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5章

過去との決別を誓う

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 皇子殿下の誕生パーティから帰ると、入口でシンシアが顔をしかめた。

「奥様、変な匂いが沁みついています。パーティで誰かに触られましたか?」
「ああ。失礼な人に触られたわ……警備に追い払われていたけれど」
「嫌な人だったんですね……匂いがもう、ダメです」
「そんなに匂う?」

 シンシアは白い耳をてっぺんに生やし、鼻と眉間に皺を寄せていかにも臭そうな顔をしている。

「ドレスとグローブはすぐに洗いましょう。奥様の御召し物にそんな匂いが移っているだなんて許しがたい事態です」

 朝になってからでも良いのよ、と言おうと思ったけれど、こんなに臭そうな顔をされたらシンシアも早くその匂いから解放されたいのかもしれない。断れなかった。

「じゃあ、部屋で脱ぐからお願いできる?」
「はい!」

 喪服が男臭いというのもちょっと嫌よね。私にはその匂いがよく分からないとしても。

 部屋で服やグローブを渡してルームウェアに着替えると、脱いだ服を抱えたシンシアが苦しそうな顔をしながら走って行った。ふさふさの白い尻尾がぐるぐると回っている。

 ごめん。これからは変な人に抱きつかれないように気を付けるわね……。

 カーディガンを羽織って、裁判のことを報告しなくちゃと執務室にいるバートレットを訪ねた。デスクで真剣に書類を読んでいる。

「こんばんは。私、実の両親を相手に裁判をするかもしれないわ」
「さようでございますか」

 こちらをチラリとも見ずに、バートレットは答える。頭の上の灰色の耳は全く動いていない。

「皇帝陛下が材料を集めてくれているらしいのだけれど、私、この家を守るために戦おうと思う」
「さようでございますか」

 相変わらず、バートレットは何の関心もなさそうに書類を見ていた。

「私が再婚しなかったら、この家は存続できなくなるの?」
「養子を迎えられれば問題ございません」
「そう……」

 養子かあ。
 家族の作り方って、色々あるのね。血のつながりだけが家族ではないと思うけれど、オルブライト家を継ぐのにふさわしい人を選ぶのは大変そう。

「私の両親は色々と問題がある人たちだから、養子を迎えるにしても問題が解決してからでしょうね」
「さようでございますか」
「……ねえ、バートレットはユリシーズがいなくなって寂しくない?」
「……」

 書類から目を離さずに、バートレットは固まる。

「この家には、ご主人様の匂いがまだたくさん残っています。気配がするのに姿が見えないというのは何とも不思議で」
「そう」

 バートレットも、まだユリシーズがいないことを受け入れ切れていないのだろうか。

「バートレットは、あれから泣いたの?」
「あれからと申しますと?」
「ユリシーズの訃報を聞いてから」
「……いいえ」
「そう。私と同じね」
「さようでございますか」

 バートレットは、ずっと書類を見ていてこちらに関心を向けようとしない。
 最初に出会った時からずっと態度が変わらなくて、信用がおける。

「バートレットが、急に優しくならなくてよかった」
「さようでございますか」
「それしか言わないじゃないの」
「返しようのないことばかりおっしゃるからですよ」
「あらそう」

 あなたが執事で良かったわ、とでも言っていたわろうかと思ったのに。どうせ「さようでございますか」しか返ってこないだろうから止めておこう。

「ありがとう」
「いえ。仕事ですから」
「分かっているけれど、お礼くらい言わせて」
「……礼など。オルブライト家に勤める者の役目を果たしているだけです」

 素直でないというのか、なんというのか。
 だけど、こういう時に憐れんだり慰めようとしてこないところにほっとしている私がいた。


 ***

 私の両親がオルブライト領に来たのは、程なくしてからだった。
 エイミーが慌てて私のところにやってきて「クライトン子爵が!」と息を切らしていて、とうとう来たかと覚悟を決める。

 話が通じない人と対峙するのはここ数カ月で耐性ができたけれど、相手が実の両親となると自信がない。もう生存権を握られているわけではないというのに、これまでの虐待の痕は私の身体に刻まれたままだ。

「バートレットと一緒に行くわ」
「はい……」

 エイミーは私があの人たちを恐れていたのを知っている。だから、こんなに心配そうな顔をしているのだろう。


 バートレットを連れて応接室に入ると、よく知った二人がこちらを見て満面の笑みを浮かべた。シンシアがそんな二人にお茶を出している。
 今まで向けられたことのない表情に、思わず怯んでしまった。

「オルブライト領は随分豊かなところじゃないの!」

 お母様が、嬉しそうに言った。

「死神伯なんていうから、どんな辺鄙なところかと思ったら……伯爵領というだけはある」

 お父様は満足げにうなずいていた。私が何も言い返せないのを見たバートレットが「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀をしている。

「さすが、わたくしたちのアイリーンね。こんなところで現在は領主の代わりをしているんでしょう?」

 お母様がにっこりと笑う度、脳裏にあの顔で鞭を振るった姿が浮かんだ。
 背中にぞわりとした寒気が襲う。

「いやあ、私はこの通り足が不自由だからな。こんな豊かなところで暮らせたら最高だなあ、アイリーン」
「……」

 何を言っているのですか、と返そうと思ったのに、声が全く出ない。

「お言葉ですが、クライトン子爵様……ここはオルブライト家ですのでお二方とは現状全く関係のない家ではないでしょうか?」

 バートレットがハッキリと言い返してくれた。
 感動していると、お父様の顔が急に険しくなる。

「使用人の分際で、口が過ぎるんじゃあるまいか? なあ、アイリーン」
「あ……」

 しまった、と思うのに、バートレットを庇う言葉も浮かばない。
 本当は私がここで言い返さなくちゃいけないのに。

「あなた、人様の家に来て使用人を咎めるのはやめましょう。わたくしたちは、アイリーンに援助を頼みに来ている立場ですよ?」
「ああ……」

 予想はしていたけれど、私相手でもお願いをする以上は最低限の礼儀を尽くそうとしたらしい。そんなものすら今までは全く無かったことが、腹立たしくもあるけれど。

「私は、皇帝陛下に売られた身です。もう、クライトン家に対する援助はできません」

 下を向いたまま言うと、先ほどまでの穏やかな雰囲気が一転した。

「この、恩知らず!!」

 お母様は手元にあったお茶をカップごと投げ、見事に私の頭にヒットさせた。
 痛みと熱さにびっくりしたのに、何も反応できない。
 近くにいたシンシアが悲鳴を上げて「奥様!! 奥様あ!!」と叫びながら髪やドレスに付いたお茶を拭ってくれている。

 これは……ちょっと火傷をしたかもしれない。
 シンシアが泣いていて、変なところを見せてしまったと申し訳なくなった。
 いまは、私が傷つけばこうやって傷つく人がいる。

「昔は、首から上には決して危害を加えなかったのに、変わりましたね……」

 ゆっくりとお母様を見据える。

「何度言われても同じです。あなた方は私を売り払って自ら縁を切ったはず。今回の件も含めて、被害を訴えさせていただきます」
「何を……」

 お父様は握った杖をこちらに振り下ろしたけれど、私の前に立ったシンシアの肘にガードされた。
 シンシアは目に涙を溜めながら、フーフーと肩で息をしている。

「奥様を傷つけるのは、お止めください……」

 お父様はシンシアの動きに驚いて、力を込めた杖がびくともしないので諦めたらしい。杖を降ろして、私を守ろうとするシンシアを眺めた。

「実の両親を訴えるというなら、勝手にすればいい。ロクに反論もできないお前が、裁判など起こせるとは思えないがね……」
「そうね、アイリーンはいつだって人形のようだった。反抗などできるはずもないわ」

 お母様が高らかに笑う。屋根裏部屋に怯えていた私を思い出したのだろう。

「それでは、用がお済みでしたらエントランスまで送りましょう」

 バートレットは早々に二人を追い出そうと促した。お父様とお母様も居心地が良くなかったのか、素直に席を立つ。

「考えを改めて、いい返事をくれると信じているわよ」

 玄関を出ると、お母様はそう言ってくすりと笑って帰っていく。

 二人の背中を見ながら、シンシアが私の腕にしがみついて震えていた。

「あんな人が……奥様の……ご両親なのですか??」
「そうね。親は選べないから」
「ひどい……奥様に手をあげるなんて……お茶のかかったところをすぐに冷やしましょう。ドレスも染み抜きをしないと……」

 シンシアは歯を食いしばっている。「熱いお茶なんか出さなければ良かった」と悔やむその頭を撫でながら、あの短時間で大抵の事情を察したのかしらと思う。

「ありがとう、シンシア。あなたのお陰で目が覚めたわ」
「??」
「あんな人たちに踏みにじられてはいけないわね。このお屋敷の主人としても、オルブライト領の領主としても……」
「はい。でも、本来守ってくれるはずの親に虐げられるというのは、どんなにお辛かったのだろうと思います。奥様は、何も悪くないのに」

 シンシアが私の腕に顔を埋める。きっと、また泣かせてしまった。

「奥様、本日はご両親とお会いできて大変光栄でした」

 突然バートレットがそう言ったので、私とシンシアは耳を疑って首を傾げる。

「奥様のご両親を訴えるということに、遠慮がなかったと言えば嘘になります。それが、本日のお二人を見て全くの杞憂だったのだと確信しました」
「……ええと、つまり?」
「遠慮なく、ぶっ潰す材料を集めさせていただきます。もう二度と、オルブライト家の敷居をまたがせるわけにはなりません」

 シンシアの顔がぱあっと明るくなる。

「そうこなくちゃ」

 思わず笑って、シンシアと腕を組みながら家に戻る。
 私たちを見つけたエイミーが、「ちょっと、シンシアさん?! 奥様に馴れ馴れしく何を?!」と苦言を呈したけれど、シンシアはエイミーにペロリと舌を出して誤魔化した。

 かわいいわね、と私が和んでしまっていると、エイミーが「メイド長に言いつけますよ?!」と怒り出す。

「そんなことはしないで、エイミー。さっきお父様に暴力を振るわれそうになったのを、シンシアが守ってくれたの」
「うふふ、そうなのです」

 得意げに私と腕を絡めるシンシアに、エイミーはワナワナしている。

「上下関係をわきまえて下さい、シンシアさん!」
「まあまあ、私に免じて許してあげて」
「奥様はシンシアさんに甘すぎます!」

 人狼がくっついてくれるのは慕ってくれている証拠なのよね。
 エイミーだってウィルとちゃんと付き合えば、理解できると思うけれど。

「さて、皇帝陛下と皇子殿下にお手紙を出すわよ。両親を訴える準備が始まるわ」

 この国の民事裁判は、原告と被告がそれぞれ証人や証拠を持ち寄って争うことになる。立ち合い人や裁判官は原告が自由に指名できるけれど、訴えを起こして主張をするのは原告である私……。

 あの人たちを前にして自己主張するのには、まだ不安があるけれど。
 シンシアやエイミー、屋敷のみんなを守るためには逃げてはいられない。
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