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第六章
06-2
しおりを挟む洋太は一階に降りてシャワーを浴び、食卓のメモを見て母が冷蔵庫に用意しておいてくれたコンソメスープとフレンチトーストを温め直して食べた後、部屋着の上下のスウェット姿でリビングのソファに座ってぼうっとしながらスマホを眺めていた。
そこへ玄関のドアが開く音がして、ちょうど夕方の買い物を終えて母親のるり子が帰ってきた。洋太の顔を見るなり心配そうに声を掛ける。
「洋太、起きて大丈夫なの?」
「もう平気だよ。さっきスープとか温めて食べたし。フレンチトースト美味しいね」
「でしょう? マクレガーさんのところで買ったパンがまだあったから」
最近では、母は自分で商店街にある佐野の整体治療院の常連客になっていて、よくマッサージの帰りにパートナーのマクレガーの焼いたパンを買ってきていた。母は昔から体温が低めな体質のせいか肩こりがひどかったので、相性のいい整体師に出会えてずいぶん助かっているらしい。
洋太がふと思い出したように、ソファごしに振り返って母に質問した。
「……そういえば。お母さんこそ、大丈夫なの? このあいだ佐野さんから、あんまり貧血っぽいのが続くようなら、一度ちゃんと病院に行って検査したほうがいいって言われたんでしょ?」
心配そうな洋太を安心させるように、母が明るく笑いながらのんびりと答えた。
「そうなんだけど。まあねえ、昔からこんな感じだし……今はまだ寒くて病院も混んでいるでしょうから、春になって時間が出来たら行ってみようかしら。でも、洋太は何も気にしなくていいのよ」
「ふーん……」
母が夕飯用の煮物の鍋を火にかけてから、リビングのほうへひと息つきに来た時、躊躇いがちに洋太が問いかけた。
「ねえ、お母さん。ちょっと訊いてもいいかな……?」
「なあに?」
「どうして、お父さんと別れたの……? ずっとお父さんと一緒にいたいとは、思わなかったの?」
ふいに、虚を突かれたような表情で母親が洋太を見つめた。その顔は、普段の洋太があまり見た記憶が無いタイプの、”母”という役割ではなく、わずかに戸惑っている”一人の女性”のものであるように見えた。だが、それは一瞬で消えてしまった。
母は洋太から視線を外すと、リモコンでテレビのニュースをつけながら、にっこり笑って答えた。
「どうしたの、急に? でも、そうねえ……もちろん、ずっと一緒にはいたかったわよ。お父さんのこと、大好きだったもの」
「なら、何で……?」
ニュース画面の中の、最近流行のご当地グルメの話題を見るともなく見ながら、母がどことなく自分自身に言い聞かせるように言った。
「……大人には、色々あるの。どんなにしたくても出来ないことや、どうしても誰かがやらなきゃいけないこととか……色々。でもね、お父さんもお母さんも、たくさん話し合った上で、お互いに”自分が自分でいられる”ようにしようって、そういう道を選んだつもり。だから、後悔はしてないわ……」
「お互いに……”自分が自分でいられる”……?」
「だって、どちらかが相手のために自分を”犠牲”にしても、きっと上手く行かないと思うのよ。……人間だもの、どこかで心の中に相手を妬んだり、自分だけが損をさせられてるっていう感情が生まれたりするでしょ? 大好きな相手だからこそ、そんな風には思いたくなかったの……。それは、あの人も同じ気持ちだったと思うわ」
顔をテレビのほうに向けながら、少し俯いて話している母の横顔には、かすかな諦念とともに、柔和さの奥底に意外にも強いプライドのようなものが感じられた。見たことのない母の表情に洋太はちょっとだけ驚いていた。
「お父さんが、どうしてもお仕事を辞められなかったように。私も、地域のみんなの心の支えである、生まれ育ったこのお寺を守ってゆくという生き方を捨ててまで、あの人について行くことは出来なかった。……だから、仕方なかったのよ。誰のことも恨んでないわ……」
夫婦の機微などは、まだよく分からない洋太は「みんなの心の支え」という言葉に反応して、独り言のように呟いた。頭の中には、夢で見た順平の弱った姿があった。
「誰かの心の支え、かあ……どうしたら、オレもそういう風になれるのかな? 人生経験が足りないから、まだ無理?」
「そんなことないわよ。大切なのは、檀家さんでも、参拝者の方でも、お話している相手の気持ちに”寄りそう”ことだから。年齢は関係ないわ。……あとは、上のほうから見下ろして『救ってあげよう』とか思わないことね」
「え? そうなの?」
「だって、みんなを救って下さるのは仏様でしょう。お寺にいる私たちが出来るのは、そこまでの間、ただ寄り添って差しあげることだけよ。悩み事を聞いたり、話をしたり……それで、相手の気が少しでも晴れればいいんじゃないかしら?」
「そっか……寄り添うかぁ……」
頷きながら考え込むようにしている洋太を、母がじっと見つめながら、穏やかに声を掛けた。
「……ねえ、洋太。今まで家では、あんまりそういう話をしたことはなかったのに、急に訊いてきたのは、どうして? 何か理由があるの?」
ハッ? として赤くなった洋太が、あわてた様子で顔の前で両手を振った。順平のことを考えていたのを、見透かされたような気がして焦っていた。
「え? な、何でもないよ! ただ、急になんとなく気になっただけ……あっ、鍋吹きこぼれてない? オレ見てこよっか?」
逃げるようにソファを立ってキッチンのほうへ駆けて行った息子を、どこか言葉に出来ない複雑な感情を秘めているような、それでも、ひたすら優しく見守る母の表情に漂う、ほんの少しの寂しげな陰りに……姉の歩美なら気づいたのかも知れないが、この時の洋太が気づくのは、まだ難しかった。
スマホのメッセージアプリで、洋太が順平からの長文メッセージを受け取ったのは、その日の深夜だった。
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