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第四章

05-2

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 K市で一番大きなお宮の七夕祭の日に再会した洋太と順平は、夕方から催される奉納神事の舞を見るために集まってきた人々を避けて、話やすい静かな場所に移動しようと境内にある大きな蓮池のほとりを歩いていた。
 先に立って歩く洋太のうなじのあたりを見つめながら、順平はまだ心臓の音がすぐ耳元で響くのを感じていた。鼓動が早いのは、ついさっき、駅からここまで全力疾走してきたせいだけではななかった。
(後頭部の傷は……すっかり治ったみたいだな。本当によかった……)
 あの事故以来、胸を痛めて来たことが一つ解消されて、順平は安堵した。
 と同時に、何らかの目的で洋太に呼び出されて来たこの場所で、自分も洋太に伝えなければならないことがある、と心に決めていた。――もう会わない、ということを自分の口から洋太に告げるつもりだった。
 出会う前からずっと、洋太を好きな自分の気持ちを抑え込み続けて、いつしかそれが暴走寸前までに大きくなってしまった。
 このままでは、いつか自分の欲望を制御しきれなくなって、大切な洋太を傷つけてしまうかもしれない。それを避けるためだった。
 蓮池の上を涼しい風が渡って来て、洋太の暗褐色の髪の毛がふわりと踊った。
 その風が自分の火照った頬にも吹きつけて来て、順平はこの景色が夢ではないことを、今さらのように噛みしめていた。
(本当に、洋太がいる……今この瞬間、オレの目の前の、手の届くところに……)
 どこか信じられないような思いだった。
 もともとあまり夢を見ない体質だった順平は、洋太を知って、その存在を恋しいと思うようになってから、毎夜のように洋太の夢ばかり見て来た。
 それは、心に秘めた欲望を反映した性的な夢のこともあれば、想いを遂げられない鬱屈から来る暴力的な夢のこともあった。自分でコントロール出来ない夢の内容に、順平は慰められることもあれば、苦しめられても来た。
 しかし、あの事故があって、洋太の無事を確認出来た後、自ら「もう会わない」と決めてからは、ぴたりと洋太が出てくる、そういう夢を見なくなっていた。
 お陰で積み重なっていた睡眠不足は解消されたが、その代わりに、順平の胸には大きな穴が開いたようだった。そこから生存に不可欠な酸素や水が漏れ続けて、いつか自分は干からびて死んでしまうのではないかと、順平は本気で思っていた。
 実際に、順平の”心”は洋太と離れたあの日以来、じわじわと死に始めていたのかも知れなかった。
 これまでの習性と、惰性で日々の訓練には対応出来ていたが、何にも、誰に対しても興味や関心を持つことが出来ず、淡々と食って活動して眠るだけの、まるで「人間の皮をかぶせられたロボット」のような生活だった。
 そのまま、いつかは錆びて朽ち果ててしまっても構わない――そう思っていた順平の心を生き返らせたのは、洋太から駐屯地気付で届いた、あの七夕の願いを込めた「梶の葉の色紙」入りの封書だった。
 それを抱いて眠った翌朝、何故か自分の頬を濡らしていた一筋の涙の跡は、きっと断末魔寸前で息を吹き返した自分の心……もっと言えば”魂”が、また生きられることを喜んで流したものだったのだろう。
 しかし、それでも自分は今日、洋太に――。
「このあたりでいいか……」
 洋太がそう言って一面に広がる蓮の葉をバックに振り返った。頭上の空は長い夏の夕暮れの青紫色に染まり始めている。薄暮までにはまだ少し時間があるようだった。
 順平は、洋太が口を開くのを待っていた。自分から別れの言葉を告げるのは、その後でいいだろう……と思った。
 せめて最後に、元気で生きている洋太の声と表情を、眼に焼き付け、耳と心に刻み込んでから隊舎に帰ろう。そう密かに考えていた。
 二人は広大な蓮池を取り囲む鉄の柵に並んでもたれ掛かって、あえて目線は合わせずに、しばらく黙って風に吹かれていた。
 なかなか話し始めない洋太のほうを時折ちらちらと伺っていた順平が、逡巡した後で、ついに決心したように話し始めた。
「……無事でよかった。本当に……」
 躊躇いがちなその言葉に、洋太が順平のほうに顔を向けて、あの順平が好きだった大きな花がほころぶような笑顔を見せた。
「ああ……お前が心肺蘇生とかしてくれたんだよな? あの日、一緒にいた自衛隊員の若い男の子の救命措置が迅速で的確だったから、助かって後遺症もなかったんだろうって、後で看護師さんから聞いた。……ありがとうな、順平。助けてくれて……」
「いや……オレは、ただ夢中で……」
 洋太から感謝された順平が少年のように頬を染めて首を振った。心の中では、早く別れの言葉を言わなければ、と思うのだが、隣に洋太がいるこの時間が心地よくて、終わらせるのが惜しくて、言い出す決意が何度も鈍った。
 内心の葛藤と、赤い顔をごまかすように、順平が珍しく自分から言葉を継いだ。
「……今日は、ずいぶん早くここへ来ていたみたいだが。どれくらい待ったんだ?」
 祭の日に、と指定された順平だったが、一週間近くある期間中の、当日のこの日にやっと休暇を合わせられたものの、近日に大きな演習が始まることもあり、その準備に追われていて、本当は今日も、この後すぐに帰らなければならない身だった。
「うん。朝からいたよ」
 事もなげに、洋太が頷いて答えた。あまりに自然にそう答えるので、一瞬、順平は自分の耳を疑った。
「……は? 朝からって……まさか午前中から、今の時間まで、ずっと一人で待っていたのか……?」
「そうだよ。昨日も、その前も、七夕祭の期間が始まった日から、ずーっと、あそこでお前を待ってた」
「……!」
 あまりに驚いて、順平は口をわずかに開けたまま言葉を失ってしまった。危ないじゃないか、とか、暑いのに体は大丈夫か? とか言いたいことはいくらでもあったが、やっと絞り出した言葉は、かすれて短く途切れていた。
「なん、で……そんなことを……?」
 洋太が振り返って、まっすぐに順平を見上げた。明るい茶色の瞳に薄紫色の空の光が映り込んでいる。
「オレさ、あの時までずっと気がつかないで、お前を苦しめてたことの”罪滅ぼし”がしたかったんだ……だから……順平。お前は、本当はずっとオレに言いたかったことが、何かあるんじゃないのか……?」
「……っ」
 いきなり洋太から”核心”を突いた言葉が出て来て、順平は思わず息を呑んだ。
――そうだ、今だ。ここで、今、洋太に言うしかない。「お前とは、もう二度と会わない」と。それが、自分達の両方のためなんだ……と。
 深呼吸して心を落ち着けようと、順平が宮の広大な池を埋める、深い緑色の大きな蓮の葉の群れを眺めた。
 何かを掬い取るような形に柔らかくカーブした波型の葉が、長い茎の先に乗って、大きな薄紅色の蕾とともに、風が吹くたび一斉にゆらゆらと首を振っている。
 吹き過ぎる風の姿をそのまま映し出すように、緑の葉の波が池の水面を渡って行く様が、順平にどこかこの世のものではない、かといって「死後の世界」のような暗いイメージとも違う、神や仏が住まう、明るく清浄な天上の世界の光景を想起させた。
(……もし「天国」のような場所が本当にあるとしたら、きっとこんな美しいところなんだろうな……)
 ほのかに赤みを増してきた大気に包まれながら、順平が陶然として胸の中で呟く。
 目の前にいる洋太の全身も、淡い紅の色に染め上げられていて、本物の「天使」のように綺麗だ……と順平は思った。
(何をしている? 早く言うんだ、洋太に……もう会わない、何故ならオレは――)
 その時、急に洋太とは反対側の自分の隣に人の気配のようなものを感じて、横目で確認すると、そこにいた小学校低学年くらいの痩せた男児が自分を見上げて言った。
『本当に、それでいいのか……?』
(え……?)
 薄汚れた体操服を着て、暗い目つきをしたその子供が、幼い頃の自分だと気づいた瞬間、順平は驚いて思わず目を見張った。これも自分の深層意識が作り出した幻なのだろうか? だとすると、本当の自分が望んでいることは――。
 順平が顔をわずかに横に傾けて俯いたまま、その場で動けないでいると、耳の奥に少し前の昼食の時、意外と真剣な眼差しの鷹栖から”忠告”された、あの言葉が、ありありとよみがえって来た。
『自衛官は、いつ死ぬかわからない。”後悔”を残したまま出来る仕事じゃない――』 
 昔、祖父の葬式の後で一度だけ、人前で涙を流したことがあった。
 大嫌いだった祖父にも過去には愛し愛された人達がいたのに、自分はこの先の人生でもずっと、孤独なままなのだろう……と思って、そのことがまだ少年の自分には、酷く哀しかったのだ。
 ふっ……と放心した順平が、子供のような無垢な表情で虚空を見つめた。自分の胸に改めて問いかける。
(……もしも、オレが今すぐに死ぬとして……最後に言っておきたい言葉は、何だ? オレが本当に、洋太に伝えたいことは……?)
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