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第十三章 飛竜空路
第五話 白百合と螻蛄猪鍋
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前回のあらすじ
いかさまと業運にはさまれてカモにされるリリオ。
運の絡まないゲームとして提案されたのは。
ともすれば不遜さの乗りそうな鼻っ柱がひくりとうごめきました。
勝気な釣り目が大きく見開かれて、まるで飛び掛かる寸前の猫のように張りつめています。
朽葉色の瞳はいま、火精晶の灯りを照り返して、時に黄色く、時に赤く、奇妙に揺らぎながら、私の一挙手一投足を睨みつけるように見張っているのでした。
こんなに、ああ、こんなにも強い視線を向けられるのはいつ振りのことでしょうか。
血に飢えた魔獣たちも、潜み狙う盗賊たちも、命を切り結ぶ相手を求めて放浪する武芸者たちでさえも、こうまでも強い目を見せたことはなかったでしょう。
恐れ知らずの武装女中とはいえ、小柄で、華奢で、愛らしくさえあるトルンペートの小作りな顔からは、いまや青ざめたように血の気が引いていて、形の良い耳ばかりが火照ったように赤く染まっていました。
集中している。
針先のようにピンと張り詰めた意識が、私に、私の指先に全霊をもって集中している。
そのことがなんだか、私に不思議な高揚と、奇妙な興奮とを覚えさせるのでした。
全霊に対して、私も全霊でもって応える。
そのことがどれほど心地よく私をたかぶらせてくれることでしょうか!
「あっち――」
ちり、とかすかに揺らがせた指先に、トルンペートのまつ毛がかすかに揺れ動きます。
凍り付いたように微動だにしない手足と裏腹に、首から上はいまにも弾けそうなほどに力が込められているのが窺えました。
わずかに開かれた唇の下に、大きめの犬歯がちろりと顔を覗かせているのが、期を窺う猟犬を思わせます。
「向いて――」
私は指先からすっかり力を抜いて、だらりと脱力させていました。
必要なのは、その瞬間まで力の方向性を悟らせない、極限の脱力。
そして、脱力から瞬時に立ち上がる、手首のしなやかさと切れ味。
事ここに至っては、もはや小手先の揺さぶりは無粋。
一瞬。
ただ一瞬の攻防にこそすべてがある。
すべてを、この、一瞬に――
「――ホイ!」
刹那、私の指先は、蛇の躍りかかるようにしなやかに、そして容赦なく、視線ごと首を引きずり回す思いでもって、左へと振りぬかれました。
トルンペートの瞳が、須臾に切り裂かれ刹那に刻まれた時間の中、私の指先を追いかける。
人に残された獣の神経が瞬時に発火し、食らいつき、追いすがり、しかして人の築き上げた理性がそれを押し留める。
ぎりりと音を立てて奥歯が噛み締められ、ぎゅうと顎の筋肉が隆起する。
無意識が指先を追いかけようとすることを、意識の手綱が強引に押さえつけ、すでに動き出してしまっていた筋肉を、また別の筋肉が押さえ込む。
おのれの力でおのれの首を断つがごとき筋肉の相争う悲鳴が音もなく響き、その鼻先は私の指を離れ、さかしまの方向へと向けられたのでした。
振り抜かれた勢いのままに汗が飛び、ぱたぱたと音を立てて床に散りました。
「……やりますね」
「この程度……なのかしら?」
「へえ……まだ、強がれますか」
「慣れてきたのよ、いい加減……次で決めるわ」
「見せてあげようじゃあないですか……“格”の“違い”ってものを……!」
「ええ、そうね……あたしが“上”で、あんたが“下”ってことをね……!」
「一!」
「二!
「三!」
『そろそろ降りるわよー』
「アッハイ」
拳を振り上げ、さあの合図で振り下ろそうとしていた私たちは、伝声管から気の抜けた声を響かせるお母様によって、最高に盛り上がった瞬間に奇麗に水を差されたのでした。
えー、もうちょっと遊んでたいよー、といった気分ですが、竜車を操作してくれているお母様に文句など言えようはずもありません。
そもそも力んだところで間を外されてしまって、変に気勢をそがれてしまったので、もう一回あのノリをと言われても難しいです。
手ぬぐいで汗をぬぐい、途中で暑くなって脱ぎ捨てた上着を拾い上げて着込み、もそもそと固定用の帯を結びます。
そうして一息ついてから顔を合わせると、さっきまでなんであんなに単純な遊びであんなに盛り上がっていたんだろうと、妙に冷静な気持ちになってしまって、なんだか妙に気まずくなって視線をそらし合うのでした。
最初は、遊び方を教えてくれたウルウも混じって、三人で回していたのですけれど、私とトルンペートが盛り上がるにつれてウルウはそのノリについていけなくなり、また一時は落ち着いていた乙女塊大海嘯が再び込み上げてきたので、固定帯を結んで毛布にくるまってしまいました。
そうして止める人もいなくなった私たちはどこまでも高みに上っていってしまったわけです。
恐るべしあっち向いてホイ。
いや、だって絶対指の方見ちゃうじゃないですか。それをこらえて他所向かなきゃいけないんですよ。それをわかったうえで指先で誘導して、振り切る前にくいっと翻して騙したり、それさえも見越して視線と顔の動きとを逆にして見たり、いや、本当に面白いんですよこれ。
ともあれ。
私たちの火照った体が落ち着いてくるころには、竜車はがたがたと大きく揺れながら高度を下げていき、ウルウの魂の抜けるような細い悲鳴を背景に、ひときわ大きく揺れて着地したのでした。
竜車は半日ほど飛んだ先の、森の傍の開けた野原に降り立ちました。
半日ほどとはいえ、なにしろ飛竜の翼で翔けた半日です。ハヴェノからはすでに遠く離れ、南部は南部でも東部よりの内陸地まで辿り着いていました。
「そうねえ。この辺りはツィンドロ子爵領に入るのかしら」
「ということは、あの山が噂に名高いアミラニ火山ですかね」
いくらか先に峰高くそびえる、山頂付近に雪を冠するアミラニ山は、人族が町をつくるには適しませんが、土蜘蛛たちにとっては鉱物が豊富で熱源も得られる良好な鍛冶場です。
神話の頃より土蜘蛛たちはこの古く偉大な火山を掘り、町を作り、鉄を打ってきたそうで、古代聖王国時代に多く打ち壊された芸術的土蜘蛛様式の建築物も現存している、歴史的にも文化的にも、そして観光地としても名高い土地です。
帝国が古代聖王国の残党を狩り出し、東大陸を統一するにあたって、多くの武具がこのアミラニ山から供出されました。
その功績をたたえて長たる土蜘蛛がヴルカノ伯爵として取り上げられ、現在もその権力と影響力は帝都にまで響くものです。
広大で肥沃な農地を支配するツィンドロ子爵も、質の良い鉄の農具と舞い振る火山灰の恩恵を強く受けており、この古き鍛冶師の末裔を寄り親と仰いでいるとのことです。
しかし、確かに遠くまで気はしましたけれど、日はまだいくらか高く、飛ぼうと思えばまだ飛べそうではあります。
「まあ飛べなくはないわよ。でも、飛竜に乗るのもそれなりに疲れるし、竜車に乗りっぱなしもしんどいでしょ?」
「はい」
「ウルウのここまで力強い肯定そうそうないわよね」
それに、暗くなってくると空から着陸可能な場所を見つけるのは難しく、ちょうどよく開けた場所を見つけたら早めであっても切り上げる、とのことでした。なるほど、空の旅は空の旅で、何事も都合よくいくという訳ではないようです。
飛竜鞍を外し、好奇心に負けてうろつこうとするピーちゃんを軽くたたいて窘めてから、じゃああと任せたわ、と残して、お母様はキューちゃんの暖かくも柔らかい背中に寝そべって、すぐにも高いびきを立て始めました。
どこでもいつでも体を休められるというのは、旅する冒険屋としては素晴らしい素質です。
任されました、ということで、私たちは早速野営の準備に取り掛かりました。
まあ野営と言っても、頑丈で鉄暖炉もある竜車のおかげで、やることは大してありません。
なんて素晴らしきかな竜車、と一瞬思いましたけれど、考えてみれば普段からそんなに変わらない気もします。焜炉付きの幌馬車に、見張りにもなるボイちゃん。それに魔獣などをよせつけない、ウルウのよくわからない匂い袋や天幕のおかげで、普段から楽してます。
いつもと変わりませんね、ということで、私たちは普段通りを心がけて、作業を分担しました。
つまり、力自慢の私は薪拾いに荷物持ち。勘が鋭く遠間の攻撃が得意なトルンペートが狩り。そしてウルウは収穫が多い時の《自在蔵》係です。
ぶっちゃけ仕事だけ考えるとウルウには留守番していてもらっても構わないのですけれど、新しい土地の新しい風物を見て回りたいというのもウルウの旅の目的ですし、何より、寝ているとはいえ、寝ているからこそ、旅仲間の母親という親しい訳でもなくかといって無関係という訳でもない微妙な相手と二人きりにさせるのは申し訳なかったのです。
昼寝して無防備なお母様を置いていくのも、というのは余計なお世話でしょう。
高いびきをかいてぐっすり眠っているようには見えますけれど、あれで熟練の冒険屋ですから、誰か近づけばすぐに目覚めるでしょうし、なんなら射程ギリギリから矢を射っても止められそうな気がします。
それに、頂点捕食者と言っていい飛竜のキューちゃんとピーちゃんがいる訳ですし、あれをどうにかするのは地竜の突進でもないと無理でしょう。
それでもあんまり時間をかけてはすっかり暗くなってしまいますし、何より私のお腹も空いてきていますので、あまり高望みをせずに、さっと捕まえられるあたりを仕留めていきます。
木もまばらで土中に根が蔓延っていないあたりでは、こうした土に潜り込むように掘り進め、草木の根や虫の類を食べる螻蛄猪が良く見つかります。北部でも見かけますけれど、土に霜が降り、硬く冷たくなる冬は南下するとも聞きます。
体は猪にしては小柄ですけれど、上向きに生えた幅広で頑丈な牙と、鋤のように発達した前足のひづめで結構な速度で土を掘り起こし、ずんずんと進んでいく様はいかにも猪と言った感じです。
ただ、割と浅い所を潜るので地表が盛り上がってしまって居場所がわかりやすいですね。またほとんど目が見えず、地上を歩く速度もあまり速くないので、結構いい的です。
それでも、うっかり螻蛄猪の真上を踏み抜いてしまったりすると、恐ろしい力強さで杭のような牙が打ち上げてきて、時には死者が出ることもある生き物です。
私たちは森に入って早速この螻蛄猪の道を見つけ、掘り進んでいる真っ最中のところに深々と剣を突きさし、うまく仕留められました。
土越しに一撃で仕留める自信がない場合は、斜め後ろからそっと土を掘り返してやり、逃げようと頭を土に突っ込んでいる間に槍などで仕留めるとよいでしょう。
一方で少々見つけにくく、そろそろ帰ろうかなと言うときに運よく茂みの中に見つけられたのが、狸鶉でした。
これは兎や鶏くらいの大きさで、赤褐色の羽毛と、横縞模様の幅広な尾羽を持つ、草原やまばらな林に住む羽獣です。
木の上ではなく、茂みの中や地面のくぼみに巣をつくり、茂みをくぐるように低く飛び回るので、地味な体色もあってなかなか捉えづらいところがありますね。
私は見落としそうになり、トルンペートも気配を探ってはいましたが、見つけたのはウルウでした。
生き物のいのちの気配を探るとかいう、技術ではなくある種のまじないで、茂みの中に隠れた狸鶉の位置を正確に探り当て、そこをトルンペートが短刀をひょうと投げて仕留めたのでした。
茂みにかたまって潜んでいた何羽かの狸鶉が素早く飛び上がって逃げようとしましたが、そこをまた短刀が鋭く狙ってもう一羽が得られました。
飛び立つ姿を眺めて、肉付きのよさそうなものを狙う余裕振りです。
どちらもすぐにしめて、雷精を心臓に流して血抜きし、きりりと冷たい雪解け水の水精晶水で流し、しっかり冷やしました。
以前はこうした作業が苦手だったウルウも、最近は少し慣れてきたのか、直接手掛けるのはまだ難しいようですけれど、お手伝いくらいはできるようになってきました。
茸や山菜、香草の類、そして薪を採りながら野営地に戻ると、お母様がぱっちりと目を覚まして迎えてくれました。
飛竜のキューちゃんはどっしりと腰を落ち着けたままで、きょろきょろと辺りを見回し、ふんふんと鼻を鳴らして落ち着かないピーちゃんが飛び回らないよう、見張っているようでした。
狸鶉は明日の朝食用にしまい込み、螻蛄猪を今夜の夕餉として胡桃味噌の鍋に仕上げることにしました。
三人がかりで手早く解体し、毛を焼き、改めて水で血を洗ったバラ肉を大きめの塊にしてから、大鍋に香草と酒、それに少しの塩を加えて、水から茹でていきます。
本当はしばらく酒と香草で漬け込んでおきたいんですけれど、もっと言えば何日か寝かせた方が美味しいんですけれど、贅沢は言えません。
余った分を食糧庫の方の竜車にしまって寝かせることにしましょう。
「あなたたち、いつもそんな大鍋持ち歩いてるの?」
「欠食児童が二人もいるんで」
「馬鹿容量の《自在蔵》持ちがいるんで」
「防具にもなるので」
「さては馬鹿なのねあなたたち」
灰汁を取りながらじっくりと茹で上げ、すっかり柔らかくなったら茹でこぼし、ごろっとした大きさに切り分けます。これと根菜類、香草を、酒、胡桃味噌などを溶いた大鍋で煮込み、最後に葱や葉物を加えてもう一煮立ちさせて、いただきます。
薄切りの猪肉を使った鍋も美味しいですけれど、ごろっと塊に切ったバラ肉はなかなかに食いでがあってたまりません。もう少ししっかりと味をしみこませるには時間がかかるので、野営には向きませんけれど、鍋の汁自体をちょっと濃い目にしてやって、うまく味を乗せてやります。
ウルウは濃い目の味付けがちょっと苦手ですけれど、なんだかんだ体を使う冒険屋の私たちには塩気が嬉しい限りです。そしてその、ともすればべったりとしそうな濃い目の味付けの中にも、ウルウが見つけて摘んできた葉物が、独特の香りを立てて、味に膨らみをもたらしてくれています。
葉物というか、私は食べ物として見たことなかったというか、もう本当に、そこら辺の適当な葉っぱという感じだったんですけれど、ウルウに言われるままに食べてみたら、これが美味しいんですよ。
ちょっとほろ苦さがあって、でも独特の爽やかな香りが食欲を掻き立てるのでした。
ウルウによれば、恐らく菊の仲間である花の葉であるとのことでした。
ウルウがシュンギクと呼び、お母様が王冠菊と呼んだこの葉物は、いままで見向きもしなかったことがなんとももったいなく感じられるほどの味わいでした。
春には可愛らしくも美しい花を咲かせるとのことで、花としては見られても食用としては見られていなかったのですね。
私たちは大鍋にたっぷりの猪鍋に舌鼓を打ち、お腹をすかせた二頭の飛竜には、取り出したばかりの螻蛄猪の内臓をはじめとした餌を与えました。体の大きさに見合って、結構な量を平らげていく様はなかなか見ていて気持ちのいいものがあります。
ウルウも感心したように二頭の食事風景を観察していました。
ウルウって、生き物苦手なのに生き物の観察するの好きなんですよね。一番観察してる生き物は私です。いいでしょう。
そうしてご飯が済んだら、普通の冒険屋であれば見張りを立ててお休みですけれど、なにしろ私たちは現役冒険屋からもおかしいと言われている《三輪百合》です。
ウルウが黙々と金属製の例の湯船を準備し始めると、お母様がおかしそうに笑い始めました。
「お風呂?」
「ええ、お風呂です」
「さてはあなたたち、とびっきりの馬鹿ね?」
「不本意なことによく言われます」
私とお母様、ウルウとトルンペートに分かれてお風呂を頂き、ハヴェノで購入した香り付きの新しい石鹸で体を磨き上げ、気分も体もすっきりです。
以前は石鹸と言えば一番安い、香りも何もないものをちびりちびりと使っていたものですけれど、潔癖なくらい奇麗好きなウルウが惜しまず使い、切らさず仕入れしているうちにだんだん感覚が麻痺してきて、いまでは精油で香り付けしたものや、可愛らしく成形されたものなどをいろいろ比べていて、三者三様にお気に入りができたりしています。
風呂の神殿ではこういった変わり石鹸を必ず取り扱っていて、定番のもののほか、地方特有の品もあって、旅の中でいろいろ試してみるのも楽しいものです。
そして湯上りには、ウルウ特性のりんすを髪に馴染ませて、石鹸できしきしごわついてしまっていた髪を整えてやります。
最初は柑橘の汁を湯で薄めたものを使っていたのですけれど、出歩いているうちに痒くなったりすることがあったので、ウルウが改良したこのりんすなるものを私たちは使っています。
林檎酢や葡萄酢に香草や精油などを加えたもので、使用するときはお湯で薄めて使います。
割と簡単に作れるので、最近は土地土地でお値段や名産を勘案して、三人であれやこれや好みに合わせて自分用のものを作っています。
今日はお母様には私と同じものを使っていただき、同じ香りをまとうことにしました。
なんだかちょっと、くすぐったいみたいな、不思議な気持ちです。
お風呂を済ませて、念のためにウルウの魔除けの匂い袋をしかけて、お休みの時間です。
いつものように竜車にウルウのお布団を敷きましたけれど、さすがのウルウの不思議なお布団もお母様も含めた四人で潜り込めるほどの広さはありません。
これは仕方がありません。
魔法のお布団にはちょっと詰めてもらって、毛布を分厚く敷いてもう一つ寝床を作り、二人二人に分かれて眠ることにしましょう。
ウルウは寝床変わると寝付けないたちですし、トルンペートはお母様と一緒だと緊張するでしょうから、ウルウとトルンペート、私とお母様に分かれることにしましょう。
仕方がありません。
これは仕方がありませんね。
なのでにやにやとこっちを見てる二人は覚えていなさい。
「ねえ、私寝るときにまで突っ込まなきゃいけないの?」
「え?」
「なんです?」
「《自在蔵》に羽毛布団突っ込んでるの?」
「あー」
「完全に忘れてました、そう言う感覚」
「ねー」
「私が呆れるって、本当に、相当よ、あなたたち」
伝説の冒険屋は、そうして苦笑いするのでした。
用語解説
・ツィンドロ子爵(cindro)
南部の内陸に広がるツィンドロ子爵領は、平地が続く土地で、広大な農地を保有する。
アミラニ火山の噴火によって形成された、平らで、柔らかく、水はけのよい地質で、地下水が豊富。空気を含むことで保温性も高い。やや痩せ気味ではあるが、長年の間に研究された肥料の効果が出やすいとも言える。
西大陸から渡ってきた柑橘類を古くから育てており、特に、島国から伝来した、皮が薄くて剥きやすく、小さいが甘みの強い、種もなく食べやすい蜜柑(moloranĝo)が帝都で人気となり、生産を拡大している。
・アミラニ火山(Amirani)
南部ヴルカノ伯爵領の大部分を占める活火山。
古来から土蜘蛛たちが住み着き、開発してきた火山。
活火山ではあるが、土蜘蛛たちがほぼ完全に管理しており、最後に噴火に至ったのは百年単位で昔のことである。
・ヴルカノ伯爵(vulkano)
アミラニ火山及びその周囲のいくばくかの土地を所領とする伯爵。土蜘蛛。血統の古さ、領民からの信頼、技術力、経済力など周辺への影響力は強い。
・魔獣などをよせつけない、ウルウのよくわからない匂い袋や天幕
ゲームアイテム。それぞれ以前登場した《魔除けのポプリ》、《宵闇のテント》のこと。
・螻蛄猪
蟲獣。半地中棲。大きく発達した前肢と顎とで地面を掘り進む。が、割と浅いところを掘るのですぐにわかる。土中の虫やみみず、また木の根などを食べる。地上では目が見えず動きが遅いのでよく捕まる。
・狸鶉(lavurso koturno)
羽獣。茂みや地面のくぼみなどに巣をつくる。赤褐色の羽根色。雑食性で幅広く何でも食べ、時には蛇なども捕食する。農作物への食害もある。
駆除以外では、毛皮目的の狩猟が多く、また丁寧にした処理した肉は美味であり、食用にもされる。
冬季は動きが鈍り、気温の低い北部などでは冬眠することもある。
・王冠菊(Krono lekanteto)
キク科シュンギク属。シュンギク。
奇麗な黄色い花を咲かせる菊の仲間。外側が白くなっているものもある。
帝国では観賞用としてされているが、無毒で、葉は独特の香りとほろ苦さがあり、食用に耐えうる。
・りんす
閠がこの世界に来た当初は、石鹸でアルカリ性に傾いた髪を、柑橘類の絞り汁を湯で薄めたもので酸性に傾けることでリンスとしていた。
しかし光毒性と言う、紫外線に当たると皮膚にダメージを与える性質があったため、特に色素の薄いリリオがかゆみやふけなどを生じさせてしまった。
このことから材料を見直し、香りが尖らない果物酢をベースに、香草や精油などを加えて調合した。
やや手間と金がかかるようになったが、好みや体質に合わせて調整を繰り返し、それなりに使える代物になっているようだ。
・葡萄酢
林檎の採れる北部では林檎酢が、葡萄(vinbero)の採れる地域では葡萄酢が流通しているようだ。
・仕方がありません。
全く持って仕方がないのであった。
いかさまと業運にはさまれてカモにされるリリオ。
運の絡まないゲームとして提案されたのは。
ともすれば不遜さの乗りそうな鼻っ柱がひくりとうごめきました。
勝気な釣り目が大きく見開かれて、まるで飛び掛かる寸前の猫のように張りつめています。
朽葉色の瞳はいま、火精晶の灯りを照り返して、時に黄色く、時に赤く、奇妙に揺らぎながら、私の一挙手一投足を睨みつけるように見張っているのでした。
こんなに、ああ、こんなにも強い視線を向けられるのはいつ振りのことでしょうか。
血に飢えた魔獣たちも、潜み狙う盗賊たちも、命を切り結ぶ相手を求めて放浪する武芸者たちでさえも、こうまでも強い目を見せたことはなかったでしょう。
恐れ知らずの武装女中とはいえ、小柄で、華奢で、愛らしくさえあるトルンペートの小作りな顔からは、いまや青ざめたように血の気が引いていて、形の良い耳ばかりが火照ったように赤く染まっていました。
集中している。
針先のようにピンと張り詰めた意識が、私に、私の指先に全霊をもって集中している。
そのことがなんだか、私に不思議な高揚と、奇妙な興奮とを覚えさせるのでした。
全霊に対して、私も全霊でもって応える。
そのことがどれほど心地よく私をたかぶらせてくれることでしょうか!
「あっち――」
ちり、とかすかに揺らがせた指先に、トルンペートのまつ毛がかすかに揺れ動きます。
凍り付いたように微動だにしない手足と裏腹に、首から上はいまにも弾けそうなほどに力が込められているのが窺えました。
わずかに開かれた唇の下に、大きめの犬歯がちろりと顔を覗かせているのが、期を窺う猟犬を思わせます。
「向いて――」
私は指先からすっかり力を抜いて、だらりと脱力させていました。
必要なのは、その瞬間まで力の方向性を悟らせない、極限の脱力。
そして、脱力から瞬時に立ち上がる、手首のしなやかさと切れ味。
事ここに至っては、もはや小手先の揺さぶりは無粋。
一瞬。
ただ一瞬の攻防にこそすべてがある。
すべてを、この、一瞬に――
「――ホイ!」
刹那、私の指先は、蛇の躍りかかるようにしなやかに、そして容赦なく、視線ごと首を引きずり回す思いでもって、左へと振りぬかれました。
トルンペートの瞳が、須臾に切り裂かれ刹那に刻まれた時間の中、私の指先を追いかける。
人に残された獣の神経が瞬時に発火し、食らいつき、追いすがり、しかして人の築き上げた理性がそれを押し留める。
ぎりりと音を立てて奥歯が噛み締められ、ぎゅうと顎の筋肉が隆起する。
無意識が指先を追いかけようとすることを、意識の手綱が強引に押さえつけ、すでに動き出してしまっていた筋肉を、また別の筋肉が押さえ込む。
おのれの力でおのれの首を断つがごとき筋肉の相争う悲鳴が音もなく響き、その鼻先は私の指を離れ、さかしまの方向へと向けられたのでした。
振り抜かれた勢いのままに汗が飛び、ぱたぱたと音を立てて床に散りました。
「……やりますね」
「この程度……なのかしら?」
「へえ……まだ、強がれますか」
「慣れてきたのよ、いい加減……次で決めるわ」
「見せてあげようじゃあないですか……“格”の“違い”ってものを……!」
「ええ、そうね……あたしが“上”で、あんたが“下”ってことをね……!」
「一!」
「二!
「三!」
『そろそろ降りるわよー』
「アッハイ」
拳を振り上げ、さあの合図で振り下ろそうとしていた私たちは、伝声管から気の抜けた声を響かせるお母様によって、最高に盛り上がった瞬間に奇麗に水を差されたのでした。
えー、もうちょっと遊んでたいよー、といった気分ですが、竜車を操作してくれているお母様に文句など言えようはずもありません。
そもそも力んだところで間を外されてしまって、変に気勢をそがれてしまったので、もう一回あのノリをと言われても難しいです。
手ぬぐいで汗をぬぐい、途中で暑くなって脱ぎ捨てた上着を拾い上げて着込み、もそもそと固定用の帯を結びます。
そうして一息ついてから顔を合わせると、さっきまでなんであんなに単純な遊びであんなに盛り上がっていたんだろうと、妙に冷静な気持ちになってしまって、なんだか妙に気まずくなって視線をそらし合うのでした。
最初は、遊び方を教えてくれたウルウも混じって、三人で回していたのですけれど、私とトルンペートが盛り上がるにつれてウルウはそのノリについていけなくなり、また一時は落ち着いていた乙女塊大海嘯が再び込み上げてきたので、固定帯を結んで毛布にくるまってしまいました。
そうして止める人もいなくなった私たちはどこまでも高みに上っていってしまったわけです。
恐るべしあっち向いてホイ。
いや、だって絶対指の方見ちゃうじゃないですか。それをこらえて他所向かなきゃいけないんですよ。それをわかったうえで指先で誘導して、振り切る前にくいっと翻して騙したり、それさえも見越して視線と顔の動きとを逆にして見たり、いや、本当に面白いんですよこれ。
ともあれ。
私たちの火照った体が落ち着いてくるころには、竜車はがたがたと大きく揺れながら高度を下げていき、ウルウの魂の抜けるような細い悲鳴を背景に、ひときわ大きく揺れて着地したのでした。
竜車は半日ほど飛んだ先の、森の傍の開けた野原に降り立ちました。
半日ほどとはいえ、なにしろ飛竜の翼で翔けた半日です。ハヴェノからはすでに遠く離れ、南部は南部でも東部よりの内陸地まで辿り着いていました。
「そうねえ。この辺りはツィンドロ子爵領に入るのかしら」
「ということは、あの山が噂に名高いアミラニ火山ですかね」
いくらか先に峰高くそびえる、山頂付近に雪を冠するアミラニ山は、人族が町をつくるには適しませんが、土蜘蛛たちにとっては鉱物が豊富で熱源も得られる良好な鍛冶場です。
神話の頃より土蜘蛛たちはこの古く偉大な火山を掘り、町を作り、鉄を打ってきたそうで、古代聖王国時代に多く打ち壊された芸術的土蜘蛛様式の建築物も現存している、歴史的にも文化的にも、そして観光地としても名高い土地です。
帝国が古代聖王国の残党を狩り出し、東大陸を統一するにあたって、多くの武具がこのアミラニ山から供出されました。
その功績をたたえて長たる土蜘蛛がヴルカノ伯爵として取り上げられ、現在もその権力と影響力は帝都にまで響くものです。
広大で肥沃な農地を支配するツィンドロ子爵も、質の良い鉄の農具と舞い振る火山灰の恩恵を強く受けており、この古き鍛冶師の末裔を寄り親と仰いでいるとのことです。
しかし、確かに遠くまで気はしましたけれど、日はまだいくらか高く、飛ぼうと思えばまだ飛べそうではあります。
「まあ飛べなくはないわよ。でも、飛竜に乗るのもそれなりに疲れるし、竜車に乗りっぱなしもしんどいでしょ?」
「はい」
「ウルウのここまで力強い肯定そうそうないわよね」
それに、暗くなってくると空から着陸可能な場所を見つけるのは難しく、ちょうどよく開けた場所を見つけたら早めであっても切り上げる、とのことでした。なるほど、空の旅は空の旅で、何事も都合よくいくという訳ではないようです。
飛竜鞍を外し、好奇心に負けてうろつこうとするピーちゃんを軽くたたいて窘めてから、じゃああと任せたわ、と残して、お母様はキューちゃんの暖かくも柔らかい背中に寝そべって、すぐにも高いびきを立て始めました。
どこでもいつでも体を休められるというのは、旅する冒険屋としては素晴らしい素質です。
任されました、ということで、私たちは早速野営の準備に取り掛かりました。
まあ野営と言っても、頑丈で鉄暖炉もある竜車のおかげで、やることは大してありません。
なんて素晴らしきかな竜車、と一瞬思いましたけれど、考えてみれば普段からそんなに変わらない気もします。焜炉付きの幌馬車に、見張りにもなるボイちゃん。それに魔獣などをよせつけない、ウルウのよくわからない匂い袋や天幕のおかげで、普段から楽してます。
いつもと変わりませんね、ということで、私たちは普段通りを心がけて、作業を分担しました。
つまり、力自慢の私は薪拾いに荷物持ち。勘が鋭く遠間の攻撃が得意なトルンペートが狩り。そしてウルウは収穫が多い時の《自在蔵》係です。
ぶっちゃけ仕事だけ考えるとウルウには留守番していてもらっても構わないのですけれど、新しい土地の新しい風物を見て回りたいというのもウルウの旅の目的ですし、何より、寝ているとはいえ、寝ているからこそ、旅仲間の母親という親しい訳でもなくかといって無関係という訳でもない微妙な相手と二人きりにさせるのは申し訳なかったのです。
昼寝して無防備なお母様を置いていくのも、というのは余計なお世話でしょう。
高いびきをかいてぐっすり眠っているようには見えますけれど、あれで熟練の冒険屋ですから、誰か近づけばすぐに目覚めるでしょうし、なんなら射程ギリギリから矢を射っても止められそうな気がします。
それに、頂点捕食者と言っていい飛竜のキューちゃんとピーちゃんがいる訳ですし、あれをどうにかするのは地竜の突進でもないと無理でしょう。
それでもあんまり時間をかけてはすっかり暗くなってしまいますし、何より私のお腹も空いてきていますので、あまり高望みをせずに、さっと捕まえられるあたりを仕留めていきます。
木もまばらで土中に根が蔓延っていないあたりでは、こうした土に潜り込むように掘り進め、草木の根や虫の類を食べる螻蛄猪が良く見つかります。北部でも見かけますけれど、土に霜が降り、硬く冷たくなる冬は南下するとも聞きます。
体は猪にしては小柄ですけれど、上向きに生えた幅広で頑丈な牙と、鋤のように発達した前足のひづめで結構な速度で土を掘り起こし、ずんずんと進んでいく様はいかにも猪と言った感じです。
ただ、割と浅い所を潜るので地表が盛り上がってしまって居場所がわかりやすいですね。またほとんど目が見えず、地上を歩く速度もあまり速くないので、結構いい的です。
それでも、うっかり螻蛄猪の真上を踏み抜いてしまったりすると、恐ろしい力強さで杭のような牙が打ち上げてきて、時には死者が出ることもある生き物です。
私たちは森に入って早速この螻蛄猪の道を見つけ、掘り進んでいる真っ最中のところに深々と剣を突きさし、うまく仕留められました。
土越しに一撃で仕留める自信がない場合は、斜め後ろからそっと土を掘り返してやり、逃げようと頭を土に突っ込んでいる間に槍などで仕留めるとよいでしょう。
一方で少々見つけにくく、そろそろ帰ろうかなと言うときに運よく茂みの中に見つけられたのが、狸鶉でした。
これは兎や鶏くらいの大きさで、赤褐色の羽毛と、横縞模様の幅広な尾羽を持つ、草原やまばらな林に住む羽獣です。
木の上ではなく、茂みの中や地面のくぼみに巣をつくり、茂みをくぐるように低く飛び回るので、地味な体色もあってなかなか捉えづらいところがありますね。
私は見落としそうになり、トルンペートも気配を探ってはいましたが、見つけたのはウルウでした。
生き物のいのちの気配を探るとかいう、技術ではなくある種のまじないで、茂みの中に隠れた狸鶉の位置を正確に探り当て、そこをトルンペートが短刀をひょうと投げて仕留めたのでした。
茂みにかたまって潜んでいた何羽かの狸鶉が素早く飛び上がって逃げようとしましたが、そこをまた短刀が鋭く狙ってもう一羽が得られました。
飛び立つ姿を眺めて、肉付きのよさそうなものを狙う余裕振りです。
どちらもすぐにしめて、雷精を心臓に流して血抜きし、きりりと冷たい雪解け水の水精晶水で流し、しっかり冷やしました。
以前はこうした作業が苦手だったウルウも、最近は少し慣れてきたのか、直接手掛けるのはまだ難しいようですけれど、お手伝いくらいはできるようになってきました。
茸や山菜、香草の類、そして薪を採りながら野営地に戻ると、お母様がぱっちりと目を覚まして迎えてくれました。
飛竜のキューちゃんはどっしりと腰を落ち着けたままで、きょろきょろと辺りを見回し、ふんふんと鼻を鳴らして落ち着かないピーちゃんが飛び回らないよう、見張っているようでした。
狸鶉は明日の朝食用にしまい込み、螻蛄猪を今夜の夕餉として胡桃味噌の鍋に仕上げることにしました。
三人がかりで手早く解体し、毛を焼き、改めて水で血を洗ったバラ肉を大きめの塊にしてから、大鍋に香草と酒、それに少しの塩を加えて、水から茹でていきます。
本当はしばらく酒と香草で漬け込んでおきたいんですけれど、もっと言えば何日か寝かせた方が美味しいんですけれど、贅沢は言えません。
余った分を食糧庫の方の竜車にしまって寝かせることにしましょう。
「あなたたち、いつもそんな大鍋持ち歩いてるの?」
「欠食児童が二人もいるんで」
「馬鹿容量の《自在蔵》持ちがいるんで」
「防具にもなるので」
「さては馬鹿なのねあなたたち」
灰汁を取りながらじっくりと茹で上げ、すっかり柔らかくなったら茹でこぼし、ごろっとした大きさに切り分けます。これと根菜類、香草を、酒、胡桃味噌などを溶いた大鍋で煮込み、最後に葱や葉物を加えてもう一煮立ちさせて、いただきます。
薄切りの猪肉を使った鍋も美味しいですけれど、ごろっと塊に切ったバラ肉はなかなかに食いでがあってたまりません。もう少ししっかりと味をしみこませるには時間がかかるので、野営には向きませんけれど、鍋の汁自体をちょっと濃い目にしてやって、うまく味を乗せてやります。
ウルウは濃い目の味付けがちょっと苦手ですけれど、なんだかんだ体を使う冒険屋の私たちには塩気が嬉しい限りです。そしてその、ともすればべったりとしそうな濃い目の味付けの中にも、ウルウが見つけて摘んできた葉物が、独特の香りを立てて、味に膨らみをもたらしてくれています。
葉物というか、私は食べ物として見たことなかったというか、もう本当に、そこら辺の適当な葉っぱという感じだったんですけれど、ウルウに言われるままに食べてみたら、これが美味しいんですよ。
ちょっとほろ苦さがあって、でも独特の爽やかな香りが食欲を掻き立てるのでした。
ウルウによれば、恐らく菊の仲間である花の葉であるとのことでした。
ウルウがシュンギクと呼び、お母様が王冠菊と呼んだこの葉物は、いままで見向きもしなかったことがなんとももったいなく感じられるほどの味わいでした。
春には可愛らしくも美しい花を咲かせるとのことで、花としては見られても食用としては見られていなかったのですね。
私たちは大鍋にたっぷりの猪鍋に舌鼓を打ち、お腹をすかせた二頭の飛竜には、取り出したばかりの螻蛄猪の内臓をはじめとした餌を与えました。体の大きさに見合って、結構な量を平らげていく様はなかなか見ていて気持ちのいいものがあります。
ウルウも感心したように二頭の食事風景を観察していました。
ウルウって、生き物苦手なのに生き物の観察するの好きなんですよね。一番観察してる生き物は私です。いいでしょう。
そうしてご飯が済んだら、普通の冒険屋であれば見張りを立ててお休みですけれど、なにしろ私たちは現役冒険屋からもおかしいと言われている《三輪百合》です。
ウルウが黙々と金属製の例の湯船を準備し始めると、お母様がおかしそうに笑い始めました。
「お風呂?」
「ええ、お風呂です」
「さてはあなたたち、とびっきりの馬鹿ね?」
「不本意なことによく言われます」
私とお母様、ウルウとトルンペートに分かれてお風呂を頂き、ハヴェノで購入した香り付きの新しい石鹸で体を磨き上げ、気分も体もすっきりです。
以前は石鹸と言えば一番安い、香りも何もないものをちびりちびりと使っていたものですけれど、潔癖なくらい奇麗好きなウルウが惜しまず使い、切らさず仕入れしているうちにだんだん感覚が麻痺してきて、いまでは精油で香り付けしたものや、可愛らしく成形されたものなどをいろいろ比べていて、三者三様にお気に入りができたりしています。
風呂の神殿ではこういった変わり石鹸を必ず取り扱っていて、定番のもののほか、地方特有の品もあって、旅の中でいろいろ試してみるのも楽しいものです。
そして湯上りには、ウルウ特性のりんすを髪に馴染ませて、石鹸できしきしごわついてしまっていた髪を整えてやります。
最初は柑橘の汁を湯で薄めたものを使っていたのですけれど、出歩いているうちに痒くなったりすることがあったので、ウルウが改良したこのりんすなるものを私たちは使っています。
林檎酢や葡萄酢に香草や精油などを加えたもので、使用するときはお湯で薄めて使います。
割と簡単に作れるので、最近は土地土地でお値段や名産を勘案して、三人であれやこれや好みに合わせて自分用のものを作っています。
今日はお母様には私と同じものを使っていただき、同じ香りをまとうことにしました。
なんだかちょっと、くすぐったいみたいな、不思議な気持ちです。
お風呂を済ませて、念のためにウルウの魔除けの匂い袋をしかけて、お休みの時間です。
いつものように竜車にウルウのお布団を敷きましたけれど、さすがのウルウの不思議なお布団もお母様も含めた四人で潜り込めるほどの広さはありません。
これは仕方がありません。
魔法のお布団にはちょっと詰めてもらって、毛布を分厚く敷いてもう一つ寝床を作り、二人二人に分かれて眠ることにしましょう。
ウルウは寝床変わると寝付けないたちですし、トルンペートはお母様と一緒だと緊張するでしょうから、ウルウとトルンペート、私とお母様に分かれることにしましょう。
仕方がありません。
これは仕方がありませんね。
なのでにやにやとこっちを見てる二人は覚えていなさい。
「ねえ、私寝るときにまで突っ込まなきゃいけないの?」
「え?」
「なんです?」
「《自在蔵》に羽毛布団突っ込んでるの?」
「あー」
「完全に忘れてました、そう言う感覚」
「ねー」
「私が呆れるって、本当に、相当よ、あなたたち」
伝説の冒険屋は、そうして苦笑いするのでした。
用語解説
・ツィンドロ子爵(cindro)
南部の内陸に広がるツィンドロ子爵領は、平地が続く土地で、広大な農地を保有する。
アミラニ火山の噴火によって形成された、平らで、柔らかく、水はけのよい地質で、地下水が豊富。空気を含むことで保温性も高い。やや痩せ気味ではあるが、長年の間に研究された肥料の効果が出やすいとも言える。
西大陸から渡ってきた柑橘類を古くから育てており、特に、島国から伝来した、皮が薄くて剥きやすく、小さいが甘みの強い、種もなく食べやすい蜜柑(moloranĝo)が帝都で人気となり、生産を拡大している。
・アミラニ火山(Amirani)
南部ヴルカノ伯爵領の大部分を占める活火山。
古来から土蜘蛛たちが住み着き、開発してきた火山。
活火山ではあるが、土蜘蛛たちがほぼ完全に管理しており、最後に噴火に至ったのは百年単位で昔のことである。
・ヴルカノ伯爵(vulkano)
アミラニ火山及びその周囲のいくばくかの土地を所領とする伯爵。土蜘蛛。血統の古さ、領民からの信頼、技術力、経済力など周辺への影響力は強い。
・魔獣などをよせつけない、ウルウのよくわからない匂い袋や天幕
ゲームアイテム。それぞれ以前登場した《魔除けのポプリ》、《宵闇のテント》のこと。
・螻蛄猪
蟲獣。半地中棲。大きく発達した前肢と顎とで地面を掘り進む。が、割と浅いところを掘るのですぐにわかる。土中の虫やみみず、また木の根などを食べる。地上では目が見えず動きが遅いのでよく捕まる。
・狸鶉(lavurso koturno)
羽獣。茂みや地面のくぼみなどに巣をつくる。赤褐色の羽根色。雑食性で幅広く何でも食べ、時には蛇なども捕食する。農作物への食害もある。
駆除以外では、毛皮目的の狩猟が多く、また丁寧にした処理した肉は美味であり、食用にもされる。
冬季は動きが鈍り、気温の低い北部などでは冬眠することもある。
・王冠菊(Krono lekanteto)
キク科シュンギク属。シュンギク。
奇麗な黄色い花を咲かせる菊の仲間。外側が白くなっているものもある。
帝国では観賞用としてされているが、無毒で、葉は独特の香りとほろ苦さがあり、食用に耐えうる。
・りんす
閠がこの世界に来た当初は、石鹸でアルカリ性に傾いた髪を、柑橘類の絞り汁を湯で薄めたもので酸性に傾けることでリンスとしていた。
しかし光毒性と言う、紫外線に当たると皮膚にダメージを与える性質があったため、特に色素の薄いリリオがかゆみやふけなどを生じさせてしまった。
このことから材料を見直し、香りが尖らない果物酢をベースに、香草や精油などを加えて調合した。
やや手間と金がかかるようになったが、好みや体質に合わせて調整を繰り返し、それなりに使える代物になっているようだ。
・葡萄酢
林檎の採れる北部では林檎酢が、葡萄(vinbero)の採れる地域では葡萄酢が流通しているようだ。
・仕方がありません。
全く持って仕方がないのであった。
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