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第五章 続・否定形の呪い
未来の話
しおりを挟む──頭上を覆う木々の隙間から、柔らかな陽が射す。
聞こえるのは小鳥の囀りと、四人の足音だけ。
静かで、俗世から切り離されたような、神聖な雰囲気の山だった。
「登山客があまりいなくてよかったな」
「うん。これなら人目を気にせず『儀式』に臨めそうだ……ね」
……と、未空がゆっくり後ろを振り返ると、
「そ、そうだね……ゼェ、ハァ」
「………………」
息も絶え絶えな翠と、ガチガチに緊張した雷華が、額に影を落としながら歩いていた。
気持ちが逸っているせいか、歩調が速くなっていたかもしれないと、海斗は反省する。
元引きこもりな翠の体力と、雷華の心の準備を考慮したペースで進むべきだった。
「すまん、速かったな。道も悪くなってきたし、休みながら進もう」
「私もごめん。一度、水分補給しよっか」
海斗と未空は足を止め、二人に水を飲むよう促す。
途中まで石畳みが続いていた登山道は、中腹を過ぎた頃から木の根が張り巡る土の道に変わっていた。翠でなくとも、気を付けなければ躓きそうである。怪我をしないためにも、焦らず進むのが賢明だ。
「もう三分の二は登ったね。あと少しだよ。翠ちゃん、大丈夫そう?」
「うん、がんばる。雷華ちゃんは? さっきから静かだけど、やっぱり緊張してるの?」
水を飲んでから、翠が心配げに尋ねる。
雷華は、小さく頷いて、
「う、うん……なんか、いろいろ思い出しちゃって」
その声は、弱々しく震えていた。
当然だ。呪いという思い込みにかかるくらい、この場所には強いトラウマがあるのだから。
ならばと、海斗は雷華に向け、こう切り出す。
「……なぁ。鮫島は、呪いが解けたらしたいこととか、あるのか?」
それは、過去ではなく、これからの未来に意識を向けるための問いだった。
そのことに気付いた未空は、雷華が否定で返す前にフォローを入れる。
「私も気になる。男子を否定しなくなったらどうなりたいとか、あるの?」
こうすることで、これは未空からの質問になった。雷華は否定で返す必要がなくなる。
雷華は、数秒考え込んでから……神妙な顔で、こう答えた。
「……プリントを、普通に受け取りたい」
「プリント?」
「そう。授業中に回ってくるプリント。前の席の男子が気を利かせて『どうぞ』って言いながら渡してくると、『いらない!』って否定しちゃって、もらえないことがあるから……普通に『ありがとう』って受け取りたい」
「そ、そっか……」
「あと、レストランで『食後のコーヒーにお砂糖とミルクは付けますか?』って聞かれた時、男の店員さんだと『いりません!』って断っちゃうから、普通にもらいたい……あたしブラックコーヒー苦手なのに、いつも断るせいで、親からはブラック派だと思われてる……」
「それは……大変だったね」
「親といえば、お父さんにも優しくしてあげたい。呪いにかかってから急に全否定するようになって、お父さんめちゃくちゃ凹んでるから……いちおう反抗期ってことになってるけど、本当はお父さんのこと好きだし、親孝行してあげたい」
「うぅ……ごめん、雷華のお父さん……」
聞けば聞く程、呪いをかけてしまった罪悪感に押し潰されそうになる未空。その反応を同情と受け取ったのか、雷華は困ったように笑う。
「ほんと、あらためて話すとひどいよね。周りに迷惑かけてばっかり。あたしがもっと上手に呪いと付き合うことができていれば、人に嫌な思いをさせることも少なかったのかも」
「雷華ちゃん……」
「でも、その呪いが、今日解けるんだもんね。そしたら……特別やりたいことはないけど、とにかく普通の生活が送りたいかな。みんなを不快にさせない、普通の人間になりたい」
そう、はにかみながら言う。
呪われた自分を全否定するかのようなその言葉に、海斗は昨日、未空に突き付けられた問いを、思い出す。
『温森くんは、どうしたいの?』
彼女の呪いを解きたいという気持ちに嘘はない。
彼女に友だちや恋人ができるなら、それは喜ばしいことだと心から思う。
だけど……
彼女に一つだけ、伝えたいことがあるとすれば…………
「…………」
口を閉ざし、俯く海斗を不審に思ったのか、雷華はその顔を覗き込み、
「ちょっと。あんたが聞いたから答えたのよ? 黙ってないで、何とか言いなさいよ」
と、口を尖らせて抗議する。
至近距離で見つめられ、海斗は叱られていることも忘れ、ドキッとする。
心を許した相手には、物理的な距離も近くなる。雷華の無意識な癖だった。
いつからか、海斗はこの距離感に鼓動が逸るようになっていた。
しかし、呪いが解けたあかつきにはきっと、この可愛らしい顔を無防備に近付ける相手が増えるのだろう。
そう考えると、やはり胸の奥が騒つくが……
それを振り払うように、海斗は首を振る。
「……いや、鮫島が誰にも迷惑をかけない『普通の人間』になったら、それはそれで寂しいかもな、なんて考えていただけだ」
「はぁ? そんなわけないでしょ? っていうかそれ、どーいうイミよ!」
「鮫島は空回って周りに迷惑をかけるくらいがちょうど良い、という意味だ」
「良くなーいっ! これ以上迷惑かけるくらいならもう一生黙っているわよ!」
「できるのか? そんなこと」
「…………できないけど」
「あはは。だよな」
「笑うなぁっ!」
といういつものやり取りを、未空と翠はしみじみと眺め、
「私的には、この掛け合いが見られなくなる方が寂しいかな」
「わかる」
「なんでよ!」
顔を赤くし、雷華がツッコむのを見て……未空は安心したように微笑む。
「緊張、解けたみたいだね」
「……まぁ、少しは」
「翠ちゃんも、ちょっとは休憩できた?」
「うん。雷華ちゃんをからかったら元気出た。今なら富士山も制覇できそう」
「だからなんでよ?!」
叫ぶ雷華をからかうような目で見つつ、翠はリュックを背負い直す。
「よし。ここからは休みなしで登る。みんな、わたしについて来て。いざ、山頂へ」
そう言うと、翠は本当に体力が回復したかのような足取りで歩き始める……が。
三歩進んだところで、つんっと木の根に躓き、
「──ばべっ」
びたーんっと、顔面から、豪快に倒れ込んだ。
「や、八千草……大丈夫か?」
海斗が恐る恐る尋ねると……
翠は倒れたまま、顔だけをこちらに向けて、
「…………わたしの屍を超えてゆけ」
「死ぬなぁあああっ!」
などとツッコみながら駆け寄り、三人は翠の様子を伺う。
「怪我は? 私、絆創膏持ってるよ」
「擦り剥いてはいない。けど……」
立ち上がろうとして、翠は痛そうに顔を歪める。
「……足首を、捻ったみたい」
「歩くと痛みそうか?」
「……少し」
「もう、調子に乗るからよ」
「返す言葉もない。穴があったら土葬して」
「何を言っているんだ。八千草が帰るのは藍山市だろう? 土に還ろうとするな」
そう返しながら、海斗はこの後の行動について考える。
山頂に近付くにつれ、傾斜はますます急になりつつある。このような道を足を痛めた翠に歩かせるのは酷だ。
しかし、山頂まではあと少し。ここで諦めるのは、翠としても不本意だろう。
得策とは言えないが、少しずつ休みながら進むしかないか……
と、海斗が考えを巡らせていると、
「……わたし、ここで待ってる」
翠が、そう言った。
それに、雷華は異を唱える。
「こんなところに一人でいたら危ないわよ。ほら、『ヘビやハチに注意』って、さっき看板があったでしょ? 怪我してたら逃げられないし、間違って斜面から落ちたりしたらどうするの?」
「大丈夫。存在感を消すのは得意。ヘビやハチに見つからないよう、動かずじっと待ってる。ここまで来たのに……足手纏いにはなりたくない」
「でも……」
「なら、私が付き添うよ」
雷華の言葉を遮るように、未空が言う。
そして、翠の側にしゃがみ込むと、
「私が翠ちゃんと一緒にいる。神社へは、雷華と温森くんの二人で行ってきて」
そう言って、二人を見上げた。
雷華は不安げな顔をするが、海斗は納得していた。負傷した翠の安全を確保しつつ、『儀式』という目的を達成するには、この人員配置がベストだった。
「……わかった。俺と鮫島で行ってくる」
「うん、お願いね。……雷華」
未空は、雷華の瞳を見つめ、
「……大丈夫。呪いは、絶対に解けるよ。頑張ってね」
そう、真っ直ぐに伝えた。
そして翠も、
「一緒に行けなくてごめん。雷華ちゃんの呪いが解けるって信じてる。いってらっしゃい」
言葉に力を込めて言った。
雷華は二人を見つめ返すと……気持ちを受け取るように頷いて、
「……ありがとう。呪いを解いて、すぐに戻って来るからね」
未空と翠に背を向け、海斗と共に歩き出した。
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