上 下
5 / 76
第一章 訪れた幸運と非日常

4 二人きりの保健室

しおりを挟む
 



 ──すうっと鼻に抜ける、消毒液の匂い。
 それから……

 あの、胸をくすぐる甘い匂いがする。


 そんなことをぼんやり考えながら、汰一はゆっくりとまぶたを開けた。
 真っ白な天井とカーテンが目に飛び込み、眩しさに顔をしかめる。
 同時に、鼻の付け根がズキンと痛んだ。


「いてて……」
「──刈磨かるまくん、大丈夫?」


 誰かに呼びかけられ、汰一は驚いて横を見る。
 すると、そこには……

 彼を覗き込むようにして座る、彩岐さいき蝶梨ちよりの姿があった。

 ドキッと跳ね上がる心臓。
 汰一は一気に覚醒し、声を絞り出す。


「さ、彩岐? なんで……?」


 上体を起こして、周囲を確認する。

 どうやらここは、学校の保健室らしい。
 野球ボールの直撃を受け気絶し、運ばれたのだろうか。制服のままベッドの上に寝かされていた。


「……君が、俺をここに連れて来てくれたのか?」


 信じられない気持ちで問いかけると、彼女は静かに頷き、肯定する。


「うん。刈磨くんにボールが当たるのを見て、先生を呼んで運んでもらったの。保健室の先生は、しばらく安静にすれば問題ないだろうって」


 その涼やかな声を聞き、汰一は思い出す。


 そういえばボールに当たる直前、誰かが「危ない!」と叫ぶ声が聞こえたが……あれは彼女の声だったのか。
 あんな情けない姿を、よりにもよって彼女に見られるとは……嗚呼、今すぐ花壇に埋まりたい。


 汰一は顔を覆いたくなるのを堪えながら、無理矢理笑みを浮かべる。


「そうか……ありがとうな。迷惑かけて悪かった」
「いいえ。大事に至らなくてよかった」


 表情を変えないまま、首を小さく振る彼女。
 長い黒髪がさらさらと揺れるその動きだけで、汰一はつい見惚れてしまう。
 同時に、彼女と二人きりでここにいるという現状をあらためて実感し、緊張が押し寄せてきた。


「えと……意外だな、彩岐が花壇にいただなんて。たまたま通りかかったのか? それとも花を眺めに来たとか……って、それはないか」


 無駄に饒舌になってしまう自分に、汰一は内心苦笑する。


 まただ。せっかくの会話のチャンスなのに……彼女を前にすると、どうしても舞い上がってしまう。

 窓からの夕陽を反射し、天使のような輪を作っている艶やかな髪も。
 こちらを真っ直ぐに見つめる大きな瞳も。
 身長の割に華奢な肩も、半袖のワイシャツから伸びる細い腕も、膝の上に乗せた綺麗な指先も……
 全てが尊くて、愛おしくて、見ているだけで胸が高鳴ってしまうのだ。


 そんな胸の内を誤魔化すように、汰一が乾いた笑い声を上げると……
 蝶梨は、桃色の唇を尖らせ、



「……私が花を見ていたら、そんなに変?」



 ……と、少し拗ねたように言う。

 初めて見るその表情に、どこか子どもっぽい可愛さを感じ、汰一はまたもや見惚れてしまう。

 しかし彼女は、慌てて目を逸らし、


「ごめん、何でもない。忘れて」


 そう、いつものクールな表情と声に戻って言う。
 その変化に目を奪われつつ、汰一は、


「……花、好きなのか?」


 と、尋ねてみた。
 彼女はぴくっと反応し、何度か目を左右に泳がせた後、


「……うん、家でもいろいろ育ててる。……似合わないでしょ?」


 目を伏せながら、白い頬をほんのり染めて言うので……
 汰一は、心臓を射抜かれたような衝撃を受ける。


 あの彩岐蝶梨が……"麗氷の蝶"と呼ばれる程クールな彼女が……

 顔を赤らめ、照れている。

 こんなの……こんなの…………




「…………かわいい」



 思わず口から漏れた本音に、「え?」と聞き返され、汰一は慌てて両手を振る。


「あ、いや……可愛いよな、花。似合わないなんてことは全然ない。むしろぴったりだと思うし……同じ趣味で嬉しい」


 言った後で「しまった」と口を閉ざす。
 どうやら照れ顔の威力がまだ響いているらしい、気を抜くとすぐに本音が漏れてしまう。

 汰一が次の言葉を慎重に探していると、先に蝶梨が口を開いた。


「実は……前からよく見ていたの、中庭の花壇。いつも綺麗に手入れされてて、お花も元気に咲いていて……それを刈磨くんがやっていることも、知っていた」


 ドクンッ。

 彼女の言葉に、心臓が一際ひときわ強く脈打つ。
 自分のしていたことを、彼女が認識してくれていただなんて……夢にも思わなかった。

 彼女が続ける。


「私も家でチューリップを育てているんだけど、中庭のみたいに綺麗に咲かなくて。何が違うのか、知りたくて見に来てみたら……」


 そこで一度言葉を止め……少し俯くと、



「……刈磨くんが、チューリップの花をぽきぽき折っていたから…………ちょっと、びっくりした」



 そう、遠慮がちに言う。
 汰一は、一気に顔面蒼白になる。

 確かにあんなバイオレンスな光景、事情を知らない人間が見たら勘違いするに決まっている。
 これは……何としてでも誤解を解かなければ。


「あ……あれは決して破壊行為とかではなく、来年植える球根を残すための作業なんだ!」
「球根を?」
「そう! 球根を良い状態で残すためには、ああして花を折る必要があるんだよ!」
「……そうなんだ」
「あぁ! 何なら今度、彩岐も一緒にやってみないか?!」


 ……と。
 思わず叫んだそのセリフに、汰一は自分自身で驚く。

 勢い余って何を誘っているのだろう。
 早く撤回を……じゃないと、断る彼女にも気を使わせてしまう。


「あ、いや、その……無理だよな。彩岐は生徒会とかで忙しいし……」


 なんて、彼女が断りやすい理由を自ら添えて訂正をする。
 しかし、


「……いいの?」


 彼女は、大きな瞳をさらに大きく輝かせ、



「刈磨くんがいいなら……お花のお世話のこと、いろいろ教えてほしい」



 そう言って、顔を近付けてきた。
 真っ直ぐに見つめられ、汰一は息を止めたまま動けなくなる。


 さらりと揺れる髪。
 鼻をくすぐる甘い香り。
 キラキラと輝く、万華鏡みたいな瞳。

 嗚呼、やっぱり好きだ。

 遠くから見ているだけで幸せだと、本気で思っていたが……
 こんな近くで見る彼女の可愛さを知ってしまったら、身の丈に合わない欲が出てしまう。


 汰一は、ごくっと喉を鳴らすと、


「……俺なんかでよければ……いくらでも教えるよ」


 掠れた声で、振り絞るようにそう答えた。
 それを聞いた途端、蝶梨は嬉しそうに目を細めて、


「──ありがとう。よろしくね、刈磨くん」


 ふわりとした笑みを浮かべながら、彼の名を呼んだ。

 あまりの愛らしさに、汰一は返事をすることも忘れ見惚れる。
 すると蝶梨が、不思議そうに首を傾げ、


「ところで……その、結構動かしているけど、大丈夫なの?」


 ……と。
 白い包帯に覆われている汰一の左腕を指さし、尋ねた。
 言われて汰一は、ハッとなる。

 確かに、先ほどから無意識の内に動かしていたが……痛みが全くない。
 花壇で花をいじっていた時までは、間違いなく動かせなかったはずなのに…………



 ……その時。

 彼の脳裏に、気絶していた間の記憶が、一気に蘇る。



 神を名乗る男が現れ、蝶梨の側にいるよう依頼してきたこと。
 蝶梨が"エンシ"と呼ばれる神さまのたまごであること。
 彼女を護るため、"厄"を喰うという式神・カマイタチを授けられたこと。
 そして……

 折れていたはずの左腕を、治してもらったこと。



「…………」


 あれは、夢ではなく現実だったのか?
 ということはこの状況も、あの自称・神が──柴崎が計らったという、彼女との『接点』なのか?


「……刈磨くん?」


 再度名前を呼ばれ、汰一は我に返り、


「……あ、あぁ。実はほとんど治りかけなんだ。ごめんな、驚かせて。もう大丈夫だから」


 混乱する胸中を悟られぬよう、そう微笑んだ。





 * * * *





 最後にもう一度礼を伝え、汰一は蝶梨と保健室の前で別れた。
 彼女は生徒会の仕事を済ませてから帰るらしい。


 その後ろ姿を見送り、汰一は……ため息をつく。


 嗚呼、夢のような時間だった。
 彼女と二人っきりで、あんなに会話してしまった。
 しかも、一緒に花壇の手入れをする約束までして。


 未だ信じられない気持ちを抱えたまま校舎を出、バス停を目指し歩き出す。
 事故で腕が折れただけでなく自転車も駄目になったため、今日からしばらくはバス通学なのだ。

 ちょうど到着したバスに乗り込み、窓の外に目を向けながら、彼女とのやり取りを思い出す。
 それから……
 もうすっかり痛みの消えた左腕を掲げ、手のひらを眺める。


 ……あれは、夢じゃなかった。
 つまり、あの自称・神から、彼女を護る役目を任されたということ。

 認識は出来ないが、あの時首に巻きついていたカマイタチは、今も近くにいるのだろうか。
 "厄"を自動的に喰うと言っていたが……もう発動しているのだろうか。
 本当に、彼女の側にいるだけでいいのだろうか。
 何かあった時、柴崎に会うすべはあるのだろうか。
 そもそも、あの男……信用できる相手なのだろうか。
 

 ……と、様々に思いを巡らせていたら、あっという間に目的のバス停へ到着していた。
 汰一は慌てて降り、自宅へと向かう。


 程なくして辿り着いた家の庭には、汰一の母親が植えた花々が綺麗に咲いていた。

 彩岐も育てていると言っていたが……こんな風に自宅の庭に植えているのだろうか。

 そんなことを考えながら、取り出した鍵で玄関のドアを開ける。
 その音で気付いたのか、居間から母親の「おかえりー」という声が聞こえてきた。


「ただいま」
「学校、大丈夫だったー?」


 その声に、汰一は自分の左腕に視線を落とす。

 もうすっかり治っているが、家族に悟られると説明が面倒だ。家にいる時はギプスをしたままにしておこう。

 そう決め、汰一は靴を脱ぎながら「まぁまぁ」と適当に答えておく。
 そのまま二階の自室へ向かおうとすると、


「あんたさぁ、部屋にかけてる鍵、なんとかならないの? あんな厳重にかけて……着替えも取りに入れなくて、入院中ぜーんぶ新しいのを買って来たんだからね。本当にもったいない。そういう年頃なのはわかるけどさぁ……」


 と、グチグチ文句が続きそうだったので、汰一は駆け足で階段を上る。

 自室のドアにかけた南京錠を開け、中に入り、内鍵を閉めれば、もう母親の声は聞こえなかった。


 ベッドに倒れ込み、寝返りを打って……
 天井を、ぼうっと見上げる。


「…………」


 今日だけで、いろいろなことがありすぎた。
 野球ボールで気絶して、チャラい神に「協力しろ」と脅されて……彼女と、たくさん会話した。

 ひっそりと生きてきた自分にとっては、胃もたれがする程に濃密な一日だ。
 横になった途端、身体が泥のように重く感じる。


 そのまま汰一は、静かに目を閉じる。


 考えるべきことはたくさんあるが……とりあえず今は、少し休もう。

 そのまま横向きに寝そべり、身体の力を抜いて、寝ようとする。
 しかし……


 ふと、瞼の裏に見えたものに、息を止める。
 



「……あの照れ顔…………可愛かったな」



 目を開けながら、そう呟いて。
 やっぱり眠れそうにないなと、ため息をつきながら……もう一度、天井を仰いだ。
 
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

黄昏は悲しき堕天使達のシュプール

Mr.M
青春
『ほろ苦い青春と淡い初恋の思い出は・・  黄昏色に染まる校庭で沈みゆく太陽と共に  儚くも露と消えていく』 ある朝、 目を覚ますとそこは二十年前の世界だった。 小学校六年生に戻った俺を取り巻く 懐かしい顔ぶれ。 優しい先生。 いじめっ子のグループ。 クラスで一番美しい少女。 そして。 密かに想い続けていた初恋の少女。 この世界は嘘と欺瞞に満ちている。 愛を語るには幼過ぎる少女達と 愛を語るには汚れ過ぎた大人。 少女は天使の様な微笑みで嘘を吐き、 大人は平然と他人を騙す。 ある時、 俺は隣のクラスの一人の少女の名前を思い出した。 そしてそれは大きな謎と後悔を俺に残した。 夕日に少女の涙が落ちる時、 俺は彼女達の笑顔と 失われた真実を 取り戻すことができるのだろうか。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

the She

ハヤミ
青春
思い付きの鋏と女の子たちです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―

入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。 遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。 本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。 優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。

多重世界シンドローム

一花カナウ
青春
この世界には、強く願うことで本来なら起こるべき事象を書き換えてしまう力 《多重世界シンドローム》を発症する人間が存在する。 位相管理委員会(モイライ)はそんな人々を管理するため、 運命に干渉できる能力者によって構成された機関だ。 真面目で鈍感なところがある緒方(オガタ)あやめは委員会の調査員。 ある日あやめは上司である霧島縁(キリシマユカリ)に命じられ、 発症の疑いがある貴家礼於(サスガレオ)の身辺調査を始めるのだが……。 え、任務が失敗すると世界が崩壊って、本気ですか? -------- 『ワタシのセカイはシュジンのイイナリっ! 』https://www.pixiv.net/novel/series/341036 を改稿して掲載中です。

【実話】友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
青春
とあるオッサンの青春実話です

伊賀見 和帆
青春
体質的な問題で不意に鼻血が出てしまう佐島(さとう)は、そのせいでなかなか学校生活に馴染めずにいた。そんな中、罰ゲームという名目で後輩にちょっかいを掛けてしまった須々木(すずき)という2個上の3年の学生と望まれない関わりを持ってしまう。性格も真逆、相容れないふたりが織りなす、不思議なスクールストーリー。

処理中です...