるか分からない突きを繰り出した。
それだけこの攻撃が有効的で使い勝手がいいのだろう。
この距離感、この状況、今度こそ。
たとえ犯罪者だろうと、好きな人を守りたい。
究極のエゴが、ユウを刺し貫こうとした。
想いよ、届け。
そうアラタは願った。
あろうことか、神様に。
神は気まぐれで、適当で、人情味が無く、平気で人の心を弄ぶというのに。
彼はそれをとうの昔に知っていたはずなのに。
無情な、無機質な、無感動な、平坦な声が、聞こえた。
「ま、こんなところか」
——3発。
アラタが一刺しするより速く、彼の体に衝撃が届いた。
確かに先手は取った。
隙も突いた。
指まで落とした。
ただ、『何故』を考えている間にも、彼の体は宙を舞いながら人形のように回転している。
色々聞きたいことはあるが、彼は、吹き飛ばされた。
子供が人形のおもちゃでヒーローごっこをするときのように、圧倒的な力でねじ伏せられた怪獣が爆散するときのように。
正面に感じた3つの衝撃の後、アラタの背中に、それと同等級のインパクトがやって来た。
「がっはぁっ!」
横隔膜が痙攣し、肺の空気が全部出る。
同時に気管に傷がついたのか、口内には鉄の味が広がった。
刀を手放さなかっただけ、賞賛すべきだが、状況はそこまで甘くない。
信じられない光景が、そこには広がっていた。
「随分と汚れたな」
まるで床に落としたリンゴの表面を拭くがごとく、ユウは自分の指に付いた泥を落としていた。
ばっちいけど、拭けばまた食べられるだろうと、使えるだろうと、そんな様子で、落ちてグチャグチャになった指を綺麗にする。
断面からは土の粒が入り込み、もはや完全除去不可能なまでに浸潤している。
どっからどう見ても、こいつの指は治らない。
それは日本人としての彼の常識ではなく、異世界にやって来て、彼なりに常識のアップデートを行ったうえでの結論だった。
だからこそ、こんなのは夢だ、悪夢だ、そうに違いない。
「う……むぅ。まあこれで問題ないか」
グチュグチュとおぞましい音を立てつつ、細胞が蠢き、癒着し、接着されていく。
それは粘菌生物の動きを早送りで見ているみたいで、気味が悪い。
男が手を離してからも、彼の指先はうねうねと動き続けている。
その見た目の気持ち悪さも特筆ものだが、そうして得られた結果の方が、アラタは目を背けたかった。
やっとのことで、自分の命を懸けて放った攻撃で、ようやっと数本の指を斬り飛ばすことが叶ったというのに、ものの数秒で全ては水泡に帰した。
体から力が抜けていくのを感じる。
膨らませた風船の口を縛らず、手で押さえ止めていたところで、いずれ限界はやってくる。
握力の限界がだ。
そうして一度切られた堰はもう二度と元に戻らない。
抜けた空気はもう一度入れなおすことは出来ない。
アラタの刀から、剣圧が消えた。
それでも彼は刀を構える。
勝敗は決したが、それでも彼は武器を構える。
本能では理解していても、心がそれを認めないから。
諦めないから、諦められないから。
「束の間の夢だったな」
「い、いや。まだだ」
自動治癒の使い手なら、以前倒した。
元Aランク冒険者だったが、死傷者は出たが、仕留めた。
でも、それとこれとはまた違う話。
今回は、思うようにいかない。
限界が近づいていた。
「今から、丁寧に、丹念に、綿密に、細微に、周密に、隅々まで、一切合切、お前の悉くを叩き潰す。お前に、正しい絶望を与えてやる」
いつの間にか、アラタが負わせたはずの傷は全て癒えていて、今までの死闘は幻想だったのではないかと、幻だったのではないかと、そう思わせるほど、ユウは五体満足な状態で彼の前に立ちふさがっていた。
こんなことって、ある?
そう聞きたくなるほど、目をそむけたくなる現実。
これが夢なら、そうならそうと、早く種明かしして欲しい。
本当に、夢なら。
「ゴクッ。…………ぉぉお!!!」
気力を振り絞り、アラタは今一度、リスタートを切る。
今までのがダメだったら、一から積み上げてやると。
最後の気力を振り絞って、命を燃やして、彼は立ち向かった。
「ゔぅっ!」
袈裟斬りが空振り、代わりにアラタの腹には剣の柄がめり込む。
黒装束が衝撃を多少軽減してくれると言っても、限度はある。
ここまで綺麗に打撃が入ると、ドレイク謹製の魔道具もお手上げだ。
「ああぁ!」
斬り返した左逆袈裟斬りでも、ユウを捉えることは出来ない。
今度は、左ひじがアラタの顔に入る。
鋭利な肘先が、彼の頬を切り裂いた。
この二太刀、明らかにアラタの動きが鈍っている。
さっきまで魔術を絡めて、変幻自在な攻め手を展開していた彼らしくない。
まるで別人、これではまともに打ち合うことすら難しい。
疲労の色が濃い。
ユウの攻撃で脳が揺れているのもあるだろうが、それだけではない。
隠しきれないほど、蓄積してきた疲労が、集中力の低下に伴って表出したのだ。
これ以上、アラタが強くなることは厳しい。
そして、またユウの一方的なワンサイドゲームが広げられた。
殺さないという彼の宣言通り、何度も何度も斬り殺すタイミングを見逃し、代わりに蹴りや拳をお見舞いする。
そのたびにアラタは呻き、転び、倒れ、嘔吐する。
胃の中の物を全て吐き切って、それでも転がされるアラタは、ついに胃液すら出なくなった。
敗北は確定的、文字通り一敗地に塗れた。
もう呼吸も途切れ途切れ。
これ以上は無理、日本なら即時救急車で緊急搬送が必要なレベルの衰弱。
「弱い者いじめはつまらんな」
そう吐き捨てるように言うと、アラタはまた立ち上がる。
そしてその度にユウに攻撃を叩きこまれ、昏倒する。
「飽きたな」
また立ち上がり、そして倒れる。
「ひねりが無いな」
男は、アラタは動かない。
動かなくなってしまった。
さっきから、頭では立ち上がろうとしている。
でも、もうアラタの体がついていかないのだ。
小学生の頃から現在に至るまで、常人には1週間も持たないような、苛烈で激烈な猛練習の日々を潜り抜けてきた彼でも、もう動けない。
事実、彼は十分すぎるほどよく戦った。
圧倒的な敵を前にして、一歩も臆することなく、努力と工夫と才能をありったけぶつけて、ほんの少しでもいいから、敵を上回ろうと試みた。
しかし、ダメだった。
泥に塗れた視界の端は、黒い靄がかかってよく見えない。
アナログ放送の砂嵐のように、ザー、ザーと灰色の砂塵がちらつく。
…………苦しい。
痛くて、痛くて、苦しくて、苦しくて。
弱い自分が悔しくて、そんな自分を変えたくて、この男に勝ちたくて、だから全てを懸けて、立ち向かった。
対策も練った、力も溜めた、心も体も整えた。
でも、それでも敵わなかった。
向けられた以上の殺意を、本気で向けた。
そこまでやっても、強く願っても、それに見合う訓練をしても、届かなかった。
「絶望が足らない。このまま死ぬか?」
何を言っているのか、もうわからない。
耳まで遠くなってきた。
もう、これ以上は…………
『もう幸せだよ』
アトラの城壁を登っている時、エリザベスが言った言葉。
これ以上嬉しい言葉も、そう多くは無いだろう。
まだだ。
もっと、もっと幸せにしてやれる。
これから、もっと、もっともっと、優しくしてやれる。
時間はあるんだ、俺にあの子を愛するだけの時間は、山のようにあるんだ。
だから、邪魔すんなよ。
「勿体ないが、これもまた絶望か」
ユウの剣が振り上げられて、朝日に照らされた。
煌々と、神々しく、断罪の剣は降り下ろされる。
まだ、行けるだろ。
【不溢の器】、お前がどんな奴か、俺はもうとっくに知ってる。
満たされない器、なんだろ?
使い切って、次は少し、大きくなる、溢れない器なんだろ?
野球を失って、ぽっかり空いた心の穴は、遥香が埋めてくれた。
この穴が完全に塞ぎ切ったのか、まだ分からない。
でも、確かに漏れる量は減った。
だから、いつかこの器は満たされることがあるかもしれない。
でも、この俺の、溢れんばかりのエリーへの想いに、俺の体はまだ追いついちゃいない。
もっとだ、もっと寄越せ。
こんな安っぽい器じゃあ、俺の想いが溢れて無駄になっちまう。
加速された思考の中、彼は願った。
エリザベスを護ることが出来るだけの、この男に勝てるだけの、途方もなく大きな力をくださいと。
それは決して神頼みではなく、他力本願でもない。
もうこれ以上どうしようもないくらいに焦がれて、願って、嘆願して、努力して、苦難の道を歩んで、それでも届かなかったから、誓うのだ。
自分自身に、誓うのだ。
必ず護ると、必ず勝つと、必ず、君を幸せにすると。
降り下ろされた剣は、片手に握られた刀で、阻止された。
「グ、グゥウ」
「おやおやこれはこれは。中々面白いじゃないか」
アラタの様子がおかしい。
戦いが始まる前、彼は冷静であるようにと、自身に言い聞かせた。
思考力も含めて、自分の強さで、それを欠いてはこの敵に勝てないと、そう判断していたから。
でも、今の彼に思考らしきものは、全く見えない。
本能に身を任せ、一人の人間から、一匹の獣に身を落とす。
これも彼の直感がそうさせたのか、それとも【不溢の器】の効果なのか。
ここから先、考えている余裕なんてない。
「グルル……ギリッ」
歯をむき出しにして、低く呻るアラタは、強烈な風と共に斬り掛かった。
失敬、汚いという表現は適切ではない。
人体にとって、好ましくないというのが正しい気がする。
ヒトは雑食で、食物連鎖の頂点に君臨している以上、当然そのサイクルの中に身を置いている。
火葬する国が多いと言っても、人間を構成していたエネルギーは微生物によって分解されるし、それらを栄養素と一緒に取り込んだり共生することで発育する植物を、ヒトは食べている。
あくまでも、斬り落とされた指を転がしてしまう場所として、地面は不適切だという話だ。
指絡めという技を、彼が使ってくることは想定外だったのか、思いのほかあっさりとユウの右手にある人差し指、中指、薬指は落ちた。
節くれ立ったそれは、ウインナーのようなフォルムをしている。
切断面はきれいで、状態次第では元通りになるかもしれないくらいだ。
ただ、落ちた場所が悪い。
そして、その場所を思い切り踏みつけにする足があった。
「おぉぉぉおおお!」
チャンスは今を置いて他にないと、誰だってそう思う。
アラタが渾身の力を込めて踏み込んだ足は、ユウの指を踏みつけにして、再利用不可能な状態にしてしまう。
するりと抜いた刀の向きをそのままに、今日何度目になるか分からない突きを繰り出した。
それだけこの攻撃が有効的で使い勝手がいいのだろう。
この距離感、この状況、今度こそ。
たとえ犯罪者だろうと、好きな人を守りたい。
究極のエゴが、ユウを刺し貫こうとした。
想いよ、届け。
そうアラタは願った。
あろうことか、神様に。
神は気まぐれで、適当で、人情味が無く、平気で人の心を弄ぶというのに。
彼はそれをとうの昔に知っていたはずなのに。
無情な、無機質な、無感動な、平坦な声が、聞こえた。
「ま、こんなところか」
——3発。
アラタが一刺しするより速く、彼の体に衝撃が届いた。
確かに先手は取った。
隙も突いた。
指まで落とした。
ただ、『何故』を考えている間にも、彼の体は宙を舞いながら人形のように回転している。
色々聞きたいことはあるが、彼は、吹き飛ばされた。
子供が人形のおもちゃでヒーローごっこをするときのように、圧倒的な力でねじ伏せられた怪獣が爆散するときのように。
正面に感じた3つの衝撃の後、アラタの背中に、それと同等級のインパクトがやって来た。
「がっはぁっ!」
横隔膜が痙攣し、肺の空気が全部出る。
同時に気管に傷がついたのか、口内には鉄の味が広がった。
刀を手放さなかっただけ、賞賛すべきだが、状況はそこまで甘くない。
信じられない光景が、そこには広がっていた。
「随分と汚れたな」
まるで床に落としたリンゴの表面を拭くがごとく、ユウは自分の指に付いた泥を落としていた。
ばっちいけど、拭けばまた食べられるだろうと、使えるだろうと、そんな様子で、落ちてグチャグチャになった指を綺麗にする。
断面からは土の粒が入り込み、もはや完全除去不可能なまでに浸潤している。
どっからどう見ても、こいつの指は治らない。
それは日本人としての彼の常識ではなく、異世界にやって来て、彼なりに常識のアップデートを行ったうえでの結論だった。
だからこそ、こんなのは夢だ、悪夢だ、そうに違いない。
「う……むぅ。まあこれで問題ないか」
グチュグチュとおぞましい音を立てつつ、細胞が蠢き、癒着し、接着されていく。
それは粘菌生物の動きを早送りで見ているみたいで、気味が悪い。
男が手を離してからも、彼の指先はうねうねと動き続けている。
その見た目の気持ち悪さも特筆ものだが、そうして得られた結果の方が、アラタは目を背けたかった。
やっとのことで、自分の命を懸けて放った攻撃で、ようやっと数本の指を斬り飛ばすことが叶ったというのに、ものの数秒で全ては水泡に帰した。
体から力が抜けていくのを感じる。
膨らませた風船の口を縛らず、手で押さえ止めていたところで、いずれ限界はやってくる。
握力の限界がだ。
そうして一度切られた堰はもう二度と元に戻らない。
抜けた空気はもう一度入れなおすことは出来ない。
アラタの刀から、剣圧が消えた。
それでも彼は刀を構える。
勝敗は決したが、それでも彼は武器を構える。
本能では理解していても、心がそれを認めないから。
諦めないから、諦められないから。
「束の間の夢だったな」
「い、いや。まだだ」
自動治癒の使い手なら、以前倒した。
元Aランク冒険者だったが、死傷者は出たが、仕留めた。
でも、それとこれとはまた違う話。
今回は、思うようにいかない。
限界が近づいていた。
「今から、丁寧に、丹念に、綿密に、細微に、周密に、隅々まで、一切合切、お前の悉くを叩き潰す。お前に、正しい絶望を与えてやる」
いつの間にか、アラタが負わせたはずの傷は全て癒えていて、今までの死闘は幻想だったのではないかと、幻だったのではないかと、そう思わせるほど、ユウは五体満足な状態で彼の前に立ちふさがっていた。
こんなことって、ある?
そう聞きたくなるほど、目をそむけたくなる現実。
これが夢なら、そうならそうと、早く種明かしして欲しい。
本当に、夢なら。
「ゴクッ。…………ぉぉお!!!」
気力を振り絞り、アラタは今一度、リスタートを切る。
今までのがダメだったら、一から積み上げてやると。
最後の気力を振り絞って、命を燃やして、彼は立ち向かった。
「ゔぅっ!」
袈裟斬りが空振り、代わりにアラタの腹には剣の柄がめり込む。
黒装束が衝撃を多少軽減してくれると言っても、限度はある。
ここまで綺麗に打撃が入ると、ドレイク謹製の魔道具もお手上げだ。
「ああぁ!」
斬り返した左逆袈裟斬りでも、ユウを捉えることは出来ない。
今度は、左ひじがアラタの顔に入る。
鋭利な肘先が、彼の頬を切り裂いた。
この二太刀、明らかにアラタの動きが鈍っている。
さっきまで魔術を絡めて、変幻自在な攻め手を展開していた彼らしくない。
まるで別人、これではまともに打ち合うことすら難しい。
疲労の色が濃い。
ユウの攻撃で脳が揺れているのもあるだろうが、それだけではない。
隠しきれないほど、蓄積してきた疲労が、集中力の低下に伴って表出したのだ。
これ以上、アラタが強くなることは厳しい。
そして、またユウの一方的なワンサイドゲームが広げられた。
殺さないという彼の宣言通り、何度も何度も斬り殺すタイミングを見逃し、代わりに蹴りや拳をお見舞いする。
そのたびにアラタは呻き、転び、倒れ、嘔吐する。
胃の中の物を全て吐き切って、それでも転がされるアラタは、ついに胃液すら出なくなった。
敗北は確定的、文字通り一敗地に塗れた。
もう呼吸も途切れ途切れ。
これ以上は無理、日本なら即時救急車で緊急搬送が必要なレベルの衰弱。
「弱い者いじめはつまらんな」
そう吐き捨てるように言うと、アラタはまた立ち上がる。
そしてその度にユウに攻撃を叩きこまれ、昏倒する。
「飽きたな」
また立ち上がり、そして倒れる。
「ひねりが無いな」
男は、アラタは動かない。
動かなくなってしまった。
さっきから、頭では立ち上がろうとしている。
でも、もうアラタの体がついていかないのだ。
小学生の頃から現在に至るまで、常人には1週間も持たないような、苛烈で激烈な猛練習の日々を潜り抜けてきた彼でも、もう動けない。
事実、彼は十分すぎるほどよく戦った。
圧倒的な敵を前にして、一歩も臆することなく、努力と工夫と才能をありったけぶつけて、ほんの少しでもいいから、敵を上回ろうと試みた。
しかし、ダメだった。
泥に塗れた視界の端は、黒い靄がかかってよく見えない。
アナログ放送の砂嵐のように、ザー、ザーと灰色の砂塵がちらつく。
…………苦しい。
痛くて、痛くて、苦しくて、苦しくて。
弱い自分が悔しくて、そんな自分を変えたくて、この男に勝ちたくて、だから全てを懸けて、立ち向かった。
対策も練った、力も溜めた、心も体も整えた。
でも、それでも敵わなかった。
向けられた以上の殺意を、本気で向けた。
そこまでやっても、強く願っても、それに見合う訓練をしても、届かなかった。
「絶望が足らない。このまま死ぬか?」
何を言っているのか、もうわからない。
耳まで遠くなってきた。
もう、これ以上は…………
『もう幸せだよ』
アトラの城壁を登っている時、エリザベスが言った言葉。
これ以上嬉しい言葉も、そう多くは無いだろう。
まだだ。
もっと、もっと幸せにしてやれる。
これから、もっと、もっともっと、優しくしてやれる。
時間はあるんだ、俺にあの子を愛するだけの時間は、山のようにあるんだ。
だから、邪魔すんなよ。
「勿体ないが、これもまた絶望か」
ユウの剣が振り上げられて、朝日に照らされた。
煌々と、神々しく、断罪の剣は降り下ろされる。
まだ、行けるだろ。
【不溢の器】、お前がどんな奴か、俺はもうとっくに知ってる。
満たされない器、なんだろ?
使い切って、次は少し、大きくなる、溢れない器なんだろ?
野球を失って、ぽっかり空いた心の穴は、遥香が埋めてくれた。
この穴が完全に塞ぎ切ったのか、まだ分からない。
でも、確かに漏れる量は減った。
だから、いつかこの器は満たされることがあるかもしれない。
でも、この俺の、溢れんばかりのエリーへの想いに、俺の体はまだ追いついちゃいない。
もっとだ、もっと寄越せ。
こんな安っぽい器じゃあ、俺の想いが溢れて無駄になっちまう。
加速された思考の中、彼は願った。
エリザベスを護ることが出来るだけの、この男に勝てるだけの、途方もなく大きな力をくださいと。
それは決して神頼みではなく、他力本願でもない。
もうこれ以上どうしようもないくらいに焦がれて、願って、嘆願して、努力して、苦難の道を歩んで、それでも届かなかったから、誓うのだ。
自分自身に、誓うのだ。
必ず護ると、必ず勝つと、必ず、君を幸せにすると。
降り下ろされた剣は、片手に握られた刀で、阻止された。
「グ、グゥウ」
「おやおやこれはこれは。中々面白いじゃないか」
アラタの様子がおかしい。
戦いが始まる前、彼は冷静であるようにと、自身に言い聞かせた。
思考力も含めて、自分の強さで、それを欠いてはこの敵に勝てないと、そう判断していたから。
でも、今の彼に思考らしきものは、全く見えない。
本能に身を任せ、一人の人間から、一匹の獣に身を落とす。
これも彼の直感がそうさせたのか、それとも【不溢の器】の効果なのか。
ここから先、考えている余裕なんてない。
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