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第二章
03-2
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一度、直前までリードされていたタフなレースを、順平の猛烈な追い上げでひっくり返して優勝したことがあった。その時、激しく息を切らしてゴールに駆け込んだ順平の肩を、待ち構えていた監督がガッと抱いて、そのまま、大きな手で汗びっしょりの坊主頭をわしわしと手荒に撫でた。
「よーし、よくやった順平‼ 頑張ったな!」
監督は珍しく興奮した口調でそう言ってから、他の選手と話すために順平を解放したが、その後しばらくの間、順平はぼーっと頭に手をやって立ち尽くしていた。
やけに撫でられた所が温かく、体中がふわふわする気がした。その日は寮に帰ってからも一日中、何だか楽しい気分だったので、順平はひっそりこんなことを思った。
(……あれ、またやってくれねえかな……)
厳しいレースで良い結果を出す度に、順平は監督が自分の肩や背中を叩いて褒めてくれるのが嬉しかった。中でも頭をわしわし撫でられるのが一番好きで、犬だったら尻尾をブンブン振っている状態だっただろう。
しかしある時、他の選手にも監督が同じようなことをしているのを目撃して、酷くがっかりした。オレより遅い奴に優しくするのか、とショックも受けていた。
陸上部に所属している以上、監督が見ているのは自分一人ではない。駅伝はチームスポーツであるし、複数の選手に平等に接することは当然なのだが。
(監督は、別にオレだけを見てくれるわけじゃない……)
学校にいた頃には、そんな当たり前のことが時折、無性に寂しくてたまらない時があった。全寮制で家族以上に毎日のように顔を合わせていても、やはりそれは指導者と教え子であり、自分一人の監督ではない。勝利した時の笑顔は、チームのみんなに向けられるものだった。
スポーツの経験がない順平は知らなかったことだが、熱心なスポーツ指導者の中には、教え子を自宅に下宿させて食事や睡眠の管理までする者も結構いるらしい。先輩からそれを聞いて、順平は、忠実な猟犬のように、つねに主から褒められる嬉しさを渇望していた心の中に、冷たい隙間風が吹くような気がした。
(そうだ。オレに陸上をやらせるために、監督は連れて来たんだ。だからこれが普通なんだ……あの時、飯を食わせてくれたことだって……)
そう思うと、全身の力が抜けるような虚しさが襲ってきた。
結局は、あの人も自分の体を”使う”ことだけが目的だったのだろうか? ……いやそんなことはない、と信じたかった。だから、いっそう順平は結果を出そうと練習に打ち込んだ。眼には以前の暗さが戻っていた。
順平にとって監督は間違いなく、”大事に思う相手”であったが、監督にとって順平は大勢の教え子の中の一人であり、例えば、死ぬ間際にその顔を思い出すような存在では、あろうはずもなかった。
――それでも当時の順平にとっては、やはり監督は、一番に喜ばせたい人であることに変わりはなかったのだ。おそらくこれから先も、ただ一人きりの。
部隊の陸上部での練習中に、口の上にふさふさしたヒゲを蓄えて、以前よりも貫禄が出てきた監督が順平に声を掛けた。工科学校を卒業する頃に身長差が逆転して、今では軽く順平を見上げる格好になっている。
「次のレースも期待しているぞ、順平」
「……はい」
順平がいつもの抑揚の少ない低い声で、端的に答えた。
今でも順平の中には、頭をわしわし撫でてくれた大きな手の温かさが、ごく小さなローソクの灯りのように消えずに残っている。しかし、もう順平がその灯りに手をかざして、凍えた心を溶かそうとすることはない。
胸の傷はまだ塞がってはいないが、いつの間にか出来たかさぶたが流れた血の跡を覆っていた。……薄皮一枚ほどの頼りないものだとしても。
自分を”唯一無二の存在”として大事に思ってくれる相手を、心の底から求め続けることに疲れて。一生孤独のままで構わない……と順平が諦めの境地で、走ること以外の全てを手放した瞬間が、きっと彼が少年から大人の男になった時だったのだろう。
「よーし、よくやった順平‼ 頑張ったな!」
監督は珍しく興奮した口調でそう言ってから、他の選手と話すために順平を解放したが、その後しばらくの間、順平はぼーっと頭に手をやって立ち尽くしていた。
やけに撫でられた所が温かく、体中がふわふわする気がした。その日は寮に帰ってからも一日中、何だか楽しい気分だったので、順平はひっそりこんなことを思った。
(……あれ、またやってくれねえかな……)
厳しいレースで良い結果を出す度に、順平は監督が自分の肩や背中を叩いて褒めてくれるのが嬉しかった。中でも頭をわしわし撫でられるのが一番好きで、犬だったら尻尾をブンブン振っている状態だっただろう。
しかしある時、他の選手にも監督が同じようなことをしているのを目撃して、酷くがっかりした。オレより遅い奴に優しくするのか、とショックも受けていた。
陸上部に所属している以上、監督が見ているのは自分一人ではない。駅伝はチームスポーツであるし、複数の選手に平等に接することは当然なのだが。
(監督は、別にオレだけを見てくれるわけじゃない……)
学校にいた頃には、そんな当たり前のことが時折、無性に寂しくてたまらない時があった。全寮制で家族以上に毎日のように顔を合わせていても、やはりそれは指導者と教え子であり、自分一人の監督ではない。勝利した時の笑顔は、チームのみんなに向けられるものだった。
スポーツの経験がない順平は知らなかったことだが、熱心なスポーツ指導者の中には、教え子を自宅に下宿させて食事や睡眠の管理までする者も結構いるらしい。先輩からそれを聞いて、順平は、忠実な猟犬のように、つねに主から褒められる嬉しさを渇望していた心の中に、冷たい隙間風が吹くような気がした。
(そうだ。オレに陸上をやらせるために、監督は連れて来たんだ。だからこれが普通なんだ……あの時、飯を食わせてくれたことだって……)
そう思うと、全身の力が抜けるような虚しさが襲ってきた。
結局は、あの人も自分の体を”使う”ことだけが目的だったのだろうか? ……いやそんなことはない、と信じたかった。だから、いっそう順平は結果を出そうと練習に打ち込んだ。眼には以前の暗さが戻っていた。
順平にとって監督は間違いなく、”大事に思う相手”であったが、監督にとって順平は大勢の教え子の中の一人であり、例えば、死ぬ間際にその顔を思い出すような存在では、あろうはずもなかった。
――それでも当時の順平にとっては、やはり監督は、一番に喜ばせたい人であることに変わりはなかったのだ。おそらくこれから先も、ただ一人きりの。
部隊の陸上部での練習中に、口の上にふさふさしたヒゲを蓄えて、以前よりも貫禄が出てきた監督が順平に声を掛けた。工科学校を卒業する頃に身長差が逆転して、今では軽く順平を見上げる格好になっている。
「次のレースも期待しているぞ、順平」
「……はい」
順平がいつもの抑揚の少ない低い声で、端的に答えた。
今でも順平の中には、頭をわしわし撫でてくれた大きな手の温かさが、ごく小さなローソクの灯りのように消えずに残っている。しかし、もう順平がその灯りに手をかざして、凍えた心を溶かそうとすることはない。
胸の傷はまだ塞がってはいないが、いつの間にか出来たかさぶたが流れた血の跡を覆っていた。……薄皮一枚ほどの頼りないものだとしても。
自分を”唯一無二の存在”として大事に思ってくれる相手を、心の底から求め続けることに疲れて。一生孤独のままで構わない……と順平が諦めの境地で、走ること以外の全てを手放した瞬間が、きっと彼が少年から大人の男になった時だったのだろう。
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