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第一章
一
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終焉の地だと誰かが言っていた。
三月の蝦夷の地は灰色の氷に包まれた屍の世界であった。もとよりここは生者の住む場所ではないのかもしれない。
箱館の山之上町の遊女屋「あさひ屋」。沈香の匂いが残る部屋で山野八十八は温まってきた火鉢を抱くように座っていた。綿入を肩にかけただけで羽織っている。
八十八は新選組隊士。明治元年の鳥羽伏見の戦いに敗れ、榎本武揚らが率いる旧幕府軍と合流し、北の果てであるこの蝦夷地にあった。
近頃は「あさひ屋」に毎日入り浸り、家替わりとして使っている。
横では女が布団にくるまって寝息を立てていたが、動き出す気配があった。
「もう起きていたの」
「ああ」
八十八は白い息を吐く。
布団と人の肌が擦れ合う音。八十八の背中から女が腕を回して抱き着いてきた。固い乳房が押し付けられる感触。厚い布団を被ったままなのでずっしりとした重みが八十八の背にかかる。
「温かいね」
「重いよ、やな」
「わたしの名前は、ヤーナ」
「やあな」
「そう」
「露西亜の名前か」
「お父さんが露西亜人。会ったことはないけど」
やなの冷たい手が八十八の腕をそっと撫でる。
「白い腕。きれい」
「おまえの方が透き通ったきれいな肌をしているじゃねえか。氷のようだ」
やなは美しい女だった。灰色がかった黒い髪と碧い瞳は露西亜の血のせいだろう。日本人にはないような神々しさは、遊女というより聖女と言ってもよかった。
「ふふ」と微笑んで、八十八の少しくせのある髪をさわる。月代はなく、首のあたりまでの総髪であった。
「髪が伸びて邪魔だな」
八十八は上目づかいで顔にかかる前髪を眺めた。
「ちょっと待ってて」
やなが背中からどいて、そばにあった化粧箱をあさり始めた。
「あった」
八十八が振り向くと、やなの手には赤い組紐があった。
やなは八十八の前髪をかきあげて、頭の後ろで束ねて組紐で結んでくれた。
「これでいいでしょ」
「ん、ああ」
やながあらわになった八十八の顔をのぞき込んで楽しそうに笑っている。たしかにこれなら髪が邪魔にならずに楽でいい。
「きれいな顔。まるで女子のようね」
八十八は突然、やなの右腕をつかんで立ちあがった。肩から綿入が滑り落ちる。やなを睨みつけた。
やなは息を飲んで愕然としていた。
「女みたいな顔と言うんじゃねえ」
右腕一本で吊られている状態の一糸まとわぬ姿のやなは苦悶の表情を浮かべていた。つんと上を向いた形のよい乳房が目に入る。
「い、いたい」
八十八は強く握っていたやなの手首を放した。やなが布団の上に尻もちをつく。
やなは静かに肩を震わせてうつむいている。
「早く着物を着な。蝦夷の空気は冷たすぎるから体に毒だ」
八十八は綿入の着物と袴をつけて刀を腰に差し、襟巻を巻いた上からさらに女ものの着物を羽織った。
女ものの着物を羽織るのは京にいた頃からの八十八の習慣だ。そのくせ女みたいだと揶揄する者には容赦なく挑みかかる。喧嘩を売って出歩いているようなものだ。八十八のどこかに刹那的かつ破滅的な願望があるのは確かだ。
「おまえ、なんでこんな店にいるんだよ。おまえほどの別嬪なら異人揚屋でも働くことはできるだろ」
異人揚屋は異人相手の遊女屋。山之上町でもっとも煌びやかな朱塗りの三層造りの店であった。
「わたしは日本人じゃない。どこに行っても嫌われるから」
やなはうつむいたまま、ひどくゆっくりと着物を身に着けていた。
女子と言われた怒りが収まりきらないのと、憐みを感じてほしそうなやなの仕草に感じる苛立ちをなんとか堪えつつ、「ちっ」と舌打ちだけして八十八は部屋を出て行った。
八十八は「あさひ屋」を出て凍った大地を踏みしめた。冷たく研ぎ澄まされた空気が鼻孔を刺す。
山之上町は急勾配の坂の上に位置し、鉛色の海に面した箱館の町を見下ろすことができる。
斜め向かいの遊女屋「こまつ屋」の前に群がっている人々が目に入った。八十八はそちらに向かう。
目の前をよろめきながら歩いている老婆が横切った。厚司織を着ていることからアイヌの女だとわかる。
「ケウェがやって来るぞ」
うなされたように同じ言葉を繰り返している。
「ケウェ……」
八十八には言葉の意味が分からない。すぐに老婆のことは頭から消え去った。
「また殺されたってよ」
「下手人はまだ見世の中にいるってさ」
八十八はひそひそ話をする野次馬たちをかきわけて見世に入ろうとする。
「おい。なんだてめえは」
厳めしい顔をした客引きらしき男が入口の前で八十八をとめる。
「蝦夷島政府のもんだよ」
「ざんぎり坊主か」
嘲る男を八十八が睨みつける。男は後ずさった。
蝦夷島政府の将兵は八十八のように髪を伸ばしている者が多かったので、住民たちは「ざんぎり坊主」と呼んで揶揄していた。
それなりに平穏に生活していた蝦夷の町に突如現れて新政府に戦争を仕掛けて追い出した旧幕府軍が蝦夷島政府を名乗った。最初のうちはそれほど住民たちの生活に支障はなかった。だが次第に蝦夷島政府は資金が乏しくなり、独自の通貨を発行したり、諸々に税を掛けはじめた。そのために蝦夷島政府を快く思っていない者が多くなっていた。
八十八の前に丸太のように太い腕が差し出された。
「ごめんよ。こいつは喧嘩っ早くてね」
野太い声が八十八が睨みつけている客引きの男に謝る。
「島田さんかよ」
八十八が横を向くと身の丈が六尺(約一八〇センチメートル)はある力士のような大男が立っていた。
分厚い綿入を着こんだ姿は、人だかりの中でひと際高い小山のようにこんもりと盛り上がっていた。柔らかい笑顔を浮かべて無精ひげを手のひらで撫でている。
島田魁。
新選組がまだ前身の壬生浪士組を名乗っていた頃に、八十八とほぼ同時期に入隊した古参の隊士であった。年は四十なので新選組でも年長者の一人。今の肩書は箱館新選組頭取である。
「ごめんよう」
八十八と男の間に大きな体を割り込ませてきた。
「おい、島田さんよう」
「いいから、いいから」
喧嘩を中断されたことに不平を漏らす八十八を、島田は「こまつ屋」の入口の方に連れて行く。
「おまえさんが出張ってくるってことは土方さんの密命の事件かい」
「その確認だよ」
土方歳三は京での新選組の副長。今では蝦夷島政府の陸軍奉行並という要職に就いている。八十八は土方付属という立場であり、土方の命で独自に動いていた。
「じゃあ、市中見廻りの連中は呼ばなくてもいいな」
「そうしてくれ。邪魔なだけだ」
蝦夷に来た新選組の残党のほとんどは亀田村の称名寺に屯所を開いて、箱館の市中見廻りをしていた。
「言ってくれるね。それにしてもなんだあ、その丁髷は」
島田がやなに束ねてもらった八十八の髪と組紐を指さす。
「うるせえな。行くぜ」
八十八が「こまつ屋」に一歩足を踏み入れた。京洛を駆け抜けていた頃からの馴染みの匂い――血だ。
「気をつけろよ、島田さん」
八十八が振り向くと、島田は先ほどの場所から動かずに微笑みながらこちらを眺めている。
「入らないのかよ」
「狭いところは苦手でね。外で見張ってるぜ」
島田が白い息を吐きながら笑顔で手を振った。
「薄情な野郎だぜ」
八十八は神経を研ぎ澄ませて見世の中に入って行った。
「蝦夷島政府の新選組だ。御用改めだ」
正確には八十八は箱館新選組に所属してはいないが、こういう時は新選組の名前を出した方が都合が良い。
履物を脱がずに上がり框を上がり、薄暗く冷たい廊下を進んだ。
男と女が倒れていた。
男の方は顔の右半分がなくなっていた。爆ぜた柘榴のように赤い肉がむき出しになっている。
――削りとられたか、噛みちぎられたか。熊か。
八十八は眉をひそめて女の方に目を向けた。首があらぬ方向に曲がっており、左腕の肘から先がなくなっている。
――これも強い力で引きちぎられたようだ。
男と女は明らかに死んでいる。
八十八は血を踏まぬように奥へと進みながら、腰の刀の鯉口を切った。
廊下の突き当りにも男が一人壁にもたれかかって倒れている。
八十八は静かに近寄った。
――こいつも死んでいるのか。
男の血走った目だけが動いて八十八を見た。
「おい、生きているのか。誰にやられた」
男はひどくゆっくりと幽鬼のように立ち上がった。両腕は肘の関節がないかのように不自然に揺れていた。
「おい――」
男が飛んだ。
同時に八十八の抜刀した刃が血臭で粘りつく冬の空気を斬り裂いた。
三月の蝦夷の地は灰色の氷に包まれた屍の世界であった。もとよりここは生者の住む場所ではないのかもしれない。
箱館の山之上町の遊女屋「あさひ屋」。沈香の匂いが残る部屋で山野八十八は温まってきた火鉢を抱くように座っていた。綿入を肩にかけただけで羽織っている。
八十八は新選組隊士。明治元年の鳥羽伏見の戦いに敗れ、榎本武揚らが率いる旧幕府軍と合流し、北の果てであるこの蝦夷地にあった。
近頃は「あさひ屋」に毎日入り浸り、家替わりとして使っている。
横では女が布団にくるまって寝息を立てていたが、動き出す気配があった。
「もう起きていたの」
「ああ」
八十八は白い息を吐く。
布団と人の肌が擦れ合う音。八十八の背中から女が腕を回して抱き着いてきた。固い乳房が押し付けられる感触。厚い布団を被ったままなのでずっしりとした重みが八十八の背にかかる。
「温かいね」
「重いよ、やな」
「わたしの名前は、ヤーナ」
「やあな」
「そう」
「露西亜の名前か」
「お父さんが露西亜人。会ったことはないけど」
やなの冷たい手が八十八の腕をそっと撫でる。
「白い腕。きれい」
「おまえの方が透き通ったきれいな肌をしているじゃねえか。氷のようだ」
やなは美しい女だった。灰色がかった黒い髪と碧い瞳は露西亜の血のせいだろう。日本人にはないような神々しさは、遊女というより聖女と言ってもよかった。
「ふふ」と微笑んで、八十八の少しくせのある髪をさわる。月代はなく、首のあたりまでの総髪であった。
「髪が伸びて邪魔だな」
八十八は上目づかいで顔にかかる前髪を眺めた。
「ちょっと待ってて」
やなが背中からどいて、そばにあった化粧箱をあさり始めた。
「あった」
八十八が振り向くと、やなの手には赤い組紐があった。
やなは八十八の前髪をかきあげて、頭の後ろで束ねて組紐で結んでくれた。
「これでいいでしょ」
「ん、ああ」
やながあらわになった八十八の顔をのぞき込んで楽しそうに笑っている。たしかにこれなら髪が邪魔にならずに楽でいい。
「きれいな顔。まるで女子のようね」
八十八は突然、やなの右腕をつかんで立ちあがった。肩から綿入が滑り落ちる。やなを睨みつけた。
やなは息を飲んで愕然としていた。
「女みたいな顔と言うんじゃねえ」
右腕一本で吊られている状態の一糸まとわぬ姿のやなは苦悶の表情を浮かべていた。つんと上を向いた形のよい乳房が目に入る。
「い、いたい」
八十八は強く握っていたやなの手首を放した。やなが布団の上に尻もちをつく。
やなは静かに肩を震わせてうつむいている。
「早く着物を着な。蝦夷の空気は冷たすぎるから体に毒だ」
八十八は綿入の着物と袴をつけて刀を腰に差し、襟巻を巻いた上からさらに女ものの着物を羽織った。
女ものの着物を羽織るのは京にいた頃からの八十八の習慣だ。そのくせ女みたいだと揶揄する者には容赦なく挑みかかる。喧嘩を売って出歩いているようなものだ。八十八のどこかに刹那的かつ破滅的な願望があるのは確かだ。
「おまえ、なんでこんな店にいるんだよ。おまえほどの別嬪なら異人揚屋でも働くことはできるだろ」
異人揚屋は異人相手の遊女屋。山之上町でもっとも煌びやかな朱塗りの三層造りの店であった。
「わたしは日本人じゃない。どこに行っても嫌われるから」
やなはうつむいたまま、ひどくゆっくりと着物を身に着けていた。
女子と言われた怒りが収まりきらないのと、憐みを感じてほしそうなやなの仕草に感じる苛立ちをなんとか堪えつつ、「ちっ」と舌打ちだけして八十八は部屋を出て行った。
八十八は「あさひ屋」を出て凍った大地を踏みしめた。冷たく研ぎ澄まされた空気が鼻孔を刺す。
山之上町は急勾配の坂の上に位置し、鉛色の海に面した箱館の町を見下ろすことができる。
斜め向かいの遊女屋「こまつ屋」の前に群がっている人々が目に入った。八十八はそちらに向かう。
目の前をよろめきながら歩いている老婆が横切った。厚司織を着ていることからアイヌの女だとわかる。
「ケウェがやって来るぞ」
うなされたように同じ言葉を繰り返している。
「ケウェ……」
八十八には言葉の意味が分からない。すぐに老婆のことは頭から消え去った。
「また殺されたってよ」
「下手人はまだ見世の中にいるってさ」
八十八はひそひそ話をする野次馬たちをかきわけて見世に入ろうとする。
「おい。なんだてめえは」
厳めしい顔をした客引きらしき男が入口の前で八十八をとめる。
「蝦夷島政府のもんだよ」
「ざんぎり坊主か」
嘲る男を八十八が睨みつける。男は後ずさった。
蝦夷島政府の将兵は八十八のように髪を伸ばしている者が多かったので、住民たちは「ざんぎり坊主」と呼んで揶揄していた。
それなりに平穏に生活していた蝦夷の町に突如現れて新政府に戦争を仕掛けて追い出した旧幕府軍が蝦夷島政府を名乗った。最初のうちはそれほど住民たちの生活に支障はなかった。だが次第に蝦夷島政府は資金が乏しくなり、独自の通貨を発行したり、諸々に税を掛けはじめた。そのために蝦夷島政府を快く思っていない者が多くなっていた。
八十八の前に丸太のように太い腕が差し出された。
「ごめんよ。こいつは喧嘩っ早くてね」
野太い声が八十八が睨みつけている客引きの男に謝る。
「島田さんかよ」
八十八が横を向くと身の丈が六尺(約一八〇センチメートル)はある力士のような大男が立っていた。
分厚い綿入を着こんだ姿は、人だかりの中でひと際高い小山のようにこんもりと盛り上がっていた。柔らかい笑顔を浮かべて無精ひげを手のひらで撫でている。
島田魁。
新選組がまだ前身の壬生浪士組を名乗っていた頃に、八十八とほぼ同時期に入隊した古参の隊士であった。年は四十なので新選組でも年長者の一人。今の肩書は箱館新選組頭取である。
「ごめんよう」
八十八と男の間に大きな体を割り込ませてきた。
「おい、島田さんよう」
「いいから、いいから」
喧嘩を中断されたことに不平を漏らす八十八を、島田は「こまつ屋」の入口の方に連れて行く。
「おまえさんが出張ってくるってことは土方さんの密命の事件かい」
「その確認だよ」
土方歳三は京での新選組の副長。今では蝦夷島政府の陸軍奉行並という要職に就いている。八十八は土方付属という立場であり、土方の命で独自に動いていた。
「じゃあ、市中見廻りの連中は呼ばなくてもいいな」
「そうしてくれ。邪魔なだけだ」
蝦夷に来た新選組の残党のほとんどは亀田村の称名寺に屯所を開いて、箱館の市中見廻りをしていた。
「言ってくれるね。それにしてもなんだあ、その丁髷は」
島田がやなに束ねてもらった八十八の髪と組紐を指さす。
「うるせえな。行くぜ」
八十八が「こまつ屋」に一歩足を踏み入れた。京洛を駆け抜けていた頃からの馴染みの匂い――血だ。
「気をつけろよ、島田さん」
八十八が振り向くと、島田は先ほどの場所から動かずに微笑みながらこちらを眺めている。
「入らないのかよ」
「狭いところは苦手でね。外で見張ってるぜ」
島田が白い息を吐きながら笑顔で手を振った。
「薄情な野郎だぜ」
八十八は神経を研ぎ澄ませて見世の中に入って行った。
「蝦夷島政府の新選組だ。御用改めだ」
正確には八十八は箱館新選組に所属してはいないが、こういう時は新選組の名前を出した方が都合が良い。
履物を脱がずに上がり框を上がり、薄暗く冷たい廊下を進んだ。
男と女が倒れていた。
男の方は顔の右半分がなくなっていた。爆ぜた柘榴のように赤い肉がむき出しになっている。
――削りとられたか、噛みちぎられたか。熊か。
八十八は眉をひそめて女の方に目を向けた。首があらぬ方向に曲がっており、左腕の肘から先がなくなっている。
――これも強い力で引きちぎられたようだ。
男と女は明らかに死んでいる。
八十八は血を踏まぬように奥へと進みながら、腰の刀の鯉口を切った。
廊下の突き当りにも男が一人壁にもたれかかって倒れている。
八十八は静かに近寄った。
――こいつも死んでいるのか。
男の血走った目だけが動いて八十八を見た。
「おい、生きているのか。誰にやられた」
男はひどくゆっくりと幽鬼のように立ち上がった。両腕は肘の関節がないかのように不自然に揺れていた。
「おい――」
男が飛んだ。
同時に八十八の抜刀した刃が血臭で粘りつく冬の空気を斬り裂いた。
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