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エピローグ

エピローグ Midsummer

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 夏がついにやって来た。長くて寒くて暗い冬はもう終わり。夜の暗闇に慣れていた頃が嘘のように、毎日くらくらするほど外が明るい。何せ、朝四時には日が上り、二十二時まで沈まないのだ。

 この国の人々は待ち兼ねた季節に心躍らせ、とにかく外に出て日の光を浴びる。芝生の上に寝転び、花々を愛で、生命がみなぎるこの時を謳歌する。

 そんなスウェーデン人の夏への喜びが爆発する一日がある。夏至祭ミッドサマーデイ――名前の通り夏至に合わせて行われるお祭りで、夏の到来を祝う日である。

 その夏至祭の日、ヒカリ達はスカンセン野外博物館に来ていた。ヒカリと隼がカウントダウンの花火を見たあの広場の中央には、高さ二十メートル程の大きな柱が聳え立ち、その周りを人々の輪が何重も取り囲んでいる。民族衣装を着ている人もいれば花冠を付けている人もいて、みんな楽しげに歌い踊っている。

 ヒカリ達は広場の隅の方にピクニックシートを広げた。その上に持ち寄った食べ物を次々と並べていく。ニシンの酢漬け、ベイクドポテト、サンドウィッチ、チーズ、ミートボールのベリー添え、いちご――デリで買ったものもあれば家で作ったものもある。その一番端に、ヒカリは家から持ってきた器を遠慮がちにそっと置いた。

 可南子が不思議そうに首を傾げる。

「あら、それなあに?」
「昆布の佃煮です」
「昆布? 珍しいわね」
「クリームチーズと一緒にクラッカーの上に載せたら美味しいかもって思って」
「あら素敵! それやりたい!」

 可南子がいそいそとクラッカーを取り出すのを見て、ヒカリは胸を撫で降ろした。

(良かった……これで少しは昆布がける)

 この昆布の佃煮は、年明けに日本へ出張した隼に買ってきてもらったの成れの果てである。

 水炊きをするために買ってきてもらった最上級の昆布なのだが、結論から言うと水炊きはできなかった。というのも出汁が全く取れなかったのである。首を傾げながら調べたところ、問題は水にあった。スウェーデンの水はカルシウムやマグネシウムを多く含む硬水で、そこに昆布を浸しても表面にカルシウムが付着してしまい旨味が抽出できないらしい。

 結局水炊きは諦めて、昆布は折を見て佃煮にしている。まだ家に山程残っているので、可南子が気に入ったのならお裾分けしよう。

 ちなみに、同時期に持て余しかけたライブのチケットであるが、無事に全公演参加した。空席を作らず済んで本当に良かった。

「これ美味しい~! ビール飲みたくなるわ~!」

 佃煮クラッカーを口に含んだ可南子が、頬を綻ばせる。その視線の先にあるのは、隼の手元の缶ビール。

「あ、おいコラ。お前はこっちだ」

 彼女の夫の青木がすかさずノンアルコールビールの缶を渡すと、可南子は頬を膨らませた。

「分かってますよーだ。はあ……お酒飲めないのがこんなに切ないとは……」
「まあまあ、可南子さん、あと四ヶ月の辛抱ですから」
「四ヶ月どころじゃないわよ。授乳するんだから産後も禁酒よ~」

 可南子は眉を下げてトホホと笑うが、それでもどこか嬉しそうだ。最近になってお腹の膨らみも分かるようになってきて、日々刻々と彼女が母になる日が近づいてきているのだと認識させられる。

「予定日、十月半ばでしたっけ?」
「そうよ。生まれたら見に来てね。……ってヒカリさんその頃忙しいんだっけ」
「そうなんです。どうなることやら、なんですが」

 ヒカリは九月から俄然忙しくなる。大学の一年間のコースでマーケティングを学ぶ予定なのだ。

 これを提案したのは夫の隼だ。スキルを身に着けたいという気持ちがあるのならこちらの学校に通うという手もあるよ、と教えてくれたのだ。

 最初ヒカリはそれを一笑に付した。ビジネススクールなんて選び抜かれたエリートが行くものだと思っていたからだ。
 しかし、ふとアリシアのことを思い出して考えを改めた。この国では一度社会に出た人が大学に戻ってくるのは普通のことだと彼女は言っていた。ビジネススクールは決して一握りのエリートのためにあるのではなく、学ぶ必要があると思った人のためにある、と――。

 そんな訳で彼女に相談しながら慌てて出願準備を始めたのが二月の頭。英語で授業を行うコースに狙いを定め、指定された書類をかき集めた。過去に受けたIELTSの記録が残っていたことが幸いして何とか期日に間に合わせることができ、つい先日合格通知が送られてきた。そんな訳で九月からは晴れて大学院生である。

 ディスカッションやプレゼンテーションに時間を多く割き、実践に重きを置いたカリキュラムとなっているらしい。そのコースを終えると即戦力として企業に受け入れられるのだとか。移民が大学で勉強してから仕事を見つけるケースはこちらでよく耳にするので、ヒカリも卒業後は仕事を見つけられたらいいなと思っている。

 可南子が感心したような呆れたような何とも言えないため息をついた。

「大学に通うんですって? すごいわねえ」
「じっとしていられない性分なので……」
「ふうん、そっかあ……」

 ふと可南子が何か物言いたげな表情をした。

「どうしました?」
「いいえ、何も?」
「いやいや、今絶対何か言おうとしましたよね!? 何でも言ってくださいよ」
「……じゃあ言うよ? すごーくお節介なことだと思うんだけど、言っちゃうよ? ――子供作るなら早い方がいいよ」

 突然の話にヒカリは目をぱちくりさせる。

「……それは産後の体力的な意味で?」
「それもあるけどそれだけじゃなくて。妊娠率って年齢と共に低下していくってことは知っておいてねって話」
「あ、ハイ」

 何と返したらいいか見当もつかず、ヒカリは返事をしたきり固まってしまう。すると可南子の夫の青木が遠慮がちに会話に入ってきた。

「うちは結構大変だったからさ」
「散々手を尽くしてもうほとんど諦めていたのよ。だからこの子がお腹に来てくれたのは本当に奇跡」

 可南子は愛おしそうに腹を撫でる。

「待望のお子さんなんですね……」
「そうよ、待望も待望」
「そのせいか名付けに力入っちゃって本当に困ってるんだ。こいつスウェーデンにちなんだ名前がいいとか言いだして」
「なによ全然いいじゃない。『瑞』も『典』も普通に名前に使える漢字じゃない」
「その二つを同時に使うなって言ってるんだ」

 何やら揉め出した青木夫妻を傍目に、ヒカリは少し離れた所にいる隼に目を遣る。彼は広場の中央で賑わう人の群れを眺めながらビールを飲んでいる。もしかしたらこちらの話は彼の耳には全く入っていないのかもしれない。

「隼さん、何見てるの?」
「ん? メイポール見てた」

 視線の先にあるのは、広場の中央に聳え立つ巨大な柱――メイポールである。その先端は傘のような形に木が組まれていて、その下に輪っかが二つぶら下がっている。

「メイポールって不思議な形してるよね。あれってバイキングの碇がモチーフなんじゃない?」

 意外といい線行ってるんじゃないかと思いながら推測を口に出したところ、隼がクスリと忍び笑いをした。どうやらヒカリは見当外れなことを言っているらしい。

「隼さん正解知ってるなら教えてよ」
「人の体の一部だよ。……ヒカリも割と馴染みがあるんじゃない?」

 からかうように含み笑いをしながら彼はヒントをくれる。

「え、何だろう。手とか? 人差し指を立ててる形?」
「ハズレ。――正解はここ」

 彼が指さしているのは――股間。

「は?」

 ヒカリはピシリと固まってしまう。この人、こんなしょうもない下ネタを言う人だっただろうか。思わず半眼で睨みつけると、隼は少し焦ったように説明を始めた。

「いや、これ本当の話だから。豊穣と子孫繁栄を祈って男性器のシンボルを崇めているらしい」
「へええ……」

 ヒカリは何とも言えない心持ちでメイポールへと目を遣る。傘の下に輪っかが二つ。男性器を模した巨大な構造物の周りを老若男女がぐるぐる回って子孫繁栄を祈っている。何てシュールな光景なんだろう。――でもこの流れなら聞いてみてもいいかもしれない。

「隼さん、子供欲しい?」

 こっそり耳打ちするように問うと、彼は目を剥きギョッとした顔をした。子供の話なんてほとんどしたことがない。年明けに日本で「跡取りは特段必要でない」と聞いて以来だ。

「何いきなり藪から棒に」
「子孫繁栄の話が出たので」

 彼はしばらく押し黙ると、反対に聞き返してきた。

「ヒカリは?」

 前にこの話題になった時、ヒカリとしては妊娠も出産もとても我が事としては想像できないと思っていた。だけど、最近はその心境に変化が生じてきている。

「可南子さんのお腹が段々膨らんでいくのを見ているうちに、幸せそうでいいなって思うようになったかな」
「ふうん」
「そういう隼さんはどう考えているの?」

 そう水を向けると、彼は堰を切ったように語り始めた。

「欲しいよ。欲しい。めちゃくちゃ欲しい。ヒカリの胎に俺の子が宿るなんて神秘的な奇跡に憧れるし、ヒカリに似た子は絶対かわいいだろうなって思うし、母親になったヒカリを見てみたい」

 突然願望を滔々と打ち明けられ、ヒカリはポカンとしてしまう。

 しかし、彼はすぐに声のトーンを抑えて続けた。

「だけど、今じゃない。ヒカリ九月から大学に通うんでしょ」
「でも、子供は早い方がいいよって可南子さんが……」
「そうだとしても今じゃない。俺はヒカリがスウェーデンに来たことを後悔してほしくないんだ。できるだけ沢山のことを経験して、来て良かったって思って貰えたら本当に嬉しい。せっかく学校に通うんだからそっちにエネルギー向けなよ」

 爽やかに微笑みながらそう言う夫の顔を、ヒカリは惚れ惚れと見つめてしまう。こういう所がこの人の最大の美点だと思う。昔から他者のことをきちんと尊重する人だったけれど、彼は妻となったヒカリの人生もまた当然のように尊重してくれるのだ。
 
 この国に住むと決めたことで諦めたことや切り捨てたものも沢山あった。だけど、その代わりに新しい景色も開けている。この国で出会った友人だっているし、これから学校にだって通う。そうして新しく出会った一つ一つのものを大切に拾い上げていけたらどんなに素晴らしいことだろう。

 だけど、利き手は一つ。自分が一番大事にしたいのはこの人と一緒にいること。それだけは絶対に忘れないようにしなくては。

「それにさ、俺は今めちゃくちゃ忙しいんだよ」
「そうなの?」
「最愛の妻を可愛がるのに忙しいんだ。一緒に色んな所に行きたいし、まだまだ二人で話し足りない。だから、子供はもう少し先かな。――でもそう遠くない未来に、いつかきっと」

 彼はふわりと笑みを見せた。

――いつかきっと。

 ヒカリはその言葉を心の中で繰り返し、未来への期待に胸を高鳴らせる。

 広場の中央へ目を向けると、青々と光り輝く芝生の上で大人も子供も入り混じって大騒ぎをしている。夏の日差しを全身に浴びて、生命の輝くこの季節を身体全体で謳歌している。

 季節はすぐに移り変わっていくけれど、とにかく今は夏なのだ。この美しい時を謳歌することで皆忙しい。この美しい季節があるからこそ、移り変わった先の季節も生きていける。夏の記憶は永遠に続くのだから――。

 ふと、青い瞳をした友人の言葉が脳裏を過ぎる。彼女が教えてくれたあのことわざの意味を、ヒカリは今になってつくづくと思い知ったのだった。

 Ett liv utan kärlek är som ett år utan sommar.
 A life without love is like a year without summer.
 愛のない人生など夏のない一年と同じ。





―――了―――
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