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12.東西の秘薬
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抽出機の中で、渋茶色のエキスが一滴、また一滴と落ちる。
研究室の中は、スパイスの刺激の中に獣臭さの混ざる、異国風の香りに満ちていた。
「先生、これは何を作られているんですか?」
助手マルグリッドは、指導医師ステファン・ロレンツに尋ねた。
先ほどまで古いノートを開いて、調合に勤しんでいた彼は、乳鉢を洗いながら、「……ちょっとした栄養剤を」と答えた。
ステファンは、十年以上前、西域自治区のとある部族に招かれていたことがある。
元々は中央帝国側の国境付近の開拓村に赴任していた。
ある日、崖から落ちた遊牧民族の少年と羊を見つけた。羊は無事だったが、少年は足を折っていたので、村外れの診療所に連れ帰った。面倒の種を拾うなと村の者には叱られた。乾季で、水場を巡って緊張が高まっているのだという。
そうはいっても放り出すわけにもいかないと、羊を診療所の前に繋いで治療していたら、三日目には武装した部族の男たちが迎えに来た。
言葉が通じなかったので、空の両手をあげて敵意がないことを示し、大人しくしていた。
少年がなにやら取りなすようだった。
静かに引き上げてほしいが、少年の治療はまだ続けたいと思っていたら、男たちは、少年と羊と異国人の医者の三点セットを持ち帰ることに決めたらしかった。
本格的な抗争の引き金になっては嫌だったので、村長に「せっかくお招きいただいたので、あちらの医療と薬を学んできたいと思います。連絡はつくように頼んでみますから、お困りのときは呼んでください」と挨拶した。
「先生、肝が太いんだか馬鹿なんだかどっちだ」と、村長は呆れながらも、通訳ができるという村人を一人同行させる条件で許可してくれた。
「こっちだって長いこと頼んで王都から来てもらった医者先生だ。やるんじゃないぞ、子供が治ったら、ちゃんと返せ」
通訳が村長の言葉を伝えると、男たちは一応うんうんと頷いた。
強引な招待ではあったが、部族の集落では丁重に扱われた。少年は族長の息子だった。彼らは移動式の大型テントで生活するのだが、ステファンは族長のテントの横に、独立したテントを与えられた。
治療中の少年と、そちらで寝起きした。
少年の姉の一人だという娘が、世話に通ってくれた。
姉弟は懐っこく、ステファンの発音を笑いながらも、西域の言葉を教えてくれた。姉はツェツェグ、弟はバートルという名だった。
やがて、怪我の治りが悪い、腹痛がある、子の熱が下がらないと、簡易診療所に患者が来るようになった。帝国から持ってきた薬や器具を使って治療した。
家畜まで連れてこられたが、できるだけ診た。
片方では、彼らが用いる薬草や、病への対応を教えてもらった。呪術的で効能に首を傾げたくなるものもあったが、多くは紐解けば理に適っていた。
帝国内にいては対処がわからなかった風土病へも理解が深まった。
そこでは、ステファンは「エムチ」または「ツァガン」と呼ばれた。それぞれ「医者」「白」の意味だそうだ。都度名乗ったが、言語的に彼らには馴染まなかったらしい。
「こいつら、帝国人なんか後から来た奴らだって思ってんでね。帝国語に興味ないんだよ」
通訳が肩を竦めて言った。彼はといえば、西域人と帝国人のハーフで、幼少は西域にいたのだそうだ。西域人の父が死んでから、母と帝国側に戻ったのだという。
「それにしても、あんたこんなところで意外としぶといっていうか……生き生きしてんなぁ……」
知的好奇心が刺激される日々だったが、一月もすれば、バートルの状態も予後が見通せるようになった。
そろそろ暇をと族長に申し出ると、夕餐に招かれた。羊一頭解体してのもてなしだった。
「『お前は貧弱で馬も乗れず剣も使えないが、大変な知恵ものだ』」
頬から顎に堂々たる黒髭を蓄えた族長の言葉を、村の男が同時通訳する。
「ありがとうございます。僕としても、こちらでの経験は大変貴重なもので、感謝しています」
族長は深く頷く。ツェツェグがステファンの横にぴったりとついて、盃にとろみのある白い酒を注ぐ。
「『この辺りの草も尽きてきたから、我らは近々移動する』」
「そうでしたか。大変お世話になりました。ご子息は落ち着いてこられましたから、僕がいなくても大丈夫だと思います」
族長が何事か言う。しかし、通訳は眉根を深く寄せて黙った。
「何と言っておられますか」
「ったく、あんたが甘い顔をするからだ」
彼は強い語気で、族長に言い返した。とたんに、宴席が険悪な空気に包まれた。ステファンはまだ、簡単な単語しか拾えない。頼りの彼に職務放棄されては困る。
「ちょっと、どうしました。蚊帳の外にしないでください」
「俺は、約束を違えるなと言っただけだ」
族長がギョロリと通訳を睨む。ステファンを指してまた何か言う。
「頼みますから、教えてください。僕に話をさせて」
「ふん、族長もそう言ってやがる。『お前に話してるんじゃない、仕事をしろ、医者に伝えろ』だと」
ツェツェグはステファンを見つめ、何か訴える。
「族長はあんたを連れて行きたいそうだ。新しい名前をつけてやるし、この子を妻にしろと言ってる。っていうか、これはあれだ。ツェツェグが親父にあんたをねだったんだ。おい、ほだされるなよ。医者先生を黙ってくれてやったとなっちゃ、俺は村に居場所がなくなる」
ツェツェグは漆黒の強い目で、邪魔立てする通訳を睨んだ。いつのまにか、ステファンの腕をしっかり掴んでいる。
ステファンはひとつため息をついた。
「ええ、わかりました。返事をしますから、違えず伝えてください」
ステファンの言付けを聞いて、通訳は口を歪めた。
「本当に言っちまっていいのか」
「どうぞ」
通訳は族長に向き直った。
「『異国人の私の身にあまる名誉と存じますが、お受けしかねます』」
ツェツェグがぎゅっと手に力をこめた。族長が「なぜだ」と訊いたのは、ステファンも理解できた。
「『私は不能なので、夫として用を成しません』だとよ、族長殿! こりゃ婿には無理だ、やめときな」
通訳は最後は笑いながら伝えた。とたん、座がどっと沸いた。
西域は一夫多妻制だ。女を抱いてこそ一人前、妻子の人数が男の価値を表すという文化だ。
族長が唸り、胡座の膝に片肘をついた。
「笑うな!」
娘の高い声が響いた。ツェツェグが立ち上がっていた。
「ステファンを、笑うな」
ぎりぎりと唇を噛んで、男たちをねめつけた。
ステファンは彼女に引っ張られ、囃す声と指笛に送られてテントを出た。
ツェツェグの部屋に連れて行かれた。彼女は自分で服を脱ぎ、ステファンの服もとった。手を胸にもっていって触れさせた。
しばらく、されるがままになっていた。
「ステファン、なんで」
娘は悲しげに呟いた。
「『すみません』」
ステファンは一言、謝った。けして嫌いではなかった。弟思いの優しい娘だった。長い真っ直ぐな黒髪と、同色の瞳が美しかった。自分の名は『花』という意味だと教えてくれた。彼女一人、彼の名をきちんと呼んだ。
ただ、そのとき彼は、誰も求めなかった。
翌朝には、通訳と出立の準備をした。
「ツェツェグが族長に話したよ。あんたは本当に何もしなかったって。よく我慢したな、医者先生」
「我慢も何も、嘘じゃないんですよ」
族長の母である老婆が来た。
「『残念だ。惜しいのだが、あんなことを言っては、ここではもう誰もお前を認めない。いったい前世でどんな悪事を働いたのか』」
凄まじい言われように苦笑いするしかなかった。
「『だがお前は孫を助け、新たな知恵をもたらした。我らは恩知らずではない。返礼に、お前を救う秘薬を授けてやろう』」
調合を、ステファンはノートに書き取った。これを飲めばどんな老人にも一夜の春が戻る、妻が何人いようが満足させられると老婆は請け負い、ステファンの肩を叩いて励ました。
老婆にバートルの今後の手当ての注意を伝えた。
「『なんで帰るんだ、姉ちゃんと結婚するんじゃないのか』だとよ」
経緯をまだ知らされていないらしいバートルに、ステファンはまた、『すみません』と謝った。
「元気でね、バートル」
ツェツェグはもう、姿を見せなかった。
ステファンは今でも、彼女にだけは悪いことをしたと思っている。
別に自身は構わなかったが、満座の前で仮にも彼女の想い人を、彼らの文化では受け入れられない方法で侮辱した。
勝手だが、せめて今は、彼女がよい伴侶に恵まれているように願っている。
ステファンは、ディアナと遅ればせながら結婚し、その魅力にカンフルを打たれて、今は奇跡的に機能している。
しかし、思春期から不全だった上に、三十代も後半にさしかかって、肉体のピークはとっくに終わっている。一夜に一回が限界だった。行為の翌日は昼過ぎまで気怠い。
しかも、ピアスをしてから、彼女は一段階ステップを上がってしまったようで、積極性が増した。
今朝起きると、エプロン姿のディアナが掛布の中に潜り込んでいた。
「なにをしているんですか」
「だって、こんなにしていらっしゃるから……昨日、足りなかったのかと思って」
花の顔を染めて彼女は答えた。
それは夜間陰茎勃起という生理現象で、性的興奮とは無縁とは、妻として頑張ろうとする健気な彼女に言えず、少々遅刻するはめになった。
今までそれすら起こらなかったのだから、自分の身体もスイッチが入り始めているのは認める。
まして若い彼女の欲求は当然で、なんとか応えてやりたいと悩んだ結果、ステファンは午後の休憩時間に、十年越しの老婆の厚意に頼ろうとしているのだった。
手に入り難いものは、似た効能と思われるもので代用した。毒ではないが、材料はかなりきついものが入っている。
いざ飲むのを迷っているところに、同僚のヴァルター・ベルクが息抜きに来た。
「なんだこりゃ」
「西域で昔教えてもらった、強壮の煎じ薬です。試しますか」
ヴァルターは同年代で、ステファンより体格がいい。ちょうどいい被験者だった。
「へえ、いいのか。ちょっと疲れがたまってるところなんだ」
「どうぞ」
好奇心旺盛な彼は、コップ半分程に濃縮された薬を嗅ぎ、一息に飲み干した。
翌日、彼はまた昼休みにやってきて、「なんてもん飲ませやがる」とツヤツヤした顔で笑った。年甲斐もなく朝まで妻を離せず、叱られるはめになったそうだ。
成功と言っていいだろう。ステファンは再び薬を煎じて、小瓶に移し替えて持ち帰った。
一方、ディアナは家政婦のベルタから、スパイスミックスの小瓶を貰っていた。
「奥様、旦那様がお疲れ気味だとおっしゃっていたでしょう」
ステファンは時々、ディアナが湯を使って寝支度をするころには、寝室の掛布に包まって眠っていることがある。
神経を使う仕事をしているから仕方がない。さすがに毎日定時帰りともいかなくなってきて、夜遅い日もある。
それでも、三日に一度はじっくりと愛してくれるのだから、あまりわがままを言ってはいけないと思ってはいる。
けれど、彼にあれこれと教えられて、特にピアスを貰ってからは、うずうずした気持ちを持て余しぎみだった。
先日など、朝、彼を起こしにいって、寝言で名を呼んでくれたのが嬉しくて掛布に潜り込み、ちょっとした発見をした。夢の中で求めてくれているのかと思うと、恥ずかしさより、欲求が優ってしまった。
過労気味の彼に、欲張り過ぎたかと後で反省した。
オブラートに幾重にも包んで、ベルタにすこし、こぼしていた。
「うちの姑は若い頃は東部で薬師をやってましてね。これは特に、男性に効く組み合わせなんですよ。夫婦円満の秘訣です」
肉にまぶしても、スープに溶かし込んでもいいという。味見をするとぴりりと辛く、いかにも身体が温まりそうだった。
「いいわね、東部のお料理、ぜひ覚えたいわ」
悪戯心もあって、ディアナはその日のディナーを決めた。
ベルタは、ディアナが思う以上に意を汲んでいた。
少々お節介な家政婦の目には、夫ステファンは、どうも頼りなく、精力が薄そうに見えていた。
子供もそんなに欲しくないなどと、気弱なことを言っているとも聞く。こんなに美しい若妻を貰って何を言っているのだ。
ディアナは貴族の娘で気位が高いが、失敗すれば反省し教えを乞うてくる、素直でかわいらしい面もある。ぜひ心身ともに満ち足りた生活を送ってほしい。
また、このままの調子でディアナの腕が上がれば、二人暮しの家事程度、ベルタは近々お役御免になる。しかし、子に恵まれれば手も欲しくなるだろう。ロレンツ家の雇用条件は割がよく、長く続けたいという打算もあった。
そんなわけで、姑に事情を話して調合してもらった特製スパイスだった。どんな朴念仁もイチコロと太鼓判を押してもらったが、食べさせすぎると血管が切れると注意もされた。
東西の秘薬はこうして、中央帝国のロレンツ夫妻の元に、待ち合わせたようにもたらされたのだった。
研究室の中は、スパイスの刺激の中に獣臭さの混ざる、異国風の香りに満ちていた。
「先生、これは何を作られているんですか?」
助手マルグリッドは、指導医師ステファン・ロレンツに尋ねた。
先ほどまで古いノートを開いて、調合に勤しんでいた彼は、乳鉢を洗いながら、「……ちょっとした栄養剤を」と答えた。
ステファンは、十年以上前、西域自治区のとある部族に招かれていたことがある。
元々は中央帝国側の国境付近の開拓村に赴任していた。
ある日、崖から落ちた遊牧民族の少年と羊を見つけた。羊は無事だったが、少年は足を折っていたので、村外れの診療所に連れ帰った。面倒の種を拾うなと村の者には叱られた。乾季で、水場を巡って緊張が高まっているのだという。
そうはいっても放り出すわけにもいかないと、羊を診療所の前に繋いで治療していたら、三日目には武装した部族の男たちが迎えに来た。
言葉が通じなかったので、空の両手をあげて敵意がないことを示し、大人しくしていた。
少年がなにやら取りなすようだった。
静かに引き上げてほしいが、少年の治療はまだ続けたいと思っていたら、男たちは、少年と羊と異国人の医者の三点セットを持ち帰ることに決めたらしかった。
本格的な抗争の引き金になっては嫌だったので、村長に「せっかくお招きいただいたので、あちらの医療と薬を学んできたいと思います。連絡はつくように頼んでみますから、お困りのときは呼んでください」と挨拶した。
「先生、肝が太いんだか馬鹿なんだかどっちだ」と、村長は呆れながらも、通訳ができるという村人を一人同行させる条件で許可してくれた。
「こっちだって長いこと頼んで王都から来てもらった医者先生だ。やるんじゃないぞ、子供が治ったら、ちゃんと返せ」
通訳が村長の言葉を伝えると、男たちは一応うんうんと頷いた。
強引な招待ではあったが、部族の集落では丁重に扱われた。少年は族長の息子だった。彼らは移動式の大型テントで生活するのだが、ステファンは族長のテントの横に、独立したテントを与えられた。
治療中の少年と、そちらで寝起きした。
少年の姉の一人だという娘が、世話に通ってくれた。
姉弟は懐っこく、ステファンの発音を笑いながらも、西域の言葉を教えてくれた。姉はツェツェグ、弟はバートルという名だった。
やがて、怪我の治りが悪い、腹痛がある、子の熱が下がらないと、簡易診療所に患者が来るようになった。帝国から持ってきた薬や器具を使って治療した。
家畜まで連れてこられたが、できるだけ診た。
片方では、彼らが用いる薬草や、病への対応を教えてもらった。呪術的で効能に首を傾げたくなるものもあったが、多くは紐解けば理に適っていた。
帝国内にいては対処がわからなかった風土病へも理解が深まった。
そこでは、ステファンは「エムチ」または「ツァガン」と呼ばれた。それぞれ「医者」「白」の意味だそうだ。都度名乗ったが、言語的に彼らには馴染まなかったらしい。
「こいつら、帝国人なんか後から来た奴らだって思ってんでね。帝国語に興味ないんだよ」
通訳が肩を竦めて言った。彼はといえば、西域人と帝国人のハーフで、幼少は西域にいたのだそうだ。西域人の父が死んでから、母と帝国側に戻ったのだという。
「それにしても、あんたこんなところで意外としぶといっていうか……生き生きしてんなぁ……」
知的好奇心が刺激される日々だったが、一月もすれば、バートルの状態も予後が見通せるようになった。
そろそろ暇をと族長に申し出ると、夕餐に招かれた。羊一頭解体してのもてなしだった。
「『お前は貧弱で馬も乗れず剣も使えないが、大変な知恵ものだ』」
頬から顎に堂々たる黒髭を蓄えた族長の言葉を、村の男が同時通訳する。
「ありがとうございます。僕としても、こちらでの経験は大変貴重なもので、感謝しています」
族長は深く頷く。ツェツェグがステファンの横にぴったりとついて、盃にとろみのある白い酒を注ぐ。
「『この辺りの草も尽きてきたから、我らは近々移動する』」
「そうでしたか。大変お世話になりました。ご子息は落ち着いてこられましたから、僕がいなくても大丈夫だと思います」
族長が何事か言う。しかし、通訳は眉根を深く寄せて黙った。
「何と言っておられますか」
「ったく、あんたが甘い顔をするからだ」
彼は強い語気で、族長に言い返した。とたんに、宴席が険悪な空気に包まれた。ステファンはまだ、簡単な単語しか拾えない。頼りの彼に職務放棄されては困る。
「ちょっと、どうしました。蚊帳の外にしないでください」
「俺は、約束を違えるなと言っただけだ」
族長がギョロリと通訳を睨む。ステファンを指してまた何か言う。
「頼みますから、教えてください。僕に話をさせて」
「ふん、族長もそう言ってやがる。『お前に話してるんじゃない、仕事をしろ、医者に伝えろ』だと」
ツェツェグはステファンを見つめ、何か訴える。
「族長はあんたを連れて行きたいそうだ。新しい名前をつけてやるし、この子を妻にしろと言ってる。っていうか、これはあれだ。ツェツェグが親父にあんたをねだったんだ。おい、ほだされるなよ。医者先生を黙ってくれてやったとなっちゃ、俺は村に居場所がなくなる」
ツェツェグは漆黒の強い目で、邪魔立てする通訳を睨んだ。いつのまにか、ステファンの腕をしっかり掴んでいる。
ステファンはひとつため息をついた。
「ええ、わかりました。返事をしますから、違えず伝えてください」
ステファンの言付けを聞いて、通訳は口を歪めた。
「本当に言っちまっていいのか」
「どうぞ」
通訳は族長に向き直った。
「『異国人の私の身にあまる名誉と存じますが、お受けしかねます』」
ツェツェグがぎゅっと手に力をこめた。族長が「なぜだ」と訊いたのは、ステファンも理解できた。
「『私は不能なので、夫として用を成しません』だとよ、族長殿! こりゃ婿には無理だ、やめときな」
通訳は最後は笑いながら伝えた。とたん、座がどっと沸いた。
西域は一夫多妻制だ。女を抱いてこそ一人前、妻子の人数が男の価値を表すという文化だ。
族長が唸り、胡座の膝に片肘をついた。
「笑うな!」
娘の高い声が響いた。ツェツェグが立ち上がっていた。
「ステファンを、笑うな」
ぎりぎりと唇を噛んで、男たちをねめつけた。
ステファンは彼女に引っ張られ、囃す声と指笛に送られてテントを出た。
ツェツェグの部屋に連れて行かれた。彼女は自分で服を脱ぎ、ステファンの服もとった。手を胸にもっていって触れさせた。
しばらく、されるがままになっていた。
「ステファン、なんで」
娘は悲しげに呟いた。
「『すみません』」
ステファンは一言、謝った。けして嫌いではなかった。弟思いの優しい娘だった。長い真っ直ぐな黒髪と、同色の瞳が美しかった。自分の名は『花』という意味だと教えてくれた。彼女一人、彼の名をきちんと呼んだ。
ただ、そのとき彼は、誰も求めなかった。
翌朝には、通訳と出立の準備をした。
「ツェツェグが族長に話したよ。あんたは本当に何もしなかったって。よく我慢したな、医者先生」
「我慢も何も、嘘じゃないんですよ」
族長の母である老婆が来た。
「『残念だ。惜しいのだが、あんなことを言っては、ここではもう誰もお前を認めない。いったい前世でどんな悪事を働いたのか』」
凄まじい言われように苦笑いするしかなかった。
「『だがお前は孫を助け、新たな知恵をもたらした。我らは恩知らずではない。返礼に、お前を救う秘薬を授けてやろう』」
調合を、ステファンはノートに書き取った。これを飲めばどんな老人にも一夜の春が戻る、妻が何人いようが満足させられると老婆は請け負い、ステファンの肩を叩いて励ました。
老婆にバートルの今後の手当ての注意を伝えた。
「『なんで帰るんだ、姉ちゃんと結婚するんじゃないのか』だとよ」
経緯をまだ知らされていないらしいバートルに、ステファンはまた、『すみません』と謝った。
「元気でね、バートル」
ツェツェグはもう、姿を見せなかった。
ステファンは今でも、彼女にだけは悪いことをしたと思っている。
別に自身は構わなかったが、満座の前で仮にも彼女の想い人を、彼らの文化では受け入れられない方法で侮辱した。
勝手だが、せめて今は、彼女がよい伴侶に恵まれているように願っている。
ステファンは、ディアナと遅ればせながら結婚し、その魅力にカンフルを打たれて、今は奇跡的に機能している。
しかし、思春期から不全だった上に、三十代も後半にさしかかって、肉体のピークはとっくに終わっている。一夜に一回が限界だった。行為の翌日は昼過ぎまで気怠い。
しかも、ピアスをしてから、彼女は一段階ステップを上がってしまったようで、積極性が増した。
今朝起きると、エプロン姿のディアナが掛布の中に潜り込んでいた。
「なにをしているんですか」
「だって、こんなにしていらっしゃるから……昨日、足りなかったのかと思って」
花の顔を染めて彼女は答えた。
それは夜間陰茎勃起という生理現象で、性的興奮とは無縁とは、妻として頑張ろうとする健気な彼女に言えず、少々遅刻するはめになった。
今までそれすら起こらなかったのだから、自分の身体もスイッチが入り始めているのは認める。
まして若い彼女の欲求は当然で、なんとか応えてやりたいと悩んだ結果、ステファンは午後の休憩時間に、十年越しの老婆の厚意に頼ろうとしているのだった。
手に入り難いものは、似た効能と思われるもので代用した。毒ではないが、材料はかなりきついものが入っている。
いざ飲むのを迷っているところに、同僚のヴァルター・ベルクが息抜きに来た。
「なんだこりゃ」
「西域で昔教えてもらった、強壮の煎じ薬です。試しますか」
ヴァルターは同年代で、ステファンより体格がいい。ちょうどいい被験者だった。
「へえ、いいのか。ちょっと疲れがたまってるところなんだ」
「どうぞ」
好奇心旺盛な彼は、コップ半分程に濃縮された薬を嗅ぎ、一息に飲み干した。
翌日、彼はまた昼休みにやってきて、「なんてもん飲ませやがる」とツヤツヤした顔で笑った。年甲斐もなく朝まで妻を離せず、叱られるはめになったそうだ。
成功と言っていいだろう。ステファンは再び薬を煎じて、小瓶に移し替えて持ち帰った。
一方、ディアナは家政婦のベルタから、スパイスミックスの小瓶を貰っていた。
「奥様、旦那様がお疲れ気味だとおっしゃっていたでしょう」
ステファンは時々、ディアナが湯を使って寝支度をするころには、寝室の掛布に包まって眠っていることがある。
神経を使う仕事をしているから仕方がない。さすがに毎日定時帰りともいかなくなってきて、夜遅い日もある。
それでも、三日に一度はじっくりと愛してくれるのだから、あまりわがままを言ってはいけないと思ってはいる。
けれど、彼にあれこれと教えられて、特にピアスを貰ってからは、うずうずした気持ちを持て余しぎみだった。
先日など、朝、彼を起こしにいって、寝言で名を呼んでくれたのが嬉しくて掛布に潜り込み、ちょっとした発見をした。夢の中で求めてくれているのかと思うと、恥ずかしさより、欲求が優ってしまった。
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「いいわね、東部のお料理、ぜひ覚えたいわ」
悪戯心もあって、ディアナはその日のディナーを決めた。
ベルタは、ディアナが思う以上に意を汲んでいた。
少々お節介な家政婦の目には、夫ステファンは、どうも頼りなく、精力が薄そうに見えていた。
子供もそんなに欲しくないなどと、気弱なことを言っているとも聞く。こんなに美しい若妻を貰って何を言っているのだ。
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また、このままの調子でディアナの腕が上がれば、二人暮しの家事程度、ベルタは近々お役御免になる。しかし、子に恵まれれば手も欲しくなるだろう。ロレンツ家の雇用条件は割がよく、長く続けたいという打算もあった。
そんなわけで、姑に事情を話して調合してもらった特製スパイスだった。どんな朴念仁もイチコロと太鼓判を押してもらったが、食べさせすぎると血管が切れると注意もされた。
東西の秘薬はこうして、中央帝国のロレンツ夫妻の元に、待ち合わせたようにもたらされたのだった。
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