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序章 ゴースト・アンド・リリィ

第一話 亡霊と幻想

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 息苦しく重苦しく、締め付けられるような眠りから目覚めて、妛原あけんばら うるうは自分がひとりの暗殺者になっていることに気づいた。

 自分で言っていても意味が分からないけれど、今もって意味が分からないのだから仕方がない。
 ドイツ人作家の真似をしてみたところで文才のない私にはこのくらいが限度だ。いや、果たしてドイツ人だったか。カフカっていう名前はどうもドイツ人っぽくない。作品に興味はあっても作家にはあんまり興味がないので調べたことがなかった。たぶんオーストリア人かチェコ人だろう。

 まあ作家のことはこの際どうでもいい。

 大事なのは私がグレゴール・ザムザよろしく一夜にして変身を遂げていたことだった。幸いにして私は見るもおぞましい毒虫に変わっているということはなかったのだけれど、環境の変化という意味ではなかなかに大きなもののように思う。

 まず、恐らく私は部屋で眠りに落ちた。恐らくというのは、ベッドに入った記憶がないので、多分いつもの通りパソコンの画面を前にゲームプレイにいそしみ、そのまま寝落ちしてしまったと思われるからだ。

 いつもであれば騒々しいアラームに起こされ、何度かのスヌーズと戦いながら目を覚ますのだけれど、今朝はちかちかと差し込む日の光の眩しさに起こされ、寝坊したかと大慌てで体を起こしたところ、爽やかな朝の風と囀る小鳥、そしてマイナスイオン漂う木々と遭遇する羽目になったのだった。

 一夜にして我が家の壁が倒壊して外気にさらされる羽目になったとしても、都市部に住む身としては広がる緑自体が馴染み薄い。よしんば一夜にして我が家の壁が倒壊して外気にさらされた上に、これまた一夜にして侵略性外来植物が盛大にはびこったとしてもここまで繁茂はんもすることはなかろうという森林っぷりである。

 こうなると家自体はこの際考えないものとして、私の体自体が一夜の内に運び出され森の中に放置されたものだろうかとも考えたのだけれど、そんなことにいったい何のメリットがあるというのだろうか。
 これが仮にコンクリート打ちっぱなしの薄暗い倉庫とかに閉じ込められていたなら、何がしかの違法取引に端っこの方が触れてしまったために拉致されて、コンクリート詰めにされるべく身柄を拘束されているのかもしれないと思えたのだけれど、しかし森だ。今日日きょうび徒歩圏内で探すことの方が難しいレベルのすがすがしい空気とマイナスイオンがあふれる森だ。心地よい鳥のさえずり付き。

 このあたりで段々とはっきり目が覚めてきて、何故の一言が頭の中を巡り続けたが当然答えなど出ようもない。

 とにかく何かわからないかと咄嗟に枕もとのタブレットに手を伸ばしたのは現代人としてはいたって普通の反応だとは思うけれど、もちろんそんなものはなかった。なにしろ枕もとどころか枕自体ないし、ベッドもなければコンセントもないしアダプタに接続されて充電していたタブレットもあるわけがない。身一つなのだ。

 何ならあるのか。寝巻か。寝巻しかないのか。量販店で一番安いからという理由で買ってきた青無地パジャマ女性用フリーサイズ(夏用)しかないのか。買ってきた後に自分が女性としてはいささか図体がでかいためにフリーサイズとは名ばかりの決してフリーではない制限から微妙にはみ出してしまいやや寸足らずの寝巻しかないのか。いくら夏とはいえそんな薄着で野外をうろつくのは肌寒いにもほどがある。
 しかも私は寝るときは下着をつけない派なのだ。身を守るものが布一枚しかないというのはあまりにも無防備だ。
 いや、下着一枚増えたところで暴漢相手には何の抵抗にもならないかもしれないけれど、あるとないとでは精神強度がだいぶ異なるのだ。
 そう考えるとビキニアーマーは物理防御力は紙に等しいかもしれないが、攻撃に徹する限りはある程度の安心が得られる心の防具なのかもしれない。絶対食い込んで痛いが。

 頭を抱えてしばしそんな現実逃避に興じ、とうとう仕方がないと覚悟を決めて我が身を見下ろし、そして私はさらなる困惑に陥った。

 ない。

 寝巻がないのである。
 いや、真っ裸ということではない。
 正確に言うと寝巻ではない、ということだ。
 スーツ姿で寝入ってしまったということでもなく。

 さすがの私も仕事から帰って着替えもせずにゲームに癒しを求めるほど疲れ切ってはいない。と思う。そう信じよう。信じる者は儲かる。その割に薄給だが。

 見下ろした私は奇妙な衣服を身にまとっていた。

 足元は見慣れない編み上げのブーツを履き、手もよくよく見てみれば手袋をつけ革の手甲のようなものを巻いている。髪に触れる感触に手をやってみれば、フード付きのマントのようなものを着込んでいるらしい。
 マントの下には動きやすそうな黒の上下を着込んでおり、腰のベルトにはポーチや用途不明の瓶やアクセサリーや、ちょっとぎょっとしたがナイフらしきものが下げられていた。

 勘違いしないでほしいのだけれど、これは全く私の趣味の服装という訳ではない。普段からこんな格好で街なんて歩いたら目立って仕方がない。普段の私はもっと地味で目立たない格好を心掛けているし、そもそも街なんて必要でもなければ出歩かない引きこもりなのだ。その必要さえ通販で済ませてしまいたいくらいだ。

 ともあれこの謎の格好に私はしばらく困惑した。

 マントに銀糸で刺繍された瀟洒しょうしゃな模様やら、時代錯誤な感の否めない古めかしい衣装やら、腰の瓶に収められたやけにケミカルな色の液体やらに眉をひそめてなんだこのファンタジーグッズはと思い、そしてハタと気づいたのだった。

 ファンタジー。

 そう、それはまさしくファンタジーの世界のものだったのだ。

 立ち上がってよくよく調べてみれば、私の服装――というよりはこう言った方がいいか。私の《装備》は私が寝落ち寸前までプレイしていたMMORPGの使用キャラクターのものだったのだ。

 MMORPG、つまりマッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲームとは、インターネットを介して大規模にそして多人数のプレイヤーがリアルタイムで同時に参加するオンラインゲームの一種で、特にコンピューターRPG風のものだ。

 私は現実逃避と癒しと時間潰しを目的にそのうちの一つをプレイしていて、学生の頃からコツコツ地道にレベルを上げていまや立派な中毒者だった。ゲームの中ではレベルが上がったのに現実では人間としてレベルが下がってしまった気はするがそんなことはどうでもいい。

 ゲームにおけるキャラクターはディフォルメされていてここまでのリアリティはなかったけれど、しかし服装の特徴は確かにプレイしていたキャラクターである《暗殺者アサシン》のものと一致した。まあ正確にはその系統の最上位職だけれど、何にせよ毎日のように見ているのだから間違えようもない。

 問題はどうしてこんなコスプレをして見知らぬ森の中に寝かされていたのかということだ。コスプレにしてはえらくクォリティが高いけれど、作って作れないことはないのだろうと思う。私は作る気もないし作る技術もないけれど。

 とにかく服があるならある程度は安心だと、私は早速情報を集めようと歩き出した。

 まあ私の場合はそこまで頭が回っていなかったけれど、良い子のみんなは状況がわからない時に無暗に歩き出すのはお勧めしない。ただでさえ森の中というのは景色に特徴がなく地形を覚えづらいため、普通は半端な目印くらいではすぐに迷ってしまう。唯一の手掛かりである初期位置さえ喪失してしまえばもはや手掛かりは一切失われる。森歩きに半端に慣れているものほど陥りがちと聞くが、私などは都会生まれ都会育ちの悪い奴にも良い奴にも大体友達がいないコンクリートジャングルに育まれたもやしだ。この行動はあんまりにも無防備だといってよかった。記憶に関しては問題ないという確信があったとはいえ普通は怒られる。

 さて。

 あんまりにも無防備に無造作に適当に歩き出した私は、落ち着いたとは思っていてもやっぱりまだ冷静ではなかったようだ。本当に落ち着いていたならば、私はもっといろいろなことを考え、いろいろなことに気づき、そしていろいろな問いかけに至ったはずだったのだ。

 なぜ日の光が木々にさえぎられる薄暗い森の中で、こんなにもはっきりと物が見えるのか。階段を上るのさえ億劫な事務職が歩きなれない森をどうして疲れもなく歩き続けられるのか。嗅いだこともない川のにおいに気づき、自然とそちらに歩み始める感覚は何なのか。

 そして。

「……なんで………」

 私はようやくに至って初めて問いかけた。

「なんでこんなことが、できるんだろう……」

 私の前には、明らかに未確認生物である角の生えた巨大な猪が牙を剥いた状態で断頭され絶命していた。

 茂みから、彼あるいは彼女としては十分に不意を突いたつもりで仕掛けてきた奇襲を、私の奇妙な感覚の上でははるか以前から気付いていた獣の襲撃を、反射的に振るわれた私の手刀が一刀のもとに切り捨てたのだった。

 たぶん以前の私だったら目で見ることさえできないほど鋭く繰り出された手刀は、分厚く鍛えられた空手家の手がビール瓶の首を切るよりも容易く、それこそ宴会芸よろしくこの獣の首をぞふりと気軽に切り落としたのだった。

 いまだ自分が死んだことも理解できないままの頭部がくるくると宙を舞う間に、私は自然な動作で血を払い、断面から血が噴き出るより早く胴体を蹴り飛ばしてどかし、他にはいないかと視線と感覚を巡らせた。

 そしてどすんと重たげな音を立てて首が落ちてきてふと我に返り、返り血一つなく、しかし手にははっきりと血と脂のぬめりを感じる自分を見下ろし、あまりのに困惑した。

 目覚めてからこっち、ひたすらに困惑しっぱなしだった。
 驚きに叫べばよかったのだろうか。
 声を出して泣き叫べばよかったのだろうか。
 訳が分からないと喚き散らし、誰かに助けを求めればよかったのだろうか。
 これは夢なんだと必死に願って、安穏とした眠りに戻れることを祈って目をつぶればよかったのだろうか。

 しかし半端に冷静になった私の喉元で叫びは押し殺され、涙腺は遥か昔に使い方を忘れ、助けを求める相手など神様にだっていやしない。そして夢でないことはどうしようもなく五感を圧迫する刺激が教えてくれた。

 息苦しく重苦しく、締め付けられるような現実リアルから抜けて、私は自分がひとりの暗殺者になっている幻想ファンタジーに気づいたのだった。






用語解説

・異界転生譚 ゴースト・アンド・リリィ
 いかいてんしょうたん、と読む。

・妛原 閠(あけんばら うるう)
 26歳。女性。事務職。趣味はMMORPG。

・MMORPG
 Massively Multiplayer Online Role-Playing Game(マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)の略。大規模多人数同時参加型オンラインRPGなどと訳される。

・ゲーム
 作中で閠がプレイしていたMMORPG。タイトルは「エンズビル・オンライン」。某MMORPGを参考にしている。

・《暗殺者アサシン
 初期《職業》である《盗賊シーフ》から派生する上位《職業ジョブ》及びその系統の総称。
 高い武器攻撃力、高い素早さによる連撃、高い器用さによるクリティカルで効果力をたたき出すトリッキーな《職業ジョブ》。姿を隠したりする直接攻撃力にはかかわらない特殊な《技能スキル》が多い。
 妛原閠は《盗賊シーフ》→《暗殺者アサシン》→《執行人リキデイター》→《死神グリムリーパー》と続く《暗殺者アサシン》系統の最上位職。詳細は後述するが産廃職。
『暗殺者と親しくするのはお勧めしない。自分が暗殺者だと公言してる奴なんて、まず長生きしないからな』
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