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第3章 大公選編
第206話 絶望の序歌(烏鷺相克0)
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当初の予定では、大公選が4月1日。
そして大公就任式が4月4日。
確かに、大公選自体は1日に執り行われ、新大公はシャノン・クレスト公爵に決定した。
これは紛れもない事実で、今更変えようがない。
しかし、大公就任式を行うはずだった4日の翌日である5日も、就任式が行われる気配は感じられなかった。
当選した人物に待ったがかかった訳ではない。
準備が遅れているのでもない。
ただ、気がかりが片付かないのだ。
大公選、もう一人の有力候補で、選挙中暴露されたスキャンダルにより留置の身だった彼女は、仲間の手引きで脱走した。
彼女の名前はエリザベス・フォン・レイフォード。
現在アトラを中心に捜索隊が組織され、軍が捜索に当たっている。
しかし、事情に明るい者たちは気づいていた。
詳しい事情を知る者たちとはそう、八咫烏、アラン・ドレイク、ハルツたち一部の冒険者、一握りの貴族のことだ。
彼らは、軍に彼女を捕まえる力がないことを承知していた。
情報が正しければ、彼女の傍についているのは八咫烏第1小隊、彼らが本気で身を隠せばそうそう見つかることは無いと、彼らは知っている。
だから、対外的に大々的に見えているこの捜索活動には、実はたいした意味はない。
頑張って探していますよという、大公になる前のポーズを取っているのだ。
本命は、賢者ドレイク。
弟子の不始末を付けるべく、ドレイクは半ば自作自演にも似た追跡を開始していた。
「あぁーあ。早く捕まんねえかなぁ」
店先に立つ壮年の店主は、春の青空を仰ぎながらこぼした。
彼が扱っているのは食品、それも生菓子を扱っている。
カナンでは希少な砂糖やはちみつといった甘味を使い、他の店にはない味を提供する彼の店はたいそうな人気店で、アトラの街の中でも随一の知名度と人気を誇る。
一等地に店を構え、高いテナント料をクレスト家に支払い、それでも出る利益を使って2号店を展開する予定を持つこの店にとって、商品が売れ残ったり、そもそも売ることが出来ないのは致命的だ。
地主がクレスト家という縁もあって、彼の店では祝賀会用の菓子や大公就任に合わせたフェアなどに向けて大量の材料と在庫を抱えている。
そしてその中には日持ちしない、きちんと計算されて用意された貴重な食材も含まれている。
これらは今日使えないから1週間後まで取っておけと言われて、はいそうですかと言えるものでは無い。
その時使えなければ、それを廃棄して、必要な時に再度手配する必要が出てくるのだ。
つまり、大公就任延期なんてもってのほか、きちんと保証してくれるんだろうなクレスト公爵家? ということだった。
人気店ということもあり、大公就任とは関係なく客足が途絶えない、いつもの日常が店に溢れている。
しかし、いつもと同じではだめなのだ。
春だというのに特殊な栽培法で用意した苺はいつまでも食べられるわけではない。
期間限定商品として扱うにしても、最近まで冬だったカナンではインパクトに欠ける。
何より、年末に苺フェアは行ったばかりなのだ。
そして…………
「オーナー! ダンジョンオレンジが納品されました!」
「来たか……来てしまったか」
男の眉間に刻まれたしわが、また一本増えた。
元々ケーキ屋なんて似合わない強面店主だが、ここ数日の心労がそれをより一層険しい顔に書き換えている。
普段はコック帽を着用しているからか、そこまで気にならない頭部は、晴天の日差しを受けてピカピカと光輝いている。
少し赤くなった頭頂部がまるで茹でだこのようになっていて、彼の忍耐力がもうすぐ切れそうになることを如実に示している。
そして、今日も今日とて裏口から搬入されてくる材料たちとその請求書たちが、彼を死地へと追いやってしまうのだ。
「オーナー、追加発注していたクリームですが……」
「やってられるかぁぁぁあああ!!!」
その日、アトラの大通りに男の叫びが響き渡った。
※※※※※※※※※※※※※※※
同日、アトラ北西に180kmの山間部。
集落があるわけでもなく、何か産業基盤になっているわけでもないこの地域は、一番近い村の人間からヴォルブと呼ばれている。
語源は不明だが、意味合いとしては何もない、空虚な、そんな意味を持つ。
そんな何もない山で、鳥たちが羽ばたいていく。
それは何かに連鎖するように発生して、順番に鳥たちが住処を去っていく。
紛うことなき鳥頭の彼らは、きっと少しすれば戻ってくるはずだ。
しかし、人間などより原始的な思考回路しか持ち合わせていない生物は、その分危機察知に従順である。
危ないと思ったら逃げる、当然のことを当たり前に行う。
何かとんでもない魔力を持った存在が、それを目一杯広げながら近づいてくる。
鳥たちがその場から飛び立つ理由は、それだけだった。
人を1人乗せた馬は、かなりの速度で道を駆け抜けていく。
騎手に急かされていることもさることながら、馬自体がかなり興奮している。
何の粉だったか、植物を乾燥させて粉状に加工したものを摂取した馬は、目を血走らせて足を動かす。
乗り手の老人は、これを飲み込ませる前に、『すまぬ』と言った。
動物愛護の観点から見れば、男のしたことは許されざる行為だ。
ただ、緊急事態に馬の命を大切にして他の物を捨てられるのか、答えは人によるだろうが、そこで馬の命と答える人間は筋金入りのモラリストだろう。
ところで、アラン・ドレイクと言う人間のモラルについて、有識者は一体どう答えるだろうか。
おそらくこう答えるだろう。
彼にモラル を求めること自体が間違っている、と。
へその緒と一緒に人間性を捨てた男は、馬を使い潰しても達成したい目的をその身に帯びている。
なんとしても、エリザベス・フォン・レイフォード及びその協力者を生きたまま拘束すること。
発見してしまえば、あとは時間の問題となる。
【存在固定】の射程に入り次第スキルを発動させれば勝ちだから。
「ほっほ、口が2つあっても碌なことにならんわい」
こんなことならアラタにエリザベス救出許可を出すんじゃなかった、そんな哀れな老人の後悔は、馬の蹄の音に掻き消された。
※※※※※※※※※※※※※※※
その屋敷には、空き部屋ではない使用されていない部屋がある。
矛盾しているかもしれないと思うかもしれないが、これがまた言葉の通りなのだ。
家主の部屋は、不在の主が帰ってくることをいつまでも待っている。
日用品や着替えがごっそり消えた以外、その部屋の物は置きっぱなしになっている。
学校の教科書も、冒険者としての証明品の数々も、ベッドも、そこには確かに男の痕跡が残っている。
彼がここを出て行ってから半年以上。
それでも部屋の中は埃に塗れることなく清潔な状態を維持している。
さぞかし優秀なハウスメイドが何人も在籍しているはずなのだが、この屋敷における使用人的立場の人間? は一人だけ。
彼女は毎日のように、ハルツ・クラークの屋敷からここへやって来ては掃除をして帰る。
まるで主の帰りを待つ犬のように、親の帰りを待つ子供のように、そんな彼女が今日は珍しい連れを伴ってこの屋敷にやって来た。
「私は外で待っていますから」
「うん」
金髪の幼いシルキーと共に玄関を上がり、そこで靴を脱ぐ。
男には、脱いだ靴を揃えろとよく言われた。
土のついた靴下で廊下を歩いて、男に小言を言われた。
そして、風呂に直行せずに台所に向かっては追い返されていた。
そこには、ガランとした厨房が佇んでいた。
現状この家には誰も済んでいない状態で、調理器具はほとんどシルがクラーク邸へと持って行った。
残っているのは僅かな食器程度。
「行こうか」
少女はシルに先を促す。
そして、中央の階段を上がる。
ドタドタ音を立てるな、それでもお前は貴族なのかと呆れられた。
床板が軋む。
劣化しているのではなく、そういう造りなのだから気にしないが、何もない屋敷と相まって単なる音が随分と物寂しく聞こえる。
廊下を歩き、ある部屋の前で立ち止まる。
「ここで待っていてくれ」
「分かりました」
少女は一人で部屋に入ると、ドアを閉じた。
2人で家の中に入ったが、これで彼女は外と隔絶された空間に置いてけぼりになる。
彼女はそれを望んで、アラタの部屋に一人入った。
一緒に暮らしていた当時のまま、家具が置かれている。
開けっ放しになっているクローゼットには、ただの一着すら服は仕舞われておらず、机の引き出しは空になっている。
1kg程度の物から20kgはゆうに超えるものまで、ダンベルらしき重りが無造作に置かれている。
彼女はそれを一つ手に取ると、軽く上げ下げしてみる。
上腕二頭筋にかかる負荷を感じながら、アラタがいつも自分を鍛えていたことを思い出す。
自分がリビングのソファで寝転がっていた時も、アラタは早く寝るように言いながら汗をかいていた。
外で刀を振っていて、そこから帰ってきた時の汗臭さが、自分が彼と同じ空間を生きていることを実感させていた。
きれいに畳まれた掛布団の上に、バフっと頭からうつぶせになる。
ちゃんと掃除されている布団から、必要以上の埃は立たない。
ふかふかの感触を顔に感じながら、少女は在りし日の記憶を思い返す。
楽しかったことも、嫌だったことも、鬱陶しかったことも、煩かったことも、悲しかったことも、苦しかったことも、そして、幸せだったことも。
「ノエル様? そろそろいいですか」
「…………うん」
ノエルは起き上がると、布団を直そうと試みる。
元々ピンと重なり合っていた布団の角を持ち、もう一度綺麗な四角形を描こうと画策した。
しかし、その結果生み出されたのはおにぎりのようなかたちの無残な掛布団。
何をどうやったらそうなったのか、過程は見えなかったけども、これを作り出したのがノエルであることは明確だ、何せ部屋には彼女しかいないのだから。
「……ごめんねアラタ」
そう言い残すと、ノエルは部屋を出た。
「もういいですか?」
「あぁ、ついてきてくれてありがとう」
「いえ、お布団を畳むのはシルのお仕事ですから」
ベッドをめちゃくちゃにしていたことがしっかりばれていたノエルは、ごめんねと両手を顔の前で合わせた。
アラタもこんな気持ちだったのかなと、シルはノエルの顔を見て思った。
本当にこのポンコツは、と。
「ノエル様、行きましょう」
「ハルツ殿、頼りにしている」
聖騎士はうやうやしく頭を垂れ、それに続いて仲間たちも頭を下げる。
「他人行儀なのは苦手だ。いつもみたいにしてくれ」
「分かりました。では、必ずアラタを見つけましょう」
差し出された右手を前に、ノエルは迷わずその手を取る。
「うん。力を貸してくれ」
※※※※※※※※※※※※※※※
カナン公国西部、その少し上、アトラから見たら西北西が方角として一番適切だ。
未開拓領域へあと70kmと言ったところで、アラタたち一行は休息を取っていた。
未開拓領域に存在する特配課のセーフティーハウスまで、これが最後の休息だ。
文字通り人間の手がほぼ入っていない領域、飲み水の確保すら難航する可能性がある以上、準備には時間がかかる。
ある程度は準備済みだが、現地調達可能な消耗品などはこの場で揃える算段だ。
アラタは携行食糧の為の狩りへ、クリスはエリザベスの護衛として拠点待機、リャンとキィは飲み水確保のために川の水を蒸留させる作業を行う。
「未開拓領域ってどんなとこ?」
蒸留装置の様子を見守りながら、キィは会話のキャッチボールを始めた。
「未開拓の領域ですね」
川の水を運んでいるリャンの返答は適当だ。
「人は住めないの?」
「住めますよ。我々くらい魔物への対処能力があればですが」
リャン曰く、八咫烏の中でもトップクラスに腕の立つ自分たちなら、未開拓領域でも生きていけるかもしれないと言っているのだ。
じゃあ普通の人間が住むことは出来ないじゃないかと、まさしくそのとおりである。
「組織的に魔物を制御することが出来れば、もう少し人間の生きる世界も広がるかもしれませんね」
リャンの出自であるグエル族も済む地域も、魔物被害は多い地域だった。
それこそカナン西部のレイテ村に次ぐほどの襲撃の頻度だ。
村は砦と化し、村人は普通に生きているだけで対魔物戦闘のエキスパートに成長する。
そんな経験から来た彼の言葉を、キィはポタポタ垂れる蒸留水の次くらいに興味を持って聞いていた。
「じゃあさ、亜人っているのかな」
「僕、エルフの里ってところに行ってみたいんだ」
「ねぇ、聞いてる?」
「次は僕が水を運ぶから、バケツ持ってきてよ」
「…………リャン?」
しばし独り言を話し続けていた少年が横を、川の方を向くとそこには……
「リャ……誰?」
河原の冷たい砂利に突っ伏したリャンの前に、見た事の無い男が立っていた。
その男は普通の服、どこにでもいる村人やアトラの町人みたいな出で立ちをしていながら、不格好にも剣を帯びていた。
髪も、眉も白色。
混じりけの無い純白の頭髪だというのに、リャンにはそこに砂一粒ほどの美しさも見出すことが出来なかった。
「大事なのは、こいつとお前は死ぬべきか否か、絶望するべきか否か、それだけだ」
絶望が、そこに立っていた。
そして大公就任式が4月4日。
確かに、大公選自体は1日に執り行われ、新大公はシャノン・クレスト公爵に決定した。
これは紛れもない事実で、今更変えようがない。
しかし、大公就任式を行うはずだった4日の翌日である5日も、就任式が行われる気配は感じられなかった。
当選した人物に待ったがかかった訳ではない。
準備が遅れているのでもない。
ただ、気がかりが片付かないのだ。
大公選、もう一人の有力候補で、選挙中暴露されたスキャンダルにより留置の身だった彼女は、仲間の手引きで脱走した。
彼女の名前はエリザベス・フォン・レイフォード。
現在アトラを中心に捜索隊が組織され、軍が捜索に当たっている。
しかし、事情に明るい者たちは気づいていた。
詳しい事情を知る者たちとはそう、八咫烏、アラン・ドレイク、ハルツたち一部の冒険者、一握りの貴族のことだ。
彼らは、軍に彼女を捕まえる力がないことを承知していた。
情報が正しければ、彼女の傍についているのは八咫烏第1小隊、彼らが本気で身を隠せばそうそう見つかることは無いと、彼らは知っている。
だから、対外的に大々的に見えているこの捜索活動には、実はたいした意味はない。
頑張って探していますよという、大公になる前のポーズを取っているのだ。
本命は、賢者ドレイク。
弟子の不始末を付けるべく、ドレイクは半ば自作自演にも似た追跡を開始していた。
「あぁーあ。早く捕まんねえかなぁ」
店先に立つ壮年の店主は、春の青空を仰ぎながらこぼした。
彼が扱っているのは食品、それも生菓子を扱っている。
カナンでは希少な砂糖やはちみつといった甘味を使い、他の店にはない味を提供する彼の店はたいそうな人気店で、アトラの街の中でも随一の知名度と人気を誇る。
一等地に店を構え、高いテナント料をクレスト家に支払い、それでも出る利益を使って2号店を展開する予定を持つこの店にとって、商品が売れ残ったり、そもそも売ることが出来ないのは致命的だ。
地主がクレスト家という縁もあって、彼の店では祝賀会用の菓子や大公就任に合わせたフェアなどに向けて大量の材料と在庫を抱えている。
そしてその中には日持ちしない、きちんと計算されて用意された貴重な食材も含まれている。
これらは今日使えないから1週間後まで取っておけと言われて、はいそうですかと言えるものでは無い。
その時使えなければ、それを廃棄して、必要な時に再度手配する必要が出てくるのだ。
つまり、大公就任延期なんてもってのほか、きちんと保証してくれるんだろうなクレスト公爵家? ということだった。
人気店ということもあり、大公就任とは関係なく客足が途絶えない、いつもの日常が店に溢れている。
しかし、いつもと同じではだめなのだ。
春だというのに特殊な栽培法で用意した苺はいつまでも食べられるわけではない。
期間限定商品として扱うにしても、最近まで冬だったカナンではインパクトに欠ける。
何より、年末に苺フェアは行ったばかりなのだ。
そして…………
「オーナー! ダンジョンオレンジが納品されました!」
「来たか……来てしまったか」
男の眉間に刻まれたしわが、また一本増えた。
元々ケーキ屋なんて似合わない強面店主だが、ここ数日の心労がそれをより一層険しい顔に書き換えている。
普段はコック帽を着用しているからか、そこまで気にならない頭部は、晴天の日差しを受けてピカピカと光輝いている。
少し赤くなった頭頂部がまるで茹でだこのようになっていて、彼の忍耐力がもうすぐ切れそうになることを如実に示している。
そして、今日も今日とて裏口から搬入されてくる材料たちとその請求書たちが、彼を死地へと追いやってしまうのだ。
「オーナー、追加発注していたクリームですが……」
「やってられるかぁぁぁあああ!!!」
その日、アトラの大通りに男の叫びが響き渡った。
※※※※※※※※※※※※※※※
同日、アトラ北西に180kmの山間部。
集落があるわけでもなく、何か産業基盤になっているわけでもないこの地域は、一番近い村の人間からヴォルブと呼ばれている。
語源は不明だが、意味合いとしては何もない、空虚な、そんな意味を持つ。
そんな何もない山で、鳥たちが羽ばたいていく。
それは何かに連鎖するように発生して、順番に鳥たちが住処を去っていく。
紛うことなき鳥頭の彼らは、きっと少しすれば戻ってくるはずだ。
しかし、人間などより原始的な思考回路しか持ち合わせていない生物は、その分危機察知に従順である。
危ないと思ったら逃げる、当然のことを当たり前に行う。
何かとんでもない魔力を持った存在が、それを目一杯広げながら近づいてくる。
鳥たちがその場から飛び立つ理由は、それだけだった。
人を1人乗せた馬は、かなりの速度で道を駆け抜けていく。
騎手に急かされていることもさることながら、馬自体がかなり興奮している。
何の粉だったか、植物を乾燥させて粉状に加工したものを摂取した馬は、目を血走らせて足を動かす。
乗り手の老人は、これを飲み込ませる前に、『すまぬ』と言った。
動物愛護の観点から見れば、男のしたことは許されざる行為だ。
ただ、緊急事態に馬の命を大切にして他の物を捨てられるのか、答えは人によるだろうが、そこで馬の命と答える人間は筋金入りのモラリストだろう。
ところで、アラン・ドレイクと言う人間のモラルについて、有識者は一体どう答えるだろうか。
おそらくこう答えるだろう。
彼にモラル を求めること自体が間違っている、と。
へその緒と一緒に人間性を捨てた男は、馬を使い潰しても達成したい目的をその身に帯びている。
なんとしても、エリザベス・フォン・レイフォード及びその協力者を生きたまま拘束すること。
発見してしまえば、あとは時間の問題となる。
【存在固定】の射程に入り次第スキルを発動させれば勝ちだから。
「ほっほ、口が2つあっても碌なことにならんわい」
こんなことならアラタにエリザベス救出許可を出すんじゃなかった、そんな哀れな老人の後悔は、馬の蹄の音に掻き消された。
※※※※※※※※※※※※※※※
その屋敷には、空き部屋ではない使用されていない部屋がある。
矛盾しているかもしれないと思うかもしれないが、これがまた言葉の通りなのだ。
家主の部屋は、不在の主が帰ってくることをいつまでも待っている。
日用品や着替えがごっそり消えた以外、その部屋の物は置きっぱなしになっている。
学校の教科書も、冒険者としての証明品の数々も、ベッドも、そこには確かに男の痕跡が残っている。
彼がここを出て行ってから半年以上。
それでも部屋の中は埃に塗れることなく清潔な状態を維持している。
さぞかし優秀なハウスメイドが何人も在籍しているはずなのだが、この屋敷における使用人的立場の人間? は一人だけ。
彼女は毎日のように、ハルツ・クラークの屋敷からここへやって来ては掃除をして帰る。
まるで主の帰りを待つ犬のように、親の帰りを待つ子供のように、そんな彼女が今日は珍しい連れを伴ってこの屋敷にやって来た。
「私は外で待っていますから」
「うん」
金髪の幼いシルキーと共に玄関を上がり、そこで靴を脱ぐ。
男には、脱いだ靴を揃えろとよく言われた。
土のついた靴下で廊下を歩いて、男に小言を言われた。
そして、風呂に直行せずに台所に向かっては追い返されていた。
そこには、ガランとした厨房が佇んでいた。
現状この家には誰も済んでいない状態で、調理器具はほとんどシルがクラーク邸へと持って行った。
残っているのは僅かな食器程度。
「行こうか」
少女はシルに先を促す。
そして、中央の階段を上がる。
ドタドタ音を立てるな、それでもお前は貴族なのかと呆れられた。
床板が軋む。
劣化しているのではなく、そういう造りなのだから気にしないが、何もない屋敷と相まって単なる音が随分と物寂しく聞こえる。
廊下を歩き、ある部屋の前で立ち止まる。
「ここで待っていてくれ」
「分かりました」
少女は一人で部屋に入ると、ドアを閉じた。
2人で家の中に入ったが、これで彼女は外と隔絶された空間に置いてけぼりになる。
彼女はそれを望んで、アラタの部屋に一人入った。
一緒に暮らしていた当時のまま、家具が置かれている。
開けっ放しになっているクローゼットには、ただの一着すら服は仕舞われておらず、机の引き出しは空になっている。
1kg程度の物から20kgはゆうに超えるものまで、ダンベルらしき重りが無造作に置かれている。
彼女はそれを一つ手に取ると、軽く上げ下げしてみる。
上腕二頭筋にかかる負荷を感じながら、アラタがいつも自分を鍛えていたことを思い出す。
自分がリビングのソファで寝転がっていた時も、アラタは早く寝るように言いながら汗をかいていた。
外で刀を振っていて、そこから帰ってきた時の汗臭さが、自分が彼と同じ空間を生きていることを実感させていた。
きれいに畳まれた掛布団の上に、バフっと頭からうつぶせになる。
ちゃんと掃除されている布団から、必要以上の埃は立たない。
ふかふかの感触を顔に感じながら、少女は在りし日の記憶を思い返す。
楽しかったことも、嫌だったことも、鬱陶しかったことも、煩かったことも、悲しかったことも、苦しかったことも、そして、幸せだったことも。
「ノエル様? そろそろいいですか」
「…………うん」
ノエルは起き上がると、布団を直そうと試みる。
元々ピンと重なり合っていた布団の角を持ち、もう一度綺麗な四角形を描こうと画策した。
しかし、その結果生み出されたのはおにぎりのようなかたちの無残な掛布団。
何をどうやったらそうなったのか、過程は見えなかったけども、これを作り出したのがノエルであることは明確だ、何せ部屋には彼女しかいないのだから。
「……ごめんねアラタ」
そう言い残すと、ノエルは部屋を出た。
「もういいですか?」
「あぁ、ついてきてくれてありがとう」
「いえ、お布団を畳むのはシルのお仕事ですから」
ベッドをめちゃくちゃにしていたことがしっかりばれていたノエルは、ごめんねと両手を顔の前で合わせた。
アラタもこんな気持ちだったのかなと、シルはノエルの顔を見て思った。
本当にこのポンコツは、と。
「ノエル様、行きましょう」
「ハルツ殿、頼りにしている」
聖騎士はうやうやしく頭を垂れ、それに続いて仲間たちも頭を下げる。
「他人行儀なのは苦手だ。いつもみたいにしてくれ」
「分かりました。では、必ずアラタを見つけましょう」
差し出された右手を前に、ノエルは迷わずその手を取る。
「うん。力を貸してくれ」
※※※※※※※※※※※※※※※
カナン公国西部、その少し上、アトラから見たら西北西が方角として一番適切だ。
未開拓領域へあと70kmと言ったところで、アラタたち一行は休息を取っていた。
未開拓領域に存在する特配課のセーフティーハウスまで、これが最後の休息だ。
文字通り人間の手がほぼ入っていない領域、飲み水の確保すら難航する可能性がある以上、準備には時間がかかる。
ある程度は準備済みだが、現地調達可能な消耗品などはこの場で揃える算段だ。
アラタは携行食糧の為の狩りへ、クリスはエリザベスの護衛として拠点待機、リャンとキィは飲み水確保のために川の水を蒸留させる作業を行う。
「未開拓領域ってどんなとこ?」
蒸留装置の様子を見守りながら、キィは会話のキャッチボールを始めた。
「未開拓の領域ですね」
川の水を運んでいるリャンの返答は適当だ。
「人は住めないの?」
「住めますよ。我々くらい魔物への対処能力があればですが」
リャン曰く、八咫烏の中でもトップクラスに腕の立つ自分たちなら、未開拓領域でも生きていけるかもしれないと言っているのだ。
じゃあ普通の人間が住むことは出来ないじゃないかと、まさしくそのとおりである。
「組織的に魔物を制御することが出来れば、もう少し人間の生きる世界も広がるかもしれませんね」
リャンの出自であるグエル族も済む地域も、魔物被害は多い地域だった。
それこそカナン西部のレイテ村に次ぐほどの襲撃の頻度だ。
村は砦と化し、村人は普通に生きているだけで対魔物戦闘のエキスパートに成長する。
そんな経験から来た彼の言葉を、キィはポタポタ垂れる蒸留水の次くらいに興味を持って聞いていた。
「じゃあさ、亜人っているのかな」
「僕、エルフの里ってところに行ってみたいんだ」
「ねぇ、聞いてる?」
「次は僕が水を運ぶから、バケツ持ってきてよ」
「…………リャン?」
しばし独り言を話し続けていた少年が横を、川の方を向くとそこには……
「リャ……誰?」
河原の冷たい砂利に突っ伏したリャンの前に、見た事の無い男が立っていた。
その男は普通の服、どこにでもいる村人やアトラの町人みたいな出で立ちをしていながら、不格好にも剣を帯びていた。
髪も、眉も白色。
混じりけの無い純白の頭髪だというのに、リャンにはそこに砂一粒ほどの美しさも見出すことが出来なかった。
「大事なのは、こいつとお前は死ぬべきか否か、絶望するべきか否か、それだけだ」
絶望が、そこに立っていた。
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だけど、その母と娘二人は、
とおおおおんでもないヤンデレだった……
第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
平凡冒険者のスローライフ
上田なごむ
ファンタジー
26歳独身動物好きの主人公大和希は、神様によって魔物・魔法・獣人等ファンタジーな世界観の異世界に転移させられる。
平凡な能力値、野望など抱いていない彼は、冒険者としてスローライフを目標に日々を過ごしていく。
果たして、彼を待ち受ける出会いや試練は如何なるものか……
ファンタジー世界に向き合う、平凡な冒険者の物語。
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