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27 泡沫の夢
しおりを挟むクロさんに腕を引かれ、腰に手を回される。
あと少しでも近付こうものなら、唇が触れてしまいそうな程の距離。
でも、決して触れ合うことのない、ただ見つめ合うだけの、視線の口づけ。
……いつも、ここまで。
そう……いつもなら。
「…………忘れてた」
彼は、再びそう言うと、
「……君の言うこと、なんでも聞いてあげるっていう約束」
指で、私の頬を、そっと撫でる。
触れられた肌に走る、甘く痺れるような感覚。
高鳴る鼓動に身体を強張らせながら、私はなんとか言葉を絞り出す。
「で……でも、あれは時間切れだって……」
「そのつもりだったけど……気が変わった」
そう言って、頬を撫でるのと反対の手で……
彼は自分の眼鏡をはずし、そのまま無造作に地面へ落した。
初めて出会う、眼鏡越しでない、裸の瞳。
その美しく危うい黒さに、心ごと吸い込まれてしまいそうで……
「……ほら」
「え……?」
「今ならなんでも……言うこと聞いてあげるよ?」
「…………っ」
「……言ってごらん。レンは……何が欲しいの?」
…………なんだ。
この人、やっぱり意地悪だ。
今日一日、優しくして、散々ときめかせて……
後戻りできないくらい夢中にさせた上で、最後におねだりさせるつもりだったのだ。
私が望むものが何なのか。
この人はもう……とっくに知っているから。
あーあ。
結局、最初から彼の手のひらの上だったのか。
おねだりするための場を、綺麗にお膳立てされたというわけね。
……悔しい。
この、何もかもを見透かすような瞳が、憎らしい。
でも……
きっと、今日を逃したら、彼はもうしてくれない。
あのお店の中で、"客"と"ホステス"という立場のままでいたら、永久に何も変われない。
なんだか、そんな気がして。
……だから。
私は、精一杯の勇気を振り絞る。
「……さい」
「ん?」
声が、掠れる。
「私に……ください」
「……なにを?」
こくっと、喉が鳴る。
彼を見上げる瞳が潤む。
心臓が、壊れそうなくいらいに脈を打っている。
……いいの?
本当に、言ってしまっていいの?
そう胸の内で問いかけるが、それが誰に対する問いなのか、自分でもわからない。
そんなことばっかりだ。
彼に出会ってから、自分で自分がわからなくなった。
気付けばクロさんのことを考えていて。
どんなに意地悪されても、会いたくて。
自分の心が、身体が……全部、自分のものではなくなった。
嗚呼、私──
「……欲しいです。
クロさんの…………キスが。
お願い。もう、寸止めなんかしないで……
私に…………キスしてください」
──恋をしている。
……なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろう。
また、からかわれるかもしれない。
意地悪を言われるかもしれない。
でももう、そんなことはどうでもいい。
恥ずかしくてもいい。みっともなくてもいい。
欲しいから。
ずっとお預けされていた、あなたのキスが……欲しくて欲しくて、たまらないから。
……ねぇ、クロさん。
昨日、言っていましたよね。
上手におねだりできたら、してあげないこともない、って。
私……上手におねだり、できましたか?
……私の言葉に。
クロさんは、目を細め、
「──喜んで」
くすり。
と、いつもの笑み。
そして、夜空より暗い色をした瞳が、ゆっくりと閉じられる。
彼の肩越しに、白く輝く満月が見えた。
あ、きれい。
なんて、他人事のように思ってから……
それを最後に映し、彼を真似るようにして。
私も静かに…………瞼を閉じた。
──最初はただ、触れるだけだった。
しかし、次に触れられた時……
確かに彼の、たばこの味がした。
ほろ苦くて、大人な、切ない味。
ゆっくりと、むさぼるように。
離れてはまた塞がれ、その繰り返し。
酸欠で、脳が揺れる。
まるで、甘すぎる海で溺れているみたいだ。
ファーストキスがこんなに激しくて、いいのかな?
でも、これが……
私が、ずっと欲しかったもの──
どれくらいの時間が経っただろう。
「……っは……っ」
長すぎた口付けに、唇が離れた途端、眩暈を覚えた。
腰に……足に、力が入らない。
よろけそうな私を、クロさんは何も言わずに、ぎゅっと抱き締めて……
私も何も言えないまま、ただそれにすがった。
「……足りなければ、おかわりもできるけど」
息も絶え絶えな私の耳元で、彼が囁く。
その声が、微かに笑っている。
「いえ……も……おなかいっぱいれす……」
「ふふ。それはよかった」
彼が笑う振動が、抱かれた腕から、重なる胸から直に伝わってくる。
──本当に、夢みたい。
彼とキスをして、抱き締められている。
こんな幸せなこと……あっていいのかな?
「……クロ、さん」
私は、乱れた呼吸の合間に、
「クロさん……わたし……」
譫言のように、彼を呼ぶ。
そして……
「…………好き……」
小さく。
しかし、はっきりと。
「私……クロさんのことが…………好きです」
そう、伝えた。
もう、胸の中に留めておけなかった。
幸せで、愛おしくて……
頭の中が、クロさんへの『好き』で埋め尽くされている。
好き。好き。大好き。
その気持ちが溢れて、喉をついて出てしまった。
だから、深く考えていなかった。
これは、独り言ではなくて……
返事をする相手が目の前にいる、告白なのだと。
その事が急に怖くなって、胸がきゅっと苦しくなる。
ねぇ、クロさんは……
私の気持ちに、なんて答えるの……?
───それは。
「……そう」
呟かれた、彼の声は。
「じゃあ───僕の勝ちだね」
怖いくらいに、冷静なもので……
身体から私を引き離し、彼は続ける。
「僕に染まった君の負け。そういうゲームだったよね」
そう言って、笑う。
にこりと、笑う。
しかし、笑っていない。
真っ黒な瞳が……笑っていない。
「よかった。最後の最後で勝てて。これでやっと終えられる」
最後?
終えられる?
「あれ、忘れちゃったの? 『どちらがお互いを望む色に染められるか』。最初から期間限定のゲームだったじゃない。指名料を先払いしたあの日からちょうど二ヶ月。今日でこのお遊びも、おしまいだね」
淡々と言いながら、彼は先ほど取り払った眼鏡を拾い、かけ直す。
頭の中が、真っ白になる。
彼の言っていることが理解できない。
理解したくても、脳が拒絶する。
ゲーム? お遊び? おしまい?
あなたにとって、最初からこれは……
本当に、ただの勝負事だったの……?
「……おしまい、なの?」
「うん?」
掠れる声で尋ねる私に、クロさんが聞き返す。
「もう、この関係は……おしまいなんですか?」
「そうだよ」
ぱっ、と顔を上げる。
彼が、あまりにも簡単に答えるから、どんな顔をしているのか見ようと思ったのだ。
しかし……すぐに、見たことを後悔した。
……なんで。
なんでそんな、涼しげな顔でいられるんですか?
本当に……本気だったのは、私だけだったんだ。
すべて、遊び……だったんだ。
「…………ッ」
堪え切れず、私は。
彼に背を向け、駆け出した。
涙が、次から次へと溢れ出す。
嗚呼、馬鹿だ。
私は、馬鹿だ。
振り返らなかった。けど、本当は……
引き止めてくれるのではと、少しだけ期待した。
「嘘だよ」って、いつものあの、意地悪な笑顔を見せてくれるんじゃないかって。
ほんの少しだけ、そう期待したのに……
彼が私を追ってくることは、なかった。
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