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第二章
02-3
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ぐるぐると色んなことを考えながら歩いたので、夕暮れ時に自宅に着く頃には慣れない思考のせいで、レースなんかよりもよほど疲れてしまった。
(……どうすりゃいいか、わかんねえや。とにかく後で考えよう……)
順平はそう頭を切り替えて、がたぴし言う木製の引き戸を開けて帰宅すると、玄関の三和土に靴を脱ぎ捨てながら、部屋の中に向かって声を掛けた。障子戸を開けて
「ただいま。じいちゃん、すぐに晩メシ作るから――」
そこで順平の言葉が、スイッチを落としたように唐突に途切れた。
「じいちゃん……?」
呆然と見開いた目線の先には、万年床の布団が乱れて、そこから体を半分這い出した格好のまま、水の入ったコップや薬袋が散らばった中に倒れ伏した老人の寝巻姿があった。枯れ枝のような手は胸を掻きむしる仕草のままで固まり、横からわずかに見える目は苦しげに見開かれていた。
誰の眼にも明らかに、こと切れている祖父の姿を前にした時、順平は、自分が何故、その日出会ったばかりの例の名刺の男に真っ先に連絡を取ろうと考えたのか? 後で思い返してもよくわからなかった。
中学の担任でも、近所の誰かでもなく――後に、ただ”監督”とだけ呼ぶようになった――その人は、電話を受けるとすぐに自分の車で駆け付けてくれ、順平から聞いた祖父のかかりつけ医を自ら呼んでくると、心臓の持病による自然死という死亡診断書を速やかに作成させ、役所へ届け出る諸々の手続きまで代理人としてやってくれた。
おそらく、学校側からは素行の悪い生徒と認識されていた順平が、祖父の突然の死によって警察からあらぬ疑いを掛けられぬよう取り計らってくれたのだろう……とは順平が大分後になって思い至ったことだった。
後日。ささやかな葬儀もなく、身内は自分一人だけが火葬場で見送った後、順平は、煙突から祖父の遺体を焼いた色のない煙がごく薄っすらと、晩秋の高い青空に向かって昇って行くのを見つめていた。
「……順平君」
ここまで付き添ってくれたあの人が、火葬場を兼ねた地元の葬祭ホールの中庭に、ぽつんと立ち尽くす学生服の順平に近寄って声を掛けた。
「お骨は君の家の先祖代々の墓があるお寺が引き取って下さるそうだ。後の手続きは私がやっておくから、君は先にバスで家に帰って、荷物をまとめて待っていなさい」
「……はい」
虚ろな目をして素直に頷く順平の肩に、男の大きくて温かい掌がそっと置かれた。
学ランの詰襟に包まれた首の細さと、大人の男の武骨な手の大きさとの対比が、今さらながら、スレた態度を取っていても順平が、本当はまだ中学生の子供なのだ……という当たり前の事実を思い出させた。
先日のラフな私服とは違って、いかめしい制服と制帽に身を包んだ男の、自分の胸くらいの背丈の順平を見降ろす、明るい茶色の眼。
そこには痛ましそうな、限りない同情が込められていたが、ずっと俯いていた順平は最後までそれに気づかなかった。
順平の頬に、すう……っと一筋、透明な涙がつたい落ちた。それを拭おうともせず
(……大嫌いだったのに、どうして涙が出るんだろう……?)
と、順平は不思議でならなかった。
それは一人きりの肉親を失って、自分が天涯孤独になってしまったことや、今から誰に見送られることもなく出て行こうとしている、生まれ育った故郷への惜別だろうか? 思考することに慣れていない順平には、言語化するのは難しかった。
それでもたった一つ、順平が確信していることがあった。それは、祖父が死の間際に思い出していたのは絶対に、十年以上を共に暮らしていた孫の順平の顔や名前ではなかっただろう、ということだった。
きっと祖父は、かつて自分が大事に思っていた相手、先立たれた自分の妻や息子、そういう人達との思い出と一緒に、あの世へと旅立ったに違いない。……だとしたら病による苦痛と貧困にまみれていても、祖父の人生は、まだしも”幸せ”だったと言えるのではないだろうか? あの世などというものが、もしあるとすればだが。
その思い出の中に、自分が存在する余地はない。オレは大事に思われていなかったから……順平は妙に冷えた頭と心で、そう思った。
他に客が乗っていない市バスの座席で揺られながら、順平は窓の外を単調に流れて行く、傾きかけた日差しにうずくまるような小さな港町の家や畑を眺めていた。
(誰も、オレを気に掛けなかった。この”体”を”使う”こと以外には――)
ふと順平は、ある感情を初めて発見したとばかりにどこか新鮮な気持ちで、がらんどうな自分の胸の中の、相変わらず月面のように寒々しい不毛の荒野を眺めていた。
(……ああ、そうか……オレは”悲しい”のか……)
きっと自分はこの命を終える日までに、たった一人でも、祖父のように”大事に思う相手”を手に入れることは、出来ないに違いない。
自分が思い、相手にも思われることをもって”大事な相手”とするのなら。
単にこの肉体を、何かのための道具として”使う”目的以外では、他人から興味を持たれず、自分からも他人に興味を持つということが出来ない順平には、そもそも不可能だった。
――そのことがわかって悲しかったから、自分は泣いていたのか。
腹落ちすると同時に、心の中でずっと昔に負った胸の傷口からいまだに流れ続ける赤い血が、順平の心をますます凍えさせた。
どこにいて誰と過ごそうが、自分はこの先、一生孤独のままなのだという事実に、まだ15歳にも満たない少年である順平は打ちひしがれていた。
青紫色に暮れ始めた車窓の向こうには、この日も、暗い海を挟んだK市の街明かりが、とても小さいが貴重な宝石のようにチカチカと瞬き始めていた。
(……どうすりゃいいか、わかんねえや。とにかく後で考えよう……)
順平はそう頭を切り替えて、がたぴし言う木製の引き戸を開けて帰宅すると、玄関の三和土に靴を脱ぎ捨てながら、部屋の中に向かって声を掛けた。障子戸を開けて
「ただいま。じいちゃん、すぐに晩メシ作るから――」
そこで順平の言葉が、スイッチを落としたように唐突に途切れた。
「じいちゃん……?」
呆然と見開いた目線の先には、万年床の布団が乱れて、そこから体を半分這い出した格好のまま、水の入ったコップや薬袋が散らばった中に倒れ伏した老人の寝巻姿があった。枯れ枝のような手は胸を掻きむしる仕草のままで固まり、横からわずかに見える目は苦しげに見開かれていた。
誰の眼にも明らかに、こと切れている祖父の姿を前にした時、順平は、自分が何故、その日出会ったばかりの例の名刺の男に真っ先に連絡を取ろうと考えたのか? 後で思い返してもよくわからなかった。
中学の担任でも、近所の誰かでもなく――後に、ただ”監督”とだけ呼ぶようになった――その人は、電話を受けるとすぐに自分の車で駆け付けてくれ、順平から聞いた祖父のかかりつけ医を自ら呼んでくると、心臓の持病による自然死という死亡診断書を速やかに作成させ、役所へ届け出る諸々の手続きまで代理人としてやってくれた。
おそらく、学校側からは素行の悪い生徒と認識されていた順平が、祖父の突然の死によって警察からあらぬ疑いを掛けられぬよう取り計らってくれたのだろう……とは順平が大分後になって思い至ったことだった。
後日。ささやかな葬儀もなく、身内は自分一人だけが火葬場で見送った後、順平は、煙突から祖父の遺体を焼いた色のない煙がごく薄っすらと、晩秋の高い青空に向かって昇って行くのを見つめていた。
「……順平君」
ここまで付き添ってくれたあの人が、火葬場を兼ねた地元の葬祭ホールの中庭に、ぽつんと立ち尽くす学生服の順平に近寄って声を掛けた。
「お骨は君の家の先祖代々の墓があるお寺が引き取って下さるそうだ。後の手続きは私がやっておくから、君は先にバスで家に帰って、荷物をまとめて待っていなさい」
「……はい」
虚ろな目をして素直に頷く順平の肩に、男の大きくて温かい掌がそっと置かれた。
学ランの詰襟に包まれた首の細さと、大人の男の武骨な手の大きさとの対比が、今さらながら、スレた態度を取っていても順平が、本当はまだ中学生の子供なのだ……という当たり前の事実を思い出させた。
先日のラフな私服とは違って、いかめしい制服と制帽に身を包んだ男の、自分の胸くらいの背丈の順平を見降ろす、明るい茶色の眼。
そこには痛ましそうな、限りない同情が込められていたが、ずっと俯いていた順平は最後までそれに気づかなかった。
順平の頬に、すう……っと一筋、透明な涙がつたい落ちた。それを拭おうともせず
(……大嫌いだったのに、どうして涙が出るんだろう……?)
と、順平は不思議でならなかった。
それは一人きりの肉親を失って、自分が天涯孤独になってしまったことや、今から誰に見送られることもなく出て行こうとしている、生まれ育った故郷への惜別だろうか? 思考することに慣れていない順平には、言語化するのは難しかった。
それでもたった一つ、順平が確信していることがあった。それは、祖父が死の間際に思い出していたのは絶対に、十年以上を共に暮らしていた孫の順平の顔や名前ではなかっただろう、ということだった。
きっと祖父は、かつて自分が大事に思っていた相手、先立たれた自分の妻や息子、そういう人達との思い出と一緒に、あの世へと旅立ったに違いない。……だとしたら病による苦痛と貧困にまみれていても、祖父の人生は、まだしも”幸せ”だったと言えるのではないだろうか? あの世などというものが、もしあるとすればだが。
その思い出の中に、自分が存在する余地はない。オレは大事に思われていなかったから……順平は妙に冷えた頭と心で、そう思った。
他に客が乗っていない市バスの座席で揺られながら、順平は窓の外を単調に流れて行く、傾きかけた日差しにうずくまるような小さな港町の家や畑を眺めていた。
(誰も、オレを気に掛けなかった。この”体”を”使う”こと以外には――)
ふと順平は、ある感情を初めて発見したとばかりにどこか新鮮な気持ちで、がらんどうな自分の胸の中の、相変わらず月面のように寒々しい不毛の荒野を眺めていた。
(……ああ、そうか……オレは”悲しい”のか……)
きっと自分はこの命を終える日までに、たった一人でも、祖父のように”大事に思う相手”を手に入れることは、出来ないに違いない。
自分が思い、相手にも思われることをもって”大事な相手”とするのなら。
単にこの肉体を、何かのための道具として”使う”目的以外では、他人から興味を持たれず、自分からも他人に興味を持つということが出来ない順平には、そもそも不可能だった。
――そのことがわかって悲しかったから、自分は泣いていたのか。
腹落ちすると同時に、心の中でずっと昔に負った胸の傷口からいまだに流れ続ける赤い血が、順平の心をますます凍えさせた。
どこにいて誰と過ごそうが、自分はこの先、一生孤独のままなのだという事実に、まだ15歳にも満たない少年である順平は打ちひしがれていた。
青紫色に暮れ始めた車窓の向こうには、この日も、暗い海を挟んだK市の街明かりが、とても小さいが貴重な宝石のようにチカチカと瞬き始めていた。
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