北の屍王

伊賀谷

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第二章

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 薄暗く冷たい廊下。左右に襖が並んでいる。
 八十八はゆっくり床を踏んで前に進む。床板が軋んだ音を立てる。軽く舌打ちをした。
 一番手前の右側の襖に手をかける。同時に刀の鯉口を切っている。
 一気に襖を開けた。
 部屋からさらに冷えた空気が流れ出て来る。部屋の中には何もない。
 一息吐いてから、八十八は反対側の部屋に振り向いて襖に手をかけた。
 ――血の匂い。
 襖を開けた。
「うっ!」
 刀の柄に手をかけた格好で八十八は木像のように固まった。
 灰色の空間に大きな深紅のみ。部屋の中は血の海であった。
 赤い滲みの中に異形がうずくまっている。その下には女が横たわっていた。女の顔は部屋の奥を向いているので、八十八からは見えない。
 だが、女は異形に殺されていた。いや、喰われていた。八十八の勘が訴える。
 嫌な予感がする。なぜこんなにも不安に襲われるのか。呼吸が荒くなる。汗が滲んで刀の柄を握る手が滑る。
「おかしい」
 思わず声をあげてしまった。これ以上声が溢れないように手で口を押さえる。
 異形が八十八に顔を向ける。その顔は深淵のごとき闇であった。遠くの彼方に赤い光が二つ灯っている。
 ――屍徒。いや、屍士なのか。
 八十八は深い闇に飲まれそうになるのを堪えた。
 横たわる女の首がゆっくり動いた。
 氷のように透き通った肌。かたちのよい唇。青みがかった黒い瞳。
 八十八は全身の毛がそそけ立ち、顔がひきつって行くのを感じる。
 恐怖の感情が全身から噴き出した。
 女の顔はやなであった。
 八十八は声をあげて、布団を跳ね除けて起きた。全身に汗をかいている。呼吸も荒い。
 辺りを見渡す。
「あさひ屋」のやなの部屋だった。
「夢……か」 
 まだ意識が混濁している。夢と現実の境が分からない。
 頭を何度か振ってから髪をかきあげる。
「やな――」
 襖が開いた。八十八が呆けた顔を向けると、やなが立っていた。
「あら。山野さん起きたの」
 いつものやなの笑顔。
 八十八は手をのばす。やなが近づいてその手を握った。
 ――やなは生きている。
 悪い夢を見ていたのだ。八十八にようやく実感が湧いてきた。
「よかった」
 八十八はやなの腕を引いて、細い体を受け止めた。やなの体温、心臓の音、心地よい匂いを感じる。たしかに生きている。
「山野さんどうしたの」
「怖い夢を見たんだ」
「山野さんにも怖いものがあるのね」
 八十八はやなの体にゆっくり顔をこすりつけた。母親に甘えるわらべのように。己がやなにこのような姿を見せているのが信じられない。まだ意識が混濁しているのだろう。
 やなは何も言わずにされるがままにしてくれていた。
 今朝聞いた榎本総裁の話はまだ腑に落ちていない。八十八が信じて生きてきた世界が崩れつつある。
 死なざる者――屍士。
 その屍士を八十八が屠るのか。
 ――いや、おれは屍士が誰かを探索するだけだ。蝦夷まで来て化物に殺されるなんてまっぴらだ。
 八十八と屍士のいる世界は今や薄氷はくひょう一枚をへだてているにすぎない。
 ふいに夢で見たやなの死体を思い出した。
 心を落ち着かせようと必死に唾を飲み込んだが、ようやく飲み込んだものは焦りと不安だけだった。
 ――やなを死なせるわけにはいかない。
 八十八はやなを強く抱きしめた。己の手から逃がさないように。
「やな。おれは……」
 そのまま二人で布団に倒れ込んだ。
 腕の中にあるやなのぬくもりだけが八十八がこれまで生きてきた世界につなぎ止めるよすがであるかのように。
 八十八はやなの体を激しく求めた。

「山野さん。なんだか悲しそう」
「そんなことねえよ」
 二人は抱き合ったまま布団にくるまっている。
「うふふ」とやなは微笑んだ。
「どうした」
「わたし江戸にいきたいな」
「江戸か」
 八十八は組んだ手の上に頭を置いて仰向けになった。
「うん。蝦夷とちがって江戸は暖かいし、きれいなところなんでしょ」
「どこも同じようなもんだけどな」
「うふふ」と、またやなは笑った。
「山野さん連れて行ってよ」
「え」
「行こうよ。二人で江戸に。こんな町とはちがう場所に」
 八十八はやなの瞳を見つめた。やなの瞳から一筋の涙が落ちた。
「や、やな……」
 声が喉に詰まって思うように発することができない。
「山野さん。なんで泣いているの」
 八十八は自分が涙を流していることに気づいた。拭っても拭っても止まらなかった。そんな八十八をやなの柔らかい体が抱きしめてくれた。
「やな、身請けするにはいくら必要だ」

 昼餉ひるげを食べてから、屍士の探索を始めるために八十八は「あさひ屋」を出た。
 最初の殺しがあった「大須屋」に向かう。新雪を踏みしめる音だけが耳をわずかに震わせる。
「五十両か」
 やなを身請けするのに必要な銭。
 榎本は屍士を屠ったら百両をくれると言った。
「屍士を探索したら五十両をもらってやる。そしてやなと二人で蝦夷を去る。こんなところはまっぴらだ」
 八十八の心は決まった。
「大須屋」に、八十八が蝦夷島政府の者であり、七日前にあった殺しについて調べていると告げた。見世の男が殺しのあった部屋を見せてくれた。
 部屋は何事もなかったかのようにすっかりきれいになっていた。
「殺されたのは遊女だな」
「へい。ひどい有り様で部屋中血の海でした」
 見世の男は体を震わせる。
「遊女がとっていた客が下手人ではないんだな」
「へい。殺された時は客をとっていなかったので」
 客だけが下手人とは限らないが、見世の者や近所の住人たちはすでに蝦夷島政府の調べを受けているので下手人の可能性は低い。
 やはり殺しの日に見世に来た客、もしくは忍び込んだ者が怪しい。
「その日に来ていた客は分かるか」
「それが……」
 男の話によると、客の名前を書く台帳の漏れが頻繁にあるらしい。それに客が偽の名前を使っている場合もある。
 男の言い訳がましい説明を聞きながら八十八は軽く舌打ちした。
 ――今さら分かることはないか。
 八十八は見世を出ようと玄関に向かった。
「ちょっと」
 襖の隙間から女の声がした。
 八十八が立ち止まると襖が開いた。一人の遊女が立っていた。ぽっちゃりとして小柄だが、厚い唇をした顔には人懐っこい愛嬌があった。
「いい男だねえ」
「急いでいるんだ。今度遊びに来るよ」
「話が聞こえてたよ。あんた蝦夷島政府の人」
 遊女は首をかしげる。
「ああ。この前殺しがあったろ」
「怖かったわ」
 肩をすぼめる様子を見て、八十八はたずねた。
「殺しのあった日にあの部屋を見たのかい」
 殺しがあった部屋の方に首を振った。
「うん。少しだけね。怖いからすぐに通り過ぎちゃった」
「そうか」
 やはり得るものはなさそうだ。
「あ、でも」
「どうした」
「血の中に何か落ちていた気がするのよね」
「何かって」
「わかんない」
 八十八は先ほどの部屋に戻った。腕を組んだ姿でしばらく部屋の様子を見つめる。
 血はきれいに拭き取られている。
 その血の中になにかが落ちていた。
 八十八の頭の中に引っかかるものがあった。
「どうしました旦那」
 先ほど案内してくれた男が話しかけてきた。
「畳が新しいな」
 八十八は部屋に敷かれている青々とした畳をじっと見ていた。
「へい。血がこびりついたのと、ちょうど古くなっていたんで張り替えました」
「どこの畳屋に頼んだ」
「えっと、たしか……」
 八十八は教えてもらった畳屋へ急ぐために、雪が降り積もる大地を踏み出した。
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