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第三章
十一
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恐ろしい響きをあげる渦潮を割って亜米利加の船が海を渡る。
八十八は二人分の運賃を払って、やなとともに亜米利加船に乗り込んでいた。
二人は宮古湾で艀に乗って上陸した。
「ここが江戸……」
盛岡藩の鍬ケ崎は箱館のような港町ではない。やなは寂れた風景を見て不安げに呟いた。
「いや、鍬ケ崎だ。ここから青森に行く」
「え」
「少し寄るだけだ。いいからついて来い」
八十八はやなの細い腕を強く引っ張る。
「う、うん……」
やなは明らかに戸惑いの表情を浮かべていた。
この頃の青森には薩摩、長州をはじめとした諸藩兵が集結しており、遊女屋や料理屋には昼夜、新政府軍の藩兵たちが出入りしておりたいへんな賑わいを見せていた。宿屋だけでは足りず、夫婦暮らしの家まで藩兵の宿とされていた。
青森の民にとってはまさに「時世ノ変事」であった。
藩兵があふれる市中を八十八はやなの腕をひいて足早に歩く。
さまざまな訛りの話し声が八十八の頭の中で割れ鐘のように響く。
時おり目の前がぐらりと揺れる。その度に立ち止まって倒れぬように耐えていた。
体に変調が次第に強くなっていく。これから己がやろうとしていることへの迷いか。それとも屍徒になりかかっているのか。
「山野さんどこにいくの」
やなの問いに応えるのもひどく億劫だ。
一軒の見世の前に年増の女が立っていた。八十八は近づいて行く。
「あんたが山野さん。噂どおりのいい男だねえ」
女は八十八を下から上へしげしげと眺めた。
「約束していた女だ。いくらでもいい、買ってくれ」
遊女屋であった。建物全体が格子になっている格式の高い大見世。
年増女は遊女を取り仕切る遣り手婆であった。
遣り手婆はやなを品定めするように眺める。
「いい娘じゃないか。こんな娘を売るなんてあんたもひどい男だねえ」
「ここに新政府軍の偉い奴らが来るってのは本当だな」
八十八は息を荒く吐く。
「ああ、そうだよ」
肩で息をするようになってきた。目の前が暗くなる。
やなが袖を引いたので正気に戻れた。
「山野さん、いやだ。わたし遊女に戻りたくない」
「いいか、よく聞け。おまえはこの見世で客をとるんだ。……新政府軍の偉い奴だ」
目の前が暗くなってきた。天地がひっくり返りそうになる。
必死でやなの肩にしがみつく。
「誰でもいい。偉い奴だ。そいつにおれを新政府軍の軍艦に乗せるように頼むんだ」
「そんなの無理――」
「無理じゃねえ! やれ!」
八十八は手をあげた。
やなが顔を背ける。
「あんた! やめなよ」
遣り手婆が声をあげる。
八十八は手を降ろした。やなのひどく怯えた顔。
視界を黒い砂が広がっていく。見えている部分の方がわずかになってきた。
――もうだめか。おれは屍士になってしまうのか。
八十八は膝をついた。体に力が入らない。
「山野さん、大丈夫」
やながしゃがんで八十八の顔をのぞいている。ひんやりした小さな手が額に触れる。
「すごい熱」
「やな、頼んだぜ……」
やなは荷物の中から針を取り出して自分の人差し指をぷつりと指す。
指先に血の紅い玉がふくれあがる。
「かあさんが言ってた。わたしの血はどんな病も治すって」
差し出された指先の小さな紅い玉を八十八は見つめた。
――きれいだ。
八十八はやなの指先をゆっくりと口に含んだ。
やなを遣り手婆にあずけて、八十八は青森をさまよった。
目はほぼ見えなくなり、耳も聞こえなくなった。
建物にぶつかった。入口に戸がない。ここはどこかの納屋か。馬小屋か。
八十八は倒れた。柔らかい藁につつまれる感触。
「やな、ごめん」
同じ言葉を何度も繰り返しながら八十八は泣いた。そして、そのまま意識を失った。
それから十日近くが過ぎた頃――。
八十八は青森の廓の料理茶屋で茶漬けを頬張っていた。
やなと別れて農家の馬小屋で意識を失っていた。翌朝目を覚ますと、嘘のように体が楽になっていた。
――おれは屍徒にはならなかったということか。
今も体に異変は起きていない。
まさかやなの血を飲んだからなのか、という疑問が頭の中を巡っている。
「山野八十八さんはいるかい」
陽気な声に振り返ると、両手でよけた暖簾の間から声に相応しい笑顔の男が店を見渡していた。
「おれだ」
八十八は箸を持ったままの右手をあげた。
愛嬌のある目を大きく見開いて男が近づいてきた。
「やなさんから言伝をあずかってきた」
男は料理をはさんで八十八の隣に座った。
やなは新政府軍の者と話をつけてくれたのか。ということは、この男は新政府の者か。
――罠かもしれない。
八十八は刀の位置と、右足に拳銃が収まっていることを確認した。
「噂通りの美男だねえ」
「あんた、名は」
「おう、申し遅れた。高松太郎という者や」
高松太郎は白い歯を見せて笑った。
八十八は二人分の運賃を払って、やなとともに亜米利加船に乗り込んでいた。
二人は宮古湾で艀に乗って上陸した。
「ここが江戸……」
盛岡藩の鍬ケ崎は箱館のような港町ではない。やなは寂れた風景を見て不安げに呟いた。
「いや、鍬ケ崎だ。ここから青森に行く」
「え」
「少し寄るだけだ。いいからついて来い」
八十八はやなの細い腕を強く引っ張る。
「う、うん……」
やなは明らかに戸惑いの表情を浮かべていた。
この頃の青森には薩摩、長州をはじめとした諸藩兵が集結しており、遊女屋や料理屋には昼夜、新政府軍の藩兵たちが出入りしておりたいへんな賑わいを見せていた。宿屋だけでは足りず、夫婦暮らしの家まで藩兵の宿とされていた。
青森の民にとってはまさに「時世ノ変事」であった。
藩兵があふれる市中を八十八はやなの腕をひいて足早に歩く。
さまざまな訛りの話し声が八十八の頭の中で割れ鐘のように響く。
時おり目の前がぐらりと揺れる。その度に立ち止まって倒れぬように耐えていた。
体に変調が次第に強くなっていく。これから己がやろうとしていることへの迷いか。それとも屍徒になりかかっているのか。
「山野さんどこにいくの」
やなの問いに応えるのもひどく億劫だ。
一軒の見世の前に年増の女が立っていた。八十八は近づいて行く。
「あんたが山野さん。噂どおりのいい男だねえ」
女は八十八を下から上へしげしげと眺めた。
「約束していた女だ。いくらでもいい、買ってくれ」
遊女屋であった。建物全体が格子になっている格式の高い大見世。
年増女は遊女を取り仕切る遣り手婆であった。
遣り手婆はやなを品定めするように眺める。
「いい娘じゃないか。こんな娘を売るなんてあんたもひどい男だねえ」
「ここに新政府軍の偉い奴らが来るってのは本当だな」
八十八は息を荒く吐く。
「ああ、そうだよ」
肩で息をするようになってきた。目の前が暗くなる。
やなが袖を引いたので正気に戻れた。
「山野さん、いやだ。わたし遊女に戻りたくない」
「いいか、よく聞け。おまえはこの見世で客をとるんだ。……新政府軍の偉い奴だ」
目の前が暗くなってきた。天地がひっくり返りそうになる。
必死でやなの肩にしがみつく。
「誰でもいい。偉い奴だ。そいつにおれを新政府軍の軍艦に乗せるように頼むんだ」
「そんなの無理――」
「無理じゃねえ! やれ!」
八十八は手をあげた。
やなが顔を背ける。
「あんた! やめなよ」
遣り手婆が声をあげる。
八十八は手を降ろした。やなのひどく怯えた顔。
視界を黒い砂が広がっていく。見えている部分の方がわずかになってきた。
――もうだめか。おれは屍士になってしまうのか。
八十八は膝をついた。体に力が入らない。
「山野さん、大丈夫」
やながしゃがんで八十八の顔をのぞいている。ひんやりした小さな手が額に触れる。
「すごい熱」
「やな、頼んだぜ……」
やなは荷物の中から針を取り出して自分の人差し指をぷつりと指す。
指先に血の紅い玉がふくれあがる。
「かあさんが言ってた。わたしの血はどんな病も治すって」
差し出された指先の小さな紅い玉を八十八は見つめた。
――きれいだ。
八十八はやなの指先をゆっくりと口に含んだ。
やなを遣り手婆にあずけて、八十八は青森をさまよった。
目はほぼ見えなくなり、耳も聞こえなくなった。
建物にぶつかった。入口に戸がない。ここはどこかの納屋か。馬小屋か。
八十八は倒れた。柔らかい藁につつまれる感触。
「やな、ごめん」
同じ言葉を何度も繰り返しながら八十八は泣いた。そして、そのまま意識を失った。
それから十日近くが過ぎた頃――。
八十八は青森の廓の料理茶屋で茶漬けを頬張っていた。
やなと別れて農家の馬小屋で意識を失っていた。翌朝目を覚ますと、嘘のように体が楽になっていた。
――おれは屍徒にはならなかったということか。
今も体に異変は起きていない。
まさかやなの血を飲んだからなのか、という疑問が頭の中を巡っている。
「山野八十八さんはいるかい」
陽気な声に振り返ると、両手でよけた暖簾の間から声に相応しい笑顔の男が店を見渡していた。
「おれだ」
八十八は箸を持ったままの右手をあげた。
愛嬌のある目を大きく見開いて男が近づいてきた。
「やなさんから言伝をあずかってきた」
男は料理をはさんで八十八の隣に座った。
やなは新政府軍の者と話をつけてくれたのか。ということは、この男は新政府の者か。
――罠かもしれない。
八十八は刀の位置と、右足に拳銃が収まっていることを確認した。
「噂通りの美男だねえ」
「あんた、名は」
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