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第二章
第一話「晒され者」
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銀次郎は七ツ口の番をしていた。
しとしとと降る雨が、形ばかり笠を被っている門番たちの体を濡らしている。
大川橋で須磨に会ったのが昨日のこと。須磨はうまく江戸を出ることができたのだろうか。
念のため牙逸に須磨を守ってくれるように頼んだが、その後の報せがない。二人とも無事であればいいが、蛇崩に捕まっていたら。いや、牙逸が腕利きの仕事人であることは殺りあった銀次郎が一番分かっている。見す見す殺られるなんてことは考えられない。
「忍壁どの」
「え」
傍に立っていた同輩の庭田が声をかけてきた。
地に突いた棒に寄りかかっていた銀次郎は背筋を伸ばした。
二人とも濃い萌葱色に三ツ山形の模様、別名「菖蒲革」模様の木綿袴をはいている。足軽がお勤めの時は年中この袴を着用した。
「どうしたんだい真剣な顔をして。珍しく考え事かい」
「いや、何でもないよ」
銀次郎は相手をする気がなかったが、庭田は話好きな男なので勝手に会話を続けた。
「まあ無理もない。拙者も心配事だらけよ。上様が代わって、世の中はどうなってしまうのか。おれたちの仕事などあっという間になくなっちまうかもしれねえぞ」
つい先日、四代将軍家綱が息をひきとった。
新しい将軍には家綱の末弟である館林中納言綱吉が選ばれたということだ。
当初、大老である酒井雅楽頭忠清は次期将軍に徳川家ではない有栖川宮幸仁親王を宮将軍として推していた。生来病弱でほとんど政務をとることができなかった家綱に代わって、実質的な将軍は酒井雅楽頭であったと言ってよい。その証拠に人々は酒井を「下馬将軍」と呼んでいた。下馬と言うのは、屋敷が江戸城大手門下馬先にあったからである。
下馬将軍の言には誰も逆らえないかに見えた。だが、それに反したのが、若年寄の一人である堀田筑前守正俊であった。五代将軍には家綱の血脈である綱吉にすべし、と。
結果、五代将軍には綱吉が決まったのである。
「家綱さまを擁立した堀田さまはじきに大老になるんじゃないかという噂だが」
「ほう。では下馬将軍さまの天下にも陰りが来るかもしれねえな」
「そういうこった」
近頃、酒井雅楽頭は登城もせず、下馬先の屋敷に引き籠っているという噂だ。
「世の中が大きく変わるかもしれねえってことよ。おれたちはなんとしても食い扶持にしがみつくしかねえな」
庭田が体を震わせたのは雨に濡れて冷えただけではなさそうだった。
銀次郎は門番の勤めを終えて家路に着いていた。いつも通り日本橋北の新大坂町を右に折れると、堀に架かる橋の一本に人だかりができていた。
近づいて野次馬越しに橋の上を覗いた銀次郎は目を見開いて、思わず声を上げそうになるのをすんでのところで堪えた。
女が橋の欄干によりかかって座っていた。着物の裾がめくれ上がって青白い両足をあらわに伸ばし、襟もはだけて丸い乳房がこぼれそうになっている。
何より首は骨がないかのように前に力なく折れ、顔がうつむいていた。髪はほどけて前に垂れている。
――元締め。
見間違えようがない。須磨であった。濡れきった体からは命の温もりが消えていた。
銀次郎はすぐにも亡骸に駆け寄りたかった。せめて筵に寝かせて着物も整えてやりたい。
――蛇崩だな。
蛇崩亜印が須磨を殺したのだ。恐らく牙逸も殺られたのだろう。蛇崩は噂通りの凄腕だ。
ここで妙な動きを見せれば、どこで蛇崩が見ているか分からない。
須磨に関わる者、さらには箕作省吾を殺した者をあぶり出そうとしているのかもしれない。
それはつまり蛇崩がまだ銀次郎を見つけ出していない、と考えていいのではないか。
「元締め、すまねえ」
銀次郎は笠を目深に下ろして人だかりをあとにした。
しとしとと降る雨が、形ばかり笠を被っている門番たちの体を濡らしている。
大川橋で須磨に会ったのが昨日のこと。須磨はうまく江戸を出ることができたのだろうか。
念のため牙逸に須磨を守ってくれるように頼んだが、その後の報せがない。二人とも無事であればいいが、蛇崩に捕まっていたら。いや、牙逸が腕利きの仕事人であることは殺りあった銀次郎が一番分かっている。見す見す殺られるなんてことは考えられない。
「忍壁どの」
「え」
傍に立っていた同輩の庭田が声をかけてきた。
地に突いた棒に寄りかかっていた銀次郎は背筋を伸ばした。
二人とも濃い萌葱色に三ツ山形の模様、別名「菖蒲革」模様の木綿袴をはいている。足軽がお勤めの時は年中この袴を着用した。
「どうしたんだい真剣な顔をして。珍しく考え事かい」
「いや、何でもないよ」
銀次郎は相手をする気がなかったが、庭田は話好きな男なので勝手に会話を続けた。
「まあ無理もない。拙者も心配事だらけよ。上様が代わって、世の中はどうなってしまうのか。おれたちの仕事などあっという間になくなっちまうかもしれねえぞ」
つい先日、四代将軍家綱が息をひきとった。
新しい将軍には家綱の末弟である館林中納言綱吉が選ばれたということだ。
当初、大老である酒井雅楽頭忠清は次期将軍に徳川家ではない有栖川宮幸仁親王を宮将軍として推していた。生来病弱でほとんど政務をとることができなかった家綱に代わって、実質的な将軍は酒井雅楽頭であったと言ってよい。その証拠に人々は酒井を「下馬将軍」と呼んでいた。下馬と言うのは、屋敷が江戸城大手門下馬先にあったからである。
下馬将軍の言には誰も逆らえないかに見えた。だが、それに反したのが、若年寄の一人である堀田筑前守正俊であった。五代将軍には家綱の血脈である綱吉にすべし、と。
結果、五代将軍には綱吉が決まったのである。
「家綱さまを擁立した堀田さまはじきに大老になるんじゃないかという噂だが」
「ほう。では下馬将軍さまの天下にも陰りが来るかもしれねえな」
「そういうこった」
近頃、酒井雅楽頭は登城もせず、下馬先の屋敷に引き籠っているという噂だ。
「世の中が大きく変わるかもしれねえってことよ。おれたちはなんとしても食い扶持にしがみつくしかねえな」
庭田が体を震わせたのは雨に濡れて冷えただけではなさそうだった。
銀次郎は門番の勤めを終えて家路に着いていた。いつも通り日本橋北の新大坂町を右に折れると、堀に架かる橋の一本に人だかりができていた。
近づいて野次馬越しに橋の上を覗いた銀次郎は目を見開いて、思わず声を上げそうになるのをすんでのところで堪えた。
女が橋の欄干によりかかって座っていた。着物の裾がめくれ上がって青白い両足をあらわに伸ばし、襟もはだけて丸い乳房がこぼれそうになっている。
何より首は骨がないかのように前に力なく折れ、顔がうつむいていた。髪はほどけて前に垂れている。
――元締め。
見間違えようがない。須磨であった。濡れきった体からは命の温もりが消えていた。
銀次郎はすぐにも亡骸に駆け寄りたかった。せめて筵に寝かせて着物も整えてやりたい。
――蛇崩だな。
蛇崩亜印が須磨を殺したのだ。恐らく牙逸も殺られたのだろう。蛇崩は噂通りの凄腕だ。
ここで妙な動きを見せれば、どこで蛇崩が見ているか分からない。
須磨に関わる者、さらには箕作省吾を殺した者をあぶり出そうとしているのかもしれない。
それはつまり蛇崩がまだ銀次郎を見つけ出していない、と考えていいのではないか。
「元締め、すまねえ」
銀次郎は笠を目深に下ろして人だかりをあとにした。
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