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序章 ゴースト・アンド・リリィ

第十一話 亡霊と悪意

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前回のあらすじ
指先にふれる柔らかな頬。泣きはらした目元。怯える子供のように丸くなって眠る姿。
リリオは考える。森を出た、その先のことを。









<PBR> そういえば手は洗っていたのだろうか。

 ふと思ったのはそんなことだった。

 つまり、その、なんだ。リトル・ジョンかビッグ・ベンかはわからないが、少女は昨日用を足してから調理に入ったわけだけれど、手は洗ったのだろうか。というか用足しした後どうしたのだろう。紙とかないだろう、絶対。拭いたのか。拭いていないのか。それが問題だ。

 深く考えると昨日のご飯が途端に妙な属性を付与されかねないので、私は考えるのを止めた。

 まあ、そもそもそんなことを考えてしまったのは、あれほどの醜態をさらしてしかもすっかり眠りこけてしまった大失態を犯しつつも、何とか気を取り直して平然を装い少女の後をつけている時だった。

 いつものように一時間歩いて十分休憩を繰り返しているうちに、ふと、その、しまったからだ。なにをって、つまり、あれだよ。人間は食べたら出るようにできてるんだよ。人間は食べてから排出するまで十二時間から二十四時間くらいときいたことがある。以前の体はやや便秘気味だったけれど、この体が驚くほど健康なのは実感済みだ。

 幸い隠れられるような茂みはいくらでもあるし、少女と十分に距離を取ってから茂みで。着た覚えもない服をどうすればよいのかという問題は、ベルトを外して下ろせば済むパンツスタイルで何とかなった。下着はドロワーズとかズロースとか呼ばれるようなもののようで、真ん中がボタンで留められているだけだったので、すっかり脱いでしまわなくてもこれを開いて用を足すことができた。さあを済ませてすっきりして、そこで問題は冒頭に戻る。

 どうしよう。

 用を足したままの姿勢で私は悩んだ。

 手を洗う件については、もったいないがアイテムに液体系があるし、どうとでもなる。素材用の蒸留水とかあったはずだ。問題はもっと先に、何で拭けばいいのかということだった。さすがに気軽に使える懐紙のようなものはアイテムにはなかった。

 魔法職でなくても魔法が使える《巻物スクロール》は紙と言えばまあ、羊皮紙だし紙の一種だけれど、このようなことで使うにはあまりにももったいなさすぎる。第一うっかり拭いている時に発動してしまって大事な部分がバーニングしてしまったらどうすればいいのだ。ムダ毛処理とかそういうレベルではないぞ。

 もちろん拭かないなどという選択肢はない。いくら何でも不衛生すぎるし、気持ちが悪い。どうしたらいいのだろう。

 今まで読んできた異世界ものやファンタジーものを思い浮かべてみたけれど、私の読んできたものの中には中世風ファンタジーのトイレ事情について事細かに記してくれていたものはなかった。大体ファンタジーとか謳いながら魔法とか便利技術とか妙に発達して現代人でもそんなに不満を覚えないレベルで快適なんだよ結構な比率で。

 読んでる側もそんなフラストレーション溜まるようなもの読みたくないかもしれないけれど、こちとら貴重な《巻物スクロール》で一か八か拭いてみて大炎上(物理)するかどうかの瀬戸際なのだ。ただし魔法は尻から出るとかそういうレベルではない。

 くそっ、なんて時代だ。

 私の読書スタイルに問題があるわけではないはずだ。だってどこの誰がトイレ事情に詳しいかどうかを判断条件に加えるというのだ。私にそういう趣味はない。

 せめてゲーム内通貨が紙幣だったらもう使うあてもないし腐るほど持っているのだけれど、残念ながら金貨だ。本当に金かどうかは知らないけれど、見た目上金貨っぽく見えるコインだ。これで拭くのは無理がある。

 となれば、と凝視したのが茂みの葉っぱである。

 大きめの葉っぱもあるし、代用できなくはないのではないか、と思う。というかまあ、貴重で危険な《巻物スクロール》を使うべきかとか考える前に、まあ、思いついてはいた。いたのだけれど、さすがに勇気がいる。だってこれ栽培物でもない野生の葉っぱだ。雑菌だらけなのは間違いないし、そもそも何かしらの毒性を持っていてもおかしくはない。昨日は夢中で鳥みたいな鼠みたいなのを食べてしまったけれど、あれだって私の体には有毒だった可能性もあったのだ。幸いお腹は壊さなかったけれど、あれは一応現地人も食べていたし、そこまで不安はなかった。

 だがこの雑菌まみれの正体不明の葉っぱで脆弱な粘膜部分を拭くというのは恐ろしいものがあった。《巻物スクロール》で拭いて股間がうっかりエクスプロージョンというのも恐ろしいが、粘膜部分が未知の微生物に侵されて腫れ上がるのはもっと生々しい洒落にならない恐怖がある。この世界で病気になってしまった時に私に治す術があるのかというとちょっと自信がないのだ。私の持ち合わせている抗体など何の役にも立たないだろうし、白血球がタイマン挑んで勝てるかどうかもわからないのだ。いくらゲームキャラクターの体っぽい超人ボディになっているとしても、二十六歳事務職の不健康な生活で錆びついたリンパ腺をそこまで信頼して酷使したくない。

 しかし拭かないという選択肢はもっとない。
 誰が何と言おうとそこは譲れないポイントだ。

 泥水をすすって生き延びたとしても、股は拭く。尻も拭く。両方やらなきゃいけないのがつらいところだ。

 私はできるだけ綺麗そうで大ぶりな葉っぱを選んで一枚とり、虫などがついていないことを確認した後、ポーチから素材用の蒸留水の瓶を取り出して軽く洗い、覚悟を決めて一思いに拭いた。この悲壮な覚悟がわかるだろうか。会社のトイレの安物のトイレットペーパーがいかに素晴らしいものだったか思い知らされた私の気持ちがわかるだろうか。ざりざりして固い葉っぱで大事なプレイスを己が手で蹂躙せざるを得ないこの悲しみがわかるだろうか。

 わかってたまるか。こんな馬鹿馬鹿しい悲しみを背負う人間は一人でも少ない方がいい。

 私は事を済ませて手を洗い、服を整え、なんだかとてつもない疲労感を背負ったまま少女の背中を追った。

 幸い、さほど時間はかけていなかったのですぐに追いつくことはできた。もしこの体でなければ、気配を追いかけることも、森の不安定な道を歩き抜くこともできなかっただろう。そのあたりは身一つで放り出される典型的な転移者よりよほどましか。

 しかし、その私のように特殊な体でもないのに、少女の足取りは軽快だ。これが現地人が皆健脚なのか、それともこの少女がことさらに頑丈な鍛えられた人種なのか、そこらへんはわからないが、まあ観察対象が元気なのはいいことだ。なにしろ時折こちらを振り向いて距離を測る余裕さえある。本人はそれとなくしているつもりなのだろうけれど、疑いを持って見ればすぐにわかる程度だ。

 まあ、間違いなくこちらのことが見えている、と思っていいだろう。

 最初の内は見えなかったようだから、勘が鋭いとか何かしらのスキルを使ったという訳ではなさそうだ。だから多分、原因は私の方にある。

 空腹や眠気などが、私が強く意識するまで訪れなかったように、どうやらこの体は私の意識無意識に左右される不安定な存在だといっていい。というよりは、まだ確定しきっていないというべきか。一度覚えてしまった空腹感や眠気は消えないし、すでにこの体になってしまっているせいか、もとの脆弱な事務職の不健康な体をイメージしても元には戻らない。

 では私が何をイメージした結果、少女から認識されるようになったかと言えば、多分私が彼女を旅の連れとして認識してしまったせいだと思う。

 餌付けし、距離を縮め、私は近づきすぎた。
 画面の向こうの存在ではない、実体を持つ生き物に、私は意識を気持ちを傾け過ぎた。それがおそらく、ゲーム機能におけるパーティシステムを発動させてしまったのだと思う。

 ゲーム時代、プレイヤーは大抵役割の違う他の《職業ジョブ》のキャラクターと組んで行動した。前衛と後衛、武器攻撃職と魔法職というように。
 これらの面々がより効率的に団体行動できるシステムがパーティだ。同じパーティに所属するメンバーは獲得できる経験値が共有され、パーティ専用のチャットなどが使用できた。このパーティメンバーには、私の使う《隠蓑クローキング》などの隠れるスキルが無効化され、半透明のオブジェクトとして見えるようになっていた。恐らく今、少女はそのような状態なのだ。

 ゲームの頃であればパーティ画面を開いてパーティを解除すればそれですんだけれど、いまはそれがない。私の認識次第のようだ。だから私が彼女を旅の連れではないと認識すれば私の姿は見えなくなるのだろうけれど、いまさらそんな風に気持ちを持っていくのは難しい。

 森を抜け次第別れて、もっと別の、感情移入しないような相手を見つけた方がいいかもしれない。
 楽しげに歩く背中を追いかけて、私は重たいため息を吐く。

 ……重たい?

 何を気重く感じる必要があるというのだろうか。確かに新たな観察対象を見つけるのは面倒かもしれないけれど、人間とかかわることになるかもしれないのはもっと面倒だ。私はあくまでも傍観者でいたいのだ。舞台の傍の席は選ぶかもしれないけれど、舞台に上がって役者に声をかけようとは思わない。画面に向かってブラーヴォと拍手をしても、その向こうの相手と肩を組んで笑いあいたいとは思わない。私が直接かかわってしまったら、それは途端に現実を伴ったナマモノになる。悍ましい何かになり果てる。喜劇も悲劇も、人の美しさも醜さも、清らかさも汚らしさも、全も悪も白も黒も、全ては傍から見ているくらいでちょうどいい。

 当事者になるなんてのは、はなはだごめんだ。

 誰にともなくそんな言い訳をして、私は意識をちらせるように森の中の景色に視線を泳がせた。

 もとより森の中に踏み入ったことなどない都会育ちのもやしっ子だけれど、それでもこの森は、元の世界の森に比べて命に満ちているように思われた。見たこともないような不可思議な生き物がうろつきまわり、自力で動き回る奇妙な植物がうごめいていることだけではない。目には見えない何かの活力のようなもので満たされているような気がした。私のような奇天烈な存在を許容する世界なのだ。実際に何かの力が働いていてもおかしくはない。

 この少女にはそういう才能はなさそうに見えるけれど、魔法使いといった存在もいるのかもしれない。火をつけるときに使っていた道具や、容量の多い謎の革袋などの不思議製品もあるし、かなり身近な現象としてそのような物理法則ではない法則がはびこっているのかもしれない。

 そういった品々や人々を観察することができればきっと面白いだろう。街に出たら、誰か特定の人間につくのは止めて、しばらくそういった道具や街並みを観察することにしてもいい。

 ゲーム時代の頃も、私はそういった小道具や背景などを調べては、ひっそりと隠された設定やフレーバーを楽しんでいたものだ。私の持ち歩いている道具の中には、フレーバーテキストが気に入って手放せないものもあるし、今までに入手したアイテムはすべて読み込んで楽しませてもらった。

 例えば、回復アイテムである《濃縮林檎》にはこんなフレーバーテキストがついていた。

 ――年経た木々はついに歩き出す。獣達にとって遅すぎるその一歩は、気の長い古木達にとってはせっかち物の勇み足。豊かな実りは腰を据えなければ生み出せない。その前に根から腐り落ちなければの話だが。

 ゲーム内の効果やドロップモンスターの攻略などには何らかかわりないが、しかし数多くのアイテムにいちいちこういった文章が飾られていて、それを読み込むだけで私は物語の世界に深く没頭できたものだ。

 中にはイベントに深くかかわるものもあったし、複数のテキストを読み比べて初めて見えてくる設定やつながりもあった。時に矛盾するテキストや、互いに互いを真と主張するテキストもあり、それ故にこそ、人々が好き勝手に語る、古き時代のおとぎ話を思わせた。

 そうだ。本当は私はゲーム自体よりフレーバーテキストの方が好きだった。

 ゲームをプレイするよりフレーバーテキストを集める方が好きで、ゲームをプレイする人々を眺めるより、その人々の紡ぎ出す物語を読み解くのが好きだった。盃に注がれた余りにも濃い一献を飲み干すより、そこから漂う香りづけフレーバーをそっと楽しむくらいが性に合った。この世界でもそうしよう。そのようにしよう。この世界の品々や人々に、丁寧なテキストはついていないことだろう。誰もこの世界をつまびらかにはしてくれないだろう。けれど、それ以上に確かな実存を持って、私に物語を与えてくれることだろう。

 やはり、この少女とは早めに別れた方がいい。
 生き物の紡ぐ物語はあまりに速くて、難解で、面倒だ。
 埃をかぶり錆びつきかけた、神さびた物語を捲るくらいが、私には具合がいい。
 一人で、静かに、穏やかに生きていきたい。

 そんな。
 そんなことを、ぼんやりと考えていただろうか。

「――危ない!」

 叫びとともに私を突き飛ばした小さな体が血飛沫とともに転げるまで、私は当たり前の悪意が当たり前に牙を剥いたことに、まるで気づきもしなかったのだった。

 知っていたはずだった。わかっていたはずだった。
 世界は悪意に満ちていて、身を縮めて生きなければ、たちまちのうちに頭からヴァリヴァリ食べられてしまうのだと。









用語解説

・《巻物スクロール
 消費することで一回だけ、または設定された数だけ登録された魔法を使用できるアイテム。魔法職でなくても魔法が使えるが、使い捨ての割に貴重で高価。

・パーティ
 特にゲームなどで、チームを組んで行動する一行。《エンズビル・オンライン》ではパーティを組むと経験値を分配したり専用のチャットが使用できたりの恩恵がある。

・悪意
 妛原閠にとって、世界は悪意に満ちていた。
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