ロレンツ夫妻の夜の秘密

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4.首輪(黒)

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 玄関のベルが鳴る。
 出迎えたディアナの姿を見て、中年のふくよかな家政婦は、買い物籠を下ろすと首を傾げた。

「風邪でも引かれましたか、奥様」

 屋内だというのに、彼女は首にショールをぐるぐる巻きにしていた。

「喉が少し。今日はだから、いいわ。これだけ、受けとるから、帰ってちょうだい」

 普段は見惚れるほど凛とした若奥様だが、今朝はいくぶん顔に朱がさすようだ。声もひそめられていて、家政婦は気の毒に思う。

「口当たりのいいものだけでも、ご用意しましょうか」
「ありがとう。でも、本当に構わないの」
「そうですか。旦那様が診てくださっているなら、心配はございませんでしょうけど……お大事になさってくださいまし」
「ええ」

 彼女が帰ると、ディアナは胸を撫で下ろし、ショールを解いた。
 玄関の姿見に、自身を見た。
 その首には、鋲の打たれた黒革の首輪が巻いていた。喉元には、金属の錠が下がっている。

 昨夜、夫は豹変した。
 重ねるだけの控えめな口付けしかしていなかったのに、舌を差し入れてきたのが始まりだった。
 歯の一つ一つを確認するように舐り、舌を絡めとった。息が続かずに逃げても、何度も執拗に塞がれた。
 解放されたときには、酸欠で茫としていた。彼は抵抗が薄くなったディアナの夜着を剥いだ。
 せめてカーテンを閉めてほしいと言っても、聞き入れてはくれなかった。掛布は床に落とされていた。満月の光に全身を晒されながら、抱かれた。
 嫌だと恥じらい抗うほど、彼は悦び、押さえつけた。

「貴女の身体は嫌がっていませんよ?」

 彼は巧みだった。一方的な行為のようで、ディアナの反応をよく見ていた。
 皮膚の薄い部分や粘膜のみならず、思わぬ部分の性感を、教えられた。するりと背の中央に指を滑らされただけで、全身が震えた。耳に、ふと息を吹き込まれて悶えた。
 彼は、ディアナ以上に、女体を知り尽くしていた。
 今までの交わりは何だったのか。娼館での練習どころでこうも変わるのか。淫魔でも呼び出して取り憑かせたのだろうかとまで思った。
 粗相と錯覚するほど、内から蜜が溢れるようになってから、ようやく彼は入ってきた。

 それも、ただ抽送されるばかりではなかった。指も使いながら、浅い部分を引っ掛けるように擦ったかと思えば、彼の形を覚えこまされるように押し込まれ、掻き回された。
 身体が際限なく開かれていく感覚に、いつしか我を忘れ、声を上げてしがみついていた。

 ディアナは彼の瞼に隠れていた、深藍の瞳に溺れた。
 月を背に黒い影になった彼に見下ろされながら、責め立てられた果てに意識を手放した。

 目覚めると、ディアナは一人だった。
 夜着を身につけ、掛布に包まれていた。
 カーテンもきちんと引かれていた。

 サイドテーブルの置き時計は七時をさしていた。
 ディアナは慌てる。夫より早く六時には起きて、朝食の準備をするのを、結婚以来、妻として自分に課していた。

 ステファンは、既に出勤の身支度をしてダイニングにいた。牛乳をコップに注いで飲んでいた。

「おはようございます。ごめんなさい、すぐ朝餉を用意します」
「おはようございます。貴女、まだ休んでいてもいいんですよ」
「いいえ!」

 冷ややかな冬の朝の光の中で、彼は眩しそうだった。覚めていても眠った猫に似た、いつもの彼だった。何事もなかったような顔が憎い気がした。
 ディアナは意地になって、薬罐を火にかけ、卵を割った。

「これ、いただいてもいいですか」

 彼はバスケットを開け、ディアナが昨日作ってそのままの、ローストビーフのサンドイッチを欲しがった。切り分けて出し、先に食べてくれるように言った。彼はいつも七時半には家を出るのだ。

 オレンジを剥くのに気を取られている横で、薬罐が激しく噴いた。
 ディアナより早く、ステファンが火を消した。
 彼は空になった皿を下げにきていた。

「珈琲は……もう、時間がないですわね」
「いえいえ。貴女も一緒にどうですか」

 湯を使って、ステファンはカップを二つ温めた。彼は料理をせず、一人のときは外食か、パンやチーズを齧って済ませていたというが、珈琲を淹れるのは上手かった。濾過紙を敷いた漏斗の中で、珈琲の粉がふくふくと細かに泡立ち、キッチンに芳しい香りが満ちていく。
 サンドイッチがとても美味しかったと、彼は呑気に言った。

 半熟のスクランブルエッグとオレンジを並べたダイニングテーブルで向かい合って、珈琲を飲んだ。時計はもう八時をさしていたが、彼は急ぐ様子がなかった。
 そして、訊いた。

「少し、辛かったですか?」

 昨晩のことを言っているなら、そんな生易しいものではなかったが、ディアナは強がった。

「なんでもありませんわ」
「そうですか」

 全て綺麗に平らげて、彼は立った。

「今日からは、本当に仕事のときはともかく、寄り道せずに帰りますから」
「……当たり前ですわ」

 ディアナは少し拗ねた気持ちを引きずりながら答えた。
 ステファンは玄関で、コートを腕を通し、鞄を持って、妻の豊かな髪を愛おしげに撫でつけた。
 そして、鞄から取り出したものを、彼女の首に巻いた。

「え……?」

 冷たい感触があった。一瞬軽く首が締まり、カチャリと金属の擦れる音がした。

「ご実家に帰ったりしたら嫌です。貴女も、ちゃんと待っていてくださいね」

 彼はごく真面目な顔で、鍵を鞄にしまいこんだ。

「行ってきます」

 寝坊のせいで夜着のまま、髪を結ってもいないディアナは、彼を追って往来に出ることもできなかったのだ。




 こんな姿では、実家どころか、どこへも行けない。
 裁ち鋏でも入れれば切れるだろうか。
 首をぎりぎり締めない程度の輪に刃物を当てるのは怖かった。
 それに、無理に外したら、帰宅した夫はどんな反応をするのだろう。
 もう、物足りなく思うくらいに寛容だった彼ではない。ディアナの涙を見て心底嬉しそうに嗤い、凌辱した男だ。

 ディアナは汚れたシーツを外して洗った。
 こじんまりした庭にシーツがはためくのを眺めながら、喉の錠に触れていた。
 冷たく小さく、しかし確かな質量をもっている。
 元々、ディアナの持ち物だ。
 首輪の裏には「ロミー」と実家の犬の名が刻印されているのを、知っている。
 見事な流線型の胴に長い脚、ローズイヤーにサーベルのような尾を持つ、本来は猟に使う種の、美しい犬だ。
 毛はグレーの短毛で、東部産の高級な絨毯のように滑らかだった。
 成犬となっては調教師の躾の甲斐もあって落ち着いたが、仔犬のうちはそのバネの効いた身体にありあまるエネルギーを持て余し、始終跳ね回っていた。
 来て間もないころ、あろうことか帰宅した父に飛びつき、興奮混じりに腕に噛み付いた。
 軍服の硬い生地に牙を立てる犬を、父はそのまま吊り上げた。

「上下を弁えないものは置かない」

 睨まれ、静かに言い渡されると、ロミーは牙を外し、尾を巻いて平伏した。
 利かん気だが、よく人を見ていた。
 ロミーを貰ってきた兄クラウスなど、じゃれつかれて軍学校の制服を泥まみれにされても喜んで遊んでやるものだから、完全に舐められていた。
 妹エーファや弟ギルベルトについては、ロミーは庇護対象と認識していた。
 大概の使用人は相手にしなかった。
 表庭の芝生を穴だらけにして、庭師に怒鳴られても、得意げに長い舌を出して尾を振っていた。
 しかし、母マリーが庭の惨状を目にして、「ロミー、いけません」と諭したとたん、伏して恭順の姿勢をとった。
 リヒター子爵家で最も強いのは当主テオドール、そして、テオドールが愛してやまないのが夫人マリーであり、決して逆らってはいけないのだと、ロミーは理解していた。
 ディアナはといえば、下に見られてなるものかと、ロミーを厳しく躾けた。油断すれば、あの賢い犬は、ディアナの密かな願望を見抜く気がした。

 首輪を手に入れて、自室で一人つけてみたときの背が粟立つような感覚を、ディアナは忘れていない。
 ただ、そのときは自由に外せたものが、今は紛うことない枷だった。
 ステファンが帰ってくるのが恐ろしいような、待ち遠しいような、どちらともつかない気持ちだった。

 さして背丈が変わらなくても、軍人のように鍛えた身体でなくても、やはり彼は男だった。関節のはっきりした手は大きかった。抱きすくめてきた身体は骨ばって硬かった。
 彼は、ディアナが必死で抑えていたものを容赦なく引き摺り出した。
 腰を掴まれながら、初めて彼の熱い迸りを内に放たれ、ディアナは支配される悦びを受け入れてしまった。

 思い出せば、身体が再び熱くなる。
 内から伝い漏れてくる残滓は、首の戒めとともに、昨夜の出来事は現だと思い知らせてきた。
 下着を取り替えれば、粘液がクロッチにべったりとついていた。彼に与えられたものだけではなく、自ら分泌したものも混ざっているのだろう。
 洗いながら、無性に恥ずかしかった。
 こんなことはいけないと、ちゃんと言わなくてはと思った。

 出がけの言葉通り、夕闇が濃くならないうちに、ステファンは帰ってきた。

「おかえりなさいませ」

 鞄を受け取ると、ステファンは外気で冷えきった頬をディアナの頬に寄せて、甘い声で囁いた。

「ただいま、ディアナ。ちゃんといい子でお留守番していましたか」
「……ええ」

 言葉の端々のニュアンスが、昨日までとは違って聞こえる。危うくうっとりとしてしまいそうなところを、流されてはいけないと気を引き締めた。

「でも、人に会うのに困りましたわ。外してくださいませ」
「そうですね。僕もどうかしていました。こんな無骨なものは、貴女に似合わない」

 彼は意外とすんなりと応じた。鞄から鍵を取り出すと、首輪を外した。
 ほっとすると同時に、寂しさを感じた。
 ステファンがディアナを見つめているのに気づいて、迷いを払うように首を振った。

「お夕飯とお風呂、どちらになさいますか」
「じゃあ、先にお湯を使わせてもらいます」

 二人で夕食をとった。赤ワインを使ったシチューをパンにつけながら、彼は寛いだ様子で、ディアナの料理の腕は日に日にあがると褒めた。
 なんでもない話をしながら、これでなにもなかったことになるのなら、触れずにおこうとディアナはちらりと思った。

 そんなはずはなかった。

 ディアナも湯を使い、寝支度をすませて居間に行くと、ステファンにソファの横にかけるよう誘われた。
 リボンのかかった箱を持っていた。

「誕生日のお祝いと思って頼んでいたものが、仕上がったんです。渡したくなってしまって」

 彼の微笑みに邪気はないようだった。
 誕生日は来月なのに、気の早いことだと思いながらも、ディアナは微笑み返した。
 仲直りの印のつもりなのだろう。

「嬉しいですわ。何かしら」

 リボンを解き箱を開ける彼女の肩に、ステファンの腕が回った。
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