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August
2. 「俺とフラットシェアしない?」
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電車が動き出した後、ヒカリは一之瀬に押し切られる形で次の駅で降りた。駅に程近いシアトル系コーヒーの店に入り、奥の方の席につく。
「いったい何の話なんです?」
ヒカリは困惑を隠さず胡乱な眼差しを彼へと向けた。全く以て心当たりがない。自分と彼は偶然再会しただけの間柄で、わざわざ場所を変えてまでするほどの話があるとは思えない。
「実は、近々スウェーデンに赴任する話が出ていて」
「スウェーデン?」
突然出てきたその国名にヒカリは目を瞬いた。スウェーデンといえば、イギリスよりも更に北のスカンジナビア半島にあるあの国だろうか。
「そう、その首都のストックホルムにうちの会社の北欧支店があって、そこへの異動が打診されている。ただ、その話には条件が付けられていて」
「といいますと?」
「妻を帯同しなければならない」
それを聞いてヒカリは思わず笑ってしまった。
海外赴任には夫婦揃って――一昔前ならそういう前提もまかり通ったのかもしれないが、今の時代には通用しないのではないだろうか。少なくとも妻の前に「付いていく」「付いていかない」の選択肢は提示されるべきだ。海外へ引っ越すとなると、築き上げてきたキャリアや人間関係など様々なものを打ち捨てることになるのだから。
仮に妻が「付いていかない」という選択肢を選んだとしても、責められるようなことではあるまい。妻には妻の人生があるのだから、夫はそれを尊重して単身で赴任すればいいではないか。
「単身赴任を認めないなんて変わってますね」
「うちの会社も普段なら認める。でも今回はちょっと事情があって。単身で赴任した前任者が二人連続で鬱になって帰ってきたんだ」
「鬱?」
ヒカリはその単語に眉をひそめた。二人連続で鬱を患うとは尋常ではない。商社マンと言えば選りすぐりのタフなビジネスマンというイメージがあるが、そんな人達でも心が折れてしまうとはいったいどんな環境なのか。
「兼子さん、ロンドンで冬季鬱って聞いたことない?」
「ああ、ビタミンDが不足しちゃうんですよね……」
ヒカリはロンドンで経験した冬へ思いを馳せる。緯度と曇りがちな気候のせいで日照時間が極端に短くて、毎日とにかく暗かった。だんだんと重苦しい気分になっていた頃、知り合いから言われたのが「ビタミンD足りてる?」という言葉。肌が日光を受けることで生成されるその成分が欠乏すると鬱症状を誘発するらしい。北緯51度のロンドンでさえそのような状況だったのだから、それより更に緯度の高いストックホルムではどれほどのことだろう。
「そういう環境の中で、せめて一緒に暮らす家族がいれば状況は違ったのではないかと人事は考えたみたいで。このポジションの後任には家族帯同で行ける人を、という話になった」
「なるほど……じゃあ先輩も奥さんを説得して付いてきてもらわないとですね」
「いや、俺は独身なんだけど」
「えっ、そうなんですか?」
ヒカリは呆れてあんぐりと口を開けた。ということは彼の勤め先の会社はまだ存在もしない妻に対して帯同の条件を付けていたという訳か。気が早いというか、従業員の人生に干渉し過ぎというか、とにかくヒカリの理解の範疇を超えている。
(というか、何で私にこの話をするわけ?)
ヒカリは困惑し、目の前の端正な顔立ちの男を見返す。偶然数年ぶりに再会したヒカリを相手に、ストックホルムに妻を帯同せねばならない理由を淡々と説明する。いったいなぜ?
彼はじっとヒカリの顔を見つめると、こう切り出した。
「――そこでだ。兼子さん、ストックホルムで俺とフラットシェアしないか?」
「はあ?」
ヒカリは目を瞬かせた。
ストックホルムでフラットシェア? この人はいったい何を言っているのか。
「ストックホルムからロンドンまでは飛行機で三時間弱。ライブ期間中の良い拠点になると思う。退職してから半年後のライブ終了まで、ストックホルムで暮らすのはどう?」
「正気で言ってますかそれ」
「もちろん」
ものすごく突拍子もない提案をされていると思うのだが、一之瀬は真面目な顔を崩すことはない。決して冗談という訳ではないようだ。
ヒカリは頭の中で素早くその提案を検討してみる。ライブツアーの拠点としてのフラットシェア。つきさっき考えていたことである。ロンドンまで三時間半なら許容範囲内。ではあるけれども――
「今の話の流れからして、ストックホルム駐在に帯同するってことですか?」
「そういうことになる。でもあくまでフラットシェアだ。互いに干渉せずに淡々と暮らすんだ」
「まさかですけど、入籍は……?」
困惑しながら聞き返すと、一之瀬はさも当然といった風に頷く。
「配偶者ビザを取るためには籍は入れないと。それで半年後にきみが帰国する際に籍を抜こう。その代償として、渡航費と滞在費は全てこちらで持つ。もちろんライブ期間中のイギリスへの渡航費も全て含めて」
ヒカリは唖然として目の前の男の顔を見つめた。
切れ長の目に、鼻筋の通った端正な顔立ちである。いわゆるイケメンの部類に入るであろう。年収もそれなりにありそうだし、付属小学校上がりだからきっと実家も太いに違いない。そんな彼が、御託を並べてヒカリに入籍を迫っている。全く以て訳が分からない。
「いやいやいや。奥さんが欲しいなら普通に探せばいいのに。紹介とかお見合いとか。先輩ならすぐに見つかりますって!」
「結婚は利の有る相手とすると決めている。だけど今は悠長に話を進めている時間がない。だからとりあえずストックホルムに行くためだけに期間限定の仮初の妻が欲しい」
なるほど、ヒカリに入籍を持ち掛けてはいるが、それはあくまで離婚前提の仮初の関係であり、きちんとした永続的な結婚は別の「利のある相手」とやらとするということか。全くもって酷い言い草である。こんな話を持ち掛けるなんて、ヒカリのことを軽んじ過ぎではないだろうか。
ヒカリの知る一之瀬は、もっと他者に敬意を払う人だった。こんなことをヒカリに言うなんて、人が変わってしまったか、それとも余程ストックホルムに執着しているかのどちらかに違いない。
「そんなにストックホルムに行きたいんですか?」
「ああ行きたいね。今のうちにできるだけ経験を積みたいんだ。今まで出張や研修は山程あったけど、海外赴任の話が来たのは初めてだから」
「そのうちまた他のチャンスが回ってきますって」
「時間がないんだ。三十五になったら父の仕事を手伝うことになっているから、自由に出来るのは今だけなんだ」
「いや、そう言われましても」
「ちなみに、入籍すると扶養に入れることができる。そうなると健康保険と厚生年金も完備となるわけだけど?」
「健康保険と厚生年金……?」
その言葉を聞いてヒカリは低く唸った。
今の今までうっかり失念していたが、会社を辞めたら今の福利厚生制度から抜けることになる。半年後のライブの都合で当面は正社員としての再就職は避けたいが、アルバイトで食いつなぐにしても国民健康保険と国民年金の支払いは待ってくれない。実家に戻って家賃を抑えるにしても、毎月数万円の固定費が出ていくのは痛手である。扶養に入れてもらえるなんて夢のような話ではないか。
籍を入れてストックホルムに行けば、健保と年金を肩代わりしてもらえる。ついでにライブ参戦時の拠点付き。デメリットは入籍を伴うこと。半年後には籍を抜くことになるわけだから、バツイチとなることが確定している。
(――でも、それって言うほどデメリット?)
ヒカリは今まで自分の趣味関心を追うのに忙しく、恋愛事に縁遠い毎日を送ってきた。彼氏が欲しいとか、結婚したいとか、子供が欲しいとかそういった欲求を抱いたことは全くない。今までなかったのだから、これから先もない気がする。
万が一将来結婚したくなったとしても、三組に一組が離婚すると言われている現代社会だ。離婚歴があることくらい今の時代においてはそれほど妨げにならないのではないだろうか。
「……あの、念のため条件を確認してもいいですか?」
「入籍してストックホルムへ帯同すること、滞在中は互いに干渉せずに暮らすこと、ただし会社の人に会ったときは妻の振りをすること、渡航及び滞在にかかる費用はすべて俺が持つこと、半年後に籍を抜くこと――そのくらいかな」
ヒカリは考え込んだ。奥さんの振りをするというのは、人と話すのは苦手ではないしまあ何とかなるだろう。つまり、半年後にバツイチになることさえ許容できれば、欧州拠点と渡航費滞在費と健保年金完備が手に入るということだ。
(どうしよう、この話ありよりのありに思えてきた……)
名より実を取るという言葉もある。きれいな戸籍という「名」よりも、拠点と渡航費滞在費と健保年金肩代わりという「実」を取ってしまうのも有りなのではないだろうか。
少し考えた結果、ヒカリは意を決して顔を上げた。
「分かりました。ストックホルムでフラットシェア、参加します!」
「ありがとう。では早速――」
そう言うと、彼はにっこりと微笑み、鞄の中から用紙を取り出した。沢山の記入枠が並ぶその用紙の左上に書いてある文字を見て、ヒカリは目を剥いた。「婚姻届」と書いてあるではないか。
「準備が良すぎやしませんか」
「ついさっき役所でもらってきたんだ。海外赴任と結婚が抱き合わせなら、とりあえず適当に結婚して赴任してやろうと思って」
ヒカリは唖然としながら手元の書類へと目を移す。そこには先程と同じく「婚姻届」と書いてある。
「これ本当にやるんですか!?」
「やるよ」
「これって偽装結婚にあたるのでは!?」
「居を同じくして生計を一にするんだから、結婚の実態はある。偽装結婚には当たらない」
(そ、そうなの……?)
それって詭弁じゃないかと思いつつも、涼しい顔して言い切られてしまうと何となくそんな気がしてきてしまう。
「もっと人選しっかりした方がいいんじゃないですか!?」
「偶然だったけど、この上なく最適な人に頼めたと思っている」
「その根拠は?」
「きみとなら半年後にこじれず籍を抜くことができると思う。――兼子さん、俺のこと好きにならないだろ? 学生の頃のきみからは俺を出し抜き利用してやろうという魂胆しか見えなかった」
言外に過去の行状を咎められた気がして、ヒカリは首を竦めた。
全くもってその通り。学祭準備委員をしていた頃、ヒカリはいかにして一之瀬を出し抜こうかと日々心血を注いでいた。学内には彼に対して秋波を送る女子生徒が沢山いたが、ヒカリは偏愛するUKロックバンドを呼び込むために一之瀬を利用し踏み台にしてやろうとしか考えていなかったのだ。
「あの時は力になれなくて悪かったね。今回こそ俺を存分に利用してくれ」
「……ストックホルムに赴任したい先輩がわたしを利用するんじゃないんですか?」
「互いにWIN-WINということだな。大いに結構じゃないか。じゃ、よろしく」
にっこり笑う彼に促され、ヒカリは婚姻届に名前を書いたのだった。
「いったい何の話なんです?」
ヒカリは困惑を隠さず胡乱な眼差しを彼へと向けた。全く以て心当たりがない。自分と彼は偶然再会しただけの間柄で、わざわざ場所を変えてまでするほどの話があるとは思えない。
「実は、近々スウェーデンに赴任する話が出ていて」
「スウェーデン?」
突然出てきたその国名にヒカリは目を瞬いた。スウェーデンといえば、イギリスよりも更に北のスカンジナビア半島にあるあの国だろうか。
「そう、その首都のストックホルムにうちの会社の北欧支店があって、そこへの異動が打診されている。ただ、その話には条件が付けられていて」
「といいますと?」
「妻を帯同しなければならない」
それを聞いてヒカリは思わず笑ってしまった。
海外赴任には夫婦揃って――一昔前ならそういう前提もまかり通ったのかもしれないが、今の時代には通用しないのではないだろうか。少なくとも妻の前に「付いていく」「付いていかない」の選択肢は提示されるべきだ。海外へ引っ越すとなると、築き上げてきたキャリアや人間関係など様々なものを打ち捨てることになるのだから。
仮に妻が「付いていかない」という選択肢を選んだとしても、責められるようなことではあるまい。妻には妻の人生があるのだから、夫はそれを尊重して単身で赴任すればいいではないか。
「単身赴任を認めないなんて変わってますね」
「うちの会社も普段なら認める。でも今回はちょっと事情があって。単身で赴任した前任者が二人連続で鬱になって帰ってきたんだ」
「鬱?」
ヒカリはその単語に眉をひそめた。二人連続で鬱を患うとは尋常ではない。商社マンと言えば選りすぐりのタフなビジネスマンというイメージがあるが、そんな人達でも心が折れてしまうとはいったいどんな環境なのか。
「兼子さん、ロンドンで冬季鬱って聞いたことない?」
「ああ、ビタミンDが不足しちゃうんですよね……」
ヒカリはロンドンで経験した冬へ思いを馳せる。緯度と曇りがちな気候のせいで日照時間が極端に短くて、毎日とにかく暗かった。だんだんと重苦しい気分になっていた頃、知り合いから言われたのが「ビタミンD足りてる?」という言葉。肌が日光を受けることで生成されるその成分が欠乏すると鬱症状を誘発するらしい。北緯51度のロンドンでさえそのような状況だったのだから、それより更に緯度の高いストックホルムではどれほどのことだろう。
「そういう環境の中で、せめて一緒に暮らす家族がいれば状況は違ったのではないかと人事は考えたみたいで。このポジションの後任には家族帯同で行ける人を、という話になった」
「なるほど……じゃあ先輩も奥さんを説得して付いてきてもらわないとですね」
「いや、俺は独身なんだけど」
「えっ、そうなんですか?」
ヒカリは呆れてあんぐりと口を開けた。ということは彼の勤め先の会社はまだ存在もしない妻に対して帯同の条件を付けていたという訳か。気が早いというか、従業員の人生に干渉し過ぎというか、とにかくヒカリの理解の範疇を超えている。
(というか、何で私にこの話をするわけ?)
ヒカリは困惑し、目の前の端正な顔立ちの男を見返す。偶然数年ぶりに再会したヒカリを相手に、ストックホルムに妻を帯同せねばならない理由を淡々と説明する。いったいなぜ?
彼はじっとヒカリの顔を見つめると、こう切り出した。
「――そこでだ。兼子さん、ストックホルムで俺とフラットシェアしないか?」
「はあ?」
ヒカリは目を瞬かせた。
ストックホルムでフラットシェア? この人はいったい何を言っているのか。
「ストックホルムからロンドンまでは飛行機で三時間弱。ライブ期間中の良い拠点になると思う。退職してから半年後のライブ終了まで、ストックホルムで暮らすのはどう?」
「正気で言ってますかそれ」
「もちろん」
ものすごく突拍子もない提案をされていると思うのだが、一之瀬は真面目な顔を崩すことはない。決して冗談という訳ではないようだ。
ヒカリは頭の中で素早くその提案を検討してみる。ライブツアーの拠点としてのフラットシェア。つきさっき考えていたことである。ロンドンまで三時間半なら許容範囲内。ではあるけれども――
「今の話の流れからして、ストックホルム駐在に帯同するってことですか?」
「そういうことになる。でもあくまでフラットシェアだ。互いに干渉せずに淡々と暮らすんだ」
「まさかですけど、入籍は……?」
困惑しながら聞き返すと、一之瀬はさも当然といった風に頷く。
「配偶者ビザを取るためには籍は入れないと。それで半年後にきみが帰国する際に籍を抜こう。その代償として、渡航費と滞在費は全てこちらで持つ。もちろんライブ期間中のイギリスへの渡航費も全て含めて」
ヒカリは唖然として目の前の男の顔を見つめた。
切れ長の目に、鼻筋の通った端正な顔立ちである。いわゆるイケメンの部類に入るであろう。年収もそれなりにありそうだし、付属小学校上がりだからきっと実家も太いに違いない。そんな彼が、御託を並べてヒカリに入籍を迫っている。全く以て訳が分からない。
「いやいやいや。奥さんが欲しいなら普通に探せばいいのに。紹介とかお見合いとか。先輩ならすぐに見つかりますって!」
「結婚は利の有る相手とすると決めている。だけど今は悠長に話を進めている時間がない。だからとりあえずストックホルムに行くためだけに期間限定の仮初の妻が欲しい」
なるほど、ヒカリに入籍を持ち掛けてはいるが、それはあくまで離婚前提の仮初の関係であり、きちんとした永続的な結婚は別の「利のある相手」とやらとするということか。全くもって酷い言い草である。こんな話を持ち掛けるなんて、ヒカリのことを軽んじ過ぎではないだろうか。
ヒカリの知る一之瀬は、もっと他者に敬意を払う人だった。こんなことをヒカリに言うなんて、人が変わってしまったか、それとも余程ストックホルムに執着しているかのどちらかに違いない。
「そんなにストックホルムに行きたいんですか?」
「ああ行きたいね。今のうちにできるだけ経験を積みたいんだ。今まで出張や研修は山程あったけど、海外赴任の話が来たのは初めてだから」
「そのうちまた他のチャンスが回ってきますって」
「時間がないんだ。三十五になったら父の仕事を手伝うことになっているから、自由に出来るのは今だけなんだ」
「いや、そう言われましても」
「ちなみに、入籍すると扶養に入れることができる。そうなると健康保険と厚生年金も完備となるわけだけど?」
「健康保険と厚生年金……?」
その言葉を聞いてヒカリは低く唸った。
今の今までうっかり失念していたが、会社を辞めたら今の福利厚生制度から抜けることになる。半年後のライブの都合で当面は正社員としての再就職は避けたいが、アルバイトで食いつなぐにしても国民健康保険と国民年金の支払いは待ってくれない。実家に戻って家賃を抑えるにしても、毎月数万円の固定費が出ていくのは痛手である。扶養に入れてもらえるなんて夢のような話ではないか。
籍を入れてストックホルムに行けば、健保と年金を肩代わりしてもらえる。ついでにライブ参戦時の拠点付き。デメリットは入籍を伴うこと。半年後には籍を抜くことになるわけだから、バツイチとなることが確定している。
(――でも、それって言うほどデメリット?)
ヒカリは今まで自分の趣味関心を追うのに忙しく、恋愛事に縁遠い毎日を送ってきた。彼氏が欲しいとか、結婚したいとか、子供が欲しいとかそういった欲求を抱いたことは全くない。今までなかったのだから、これから先もない気がする。
万が一将来結婚したくなったとしても、三組に一組が離婚すると言われている現代社会だ。離婚歴があることくらい今の時代においてはそれほど妨げにならないのではないだろうか。
「……あの、念のため条件を確認してもいいですか?」
「入籍してストックホルムへ帯同すること、滞在中は互いに干渉せずに暮らすこと、ただし会社の人に会ったときは妻の振りをすること、渡航及び滞在にかかる費用はすべて俺が持つこと、半年後に籍を抜くこと――そのくらいかな」
ヒカリは考え込んだ。奥さんの振りをするというのは、人と話すのは苦手ではないしまあ何とかなるだろう。つまり、半年後にバツイチになることさえ許容できれば、欧州拠点と渡航費滞在費と健保年金完備が手に入るということだ。
(どうしよう、この話ありよりのありに思えてきた……)
名より実を取るという言葉もある。きれいな戸籍という「名」よりも、拠点と渡航費滞在費と健保年金肩代わりという「実」を取ってしまうのも有りなのではないだろうか。
少し考えた結果、ヒカリは意を決して顔を上げた。
「分かりました。ストックホルムでフラットシェア、参加します!」
「ありがとう。では早速――」
そう言うと、彼はにっこりと微笑み、鞄の中から用紙を取り出した。沢山の記入枠が並ぶその用紙の左上に書いてある文字を見て、ヒカリは目を剥いた。「婚姻届」と書いてあるではないか。
「準備が良すぎやしませんか」
「ついさっき役所でもらってきたんだ。海外赴任と結婚が抱き合わせなら、とりあえず適当に結婚して赴任してやろうと思って」
ヒカリは唖然としながら手元の書類へと目を移す。そこには先程と同じく「婚姻届」と書いてある。
「これ本当にやるんですか!?」
「やるよ」
「これって偽装結婚にあたるのでは!?」
「居を同じくして生計を一にするんだから、結婚の実態はある。偽装結婚には当たらない」
(そ、そうなの……?)
それって詭弁じゃないかと思いつつも、涼しい顔して言い切られてしまうと何となくそんな気がしてきてしまう。
「もっと人選しっかりした方がいいんじゃないですか!?」
「偶然だったけど、この上なく最適な人に頼めたと思っている」
「その根拠は?」
「きみとなら半年後にこじれず籍を抜くことができると思う。――兼子さん、俺のこと好きにならないだろ? 学生の頃のきみからは俺を出し抜き利用してやろうという魂胆しか見えなかった」
言外に過去の行状を咎められた気がして、ヒカリは首を竦めた。
全くもってその通り。学祭準備委員をしていた頃、ヒカリはいかにして一之瀬を出し抜こうかと日々心血を注いでいた。学内には彼に対して秋波を送る女子生徒が沢山いたが、ヒカリは偏愛するUKロックバンドを呼び込むために一之瀬を利用し踏み台にしてやろうとしか考えていなかったのだ。
「あの時は力になれなくて悪かったね。今回こそ俺を存分に利用してくれ」
「……ストックホルムに赴任したい先輩がわたしを利用するんじゃないんですか?」
「互いにWIN-WINということだな。大いに結構じゃないか。じゃ、よろしく」
にっこり笑う彼に促され、ヒカリは婚姻届に名前を書いたのだった。
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