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第一章
第六話「朱鷺」
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数日続いた梅雨の雨が止み、今日は晴れ間がのぞいていた。
銀次郎は紙を張って部屋で干していた傘を外に並べていた。
牙逸と殺り合って以来、刺客が身辺に近づく気配は特にない。
箕作省吾を殺した居酒屋「多聞」に行ってみようかとも考えたが、藪を突いて蛇が出てきたら面倒だった。
地面を見つめていた銀次郎の視界に、不意に赤い物が転がり込んできた。赤い毬だった。
「おじちゃん」
幼い声の方を見ると、幼い娘が銀次郎に向かって歩いて来る。
紅梅色の小紋の着物を着て、きれいに前髪をそろえたおかっぱ頭とくりっとした目が可愛らしい娘であった。年は四つくらいであろうか。
――おじちゃん、ね。
銀次郎の年は二十九であった。幼子におじちゃんと呼ばれても仕方がない。毬を拾って娘に手渡してあげた。
「ありがとう、おじちゃん」
やけに人懐っこい娘だ。銀次郎はしゃがんで娘と目線を合わせた。
「おい、娘っ子。おまえさん、おれとどこかで会ったことがあるのかい」
娘は毬をいじるのに夢中で銀次郎の言うことを聞いているのか分からない。
「あら、鈴。勝手によそ様の家に行ってはいけませんよ」
涼やかな声がした。
銀次郎が顔をあげると、武家の女が島田髷の頭に被っていた手巾を取りながら近づいて来る。
小さな顔に鈴と呼ばれた幼子によく似たくりっとした目。優美な曲線を描く鼻筋と顎。一見近寄りがたい美しさだが、少し垂れさがった眉が優し気な印象を醸し出していた。深緑の生地に竹の模様が入った縮緬の小袖を着ている。武家の女であろう。
思わず銀次郎は立ち上がって女に見とれてしまった。
女が手の甲を口に当てて恥ずかしそうに微笑んだ。
「あ、申し訳ござらん。拙者、お、忍壁、忍壁銀次郎でござる」
銀次郎が頭を下げる。その横を幼子が走り過ぎて、舌足らずの声で「母上」と言って女の足にしがみついた。やはり母娘であった。
「わたくしは朱鷺と申します。そしてこの子は鈴」
「朱鷺さま……」
「お朱鷺さん、でいいですよ。でも鈴が知らない人に懐くなんて珍しい。忍壁さまはきっとお優しい方なのですね」
「いやいや、拙者など」
「良かった。お隣の人が良い人で」
銀次郎の家は足軽長屋の通りから向かって一番右端の部屋であった。すぐ隣には小間遣たちの屋敷が軒を連ねている。
一番手前の組屋敷の門の前に大八車が停まっていて、人足たちが荷物をおろして屋敷の中に運び入れていた。
「急なことでこのような家しか用意できなかった。許してくれ」
「これは三淵さま、わざわざおいでいただかなくても」
割り込んで来た声の主はふっくらとした体、筆で引いたように細い目と、垂れた頬がどことなく布袋さまを彷彿とさせた。
――三淵。どこかで聞いた名だが。
背後には武士や中間たちが固まっている。
黒い上田縞の羽織袴の身なりからして、大身の武家だ。
朱鷺は三淵と呼んだ男に深々と頭を下げた。
銀次郎の視線に気づいた三淵は笑みを浮かべてから言った。
「町奉行の三淵忠右衛門だ」
「こ、これはご無礼仕りました!」
銀次郎は土下座をして額を地面に擦り付けた。
町奉行は江戸町方の司法・行政・立法・警察・消防などを掌握する。旗本の中でも優秀な人材が登用された。旗本は直参の中でも将軍に拝謁を許された者である。
対して、銀次郎は御家人であり、将軍に拝謁はできない。しかも御家人の中で最も身分が低い足軽であった。
二人は同じ直参でも身分に雲泥の差があるのだ。
三淵は声をあげて笑った。
「よいよい。面をあげよ」
「いえ、滅相もございません」
銀次郎は顔を伏せたままだ。
「そなた名はなんと言う」
「忍壁銀次郎でございます」
「忍壁か、ふむ。朱鷺どのはな、過日、わしの元で同心をやっておった夫を失ってな。家を継ぐ男子もおらず、また朱鷺どのは身寄りもない故、急ぎこの家を手配したのだ」
「恐れながら、不憫なことでございます」
「夫は深川で何者かに殺されたのだ。むごいことよ。箕作省吾と言って忠勤に励む男であった。まさか人から恨みを買うような男ではあるまいに」
――あっ!
銀次郎の中ですべてがつながった。鈴とどこかで会ったことがあると思っていたが、深川の居酒屋「多聞」だ。箕作省吾が多聞に鈴を連れて行っていたのだ。そして銀次郎が箕作省吾を殺した。
銀次郎は動揺を悟られまいと必死になった。
「忍壁よ」
「は!」
「ここに住むのは短い間だとは思うが、朱鷺どのの力になってやってくれ」
「はは! 身命を賭しましても」
「大げさな奴よ。だが善き心構えだ」
三淵は大きな声で笑った。
「では、わしは帰るとする。朱鷺どの、不便があればなんでも言うがよい」
箕作朱鷺が三淵にお礼を言っていたが、銀次郎の耳にその声は入って来なかった。
銀次郎は紙を張って部屋で干していた傘を外に並べていた。
牙逸と殺り合って以来、刺客が身辺に近づく気配は特にない。
箕作省吾を殺した居酒屋「多聞」に行ってみようかとも考えたが、藪を突いて蛇が出てきたら面倒だった。
地面を見つめていた銀次郎の視界に、不意に赤い物が転がり込んできた。赤い毬だった。
「おじちゃん」
幼い声の方を見ると、幼い娘が銀次郎に向かって歩いて来る。
紅梅色の小紋の着物を着て、きれいに前髪をそろえたおかっぱ頭とくりっとした目が可愛らしい娘であった。年は四つくらいであろうか。
――おじちゃん、ね。
銀次郎の年は二十九であった。幼子におじちゃんと呼ばれても仕方がない。毬を拾って娘に手渡してあげた。
「ありがとう、おじちゃん」
やけに人懐っこい娘だ。銀次郎はしゃがんで娘と目線を合わせた。
「おい、娘っ子。おまえさん、おれとどこかで会ったことがあるのかい」
娘は毬をいじるのに夢中で銀次郎の言うことを聞いているのか分からない。
「あら、鈴。勝手によそ様の家に行ってはいけませんよ」
涼やかな声がした。
銀次郎が顔をあげると、武家の女が島田髷の頭に被っていた手巾を取りながら近づいて来る。
小さな顔に鈴と呼ばれた幼子によく似たくりっとした目。優美な曲線を描く鼻筋と顎。一見近寄りがたい美しさだが、少し垂れさがった眉が優し気な印象を醸し出していた。深緑の生地に竹の模様が入った縮緬の小袖を着ている。武家の女であろう。
思わず銀次郎は立ち上がって女に見とれてしまった。
女が手の甲を口に当てて恥ずかしそうに微笑んだ。
「あ、申し訳ござらん。拙者、お、忍壁、忍壁銀次郎でござる」
銀次郎が頭を下げる。その横を幼子が走り過ぎて、舌足らずの声で「母上」と言って女の足にしがみついた。やはり母娘であった。
「わたくしは朱鷺と申します。そしてこの子は鈴」
「朱鷺さま……」
「お朱鷺さん、でいいですよ。でも鈴が知らない人に懐くなんて珍しい。忍壁さまはきっとお優しい方なのですね」
「いやいや、拙者など」
「良かった。お隣の人が良い人で」
銀次郎の家は足軽長屋の通りから向かって一番右端の部屋であった。すぐ隣には小間遣たちの屋敷が軒を連ねている。
一番手前の組屋敷の門の前に大八車が停まっていて、人足たちが荷物をおろして屋敷の中に運び入れていた。
「急なことでこのような家しか用意できなかった。許してくれ」
「これは三淵さま、わざわざおいでいただかなくても」
割り込んで来た声の主はふっくらとした体、筆で引いたように細い目と、垂れた頬がどことなく布袋さまを彷彿とさせた。
――三淵。どこかで聞いた名だが。
背後には武士や中間たちが固まっている。
黒い上田縞の羽織袴の身なりからして、大身の武家だ。
朱鷺は三淵と呼んだ男に深々と頭を下げた。
銀次郎の視線に気づいた三淵は笑みを浮かべてから言った。
「町奉行の三淵忠右衛門だ」
「こ、これはご無礼仕りました!」
銀次郎は土下座をして額を地面に擦り付けた。
町奉行は江戸町方の司法・行政・立法・警察・消防などを掌握する。旗本の中でも優秀な人材が登用された。旗本は直参の中でも将軍に拝謁を許された者である。
対して、銀次郎は御家人であり、将軍に拝謁はできない。しかも御家人の中で最も身分が低い足軽であった。
二人は同じ直参でも身分に雲泥の差があるのだ。
三淵は声をあげて笑った。
「よいよい。面をあげよ」
「いえ、滅相もございません」
銀次郎は顔を伏せたままだ。
「そなた名はなんと言う」
「忍壁銀次郎でございます」
「忍壁か、ふむ。朱鷺どのはな、過日、わしの元で同心をやっておった夫を失ってな。家を継ぐ男子もおらず、また朱鷺どのは身寄りもない故、急ぎこの家を手配したのだ」
「恐れながら、不憫なことでございます」
「夫は深川で何者かに殺されたのだ。むごいことよ。箕作省吾と言って忠勤に励む男であった。まさか人から恨みを買うような男ではあるまいに」
――あっ!
銀次郎の中ですべてがつながった。鈴とどこかで会ったことがあると思っていたが、深川の居酒屋「多聞」だ。箕作省吾が多聞に鈴を連れて行っていたのだ。そして銀次郎が箕作省吾を殺した。
銀次郎は動揺を悟られまいと必死になった。
「忍壁よ」
「は!」
「ここに住むのは短い間だとは思うが、朱鷺どのの力になってやってくれ」
「はは! 身命を賭しましても」
「大げさな奴よ。だが善き心構えだ」
三淵は大きな声で笑った。
「では、わしは帰るとする。朱鷺どの、不便があればなんでも言うがよい」
箕作朱鷺が三淵にお礼を言っていたが、銀次郎の耳にその声は入って来なかった。
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