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2章

月が満ちる

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 満月の日、ユリシーズから手紙が届いた。
 厭味ったらしい人たちに絡まれるような毎日を送っていたせいか、久しぶりにわくわくして胸が高鳴っていた。

 ……けれど、それを公爵様に悟られてはいけないので、使いの人から手紙を受け取る時は「ああそう」とだけ言って無関心を装う。
 だいぶ演技派になってきた気がするわね。

 ユリシーズから届いた手紙にはちゃんと封蝋印が残っていた。
 つまり、誰かに無断で開けられた形跡はない。
 これまであまり意識したことは無かったけれど、オルブライト家の家紋は狼が中心にいてつたに囲まれているものだった。ノクスの耳と尻尾を思い出して恋しくなってしまう。

 封蝋印は手紙を開けると粉々になってしまうから、読みたいのになかなか開けられない。

「誰か」

 私が大きな声を上げると、部屋に護衛の一人が駆け付けた。

「ハサミを持ってきていただける? 手紙を読みたいの」
「……はあ。かしこまりました」

 なぜわざわざハサミが要るんだという顔をされたけれど、理由までは尋ねられなかった。
 興味を持たれていないと、こういう時は都合がいい。

 すぐにハサミを手に入れて、封筒を切ることで狼のかわいい封蝋印も守れた。
 そっと中の手紙を出す。
 ただ手紙を読むだけなのに、ドキドキと胸がうるさくなってしまう。
 ユリシーズから手紙をもらうのは、血塗られた薔薇以来だから。

『愛しいクリス様
 お手紙でしか近況が知ることができないのは寂しいですが、貴女が実家で元気にしているようで心配だけは和らぎました。
 狩りのことで怒らせてしまい、至らない夫だったのを深く反省しています。
 大きな獲物に喜んでいただきたかっただけなのです。
 これからは、もっと妻の意見に耳を傾けていい夫になれるように頑張りますから……どうかまた、私と一緒にいてください。

 貴女がいない屋敷は、とても静かで物悲しい雰囲気がします。
 貴女がいない人生が、どのように送れていたのか思い出せません。
 そばで明るく笑い、優しい声をかけてくださる貴女が……至らないときはしっかりと叱ってくださる妻が、私には必要なのだと思い知りました。

 会いたくて狂いそうです。抱きしめたくて叫びそうになります。
 もう満月だというのに。

 昼も夜も寄り添えない毎日は苦行です。
 どうか、満月の夜は庭に出てください。同じ月を見ましょう。

 生涯の夫 ユリシーズ・オルブライト』

「ユリシーズ……」

 名前を呼んでもあなたがいない。
 優しい顔が思い浮かぶのに、愛情深く私を見つめる時はどんな顔をしていたかもう思い出せなかった。

 昼と夜が好き、と私は白い蝋を使って手紙に跡を付けた。
 公爵家の人は私の手紙をチェックしただろうけれど、昼(ディエス)と夜(ノクス)が好き、と秘めるように蝋で書いた私に、その言葉以上の意味はないと思っているはずだ。

 ユリシーズが好き。
 昼も夜もかけがえのない人。

 ハッキリ文字にしてしまうと、この感情から逃げられなくなった。
 今日の夜、満月を見よう。この部屋のバルコニーに出て。

 ***

 このお城に来てから、長い夜が嫌いになった。
 広い空間に悪意が充満していても、昼はそれが明らかになって怖さを感じにくい。だけど、夜は悪意と一緒に私を飲み込みそうで不安になるから。

 ユリシーズは、昼の方が分かりにくくて夜が分かりやすい。
 昼の明るい中で分かりにくいあなたを見て、暗い中で分かりやすいあなたを感じられるのに。

 日が暮れた部屋でそんなことを考えていた。
 そろそろ満月を見ようかなと思っていた時、犬の遠吠えが聞こえる。

 アオオオーーーン

 その鳴き声が物悲しそうで、動物だって悲しくて泣くのかもしれないと思う。
 ユリシーズの手紙にあったとおりに、バルコニーに出て満月を見ることにした。
 いつもよりも大きく見える月を、彼も家から見ているのだろうか。

 バルコニーの手すりにつかまっていたら、庭で何かが動いている。

「……?」

 近づいてくるものに、目を凝らした。
 ふたつの目が暗闇で光っている。……動物?

 バルコニーの下に来たのを見て、ようやくその姿を捉える。
 黒い狼が……とても大きくて熊と見間違えるような、立派な狼が庭にいた。

「どうして、こんなところに狼が?」

 小さな声で呟くと、クゥゥーンと悲しそうに声を上げる。
 そして、ゆっくりと後ろ足だけで立ち上がり、人間のように二足歩行をした。

「……あなたなの?」
「アウッ」

 黒い狼が太い尻尾を振る。見覚えのある動き、見覚えのある銀色の目。

「どうして? どうしてここに……」
「ワウッ」
「犬語は分からないわ」
「クウゥーン」
「……かわいいけど」

 手すりから身を乗り出して小さな声で話しかけている。狼は二足歩行を止めて四本足で地面を踏みしめ……急にお城の建物に向かって走り出した。
 速い走りはお城まで直進して……そのまま壁に爪をかけながら外壁を四本足で上ってくる。
 その動きは木を上るようだったけれど、あまりに鮮やかで驚いた。

 あっという間に私のいる3階のバルコニーに駆け上がり、手すりを越えるためにぴょんっと飛んで私の目の前に来た。近くで見ると本当に大きい狼だ。

「ねえ、満月になると狼になるなんて言ってなかったじゃない」
「アウ?」
「聞かれなかったから、じゃないわよ。夫婦の間にこういう隠し事をするのは誠実じゃないと思うの」
「……」

 黒い狼は二足で立ち上がり、ゆっくりと歩いてきた。
 傍から見たら絶体絶命というところだけれど、狼は前足をすっとこちらに差し出し、爪を隠して私の頬にそっと触れる。

 目の前にふさふさの毛に覆われた狼がいると思ったら、私は飛びついてその毛の中に手を潜らせた。
 もう、ワシワシしちゃうんだから。
 長い毛の中に入れた手をガシガシと動かすと、「キャン」と小さな悲鳴が上がる。尻尾は振れていた。

「ユリシーズ……」
「クゥゥゥゥン」
「私に会いに来たの?」
「ワウン」
「ありがとう。実はね、ちょっと弱気になっていたの」

 狼は首を傾げた。銀色のキラキラした目がこちらをじっと見ている。

「喧嘩したまま出てきちゃったから。もう怒ってない?」

 狼は私の頬を舐め、頬をスリスリと擦り付ける。

「くすぐったい」

 小さく笑うと狼も嬉しそうに口角を上げた。表情も豊かでなんだか和む。

「よく護衛に見つからなかったわね? 危ないから、公爵家の人に見つからないうちに逃げて」

 この家には多くの護衛がいる。例え動物の姿でも、護衛の目を盗んで中に入ってくるのはかなり大変だったはずだ。

「ワゥゥン」

 寂しそうに狼が鳴く。離れがたいのは私も一緒だけれど。

「もう少しで帰れると思うから、また私を迎え入れてね」
「ワンッ」
「しっ、声が大きいわよ」

 ワンって鳴くのね、狼も。
 一生懸命に尻尾を振っているのがかわいくて、黒い狼に頬ずりをする。そして、黒い鼻に鼻を当てた。しっとりとしていて、人の鼻とは違う。

「アゥゥ」

 狼は小さな声を漏らして激しく尻尾を振りながらハッハッと息を荒くした後で私の顔をぺろぺろと舐めていた。大きな身体が必死になっているみたい。

「分かったから、落ち着いて。もう……さっきの鳴き声に気付いた人がいるかもしれないから気を付けて帰るのよ」
「クゥンクゥン」
「甘えた声を出さないの」
「キュゥーン」
「悲しそうな声を出してもダメ。狼が敷地に入っているのを見たら、お城中の兵士が駆除に動いてしまうわ」

 狼は尻尾を下げて耳を折り下げた。これは……しゅんとしている。
 私だってできれば一緒に居たいけれど……朝になったら人の姿になってしまうだろうし、ユリシーズは狙われているわけだし、この狼の姿が見つかったら害獣が入り込んだと大変なことになる。

「来てくれて嬉しかった。手紙を読んで、あなたに会いたかったから」
「ワウ」
「この姿も好きよ。狼の姿になっても好き」

 折れていた耳が立ち、悲しそうにしていた顔が穏やかになっていく。
 そして、最後に私の頬と首をひとなめして後ずさりをした。

「あのお屋敷が私の家よ。あなたが先に待っていてね」
「アウ」

 狼は手すりにぴょんと飛び乗ると、3階の高さからそのまま飛び降りて四本足で地面に着地した。

「すごい……」

 そういえばノクスは2階の部屋に人の姿で来ていたけれど、身体能力が人とは違うみたい。

 こちらを振り返り、尻尾を垂らして名残惜しそうにしている姿に胸が痛む。私だって離れたいわけじゃない。

「気を付けてーー」

 バルコニーから身を乗り出して小さな声で言った時、庭に声が響いた。

「誰か!!」

 男の人の声。護衛が、庭にいる狼を見つけて大声を上げたのだ。
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