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第六章

07-2

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 その言葉を聞いた洋太は、一瞬黙り込んだ後、テーブルの上で組んだ両手を微かに震わせている順平を見つめながら、真剣な顔で話し始めた。
「正直に話すって言ったろ。……オレは、それでもお前と別れたくないんだ」
「……!」
 ハッとして、順平が顔を上げて洋太を見つめた。洋太にだけ時折見せる、あの置き去りにされた小さな子供のような無防備な表情だった。洋太が言葉を続ける。
「でも、このままじゃ駄目だ、とも思ってる。……それで考えたんだ。オレ達、一度少し距離を置いてみないか?」
「距離を、置く……」
「そう。ワンルームで休日を一緒に過ごすようになってから、オレ達、お互いのことばっかりで、周りがよく見えてなかったと思うんだ。だから……いい機会だと思う」
 洋太は順平の眼をじっと見つめながら、凛としたよく通る声で静かに語り掛けた。
「離れてる間、お互いにじっくり考えるんだ。”この先”の人生を、自分はどうやって生きたいのか? それで『これが自分なんだ』って何となくでもわかったら、その時に初めて、どう生きるか? を考えよう」
 話しながら洋太の頭の中には、この日までに見て来た人達――花のことをきっかけに思い出した、離れていても想い合っているらしい両親の懐かしい顔や、互いに前職で受けた傷を抱えながら、支え合って生きている佐野とマクレガーらの姿があった。
「この先、きっと辛い時や迷う時もあると思うけど。お互いがちゃんと立っていれば、支え合うことも出来ると思うんだ。……大事なのは、二人でなら前を向けるっていうオレ達なりの道を、一緒に見つけることだろ?」
「洋太……」
 テーブルの上で握りしめた順平の手にそっと自分の手を重ねながら、穏やかな笑顔を見せる洋太を、順平が眩しいような表情で見つめた。
 いつもながら、洋太の高い言語化能力に深く感動していたが、考えてみれば僧侶というのは儀式の前後に時候の挨拶や講話をすることも多いし、一般の人より話し慣れていても少しも不思議ではない。しかし、この時の順平が受けた感銘は、もっと魂が直に触れ合うような、真摯で、情熱のこもったものだった。
 それと同時に順平は、洋太の口から出た「別れたくない」という本心にも、言葉で言い表せないほど感謝していた。深く長い息をついてから、テーブルで重なった洋太の手を強く握りしめると、ようやく短い言葉を発した。
「わかった、洋太……お前の言う通りだ。……ありがとう……」
 それを聞いた洋太は、どこか安心したように微笑むと、やっといつもの元気な声で言った。
「あー、なんか緊張した! 話終わったら腹減っちゃった。パンケーキ食べようっと。アイス溶けちゃったなー」
「……もう一つ頼めばいい」
「え? もったいないから食べるよ。アイスは溶けても、パンケーキにつければ美味しいからいいんだ」
 大きな口を開けてぱくぱく食べ始めた洋太を愛おしそうに見つめながら、順平は、もし自分に信仰があれば、何かに感謝の祈りを捧げたいような気分だった。
(オレが信じているものがあるとすれば……洋太だ。いつだってオレを助けて、光のあるほうへ導いてくれるから……)
 食べ終わってから、順平と洋太は店を出て海沿いの国道を少し歩いた。観光ビーチの有名な大きい橋を渡った対岸にある島に渡ると、島の南西の先端部の、隆起現象で生まれた海食台地の崖下に平たく棚のよう広がる岩場に降りた。
 そこは昔、美しい稚児ちごが身を投げたという伝説からついた地名を持つ海に突き出た崖淵に、自然の地形を活かした公園として整備されていて、湾を挟んで半島側の低くなだらかな峰々に沈む夕日の美しさで知られる場所だった。洋太が、これからしばらく海を見られなくなるからと、この景色を順平と見ておきたがったのだ。
 冬の海とはいえ、この日は風もなく海面の波は比較的穏やかで、夕暮れにはまだ少し早いが、青みの薄れてきた空には、満月に近い白い月が石英のように半ば透き通って浮かんでいた。
 公園に来る前、洋太が通りかかった自販機で温かいココアを一本買うと、寒いのかコートの胸元に入れた。周囲にはぽつりぽつりと身を寄せ合って語らう恋人同士らしき男女の姿が何組か見えた。
 岩に打ち寄せる波の音と、傾いた日の光が細かく砕けながら反射する凪いだ水平線をしばらく眺めて満足したのか、洋太がコートの胸元からさっき買ったココアの缶を取り出すと、自分で何口か飲んでから順平のほうへ差し出した。
「ほら、順平も飲めよ。まだあったかいぞ」
「え? いや、お前が全部飲めば……」
「いいから」
 不思議そうに順平が缶を受け取って口をつけると、洋太が、順平の好きなひまわりの花が咲くような笑顔でにっこりしながら言った。
「へへ、間接キス。あったかいココアだから、つまり”ホット・チョコレート”だろ? もうすぐ二月十四日だけど、当日は会えなさそうだから……早めのバレンタインな」
「あ……」
 ようやく意味がわかって、順平が急に赤くなった。今更ながら”間接キス”に初心うぶな学生のように照れていたのもあるが。そのまま下を向いて沈黙している順平に、洋太が心配そうに声を掛けた。
「順平? ……もしかして舌を火傷しちゃったとか?」
 顔を上げた順平の黒曜石のような瞳が熱っぽく洋太を見つめて、切なげな低い声で遠慮がちに問いかけた。
「洋太……オレは、今ものすごく、お前を抱きしめたい……触れてもいいだろうか……?」
 一瞬、洋太が息を止めた後で、何かを決意したように頬を赤らめながら頷いた。
「……うん。いいよ……たぶん、大丈夫だと思う……」
「嫌だったら、いつでも言ってくれ……すぐに止めるから」
 順平はゆっくりと、壊れものを両手で丁寧に抱えるようにして、ひどく大事そうに優しく洋太を抱きしめた。最初、順平の腕の中でどこか硬く、ぎこちなかった洋太の体が、時間が経つうちに次第に柔らかく、以前のような自然な雰囲気にほぐれていくのを感じて、順平は深く安堵するとともに、心の底から嬉しかった。
 洋太が囁くような小さな声で、順平の胸の奥に語り掛けるように言った。
「順平……今、こうして感じているお互いの体温を、お守りにしよう。くじけそうになる時は、思い出せるように」
「ああ……死んでも忘れない。洋太……」
「あはっ、順平は大げさだなあ……」
 抱きしめた腕の中で、くぐもった洋太の笑い声が心地よく体に響く。
 ふと順平が、洋太の毛足が長く柔らかいマフラー越しに目の前を見ると、そこには見慣れた体操着姿の少年が、こちらを向いてちょこんと岩に腰かけていた。
 少年の腕の中には、カフェオレクリームのような色合いの、ふわふわした毛並みを持つ一匹の小さなウサギが抱えられていた。
 痩せた腕でウサギを大事そうに抱きしめて、少年が温かそうに、幸せそうに頬ずりすると、ウサギも気持ちよさそうに茶色の眼を細め、小さな頭を少年の体操着の胸にそっとすり寄せた。
 上空で白々と透き通っていた月が、次第に冴えた金色を帯びる中。短い黒髪の小柄な少年は、順平と目が合うと、はにかむような笑顔を見せた。
――順平はその時、この”子供の姿をした自分”とこうして対面するのは、これが最後になるような気がしていた。
 やがて少年とウサギの姿は、次第に輝きを増し始めた月の光に溶けるように、淡く透けながらゆっくりと消えて行った。
 順平は、洋太の体を抱きしめる腕に力を込めながら、静かに眼を閉じた。
 一度はもう終わりかと思っていたが、また洋太がチャンスくれた。その信頼に感謝し、絶対に応えて見せる、と胸に誓っていた。
 もう二度と洋太を怖がらせたりしない。今度こそ本当に、洋太のことを命ある限り、ずっと守って行ける男になる、と。
 夕焼けの薄い紫色を宿し始めた空高くに昇って行くにつれ、貴い白金のように輝き始めた月の下で、二人はいつまでも互いの体温と鼓動を感じながら熱い抱擁を交わしていた。



(第七章に続く)
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