ロレンツ夫妻の夜の秘密

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22.夫の葛藤

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 時計の針が両腕を広げている。
 夜の十時を回っていた。
 ステファンは書斎で本を広げながらも、目が滑っている。
 妻が、帰ってこない。
 夜会とはいっても、いつも夕方に出て、遅くとも九時には家に戻っていたのに。

 今日は何の催しと言っていただろう。公爵だか伯爵だか、とにかく結構な貴人が主催する集まりだと聞いた気がしたが、定かではなかった。

 赴任の日は近くなっていたが、彼女はその話題を持ち出すことが少なくなっていた。繰り返しの拒絶に、諦めたのだと思う。
 かわりに外出が増えた。

「構いませんよ。いっていらっしゃい」

 ステファンとて、異動を前に区切りをつけてしまいたい仕事や、引き継ぎが多く、遅い日が続いた。
 ようやく切り替えはじめたらしい彼女に、残り少ない時間を一緒に過ごしてほしいなどと、未練がましいことを頼めなかった。




 じりじりと不安を募らせていると、馬車の近づく音に続いて、ドアベルが鳴った。

「ロレンツ様、夜分遅くに失礼いたします」

 訪ねてきた男に見覚えがあった。妻の実家、リヒター子爵家の執事の一人だ。

「奥様ですが、出先でお加減が思わしくなく……今夜は当方でお預かりいたします。何卒ご了承いただけますよう」
「どうされたんですか。お身体のことなら、僕が」
「いえ、もうお休みですので、どうかお控えください。明日、落ち着かれるようでしたら、お送りいたします」
「……わかりました」

 所在がわかったとはいえ、おちおち眠れたものではなかった。朝には、リヒターの邸に足が向いていた。
 早い時間だったが、通された応接には、身支度をしたリヒター子爵自ら、姿を現した。
 ステファンが何か言う前に、立ったまま口を開いた。

「家でお待ちいただくよう、言伝てしたと思いますが」
「そうは言われましても。どうなさったんですか。会わせてください」
「今しばらくこちらで預かります。……全く、不始末な娘だ」
「どういう意味ですか」
「悪いが、立て込んでいる。お引き取り願おう」

 にべもなく出て行った。何の説明にもなっていなかったが、約束もない訪問に、当主が応対に出たのは誠意らしかった。




 仕事など手についたものではなかった。夕方、再び訪問して、当主もいないというのを、応接で待った。
 窓の桟の影が長く伸び、陽の色が橙から藍を帯びていく。
 ドアノブの回る音に振り向いた。

「貴方」

 白いブラウスに紺の長いスカートをはいた妻が立っていた。そのいでたちと、なぜか泣き出しそうに気弱な表情が、少女に戻ってしまったようだった。

「ディアナ」

 立ち上がって、手を伸ばした。

「具合が悪いって、聞きました。熱がありますか。どこか痛みますか」
「いいえ、大丈夫ですわ……」

 聞きたいことも言いたいことも、山ほどあったが、口をついたのは懇願だった。

「だったら、帰りましょう。ねえ、僕と一緒に、帰ってくれるでしょう?」

 たかが一昼夜でも、彼女の動向がわからなかったことで、不安が極限に達していた。

「お父様が……」
「子爵様が何ですか」
「ごめんなさい、許しがないと、ここを出ては」
「どういう事情か知りませんが、お叱りなら後で僕が受けます。貴女は僕の妻でしょう。帰れないなんて馬鹿な話がありますか」

 連れ去るように手を引いた。

「先生」

 玄関ホールで声をかけてきた青年がいた。長身だが、ふわりとした金の巻き毛に鼻先のそばかすが物柔らかな印象の、リヒター子爵の長男クラウスだった。

「お暇します」
「ディアナ、どうしようね。行きたいの?」
「……帰りますわ」
「うん、わかった。父には僕から伝えます。馬車を立てましょうか」
「結構です。行きましょう、ディアナ」

 ステファンには、リヒターのいかにも貴族らしい屋敷が、背に覆いかぶさってくるように感じられた。
 このままディアナを取り上げられてしまうのではと、恐怖にかられていた。
 人影の少ない貴族街を抜けて拾った辻馬車の中でも、ステファンは彼女の手をきつく握って離さなかった。




 家に連れ帰って、やっとまともに息をついた。
 居間の長椅子で抱きしめた。自分の行動が無茶苦茶なのには、気づいている。
 帰れと勧めるはしから、必死で取り戻す。
 自分から背を向けようとしたのに、いざ彼女からそうされれば、絶望の底に叩き落されていた。

「お酒でも、飲みすぎましたか」
「いいえ」
「……帰りたくなかったんですか」
「いいえ。私……あの……」

 彼女の髪の香りが違う。服も嫁ぐ前のものだ。

「不安でした。勝手に、いなくならないで……!」

 ステファンの口付けに、ディアナは眉を寄せた。もっと深く入り込もうとするのを、彼女は彼の身体を押して避けた。

「貴方、まって」
「わかって。僕だって、寂しいんです。お願い、慰んでください」

 彼女の身体を長椅子に倒す。

「今はだめ、嫌っ!」

 抵抗されれば、余計に止まれない。ディアナの優しい胸に顔を埋めたい。
 ブラウスのボウタイを解いて、ボタンに手をかけた。

「やめて!」
「なんで、拒むんですか……!」

 答えは、彼が引き裂くように開けた、滑らかなシルクの布地の下にあった。
 白磁の肌に、赤紫の鬱血が無数に散っているのが目に飛び込んだ。

――彼以外が、彼女に残した痕だった。

 時が凍った。
 身体がさっと冷たくなった。
 周り全てが薄膜で隔てられたようだ。
 妻に覆い被さり、貪り喰う影を幻視した。
 嘔吐感がせり上がってくる。

 現実と認めたくない。
 ここではない場所へ逃げ去ってしまいたい。
 彼女を組み敷いたまま、どれほどの間動けなかったのだろう。

「あなた」

 ディアナの口が動くのを見た。

「違うの、信じて……貴方を裏切るようなこと、していません……!」

 鼓動が耳元で聞こえる。空気の薄い土地に来たばかりのように息苦しい。
 でも、彼女の方が苦しそうだと気づいた。
 怯えきった目をして、震えている。
 彼は、この顔を知っている。相談室を訪ねてくる、意に添わぬ関係を強いられた女性と同じだ。




 ステファンは手の力を抜いた。
 彼女の身体から降り、ブラウスの襟を集め、ボタンを止めた。

「……乱暴をして、すみません」

 ディアナが身体を起こす。張り詰めた表情ながら、きちんと座り直して彼を見た。

「お願い、どうか……聞いてくださいませ」
「……ええ」

 答えを絞り出した。
 胸を切り裂かれたような痛みは、彼女が愛しいゆえだ。
 悲しみに溺れて、今、大事にしなければいけないものを見失ってはいけない。
 それがどんな告白であろうと、彼女が語るならば、耳を塞がないと、覚悟を決めた。
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