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Case:岡本 1

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 水族館に行くのは何年振りだろう。リニューアルオープンしたところ、新しく出来たところ、色々ニュースで聞くには水族館も随分進化しているそうだ。

 ペンギンが空を飛ぶ様に見えるとか、ライトアップや展示の仕方で美しい芸術作品な水槽とか。いつかは見たいと思っていたけれども、何せ機会がなく足を運んだ事はなかった。

 岡本が連れてきてくれた水族館は『名前のない』水族館だった。水族館だけではない、この場所自体に『名前がない』のだ。この場所には水族館以外も楽しめる飲食店、ショーを楽しめる劇場、美術館、そして小さいけれど映画館までもが存在していた。

 今、私は水族館の大きな水槽の前にいる。『名前のない』水族館のメインである大水槽だ。様々な魚が群れをなして泳ぐ姿は、時を忘れてずっと見ていられる。私が子供の様にガラスにはりつく勢いでじっと見つめていると、隣で岡本が微笑みながら私の手を握った。それから、ゆっくりと顔が近づいて唇を小さく噛んだ。まるで自分の事をほったらかしにしないでと言わんばかりの悪戯に、少しだけ笑ってしまった。小さく抗議しようと開いた口に、岡本は舌を差し入れゆっくりとキスをしてきた。キスは情熱的なキスで油断すると吐息が漏れそうだ。

 ここは誰も私達の事なんて気にしない。

 そう教えて貰ったら、人前でのキスも年だからとか恥ずかしいからとかそんな煩わしい事は、今日一日考える事を止めようと思った。



 ◇◆◇

 高級ホテルのエレベーターに乗り、地下へと案内人に岡本が指示を出す。スムーズなエレベーターは音もなく時間だけが過ぎる。何処まで下がるのだろうと思ったら、この場所に到着した。岡本が案内人に差し出した黒いカードを、エレベーターのキーとして差し込まないと行く事が出来ない場所だ。

 途中で何処に連れて行かれるのか? 大丈夫なのかしら……と不安になった。岡本が私の気持ちを察したらしく優しく微笑んで、手を取ってくれた。

 降り立った場所はとても地下だとは思えない。まさに、アメリカにあるカジノか、豪華客船の中にあるショッピング街にも似た雰囲気のフロアだった。

 通路を恐る恐る歩くと、まるで知らない国の街に来たのかと錯覚する。左右にそれぞれカフェが出ていて高い天井には天候が変わっていく映像が流れている。これがまた最新技術らしくとてもリアルだった。

「ここはね、会員制の遊び場なんですよ」
 岡本が小さな声で私に囁く。とあるホテル王が作ったちょっとした遊び場らしい。

「……ちょっとした」
 岡本の言葉を反芻してみるが、逆立ちしたってそんな可愛い規模のものではないと思う。

 会員は主に、国内外のセレブ、有名芸能人、政治家。そう言った人達が会員に多く、遊ぶ場所なのだとか。確かに、これだけの遊び場なのに周りの人達は年齢も人種も様々だ。ドレスを着た人もいれば、Tシャツに短パンとまるで海のリゾート地にいるかの服装の人もいる。

 とあるホテル王……考える事のスケールが違うわ。一般人の私には思いつかない発想だ。

「ドレスコードがなくてよかった」
 エレベーターを降り少し歩きながら辺りを観察してようやく私は声を出した。もう何を気にしても無駄なのねと諦めつつ、苦笑いをしながら岡本を見上げる。
 
 岡本から服装に特に指定がなかったので、年相応のデート服をチョイスした(つもりだ)。オフホワイトのニットワンピースは腰の辺りまでピッタリとしているが、腰から足首にかけて脇にスリットが入っている。その部分は切り替えのプリーツになっていた。

 大人っぽく(中身は十分大人だけど)チェスターコートにしようと思ったけど、普段から使用してるからそれでは変化がない。だからスパイシーなブラックのレザージャケットをチョイスした。オフタートルの首元を出来るだけスッキリ見せる為、髪の毛をアップでまとめてみた。編み込みを施したのでセットには時間がかかったけど、好きな人の為にお洒落をするのはやっぱり楽しい!

 ──と、思っていたのに。とんでもない場所に来てしまったので、内心小さなパニックになってしまう。

 岡本はいつもの黒縁眼鏡とは違う、細いフレームの眼鏡をかけていた。眼鏡を変えるだけでも雰囲気って変わるのね。更に、いつもなら垂らしたままの長い前髪を手ぐしでかき上げただけのオールバックで整えていた。比較的若く見える岡本だけど、今日は少しだけ大人の雰囲気に磨きがかかって見えた。

「ここはね自由な場所ですから。服装なんて清潔であれば気にしなくていいんですよ。この場所に集まる人達は普段の生活では出来ない自由を求めているんです。だから他人の事には口を出さないのがルールなんですよ」
 そう言って岡本は私の右手を握りしめた。優しく包む大きな手は少しだけ冷たくて気持ちよかった。

 私は手を握っている岡本の腕にそっと反対の手を添えると彼にだけ聞こえる声で呟いた。
「岡本って、そんな凄い場所の会員だったのね……」
 ハイグレードのマンションで一人暮らしというだけでも、同じ会社に勤めている人物とは思えないのに。もしかしたら私は岡本とは恋人どころか知り合いになりえるはずがない、遠い人なのかもしれない。

 そんな私の落ち込みを察したのか、岡本が繋いだ手にぎゅっと力を込めた。それから自分の唇の前で人差し指を立てる。
「この場所を作ったホテル王ですけど、実は学生の頃に一緒に会社を興した奴の一人なんですよ」
「学生の頃のって! それじゃぁ友達って事?」
「そうです。今は世界に名だたるホテル王ですけど、昔からの友達って事で特別に会員にしてくれただけなんですよ」
「そうだったのね」
 私は身体の力が少しだけ抜けた。その様子が直ぐに岡本に伝わり小さく笑われた。
「そうじゃなければ一般人の僕がこんな大それた場所の正規会員なんてありえないですよ。今日は二人きりのデートですから。思いっきり楽しみたくてこの場所を選んだんです。一応ほら、付き合っている事は社内の人達に秘密ですからね」
 そう言って岡本は改めて辺りを見回して瞳を細めた。
「ホテル王の彼は、将来的にこの場所を、カジノに出来ないかと模索中らしくて。あ、カジノは今の日本では御法度ですから。今は遊ぶ場所はないですけれどもね。将来的な話ですから、これは内緒ですよ?」
 そうなんだ。内緒って……もちろん誰にも言わないわよ。それにしても、ホテル王と一緒に会社を興す事自体凄いとは思う。そういった繋がりからの会員なら理解出来る。私は小さく溜め息をついた。
「そっか……それならよかったわ」
 思わず安堵を言葉にしたせいで、岡本が首を傾げた。
「よかったって?」
「岡本がこんな凄い場所の会員って聞いて、急に遠い人になった感じがしてね。寂しいって思っちゃって……でも理由が分かって安心したの」
 すると岡本の歩みがピタリと止まった。私も岡本に合わせて止まるしかない。

 何故止まるのかと私が岡本を見上げる。すると岡本は、口の端をぷるぷると震わせて何故か笑うのを堪えていた。それから片方の手で口元を覆うとブツブツ呟き始めた。
「どれだけ可愛い事を言うんです? って僕を殺そうとしてます? だって……今の話の流れで『よかった』って聞いたら、『ホテル王と友達でよかった』って言ったのかと。それがまさかの僕の事だったなんて! くっ! どうして通路でこんな話をしてしまったんだ、押し倒したくても出来ない。資料室の事もあったし、僕は特殊な性癖に進もうとしているのかと思ったけど、問題ないな。うん。正常な反応を僕はしている! いやいやいや違う違う違う。そうじゃないだろ~ああ僕、今日は最後まで持つのかな。だって今日の倉田さんの服装とかどうなってるんですか? もう目が潰れるかと思ったぐらいの衝撃なのに」
 恐ろしく早口で呪文を唱えている岡本。

 ……多分全部日本語だった思う。それなのに半分以上聞き取れなかった。もしかしたら英語かな? ただ後半の『倉田さんの服装とかどうなって』はと言っている部分だけ聞き取れた。自分の服装が気になっていたからかもしれないけれども。

 この服装はNGなのだろうか。私は不安になり岡本に尋ねる。

「やっぱりニットワンピースは似合わなかったかな? 結構太って見えるし……ああそれよりもNGなのはエナメルパンプスかな?」
 レザージャケットと合わせて辛めに仕上げたつもりだったけど。
「え?」
 すると岡本は私の声に瞬時に反応して目を丸くした。それから、私の服装を上から下までじっと見て頬を染めた。それから慌てて視線を逸らす。

「ち、違います。似合いすぎていて、こんなに可愛い倉田さんと一緒に過ごせると思ったら、夢みたいで」
 岡本が流し目で視線をくれる。白い頬に赤みが差していて、酷く照れている様子から言葉に嘘がない事が分かる。

 だけど褒め過ぎかも。「似合いすぎて」と「可愛い」の言葉を一緒にくれるだけでも嬉しいのに。更に「一緒に過ごせて夢見たい」ってそこまで言って貰えるって……そんなに言ってくれる男性はそういない。

 そんな岡本は素材のよい長袖のシャツにダークグレーのショールカラーカーディガンを合わせていた。白い細身にパンツに足元は黒色レザーのレースアップシューズ。無難なセットアップを選ばず、少しラフにまとめている。そんな雰囲気が素の岡本を見せてくれているみたいでとても嬉しい。

「あ、ありがとう……わ、私も……岡本と一緒に過ごせて嬉しいわ」
 言いながら私も頭から湯気が出そうな程照れてしまった。

 て、照れるわ。いつも素敵だって言ってるし思わず見とれてしまう事もあるけれど、ピュアな気持ちを伝えると慣れていないのもあって恥ずかしい。私はそんな気持ちをごまかす為に、岡本の手に指を深く絡めた。

 自分以上に照れている相手を見ると何となく冷静になるのは岡本も同じらしい。照れていた岡本は更に私がその上を行くほど照れたので、ちょっとだけ落ち着いたらしい。

「倉田さん……えっと、その、今日は一日ずっと名前で……涼音って呼んでもいいですか?」
 岡本が瞳を細くして優しく微笑む。名前で呼ばれると思わず胸の辺りがキュッと音を立てる気持ちになる。
「は、は、は、はい」
 焦ってどもり過ぎでしょ私。

 そんなカチコチの私の言葉を聞くと岡本は突然高い身長をかがめて頬にかすめる様なキスをした。

「な、な、な」
 何て事を、外なのに! 私は慌てて岡本を見上げて、辺りをキョロキョロと見回す。だけど、ここは『名前のない』場所だ。道の真ん中で堂々とキスをするという行動とっても、誰も見向きもしなかった。

「僕の事は聡司って呼んでくださいね。それじゃぁ涼音。あっちに水族館があるんですよ。行ってみましょう」
 岡本は私の手を引いて歩き始めた。
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