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第三章

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 決して豊かとは言えない環境で育った順平は、自分に”美”を味わう感性があるなどと思ったことはなかった。
 半島の海辺の小さな集落は、歴史こそ遡れば平安時代くらいまでは明らかだろうが、特に国宝級の有名な文物や建築が残されているわけでもなく、不良学生一歩手前だった順平にしても、博物館や美術館などの施設には当然のように縁が遠かった。
 都会から遊びに来た人間が決まって感動の声を上げる、海から昇る荘厳な朝日や、空と海の両面に広がる燃えるような夕焼けとて、海辺に育った者にとっては何ということはない日常の一コマに過ぎない。その海そのものも、穏やかな内海とは違って、外洋の荒波が、たやすく人の命を奪い去る凶暴な面を持つことを知り抜いていたからこそ、畏怖の対象ではあっても愛でるものなどでは到底なかった。
 あくまで順平にとって、美術館の中や、観光用の絵ハガキの中にあるような、そういう”美”とは、どこかで”スポーツの爽快感”にも通じる、底辺で育った自分のような人間には一生関わりのない、見知らぬ金持ちのためにあつらえられた贅沢品だった。
 そんな順平だったが、「花祭り」とやらで洋太から呼び出されて訪れた寺の境内で、萌黄色の真新しい法衣と金糸の刺繍を施した豪華な袈裟を身に着けた洋太を一目見た瞬間、息をするのも忘れるほど心を奪われてしまった。
 僧侶の世界も軍隊同様の厳格な階級社会と聞いていたので、萌黄色の法衣にも恐らくそういった序列的な意味があるのだろうが、仮に一番低い位を表していたとしても、若草の色のゆったりとした衣は洋太の初々しい雰囲気にぴたりとはまっていた。
 木々の間から降り注ぐ柔らかな春の日差しの中、僧侶の正装姿の洋太が、祖母に手を引かれてやってきた幼い子供に、優しく微笑みながら菓子の入った包みを手渡している。辺りには小鳥の声や、人々の笑いさざめく声が満ちていて、どこかからかすかに甘いお茶の香りが漂ってきた。
 ふと人の列が途切れた時、さあっと風が吹いて境内の桜の木から花びらを無数に舞い散らせ、雪のような花弁が萌黄色の衣を纏った洋太の周囲をはらはらと踊りながら吹き過ぎた。短い暗褐色の髪を風に揺らしながら、法衣の裾をはためかせた洋太が、わずかに眩しそうな笑顔で空を見上げている。
(……なんて、綺麗なんだろう……)
 少し離れて見つめながら、少年のように頬を染めた順平が心の中で陶然と呟く。
 全てが完璧な、一幅の絵画のようだった。それは順平が生まれて初めて目にした、魂を根底から揺さぶられるような”美”そのものだった。
 花祭りは釈迦の誕生日を祝う仏教の祭事だが、順平が法衣姿の洋太から受けた感動は、どちらかというと、ラファエロの「ひわの聖母」(聖母子画シリーズの一作)を前にした感動に近かっただろう。憧れの人のたおやかな姿と、慈愛に満ちた聖母のような眼差しに、思わず順平はその場に跪いて己の罪の許しを請いたくなったから。
 順平に気づいた洋太が手を振って近づいてきても、まだ順平は顔を赤らめて夢うつつのような表情のまま、歩くごとに衣をしゃらしゃらと揺らす洋太に見惚れていた。焚き染められたお香のどことなく高貴で雅やかな匂いがいっそう非日常感を高める。
 普段の洋太を「可愛い」と感じることはしょっちゅうある順平だが、この日、初めて洋太を見て「美しい」と思った。
 それと同時に、この日の記憶は、決して汚してはならない、とも。
 優美で、どこまでも清らかな、甘くてよい香りと、小鳥のさえずりや季節の花々、子供達の笑い声に囲まれて、明るい茶色の瞳には慈愛に満ちた笑みを湛えている……この洋太を、自分が守るのだ、と順平は心に決めていた。そのために自分はどれほど泥にまみれようと構わないし、そのために使う命なら、少しも惜しくはないと。
――だからこそ。その後で、ワイシャツと黒のズボンに着替えた洋太の口から飛び出した「見合いをする」という言葉は、順平にとって計り知れないほどの衝撃だった。
 隣に腰かけた洋太が、困ったなーという程度の軽い口調で話し続けている。
「ほら、港の近くにある……ベイシェ……何だっけ? あのホテルで顔合わせらしいんだけどさ。あんなところ、何着て行ったらいいか全然わかんねーよなあ。デザートビュッフェならよかったのに……」
 それ以降の洋太のぼやきは順平の耳には全く入ってこなかった。

 幼い頃から、労働を通して土着の古い関係性の中で育った順平には、周りでせっせと働く年配の女性達の世間話などから無意識に吸収した、若さに似合わないやや古風な社会通念が身についていた。
 例えばそれは、結婚や、子が生まれるということは、その「家」に所属する人間の「運命」を表しているのであって、そこに個人の自由意志とかで拒否する余地などはなく、一度嫁に入った女は夫が暴力を振るおうが、酒に溺れようが、そういうものだとして諦める他に生きていく道はないのだ……という救いのないものだった。
 順平自身も、病気の祖父に代わって家の雑事をこなし、外で小遣いを稼いで家計の足しにすることに、拒否する余地などはないと考えていた。狭い世界でかろうじて息をして居場所を手に入れるために、これが自分の運命だ、と飲み込む他はなかったのだ。それが出来なかった順平の母は、この町を捨てて別の男と去って行った。
 順平が故郷を捨てられたのは、祖父が死んでひとりぼっちになったタイミングで、幸運にも監督が自分を見つけ出してくれたからだった。つまり”別の権威”に居場所を保証された、ということが大きい。
 その社会が貧しければ貧しいほど、個人の生存における自由度は小さく、所属する集団の権威によって保護されなければ、尊厳を保って生きていくことなど出来ない、ということを幼い順平の周囲にいた女達は本能で理解していた。そしてその思想は、今では成長した順平の中にも根付いている。
 そういう順平にしてみれば、「見合いをする」ということは、そのままイコール「結婚して家庭を持つ」ということにシームレスに繋がっていた。所属する「家」がそれを要求したのなら、属する個人に断る権利などないと思っていたからだった。
 洋太が結婚する。……そうなったら、自分はどうなるだろう? 順平は混乱する頭で必死に考えた。
 順平は洋太にとって、家族や親類でも、学校時代の同窓生でも、地元の仕事仲間でもなく、たまたま一時期、休暇のタイミングが合ってよく遊んでいたというだけの、何ら深い関わりのない、赤の他人だ。
 洋太から誘われなければ、順平のほうから会いに来られる理由など、ただの一つもない。実際、家庭を持っている順平の同僚達も独身の仲間には誘われないし、自然と付き合いも減って行くものだと話していた。
 何年も前に死んだ飼い犬のことを思い出して今でも涙ぐむほど、洋太は情が厚い。そんな洋太のことだから、結婚して妻や子供を持てば、そちらが人生の中心を占めるようになることは今から目に見えていた。
 自分を見つけて微笑み、すぐ隣で動画を観て笑い転げ、自分の肩にもたれて居眠りしていた洋太が、その目線と親しさを順平の知らない誰かに向ける。スプーンで手ずからデザートを口に運んで食べさせてやるのも、これからはその相手になる。
 もう洋太の人生のどこにも、順平が入り込む余地などは無くなり、遠くから顔を見ることさえ、世間体を考えるなら、いずれは出来なくなるだろう(むしろ子供を狙う変質者だと思われかねない)。
 自分はもう、洋太と会えなくなる――。
 そこまで考えて順平は、絶望で目の前が真っ暗になった。
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