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第十五章 竜囲い
第二話 鉄砲百合と取扱注意
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前回のあらすじ
すごかった。
正直怒られて修正を求められるのではないかと怯えているのであった。
すごかったわ。
何がっていうか、何もかもっていうか。
あんなにあんなだと思ってなかったって言うか。
そりゃあたしも、女中仲間に揉まれて鍛えられてきたわけだし、女同士で盛り上がればそう言う下世話な話もしてたし、子供じゃないんだから知識としては知ってたわ。でも、うん、知ってるだけだったんだなって今となっちゃ思うわ。
誰それがなにがしとくっついただとか、同期はみんな抱いたねとか、ナニが大きいだとか、締め付けの具合だとか、まあ、娯楽も少ない年頃の女が集まれば猥談でいくらでも盛り上がるのよ。
あたしもそう言うの聞いたり、話したりして、そういうもんかなーとか思ってたんだけど、実際経験しちゃうとそう言うのがみんなかすんじゃうくらいのすさまじさがあったわね。猥談語る経験者と自称経験者がすぐに態度で見分けられたの、こういうことだったのねって感じ。
猥談では滑稽だなって笑ってたのが、もう全然馬鹿にできないの。あんなにもすごいんだったら、そりゃ誰だってがっつくし、頭の中パーになるし、下半身でもの考えるようになるわよ。
何しろ三人とも初めてだし、突然のことだったし、ウルウはともかくアタシもリリオも完全に雰囲気にのまれてたっていうか、トサカに来てたっていうか、それこそがっついて頭の中パーになって身体でもの考えてたから、最初から最後まで滅茶苦茶だった、と思うわ。
まあ、最初の最初はほら、まだ正気だったのよ。正気っていうか、まあ、まだ落ち着いてたっていうか。
おぼこいお嬢ちゃんみたいにまずは口づけからしよっかって。
なんだか恥ずかしくなっちゃって、なんか顔が見れなくなっちゃって、ちらっちらって伺うみたいにして、目が合ったらなんだかいてもたってもいられなくなって顔を伏せたりして、自分がそんな恋する乙女みたいな真似するとは思わなかったわ。
で、覚悟を決めて、いざってなったら、はちあったわけよ。
あたしと、リリオと。
ほら、口づけするってなったら、向かい合って、唇と唇を重ねるわけよ。
それで、あたしとリリオはそれぞれウルウと口づけしようとしたわけ。そしたらほら、押しのけ合うことになるじゃない。何しろ頭に血が上ってるからなんだこいつぶっ殺すわよとまではいかないまでも、我が我がってなるわけよ。
なにしろ最初の口づけだもの。形があるものじゃないけど、やっぱり一番がいいじゃない。あたしが、いえ私が、って問答にもなるわ。
そりゃリリオが主であたしが従者ってのはあるけど、でも同じ女に懸想してるってことでは対等だもの。譲れないわよね、もちろん。
それで、いよいよ取っ組み合いで決めようかってなったら、ウルウが言うのよ。
別に私ははじめてじゃないしどっちでもって。
誰としたのよって詰め寄ったら、あいつ、こう言うのよ。お父さんとはしたことあるからって。
なんか、すっかり気が抜けちゃったわ。おかしくって。
それで、三人顔寄せ合って、ひとところに唇を集めてね、三人一緒に口づけしたの。
なんだかおかしかったわね。ほっぺたがぶつかり合って、額がぶつかり合って、口付けてるんだか何だかわかりゃあしなかったわよ。でも、うん、それでもねえ、最初は微笑ましかったんだけど、何度も唇を重ねてると、胸の中で好きだーっていうのが、どんどん積み重なって、勝手にどんどんおっきくなってくの。
で、誰かがね、もう誰だかわかりゃしないんだけど、ちょっと舌を出したのよ。湿った感触がして、びっくりして、あとはもう雪崩れ込むようだったわ。
まあ、そんな理性が月まで吹っ飛んだような具合だったからウルウにはずいぶん負担かけたと思うわ。鍛えてるあたしでも腰痛いし、普段使ってないような体のあちこちが軋むし。リリオがケロッとしてるのはもうなんも言わない。リリオだもの。
ああ、そう、リリオと言えば、普段食い気ばっかりのくせして、最近ウルウだよりで全然使ってなかった《自在蔵》にあれやこれやと忍ばせてたのには驚いたわね。何にも準備してなかったから助かったといえば助かったけど、いったいいつの間に買いそろえたのやら。
なんてことをぼんやり思い返している間にも、男爵家の女中は優秀なもので、下世話な顔一つ見せず、手早くあたしたちを盥の湯で清め、着替えさせてくれた。
お世話されるのに慣れてるリリオも、さすがに「あのあれ」の跡が散った肌を見られるのは堪えたようだった。
その上、実にさりげなくしかししっかりと窓を開け放って換気までされて、部屋にこもった、あー、よどんだ空気をね、自覚させられるとこう、さすがのあたしも取り繕うのに必死だった。
なおウルウは逃げた。
あたしたちを叩き起こすや否や、姿を消してしまう呪いで女中たちから隠れて、こっそりお湯を借りたりしながら身支度を整えてた。あたしたちにはそれがうすぼんやりとした影みたいな姿で見えるけど、そうもいかない女中たちはよめじょの姿が見えないので不思議そうにしていた。
よもや逃げられて主従で慰め合っていたのではとか言うクッソ不本意な目で見られちゃったけど、支度が済んだら何事もなかったかのように取りすました顔で現れてくれたので、女中を驚かせながらも誤解は解けたからよかった。
あたしたちばっかり恥ずかしい目にあって、一人だけ取り繕ってるのが腹立つけど。
「………ねえウルウ」
「なあに」
「今朝は髪結わないのね」
「うっさい」
腹いせというわけじゃないけど、軽い気持ちでからかってみたら水月に容赦のない貫き手をねじ込まれて死ぬかと思った。油断してたとは言えあたしが反応できないのってかなり本気だった。
感情との付き合い方がど素人のウルウは照れ隠しで人を殺しかねないらしいので、からかうときは気をつけないといけないわね。
でも、そりゃ馬鹿みたいに跡付けたあたしたちが悪いのは確かだけど、あたしだって跡が残ってるし、リリオだってそうだ。そのうちのいくつかはウルウがつけたものなんだから、お互い様だと思う。
なんなら背中と脇腹に爪の跡まで残ってるし血まで滲んでるんだけど、まあそれは言わないでやろう。トチ狂ったリリオが噛みついた分考えると確かにこっちの方がやらかしちゃってるし。
神経質そうに首元を気にし、髪ににおいがついていないか確かめ、落ち着かない様子のウルウは、冬眠明けの熊みたいだった。それが可愛く見えるのだからあたしも大概頭がやられている。
いやだって、仕方ないじゃない。
懐いてるのか懐いてないのか微妙な猫みたいな感じだったのに、くっきり爪痕残すくらいあたしを求めてくれたっていうのが、あたしの頭をふわんふわんに喜ばせているのだ。尽くすのが武装女中の性だけど、応えてもらえるのはその本能に深々と突き刺さるのだ。
そりゃあ嬉しくてにやつきもする。
するけど、あんまりからかうのもまずいか。
いつも通りのつもりだけど、調子に乗って距離感間違えてるかもしれない。
神経質な猫みたいに毛を逆立ててるウルウを見てると、ちょっと落ち着いてくる。
あたしはしあわせいっぱいで喜びいっぱいだけど、憮然とした顔のウルウはもしかしたらそうじゃないのかもってちょっと不安にもなる。
だってウルウだ。
物語を読んで物を知ったような顔をしている生き物であるところのウルウだ。
恋物語を読んで恋を知ったような生き方をしてきていても、おかしくはない。
そんなある意味お子様なウルウが大人の階段を一気に駆け上ってしまったら、その生々しさとか諸々に打ちのめされて、平気な振りした裏ではすっかり怯えてしまっているのかもしれないのだ。
朝食の席で男爵閣下と奥様に盛大にお祝いされても、こぎれいに取り繕った営業用の愛想笑いで受け流してしまったのも、なんだかちょっと不安だ。あの作り笑顔の裏で、もう触れてくれるなと念を放っているようでさえあるもの。
さすがにこれがずっと続くと、あたしはもとより、リリオがまずいかもしれない。どんな顔をしていいかわからずに表情筋が死に絶えて無表情になっているという大変珍しく面白いもとい重症なのだ。
めでたいめでたいと人のいい笑顔で人のよろしくない腹蔵を伺わせる男爵閣下と、無責任に朝から酒など口にしている奥様、二人の笑い声に紛れ込ませるように、そっとウルウをつついてみる。
「ねえ」
「……なあに」
「もしかしてその……嫌だっヴぇッ」
恐る恐る尋ねてみたら肋骨の隙間に的確に貫き手をねじ込まれた。あたしが体裁をとりつくろえる程度に加減しているあたりが恐ろしい。
これは相当怒っているのでは、と伺ってみると、ウルウはこちらを見てもくれない。もくもくと、あのハシとかいう二本の棒で、煮豆をひたすら一粒ずつつまんでは口に放り込んでいる。
駄目か、とうなだれそうになりながらも未練がましくチラ見してみると、なんか、よく見たら、耳が赤い。
「……嫌じゃないから困ってる」
ぼそぼそっと、隣にいるあたしたちだって聞き逃してしまいそうな小さな声が、酒も飲んでいないのにくらりとくるほど蠱惑的に響いたのだった。
うつむき気味の顔は長い髪で隠されて横からは伺えなかったけど、向かい側の奥様がニヤニヤしてたから、ああ、きっと、お察しってこと。
用語解説
・あれやこれや
ファンタジー世界特有であったりなかったりする様々な道具がいろいろあるらしい。
残念ながら本編ではお見せすることができないものもあるのでご想像にお任せする。
・あのあれ(umo)
物の名前が出てこないときに用いる語。
→鬱血
・よめじょ
嫁女と書くと思われる。
嫁に同じ。
・水月
ここではみぞおちのこと。
人体急所の一つで、ここに衝撃を与えると非常な痛みが走り、また横隔膜の動きが瞬間的に止まることがあり、呼吸困難に陥る。
・貫き手
手の指を握らずまっすぐ伸ばした状態で相手を突く技。
鍛えていないと指先を痛めるが、拳よりも小さい面積に力が集中するため、急所などを突くとより大きなダメージを与えることができるとされる。
閠が本気でやった場合、魔力の恩恵を受けていない人体程度なら貫通させられるかもしれない。
すごかった。
正直怒られて修正を求められるのではないかと怯えているのであった。
すごかったわ。
何がっていうか、何もかもっていうか。
あんなにあんなだと思ってなかったって言うか。
そりゃあたしも、女中仲間に揉まれて鍛えられてきたわけだし、女同士で盛り上がればそう言う下世話な話もしてたし、子供じゃないんだから知識としては知ってたわ。でも、うん、知ってるだけだったんだなって今となっちゃ思うわ。
誰それがなにがしとくっついただとか、同期はみんな抱いたねとか、ナニが大きいだとか、締め付けの具合だとか、まあ、娯楽も少ない年頃の女が集まれば猥談でいくらでも盛り上がるのよ。
あたしもそう言うの聞いたり、話したりして、そういうもんかなーとか思ってたんだけど、実際経験しちゃうとそう言うのがみんなかすんじゃうくらいのすさまじさがあったわね。猥談語る経験者と自称経験者がすぐに態度で見分けられたの、こういうことだったのねって感じ。
猥談では滑稽だなって笑ってたのが、もう全然馬鹿にできないの。あんなにもすごいんだったら、そりゃ誰だってがっつくし、頭の中パーになるし、下半身でもの考えるようになるわよ。
何しろ三人とも初めてだし、突然のことだったし、ウルウはともかくアタシもリリオも完全に雰囲気にのまれてたっていうか、トサカに来てたっていうか、それこそがっついて頭の中パーになって身体でもの考えてたから、最初から最後まで滅茶苦茶だった、と思うわ。
まあ、最初の最初はほら、まだ正気だったのよ。正気っていうか、まあ、まだ落ち着いてたっていうか。
おぼこいお嬢ちゃんみたいにまずは口づけからしよっかって。
なんだか恥ずかしくなっちゃって、なんか顔が見れなくなっちゃって、ちらっちらって伺うみたいにして、目が合ったらなんだかいてもたってもいられなくなって顔を伏せたりして、自分がそんな恋する乙女みたいな真似するとは思わなかったわ。
で、覚悟を決めて、いざってなったら、はちあったわけよ。
あたしと、リリオと。
ほら、口づけするってなったら、向かい合って、唇と唇を重ねるわけよ。
それで、あたしとリリオはそれぞれウルウと口づけしようとしたわけ。そしたらほら、押しのけ合うことになるじゃない。何しろ頭に血が上ってるからなんだこいつぶっ殺すわよとまではいかないまでも、我が我がってなるわけよ。
なにしろ最初の口づけだもの。形があるものじゃないけど、やっぱり一番がいいじゃない。あたしが、いえ私が、って問答にもなるわ。
そりゃリリオが主であたしが従者ってのはあるけど、でも同じ女に懸想してるってことでは対等だもの。譲れないわよね、もちろん。
それで、いよいよ取っ組み合いで決めようかってなったら、ウルウが言うのよ。
別に私ははじめてじゃないしどっちでもって。
誰としたのよって詰め寄ったら、あいつ、こう言うのよ。お父さんとはしたことあるからって。
なんか、すっかり気が抜けちゃったわ。おかしくって。
それで、三人顔寄せ合って、ひとところに唇を集めてね、三人一緒に口づけしたの。
なんだかおかしかったわね。ほっぺたがぶつかり合って、額がぶつかり合って、口付けてるんだか何だかわかりゃあしなかったわよ。でも、うん、それでもねえ、最初は微笑ましかったんだけど、何度も唇を重ねてると、胸の中で好きだーっていうのが、どんどん積み重なって、勝手にどんどんおっきくなってくの。
で、誰かがね、もう誰だかわかりゃしないんだけど、ちょっと舌を出したのよ。湿った感触がして、びっくりして、あとはもう雪崩れ込むようだったわ。
まあ、そんな理性が月まで吹っ飛んだような具合だったからウルウにはずいぶん負担かけたと思うわ。鍛えてるあたしでも腰痛いし、普段使ってないような体のあちこちが軋むし。リリオがケロッとしてるのはもうなんも言わない。リリオだもの。
ああ、そう、リリオと言えば、普段食い気ばっかりのくせして、最近ウルウだよりで全然使ってなかった《自在蔵》にあれやこれやと忍ばせてたのには驚いたわね。何にも準備してなかったから助かったといえば助かったけど、いったいいつの間に買いそろえたのやら。
なんてことをぼんやり思い返している間にも、男爵家の女中は優秀なもので、下世話な顔一つ見せず、手早くあたしたちを盥の湯で清め、着替えさせてくれた。
お世話されるのに慣れてるリリオも、さすがに「あのあれ」の跡が散った肌を見られるのは堪えたようだった。
その上、実にさりげなくしかししっかりと窓を開け放って換気までされて、部屋にこもった、あー、よどんだ空気をね、自覚させられるとこう、さすがのあたしも取り繕うのに必死だった。
なおウルウは逃げた。
あたしたちを叩き起こすや否や、姿を消してしまう呪いで女中たちから隠れて、こっそりお湯を借りたりしながら身支度を整えてた。あたしたちにはそれがうすぼんやりとした影みたいな姿で見えるけど、そうもいかない女中たちはよめじょの姿が見えないので不思議そうにしていた。
よもや逃げられて主従で慰め合っていたのではとか言うクッソ不本意な目で見られちゃったけど、支度が済んだら何事もなかったかのように取りすました顔で現れてくれたので、女中を驚かせながらも誤解は解けたからよかった。
あたしたちばっかり恥ずかしい目にあって、一人だけ取り繕ってるのが腹立つけど。
「………ねえウルウ」
「なあに」
「今朝は髪結わないのね」
「うっさい」
腹いせというわけじゃないけど、軽い気持ちでからかってみたら水月に容赦のない貫き手をねじ込まれて死ぬかと思った。油断してたとは言えあたしが反応できないのってかなり本気だった。
感情との付き合い方がど素人のウルウは照れ隠しで人を殺しかねないらしいので、からかうときは気をつけないといけないわね。
でも、そりゃ馬鹿みたいに跡付けたあたしたちが悪いのは確かだけど、あたしだって跡が残ってるし、リリオだってそうだ。そのうちのいくつかはウルウがつけたものなんだから、お互い様だと思う。
なんなら背中と脇腹に爪の跡まで残ってるし血まで滲んでるんだけど、まあそれは言わないでやろう。トチ狂ったリリオが噛みついた分考えると確かにこっちの方がやらかしちゃってるし。
神経質そうに首元を気にし、髪ににおいがついていないか確かめ、落ち着かない様子のウルウは、冬眠明けの熊みたいだった。それが可愛く見えるのだからあたしも大概頭がやられている。
いやだって、仕方ないじゃない。
懐いてるのか懐いてないのか微妙な猫みたいな感じだったのに、くっきり爪痕残すくらいあたしを求めてくれたっていうのが、あたしの頭をふわんふわんに喜ばせているのだ。尽くすのが武装女中の性だけど、応えてもらえるのはその本能に深々と突き刺さるのだ。
そりゃあ嬉しくてにやつきもする。
するけど、あんまりからかうのもまずいか。
いつも通りのつもりだけど、調子に乗って距離感間違えてるかもしれない。
神経質な猫みたいに毛を逆立ててるウルウを見てると、ちょっと落ち着いてくる。
あたしはしあわせいっぱいで喜びいっぱいだけど、憮然とした顔のウルウはもしかしたらそうじゃないのかもってちょっと不安にもなる。
だってウルウだ。
物語を読んで物を知ったような顔をしている生き物であるところのウルウだ。
恋物語を読んで恋を知ったような生き方をしてきていても、おかしくはない。
そんなある意味お子様なウルウが大人の階段を一気に駆け上ってしまったら、その生々しさとか諸々に打ちのめされて、平気な振りした裏ではすっかり怯えてしまっているのかもしれないのだ。
朝食の席で男爵閣下と奥様に盛大にお祝いされても、こぎれいに取り繕った営業用の愛想笑いで受け流してしまったのも、なんだかちょっと不安だ。あの作り笑顔の裏で、もう触れてくれるなと念を放っているようでさえあるもの。
さすがにこれがずっと続くと、あたしはもとより、リリオがまずいかもしれない。どんな顔をしていいかわからずに表情筋が死に絶えて無表情になっているという大変珍しく面白いもとい重症なのだ。
めでたいめでたいと人のいい笑顔で人のよろしくない腹蔵を伺わせる男爵閣下と、無責任に朝から酒など口にしている奥様、二人の笑い声に紛れ込ませるように、そっとウルウをつついてみる。
「ねえ」
「……なあに」
「もしかしてその……嫌だっヴぇッ」
恐る恐る尋ねてみたら肋骨の隙間に的確に貫き手をねじ込まれた。あたしが体裁をとりつくろえる程度に加減しているあたりが恐ろしい。
これは相当怒っているのでは、と伺ってみると、ウルウはこちらを見てもくれない。もくもくと、あのハシとかいう二本の棒で、煮豆をひたすら一粒ずつつまんでは口に放り込んでいる。
駄目か、とうなだれそうになりながらも未練がましくチラ見してみると、なんか、よく見たら、耳が赤い。
「……嫌じゃないから困ってる」
ぼそぼそっと、隣にいるあたしたちだって聞き逃してしまいそうな小さな声が、酒も飲んでいないのにくらりとくるほど蠱惑的に響いたのだった。
うつむき気味の顔は長い髪で隠されて横からは伺えなかったけど、向かい側の奥様がニヤニヤしてたから、ああ、きっと、お察しってこと。
用語解説
・あれやこれや
ファンタジー世界特有であったりなかったりする様々な道具がいろいろあるらしい。
残念ながら本編ではお見せすることができないものもあるのでご想像にお任せする。
・あのあれ(umo)
物の名前が出てこないときに用いる語。
→鬱血
・よめじょ
嫁女と書くと思われる。
嫁に同じ。
・水月
ここではみぞおちのこと。
人体急所の一つで、ここに衝撃を与えると非常な痛みが走り、また横隔膜の動きが瞬間的に止まることがあり、呼吸困難に陥る。
・貫き手
手の指を握らずまっすぐ伸ばした状態で相手を突く技。
鍛えていないと指先を痛めるが、拳よりも小さい面積に力が集中するため、急所などを突くとより大きなダメージを与えることができるとされる。
閠が本気でやった場合、魔力の恩恵を受けていない人体程度なら貫通させられるかもしれない。
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