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勃起できない俺に彼氏ができた⁉

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「ごめんね、結くん。やっぱりあなたとは恋人として付き合っていけない」
「……うん、そっか。わかった。俺のほうこそごめんね」
 夕方の大学の校舎裏。
 曲がり角の向こうから男女の別れ話が聞こえ、羽月清那はその場で足を止めた。女の声に聞き覚えはなかったが、男の声はよく知った声だった。
 カツカツとヒールがコンクリートの上を歩いて遠ざかっていく音を聞き、その音が完全に聞こえなくなったところで清那は曲がり角の奥へと目を向ける。そこには女性が去って行ったであろう方向を呆然と見つめる一人の男がいた。どうやら彼は清那の存在に気付いていないようで、未だに遠くのほうへ目を向けたままその場に立ち尽くしている。
 清那は軽く溜め息を吐いてからその男の元へと歩みを進めた。
「結、大丈夫か?」
「あれ、清那?なんでお前がここに?あっ、もしかして今の見てた?」
「見てはないけど、声だけ聞こえてた」
「あははー…そっか…」
 たった今フラれたばかりの男、瀬戸結はバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。彼の細くふわっとした茶色の猫っ毛が夕日に照らされ、髪と同じく色素の薄い茶色の大きな瞳が少し寂しそうに清那のことを見上げてくる。
 清那よりも10㎝程身長の低い結はじっと上目遣いで見つめてきており、彼のその瞳は何かを訴えかけていた。
 清那は軽く笑みを浮かべてから彼が求めているであろうことを問いかけた。
「飲み、行くか?」
「さすが清那!俺が言いたいことよくわかったな!」
 寂しそうな表情から一変、結はニコッと笑みを見せた。
 実のところ、結がフラれた現場に居合わせたのはこれが初めてではない。大学に入学後、明るい性格の結にはすぐに彼女ができたのだが、一か月も経たずに別れてしまった。
 清那と結の二人が仲良くなるきっかけとなったのも大学で初めてできた彼女にフラれた現場に偶然出くわしてしまったのがきっかけだった。あの時、フラれて落ち込んでいた結を飲みに誘い、そこから二人はよく飲みに行くようになったのだ。
 大学三年生になった今でもその関係は変わっておらず、結は冗談めかして清那の腕に自分の腕を絡めた。
「旦那様、今日も可哀想なこの俺を慰めてくれる?」
「誰が旦那様だよ」
「そりゃもちろん清那だよ。はぁ、清那みたいな女の子がいてくれたらなぁ」
「180㎝ある女が好みか?」
 清那のその言葉に結はぷっと吹き出した。清那は身長が180㎝もあり、黒髪、切れ長の黒い目、筋肉がありながらもすらりとした見た目をしている。成績も優秀、男女共に憧れる見た目も頭脳も完璧な人間だ。そんな完璧な男が女の子になった姿を想像し、結は自分で言っておきながら笑いが止まらなくなってしまった。
「あははっ、清那の隣にいたら俺のほうが女の子に見えちゃうよ」
「それはそうだな」
 清那とは対照的に結は所謂女顔と言われる部類に入るだろう。くりくりとした大きな瞳と色白の肌に、幼少の頃はよく女の子に間違われていたくらいだ。今では身長も170㎝まで伸び、声変わりもしたためさすがに女の子に間違われるなんてことはなくなったが、それでも清那の隣に並ぶとかなり小柄に見えてしまう。
 こればっかりは悔しがったところでどうにかなるものではないため、結は清那のことを軽く小突き、いつも行く居酒屋へと向かった。

「うぅ~清那ぁ、なんでお前はそんなに完璧なんだよぉ、ずるいぞ」
「はいはい、それは何度も聞いたから。結だってモテるだろ」
 居酒屋に入り、結はかなりのハイペースで酒を煽った。フラれた後に飲みに行くとこうなることはよくあったのだが、今日はいつもよりも飲むペースが早く、飲み始めてから一時間足らずで同じことを何度も言う有様だ。清那は結のこの酔っ払いの姿に慣れており、彼が酔い潰れないようにさり気なく間に水を挟ませたりしながら彼の話を聞き続けた。
「…モテてもさ…長続きしないし…」
 虚ろな目をしながら自身のグラスの縁を指でくるくる撫でていた結がぼそっと零した言葉に、清那は以前から気になっていたことを何気なく聞いてみた。
「なんで長続きしないんだ?」
 結はコミュニケーション能力が高く、付き合ってから相手と気まずくなるということは一切想像できない。だが、彼は付き合ってもすぐに別れてしまっていた。しかも彼女からフラれる形で。
 素面の状態ではなかなかこういったことは聞けないが、今はお互い酒が入っている状態である。清那も結ほどではないにしろ、それなりの杯数を飲んでおり、特に深く考えることなく初めてこの話題を出してみた。
 結のことだからもし言いたくないのならきっと上手く話題を変えるだろう、そう思いながら彼のことを見つめていると、彼は先程よりも小さな声でぼそっと呟いた。
「……ないから…」
「ん?何がない?」
 居酒屋特有のがやがやとした周りの音に前半が掻き消されてしまい肝心な部分が聞き取れなかった。清那が聞き返すと結は清那の耳元へと唇を寄せ、そして先ほどの言葉をもう一度繰り返した。
「…勃起、できないから」
「え…?」
 まさかの発言に一瞬脳内がフリーズしてしまう。それは一体どういうことなのだろうか。病気なのか。それにしたってそんなすぐに彼女と別れる原因になるのか。
 清那が何と言おうか固まってしまっていると、結はグビッと酒を喉に流し込んで意を決したように続きを話し始めた。
「別に病気とかじゃないんだけどさ、彼女とそういう雰囲気になっても勃たないというか……興奮できなくて。それで自然とそういうことにならないようにしちゃってさ。そうしたら俺と付き合っても今までと変わりがなさすぎる、友達と何も変わらないって……それでフラれるけど、俺はなんていうか、恋愛体質っていうの?とにかく人と付き合っていたいんだよ!周りにはチャラいとか言われるけどさ…勃起できないから童貞だし…セックスしなくても一緒にいるだけじゃダメなのかよ……」
 徐々にぼそぼそと独り言のようになっていく言葉を聞きながら清那は大学で噂になっていたことをふと思い出した。
『瀬戸結はすぐに彼女をとっかえひっかえする遊び人。誰とでも寝るようなチャラい奴だ』
 もちろん清那はそんな誰が言い出したのかもわからないような噂なんて信じていなかった。今の今までその噂を忘れていたのが何よりの証拠だ。だが、一度その噂のことを思い出してしまうと今目の前で酔っ払って泣き言を言っている彼にこれ以上悪い噂を増やしてはいけないと思った。
 そして、誰かと付き合っていたいという彼の意思に添う一つの方法を思いつき、隣でグラスを見つめながらぼーっとしている結のほうをじっと見つめてから彼の名前を呼んだ。
「……結」
「ん?」
「誰かと付き合っていたいならさ、俺と付き合ってみる?」
 清那の言葉が理解できなかったのか、結はグラスを見つめながら数秒固まった。そして、まるでスローモーションかのように清那のほうへと顔を向け、先ほどまで虚ろだった大きな目をぱちくりさせている。自分が聞いた言葉が幻聴だったのかと疑っているようにも見え、清那はもう一度、今度は彼の瞳をしっかりと見据えながら伝えた。
「俺と、付き合う?」
「え、あ、えっ…⁉俺、勃起できないけど良いの⁉」
「ぷっ…気にするとこそこなの?」
 酔っ払いだからなのか、天然なのか、結が気にしたことが男だからとか清那だからとかではなく、勃起できないということに思わず笑いが込み上げてきてしまう。
 くすくすと笑いが止まらなくなってしまっていると結もようやく自分の発言がおかしかったことに気が付いたのか、アルコールとは別の意味で顔を赤らめた。
「えっと…あぁ!もう!清那、笑うな!」
「ごめん、ごめん。別に身体目的じゃないからさ。俺たちこれから就活も始まるし、今みたいに彼女ころころ変えて、その度に一喜一憂していられないだろ?」
「…それは確かに」
 清那の言葉に頷きながら、結は改めて清那のことをしっかりと見つめた。顔は言わずもがなカッコいい。スタイルも抜群。性格も申し分ない。そのうえ、結のことを甘やかしてくれる。何よりこいつが女で、付き合えたら良いと何度思ったことか。それは身体の関係とかではなく、ただ隣にずっといられたら良いな、という漠然とした気持ちがあったからだ。今思えば別に男女の関係じゃなくても恋人同士になっている人はこの世の中にたくさんいるし、ここで付き合ったことで悪いことなんて何一つないんじゃないだろうか。寧ろ身体の関係を気にしない分、自分の勃起できないという悩みに振り回されることなく、付き合うことができるのでは。
 結はその結論に至ると、清那に向かってこくりと頷き、少し照れながらも満面の笑みを見せた。
「いいよ、俺たち恋人になろう」


 ピピピピッ ピピピピッ
「んん~…」
 スマートフォンのアラーム音が二日酔いの頭に鳴り響き、結は煩い音を止めるべく手を伸ばそうとした。しかし、その手は何か暖かいものに阻まれてしまい、手を上げることは諦めるしかなく、代わりに重たくてなかなか開かない瞼をなんとか開けた。
 目の前にあったのはスウェット。自分の物ではない。そして、視線を上に移すと見知った顔。清那だ。
 清那……?
「うわぁぁっ⁉」
 寝ぼけていた頭が一気に覚醒し、驚きで大きな声を上げてしまう。自分でもそんな大きな声が出るとは思わず、慌ててパッと自身の口を押えるが、なんと、清那はまだ起きずに静かに寝息を立てていた。
 彼が起きなかったことに安堵したが、この状況は一体何なのか、とにかく今自分がどうなっているのか確認をしなければいけないと深く息を吐いてから、視線を巡らせた。
 一つのベッドの上に二人の男。そして、清那は結のことを抱きしめて未だに気持ち良さそうに寝ている。寝ているときでもカッコいいなんてずるい。いや、今はそんなことに気を取られている場合ではない。清那はスウェットを着ている。俺は…。
「えぇっ⁉」
 またもや大きな声を出してしまい、今度のその声にはさすがの清那も瞼をピクッと動かした。そして、切れ長の目が開けられ、黒い瞳と視線が絡み合う。
「結……?」
「せ、清那……なんで…俺、裸なの…?」
「え…?」
 二人して視線を布団の中へと移す。そこに見えたのは白い素肌。かろうじて下着は付けている状態だったが、清那は服を着ているのに自分は何故こんな下着一枚の姿なのか。昨夜一体何があったのか全く思い出せず、助けを求めるように清那の顔を見つめた。だが、清那もこの状況には困惑しているようで、結の素肌を見ながら固まってしまっている。
「清那も覚えてないの?昨日のこと…」
「う、ん……結が俺の家に来たいって言いだして一緒に帰ってきたのは覚えてる…家で飲みなおして…ダメだ、そのあとは全く記憶にない」
「……俺、居酒屋の途中から記憶ない…えっ、俺たち変なことしてないよな⁉」
「変なことって…?」
「えっ…えっと…」
 今一体自分は何を口走ってしまったのか、自分でもよくわからずに困惑で視線を泳がせる。普段はクールな清那もさすがに記憶のない状況には混乱を隠しきれず、昨日のことを必死に思い出そうとしている。
 その時、何処からか「ニャー」という猫の鳴き声が聞こえてきた。
「え、猫…?」
 至近距離から聞こえてきたその声に驚いていると、清那が何かを思い出したようにハッとし、慌てて枕元に置いてあったスマートフォンを手に取った。体勢は相変わらず抱き締められたままであり、結の頭の後ろで何かを操作する音が聞こえてくる。
「結、こっち、スマホのほう見て」
「ん?」
 言われるがまま、腕の中に収まったままくるりと向きを変え、彼が持つスマートフォンの画面へと目を向ける。そこに映し出されていたのはカメラの映像だ。風景から見るにこの部屋を撮っていたものだろう。清那は何かを探すようにシークバーを動かした。
「清那、部屋にカメラなんて付けてるんだ。防犯用?」
「これはペットカメラ。俺が留守の時に猫の様子見るために付けてたんだけど、昨日は消さずに寝たから映像が残ってるはず…あっ、あった」
 清那の言葉に画面をじっと見つめるとそこには千鳥足で歩く結の姿が映っていた。誰の目から見てもわかる見事な酔っ払いだ。自分が酔っ払った時の姿がこんなにもみっともないものだなんて、あまりにも恥ずかしすぎる。目を覆いたくなるような光景だったが、昨日一体何があったのかこの目でしっかりと確認しなければと、自身の手をぎゅっと握り締めた。
『清那ぁ…清那…?んんぅ…暑い!』
 清那の姿はまだ映っていなかったが、結は映像の中で突然、着ていたTシャツもズボンも脱ぎだした。そして、主のいないベッドへと潜り込み、すぐに寝息を立て始めてしまった。
「……これは…恥ずかしすぎる」
 他人の家で暑いと言って服を脱いだだけでは飽き足らず、家主のいないベッドに勝手に潜り込んでしまうなんて。清那に怒られるかもしれないと、チラッと清那のほうを見たが、彼はまだ映像に集中しているようだった。結の醜態に呆れてないことに少しだけ安堵し、視線を再び映像へと戻す。
 その瞬間、映像の中にスウェット姿になった清那が現れた。彼も結ほどではないが若干足元がふらついており、酔っ払っていることがよくわかる。そして、彼は結の眠っているベッドの掛け布団をバサッと捲った。布団に覆い隠されていたパンツ一丁の結の姿が再び映し出され、またもや羞恥に襲われる。
 映像の中の清那が何を考えているのかわからなかったが、彼は数秒固まった後、結の隣へと身体を横たえ、先に眠っていた結のことを抱きしめた。映像の中の結は突然布団を剝ぎ取られたことに寒さを感じたのか、清那に抱き締められると自らその身体へと腕を回した。二人してぎゅうぎゅうと抱き合っている姿はまるで本当の恋人同士のようで、一見すると微笑ましくも見えたが、そこに映っているのは紛れもなく自分たちであり、そのうえ酔っ払いである。
 耐えがたい映像に視線を逸らしたくなっていると、映像の中の清那が再び起き上がり、横に避けていた布団を掛けて今度は本格的に眠りについたようだった。
「あー…えー…清那…?」
 何と声をかければ良いのかわからずにとりあえず名前を呼んでみる。彼はまだ脳内処理が追い付いていないのか返事をしなかったが、背中にあたる彼の胸からはドクドクと煩いほどに心臓の音が伝わってきていた。
 そういえば、俺たちいつまでこんな引っ付いているんだ⁉
 あまりにも清那の腕の中が居心地良すぎて忘れていたが、この距離はあまりにも近すぎる。
「せ、清那!清那ってば!」
「…あ、悪い」
 やっとのことで意識が現実に戻ってきた様子の清那は抱き締めていた腕の力を弱めた。あの映像に衝撃を受けすぎたからなのか無意識に力が入っていたようで、弱まった腕の中で結は再び清那のほうへと向き合った。清那の心臓がドキドキと煩く鳴っていたせいなのか結自身も心臓の音がやけに大きくなっているような気がして、それを誤魔化すように苦笑いを浮かべた。
「ベッド、勝手に入っちゃってごめんな」
「別に、それは気にしてない…」
「そっか、それなら良かったけど……清那?どうした?」
 向き合った清那の表情が何故か沈んでいるように見える。あの映像の自分の姿がそんなにもショックだったのだろうか。抱き合って寝てしまったが、そこまで気にするようなことでもないだろうし。
 こんな浮かない表情の清那を見るのは初めてで、結は無意識にその顔へと手を運んでいた。頬に触れると彼はピクッと身体を動かしたが、特に逃げる素振りは見せない。優しくその頬を撫でながら結はもう一度彼に問いかけた。
「そんなにショックだった?」
「……結、昨日の居酒屋のことどのくらい覚えてる?」
 映像のことではなく、居酒屋でのことを聞かれたことに若干驚いてしまう。
 昨日の居酒屋、先ほど結は起きたときに居酒屋の途中から記憶がないと清那に告げた。いつものコースならばきっと二時間ほどはその店で飲んでいたのだろうが、なんとか記憶を繋ぎ合わせても体感で三十分ほどのものにしかならなかった。その体感三十分の中に残っていたのは、何故か彼女と付き合っても長続きしないという話をした、ような気がする。それすらも曖昧な記憶ではあったが、悩む結のことを見る清那の瞳を見ているとある一つのことを強烈に思い出した。
「……俺たち、今、付き合ってる?」
 結の発言に清那がこくりと頷いた。その表情は先ほどまで沈んでいたものから僅かばかり柔らかくなったように見える。
 昨日の出来事は一瞬夢だったのではないだろうかと思ったが、どうやらそれは現実だったようだ。もしかして清那が沈んだ表情をしていたのは酔った勢いで付き合うなんて言ったことを後悔していたからなのだろうか。もしそうなのだとしたらここではっきりさせなければ更に後悔させることになってしまう。
 結は一瞬視線を彷徨わせた後、しっかりと清那の瞳を見つめて確認した。
「あのさ、俺と付き合うこと後悔してない?」
「どうしてそう思うの?」
「だって、なんか清那、暗い顔してたし…酔った勢いで言ったこと後悔してるのかなって」
「そんなことないよ。結が覚えてなかったらどうしようって思って心配になっただけ」
 付き合うことに対して後悔していたのではなかったことに安堵し、微笑む清那の表情に安心感が広がっていく。
「いくら酔っ払っててもこんな大事なこと忘れるわけないよ。あ、けど本当に、本当に、俺でいいのか?」
「なんで?」
「だって俺……」
「ん?」
「……勃たないし…」
 ぼそっと自身の身体の心配事を呟く。すると清那が突然ぷるぷると震え出した。それはまるで笑いを堪えているように。そして、その我慢はすぐに決壊し、結の肩口に顔を埋めて大笑いしだした。
「結、それ、昨日も言ってた」
「え⁉嘘⁉」
 驚愕の事実に未だに肩に顔を埋めて笑い続けている清那を見るが、彼は呼吸困難にでもなりそうなほどに笑っている。こんなに笑う清那は初めて見たが、笑っている理由は結にとっては大ごとだった。何故ならそんなことを言った記憶なんて微塵もなかったからだ。酔ってこんなにも綺麗に一部分が抜け落ちるなんて自分自身が信じられないが、居酒屋での記憶ははっきり残っている清那が言うのならば間違いないのだろう。
 笑い過ぎて目尻に涙を浮かべた清那がやっとのことで落ち着きを取り戻し、結の肩から顔を上げた。起きてからものの数分で今まで見たことのない清那の表情をたくさん見た気がする。
「はぁー、笑った。結はやっぱ面白いな」
「悪かったな、記憶なくて」
 不貞腐れてそう言うと清那は結のふわふわとした髪を撫でた。起きたばかりの時は距離が近すぎると思っていたが、今やこの距離が心地良く感じられ、離れがたいとすら思えてくる。頭を撫でる彼の温かく大きな手に目を細めると清那は優しく微笑みかけてきた。
「記憶がない結のためにもう一回言うね。付き合うのは身体目的じゃないから身体のことは心配しなくて大丈夫。付き合い方も結の好きなようにして良いよ」
「どういうこと?」
「会いたければいつでも家に来ていいし、鍵が欲しければあげる。キスしたければキスしても良いよ」
 清那の言葉にドキッとしてしまう。こんな顔の良い男にこんなことを言われたら女の子だったら間違いなく落ちるだろう。あまりにもずるすぎる。しかし、結は自分と清那がキスするところを想像し、ぶんぶんと首を振った。きっと清那はキスするなんて冗談で言っているんだ。
「清那はずるいな、そんなカッコいい顔でそんなこと言われたら誰でも惚れちゃうだろ」
「結は惚れてくれないの?」
「俺?俺はもうお前の魅力は十分に知ってるよ、旦那様」
 昨日、彼女と別れた現場で彼と会ったときのように「旦那様」と呼んで身体をすり寄せると清那の整った眉毛がピクッと動いた。それが何を意味するのかわからなかったが、結は清那の筋肉が付いた胸板に頭をうりうりと擦り付けてドキドキと鳴る心臓を誤魔化す。
 すると突然、布団の上にずしっと重みが加わり、次いで「ニャー」という猫の鳴き声が聞こえてきた。そういえば清那は猫を飼っていると言っていた。昨夜の映像騒動ですっかり忘れてしまっていたが、カメラの存在を思い出したのはこの猫のおかげだ。
 清那の胸板に押し付けていた頭を上げ、布団を捲って鳴き声のほうを見るとすぐ近くに白猫がおり、パチリとその黄色い瞳と目が合う。猫も飼い主以外がベッドから顔を覗かせたことに驚いたのか不思議そうに結のことを見つめた。
「ゆい、降りて」
「え?」
 突然名前を呼ばれたことに驚いて猫のほうに向いていた視線を清那へと向ける。彼はベッドから上体を起こし、布団の上に乗っていた猫を抱き上げて床へと下ろしていた。強制的に床に下ろされてしまった猫は文句を言うようにニャーニャーと鳴き声をあげている。
「はいはい、わかったから、静かにして」
 猫の言っていることがわかるかのように清那はベッドから立ち上がり、部屋の外へと出て行くと猫もそれを追うように部屋から出て行ってしまった。結はその様子を呆然と見つめることしかできずにいたが、数分もしないうちに清那は部屋へと戻って来た。彼は結がまだ寝転がっているベッドへと腰かけ、再び結のふわふわとした髪を撫でた。
「清那、あの猫、俺と同じ名前?」
「そう、三年くらい前に兄貴が拾ったんだけど、妙に俺に懐いてて」
「えっ、清那って兄ちゃんいたの?あれ、もしかしてこの家も兄ちゃんと暮らしてる?」
 清那の家は大学生の一人暮らしにしては広い。家に入った時の記憶は酒によって飛ばされてしまっていたが、今いる寝室の外には廊下が見え、他にも部屋があることは予想がついた。もし、兄と暮らしているというのならばこの広さにも納得がいく。
「前はね。兄貴は転勤で引っ越したから今は俺一人だけ。あぁ、そうだ、兄貴のベッドが残ってるから、こっちの部屋に持ってきて結が泊まった時に寝られるようにしようか」
「あぁ、そっか。このベッドに二人じゃ狭いもんな」
 セミダブルくらいのサイズはあったが、さすがに男二人で寝るには狭すぎる。昨日のように抱き合って寝るならまだしも、横に並んで寝たらどちらかが落ちてしまいかねない。清那の兄の部屋に泊まるというのも気が引けてしまうため、それならば横にベッドを並べたほうが断然良いだろう。
 清那の案に賛同し、彼の兄のベッドを運び入れるために暖かい布団から抜け出すとひんやりとした空気が素肌を撫ぜた。
 結は服を着ていないことを思い出し、きょろきょろと周りを見回して床に無造作に投げ捨てられていた服を手に取ったのだが、その布はじんわりと湿っており、眉間に皺を寄せる。
「結、どうした?」
「…濡れてる。酒でも零したのかな…」
 服に顔を近付け、すんっと嗅いでみるとそこからは僅かに甘い香りが漂ってくる。いつ零したのか全く記憶にはなかったが、昨日のあの状態では何処で零していてもおかしくはなかった。
 濡れた服を手に持ち、どうしようかと呆然と佇んでしまう。清那の家に来たのは今回が初めてであり、もちろん着替えなんて持っていない。
 はぁ…と深い溜め息を吐き、仕方ないと服を着ようとしたのだが、それを横からひょいっと取られてしまった。そして、代わりに別の服が手渡される。
「これ、洗っとくからとりあえず俺の服着といて」
「あ、あぁ、悪い」
 渡されたTシャツを頭から被ると清那の匂いに包まれ、なんとなくむずがゆい気持ちになってくる。彼は香水を付けているわけでもないのに爽やかな香りがしており、体臭までこんな良い香りなんてどこまで完璧人間なのだと羨ましくなる。
 結がTシャツを着るのを見ていた清那は、その姿をじっと見つめた後、フッと視線を逸らした。何故かその視線の逸らし方が不自然に見え、何かおかしかったのかと疑問に思っていると壁にかけてあった姿見に映る自分の姿が目に入った。
 身体に合わない大きなTシャツは太腿辺りまでを隠しており、その下からはすらりとした白い脚が見えている。体毛が薄く、筋肉が付きにくい体質ということもあり、そこだけ見たら女性のようにも見えてしまうだろう。何より、この姿はまるで…。
「……彼シャツみたいだな」
 結がぼそっと呟いた言葉に清那は耐え切れず吹き出していた。清那もそう思っていたのか、言うのを我慢していた言葉を結本人が言ったことにより顔を横に向けながら口元を押さえて笑っている。
「清那!笑いすぎ!お前の服がでかいのが悪いんだぞ!」
「悪い、結がそんな小柄だと思わなくて」
「なっ…!これでも170あるんだからな!」
 頬を膨らませてぷいっとそっぽを向くと近付いてきた清那は宥めるように頭を撫でてきた。子ども扱いされているような気もしたが、清那の手はやはり気持ち良く、何でも許してしまう気持ちになってくる。
「ごめん、ごめん。機嫌直して。昼は結が好きなもの作ってあげるから」
「え、清那、料理できるの?」
「まぁ、それなりに。何が食べたい?」
「んー、今日は授業もバイトもないし、俺たちの付き合った記念ってことで昼からお酒飲んじゃうのはどう?」
 名案だろ!と清那にキラキラとした瞳を向けると、彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。そして、結と視線を合わせるように少しだけかがみ、真っ直ぐに見つめられながら軽く頬を抓られた。
「記念というか飲みたいだけだろ」
「へへっ、バレた?二人で一緒におつまみ作ろうよ」
「うん、良いよ。また記憶なくさないようにね」
「今日は大丈夫だって!」
 自信満々にそう答え、二人は笑い合いながら昼食の前にまずはベッドの移動へと取り掛かった。

 ◆

 二人が付き合いだしてからあっという間に三か月が経った。初めの一か月は週に二、三回、清那の家に泊まるかどうかくらいであったが、彼の家の居心地の良さに泊まる頻度は増えていき、今やほとんど毎日を彼の家で過ごしている。そのことに対して清那も特に文句を言うことはなく、寧ろたまに結が自分のアパートに帰ろうとすると寂しげな表情を見せるくらいだ。付き合う前までだったら絶対にこんな顔見せなかっただろうに、この三か月で今まで知らなかった清那のことをいろいろと知ることができた。
 一番驚いたことは彼が朝に非常に弱いということである。初めて泊まったときに結が大声を出しても一回で起きなかったのは飲んだ翌日とか関係なく、ただ朝に弱いだけだった。そして、彼が朝方トイレに行った際などは寝ぼけているのか、戻って来たときに結のベッドに入り込むことが度々あり、結のことを抱き枕代わりにしてきた。それこそ最初は彼の行動に驚いていたが、三か月もすればその行動にも全く動じなくなっていた。
 そんなある日、結が目覚めると今日も後ろから抱き枕にされていた。清那の温もりと良い香り、背後から規則正しく聞こえる寝息に顔を綻ばせる。
 今日は休みだし、この温もりに包まれたままもうひと眠りしようかと軽く身体を動かした瞬間、ぐりっと何か硬いものが尻の辺りに当たった。
「っ⁉」
 驚きでビクッと身体が跳ね、再び先ほどの硬いものに自身の尻が当たってしまう。振り返らなくてもわかる。その位置にあるのは清那の身体であり、男にしかない部位。
(これって…朝勃ち…⁉)
 男性なら誰でも起こりえる現象であり、正常なことである。だが、いくら正常な現象であったとしてもこんな抱きしめられた状態で布越しとはいえそこに触れるなんて。
 結はその場所から意識を逸らそうとしたが、その意図とは反対に清那は抱きしめる力を強めてきた。より一層身体が密着してしまい、考えないようにしようとしても彼の陰茎の大きさをダイレクトに感じてしまう。なんとかして逃げようと身を捩ると耳のすぐ傍にあった清那の唇から熱い吐息が零れ、一気に身体がカッと熱くなる。ドキドキと心臓の鼓動が早まっていき、破裂してしまうのではないかと思うほどだ。
(もう無理…!)
 結はこの状況に耐え切れなくなり、抱きしめられていた腕を無理矢理解いてベッドから抜け出した。寝室から出ても心臓はバクバクと煩いほどに鳴っており、胸の前で右手をぎゅっと握り締めてから、はぁっ…と息を吐く。
(清那、起きてないよな…)
 男なら誰でもありえることだが、それを他人の身体に押し当ててしまったなんて、清那が知ったらきっとショックを受けるだろう。このことは絶対に清那に知られてはいけない。
 結は再び息を吐き出し、この煩く鳴る心臓を落ち着けるためにキッチンへと向かった。お湯を沸かし、インスタントコーヒーを準備するとやっと心が落ち着いてきた。しかし、気を抜くと先ほどのことを思い出してしまいそうで、結は極力何も考えないようにしようと、ぼーっとキッチンの壁を眺めながらコーヒーを飲んだ。苦味が喉を通っていくのを感じながらコトンとカップをキッチンへと置くと、ずしっと肩に重みがかかってきた。
「えっ、清那⁉」
「んー…」
 彼はまだ半分夢の中にいるようで寝ぼけた呻き声を上げた。後ろから結のことを抱きしめ、肩に頭を置いたまま若干ふらふらと揺れている。
「清那、おーい、清那!起きて!」
「……ゆい…たまごやき…」
「えっ…ふふっ、甘いやつ?」
「…うん」
 清那がぼそっと呟いた言葉に思わず笑いが零れてしまう。清那は結が作る卵焼きが大好物だ。それは以前、居酒屋に飲みに行ったときに出てきた甘い卵焼きが美味しいと言っていたのを結が覚えており、初めて二人で料理をした時に結が作ったものだった。
 結自身は特に料理が上手いとは思っていなかったが、結が作る料理は清那の口に合うらしく、特にこの卵焼きはよく作ってほしいと強請ってきたのだ。
「わかった、作っておいてあげるから、その間にシャワーでも浴びて目を覚まして」
「んぅ…」
 結の言葉が聞こえているのかいないのか、清那は結の肩に頭を置いたまま再び眠りにつきそうになったため、結は慌てて清那を引っ張って浴室へと連れていった。浴室に着いてもまだ目が開ききっていない清那の頬を手で軽くぺちぺちと叩く。
「清那ー、服脱いでー」
「んっ」
 まるで脱がしてほしいとでもいうように手を伸ばしてきた清那に、子どもっぽいなぁと思いながらも上半身を脱ぐのを手伝ってやる。服の下から現れた身体は無駄な肉が付いておらず、その筋肉は美しいという言葉がぴったりだった。上から下へと視線を動かすと、まだ眠そうな顔とその美しい肉体のギャップに笑ってしまいそうになる。
 口角が上がりそうになったが、下げた視線に思わずピシッと固まってしまった。その場所は、布団の中で触れた部分。忘れかけていた朝の出来事を一気に思い出し、顔が熱くなってしまう。
「…?」
 硬直した結を不思議に思ったのか清那は僅かばかり首を傾げた。
 同じ男だからといってもそんなところをじっと見られるなんて気分の良いものではないだろう。結は慌てて顔を上げ、くるりと向きを変えた。
「あ、あとは自分でできるだろ!俺、朝飯作ってくるから!」
 清那が何か言葉を発する前に脱兎の如くその場から立ち去った。キッチンに戻ると一気に力が抜けてしまい、その場にへなへなと座り込む。
「うー…変に思われたかな…」
 おかしな態度を取ってしまったことに悶々としながら唸っていると、温かいものが足に触れた。顔をそちらに向けるとふわふわとした白い毛玉、ゆいが結のことを見上げてきている。清那の家によく来るようになったからなのか、この白猫は結に懐き始めており、変な呻き声を上げている結のことを心配してくれたのかもしれない。
「はぁ…ゆい、お前のご主人に変に思われてないかな」
「にゃぁ」
「ははっ、返事してくれたのか」
 擦り寄ってくる猫の頭を撫でていると次第に気分が落ち着いていく。これがアニマルセラピーというやつだろうか。
 ごろごろと気持ち良さそうに鳴く姿を見ていると浴室のほうからガタッと音が聞こえ、一気に現実へと引き戻された。
 清那が風呂から戻ってきてしまう。朝食を作ってくると言ったのにまだ何も準備していないことを思い出し、結は慌てて立ち上がった。
 清那に所望された卵焼き、それとそれに合うようにご飯とみそ汁、漬物、鮭の塩焼きを急いで用意する。そうこうしているうちにシャワーを終えた清那が戻ってきた。彼の顔はシャワーを浴びる前とは打って変わってすっきりとしており、いつも学校で見る完璧な人間になっていた。
「結は良いお嫁さんになるな」
「え?」
 卵焼きを焼いている途中でいきなりそんなことを言われ、卵を巻く手が止まってしまった。パッと後ろにいる清那のほうを振り向くと彼はカウンターテーブルの向こうからニコニコと結のほうを眺めている。
 嬉しそうなその笑顔に数秒間動きが止まってしまう。清那の言ったことの意味を考えていると焦げているような臭いが漂い始め、結は慌てて視線を卵焼きへと戻した。
「焦がした?」
「ちょっとだけ…清那が突然変なこと言うからだろ」
「本当のこと言っただけだろ。俺がシャワー浴びてる間にこんな完璧な朝食用意してくれてるんだから」
「…それはどうも」
 率直に褒められることに照れ臭くなり、ぶっきらぼうに返事をすると清那がキッチンのほうへとやってきた。料理をしている結の隣に並んだ彼にじっと見られているような気がして彼のほうを見上げる。そこには柔らかな笑みを浮かべた清那がおり、結が顔を向けたことに気付くとこつんと額と額を合わせてきた。
「どうした?」
「いや、なんか幸せだなぁと思って」
「ふっ、突然どうしたんだよ。まだ寝ぼけてる?」
「違うよ、将来こんな風になったら良いよなって」
「えっ」
 将来。その言葉にふと、今のこの関係のことを考えてしまう。付き合っていると言ってもこの関係は好き同士で付き合ったわけではない。誰かと付き合っていたいという結のわがままな思いを清那が優しさで叶えてくれているんだ。それに、これはこれから始まる就活に支障を与えないためである。
 じゃあ、もし就活が終わったら…?清那とのこの関係は終わってしまう?
 結と別れたら清那はきっと彼に見合う素敵な恋人を作るはず。清那は顔も頭も性格も良い、悪いところなんて何もない。この三か月でそれがよりはっきりとわかるようになった。そんな彼がフリーになったらすぐにでも恋人ができるだろう。
 そして、彼が言った将来。彼の想像の中で隣に立っているのは結ではないはずだ。可愛い女の子を想像したのかもしれない。清那と二人で並んで幸せそうに微笑む、そんな家庭。
 その姿を想像した瞬間、ズキッと胸が痛んだ。その痛みが何なのかわからない。しかし、そのズキズキとした痛みは胸の中に広がっていき、直結するように涙が溢れそうになってくる。
 結は清那のほうに向けていた顔を手元へと戻した。そして、わざと明るい声を出し、泣き出しそうな気持ちに蓋をする。
「清那が旦那さんだったら奥さんは間違いなくこの世で一番の幸せ者だな」
「そう思う?」
「もちろん!ほら、お前の好きな卵焼きもできたから冷めないうちに食べよう」
 清那は友達。清那は期間限定の恋人。心の中でその言葉を繰り返し、締め付けられそうな胸の痛みを誤魔化した。

 二人揃って朝食を食べ始めると清那は真っ先に卵焼きを口へと頬張った。少し焦がしてしまったが、大丈夫だっただろうかと彼の顔を見つめていると、彼は結の心配を見越したのか笑みを浮かべた。
「やっぱり結の作る卵焼きは美味しいな」
「ちょっと焦がしたけど平気?」
「うん、全然大丈夫。いくらでも食べられるよ」
 そう言うと彼はまた一切れ口へと運び、満足気な表情を見せた。その顔を見ていると心の中のもやもやが少しずつ晴れていき、結も自然と笑顔になった。清那の笑顔は魔法みたいだ、そう思いながら結も朝食を食べ始めると清那が突然思い出したかのように口を開いた。
「あ、そうだ、今日バイトで遅くなりそうだから先に寝てて良いよ」
「ん、わかった。夜食、何か作っとこうか?」
「卵焼き?」
「どんだけ好きなんだよ。卵の過剰摂取になるぞー」
 けらけらと笑いながら、きっと何を作っても清那は喜んでくれるだろうと、夜食に何を作ろうか考えを巡らせた。

「よし、こんなもんかな」
 おにぎり二つと漬物を用意し、それと小さめに作った卵焼きも横に添えてラップをかける。この食事なら深夜に食べてもそこまで胃の負担にならないだろうと一人でうんうんと頷く。しかし、何か物足りないような気もしてしまい、少し考えたあと結はメモ用紙を取り出した。そこに『お疲れ様』の言葉と一緒に簡易的な猫のイラストを残す。
「ゆい、これどう?お前に似てない?」
「にゃっ」
「えー、似てると思うけどな」
 猫の言葉なんてわからなかったが、なんとなくダメ出しされているような気がして再度自身が描いた猫の絵を見る。確かに、ゆいが文句を言ったように絶妙に不細工かもしれない。自分で描いておきながらその絵にクスッと笑みを零し、おにぎりを乗せた皿の横へと置いた。
「ふぁ、もうこんな時間か」
 時計の針は深夜0時を指していた。清那が帰ってくるまであと一時間くらいあるだろう。彼がこれを見て明日どんなことを言うだろうかと楽しみにしながら、結は清那に言われた通り先に眠りにつくことにした。

「ん~…」
 深夜、ふと目を覚まし、何となく清那のベッドのほうへと目を向ける。だが、そこに清那の姿はなかった。寝てからそんなに時間が経っていなかったのかと思いスマートフォンの時計を見るとそこに映し出されていたのは午前三時。さすがに清那も帰ってきているはずだが、ベッドにその姿がないことに少しの不安が過る。
 すると、扉の向こうからガサゴソと袋を漁るような物音が聞こえてきた。彼がちゃんと家に帰ってきていたことに安堵し、再び眠りにつこうとしたのだが。
「ゆい、おいで」
 突然名前を呼ばれたことにドキッと心臓が跳ね上がる。
「うん、いい子」
 優しいその声音にドキドキと心臓の鼓動が早まっていく。そして、清那の声のすぐあとに猫がカリカリと餌を食べる音が聞こえてきた。彼は猫のゆいに話しかけていたことがわかり、なんとなく恥ずかしくなってしまう。
 餌を食べるカリカリという音を聞いていると扉が開く音が聞こえ、気恥ずかしさから起きていたことがバレないように寝ているふりをした。彼が隣のベッドに入って眠りにつくことを想像しながら目を瞑っていると、突然、背後に温もりを感じた。
(えっ⁉)
 危うく声を上げてしまうところだった。心の中だけで驚きの声を上げ、瞼を更にぎゅっと瞑る。
 清那が朝方に寝ぼけて結のベッドに入り込んでくることはよくあった。しかし、今は寝ぼけてなどいない。さっき猫に話しかけていたときの口調もしっかりとしていた。それなのに何故、清那は結のベッドに入ってきたのだろうか。
 目を瞑ったまま暗闇の中で混乱していると清那の腕が結のことを抱きしめてきた。彼の身体の温もりが先ほどよりも近付き、彼の熱い吐息が首筋にかかる。
「……結」
 熱のこもった声。その声が名前を呼んだ。それは猫の名前なんかじゃない。結の名前だ。どうしてそんな熱っぽい声で名前を呼ぶんだ。
 心臓がドキドキと煩いほどに鼓動を早め、この音が清那にまで伝わってしまうのではないかと心配になる。
 早く、早く、寝てくれ。
 心の中でそう願っていると柔らかいものが首の後ろに当たった。ちゅっと軽い音が鳴り、それはすぐに離れていく。
「おやすみ、結」
 小さく囁かれたその声が暗闇へと消えていき、暫くするとすぅすぅと心地よさそうな寝息が背後から聞こえてきた。清那が眠ったことに無意識に止めてしまっていた息をゆっくりと吐き出す。
(首の後ろ…何、した…?)
 柔らかい感触のあったその場所を手で触ろうとしたが、動いたことで清那が起きてしまったらどうしようかと思い、動くことはできなかった。あの柔らかい感触、あの優しい声、どうして清那は意図的に結のベッドに入ってきたのだろうか。思考がぐるぐると頭の中を駆け巡り、眠気が完全に何処かに飛んでしまった。
 無理矢理寝ようともしてみたが、先ほどのことも、朝のことも、清那のことばかり考えてしまい、結はとうとう眠ることができずにカーテンの隙間から朝日が見えだした。
 はぁ…と息を吐き出し、緩く抱き締められた腕の中でチラッと後ろを振り向く。清那は完全に寝入っているようで、規則正しい寝息を立てている。これなら身体を動かしても起きないだろうと思い、結は腕の中で身体を反転させた。切れ長の目は閉じられ、寝息を零す唇は薄く開かれている。そして、結の視線はその唇に止まった。形の良い唇から目を動かすことができなくなり、無意識に右手の人差し指をそこに当ててしまう。そこは想像以上に柔らかく、昨夜、首の後ろに感じたものを思い起こさせた。
(やっぱりあれ…キス、だったのかな…)
 清那は結に仕方なく付き合っていると思っていた。いや、今でもそう思っている。清那は優しいから文句も言わずに付き合ってくれているんだ。しかし、それなら何故キスなんかしてきたのだろうか。もしかして、仕方なく付き合っているわけじゃなくて、本当に好きだったりするのだろうか。それとも、昨日のはたまたま唇が当たってしまっただけの事故だったのか。
 ぼんやりと考えながら清那の唇を指先でふにふにと押していると、清那の眉間に皺が寄り、身じろぎした。
(やばっ…!)
 結は慌てて手を引っ込め、自分は一体何をしていたんだろうとベッドから抜け出した。きっと寝不足で頭が回っていないからあんなことをしてしまったんだ。顔を洗ってすっきりさせようと結はふらふらと洗面所のほうへと向かった。
 結が部屋から出て行った直後、清那は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。そして、結に触られていた自身の唇へと指を当て、嬉しそうに微笑みを浮かべてから小さく呟いた。
「結、夜中のやつ気付いたのかな」

 顔を洗った後、寝室に戻るに戻れなくなってしまった結がソファに座ってぼーっとコーヒーを飲んでいると、珍しくすっきりとした顔をした清那が寝室から出てきた。朝に弱い彼がこんな早い時間に起こさなくても自分から起きてくるなんて珍しいこともあるものだと、彼のことを目で追っていると何故か突然笑われた。彼が何に対して笑っているのかわからずきょとんとしていると隣に腰かけられ、頭をくしゃくしゃと撫でられる。
「ぼーっとしてどうした?大分あほ面だったぞ」
「むっ…元々こういう顔ですぅ」
「ははっ、悪かった、拗ねないで。そうだ、昨日の夜食、ありがとう。あの絶妙な顔した猫も良かったよ」
 絶妙な顔をした猫、と言われてメモ書きと一緒に猫の絵を描いたことを思い出した。昨夜描いた時に自分でも少し笑ってしまったが、やはり清那の目にも絶妙な顔に見えていたのかと笑えてきてしまう。
「なかなか良かったでしょ?」
「うん、すごくね。気に入ったから待ち受けにしたよ」
「えっ」
 そう言って清那が見せたスマートフォンの待ち受け画面には確かに昨日結が書いた『お疲れ様』の文字とあの猫の絵が映っていた。あんな適当に描いたものを待ち受けにされるとは思わず、結は清那からスマートフォンを取り上げようと手を伸ばした。だが、それはあっさりと躱されてしまい、清那の脚を跨ぐ形で四つん這いになって必死に手を伸ばす。
「清那ー!変えろー!」
「だめ、せっかく結が描いてくれたんだから」
 どうにかしてスマートフォンを掴もうとするものの、手の長さで清那に勝てるわけもなく、数分戦った後、結は力尽きて清那の足の上へぱたりと倒れ込んだ。
 上半身だけを清那の足の上に乗せてうつ伏せになっていると彼の大きな手が頭を撫でてきて、頬をぷくっと膨らませる。
「清那がそんなの待ち受けにしてたらみんなびっくりするぞ」
「そしたら恋人が描いてくれたって言うよ」
 『恋人』の響きに一瞬ピクッと身体が反応し、何と返事をすれば良いのか口ごもってしまう。
 急に黙ってしまった結のことを清那も不思議に思ったのか顔を覗き込もうとした瞬間、清那のスマートフォンから電話の着信音が鳴り響いた。清那は画面を確認してから電話に出ると二言三言だけを交わし、すぐに電話を切った。
「結、悪い、もう行かないと」
「あれ、そういえば今日珍しく早く起きたの、何か用事あった?」
「うん、ゼミのグループワークを一限にやるから絶対遅刻するなって教授から言われてて。今の電話はゼミの奴から」
「あー、清那のとこのゼミの教授怖いもんな。じゃあ早く行かないと」
 清那の上に乗っていた身体を退かし、ソファに座ると清那が何か言いたげな表情をしてこちらを見つめてきた。一体どうしたのだろうかと首を傾げる。
「結…」
「ん?」
「…いや、なんでもない。結は今日帰ってくるの遅くなりそう?」
「今日は最後が四限だったかな。そのあとサークルもないからそんな遅くならないと思う」
 今日の授業を思い出しながらそう告げると清那は一つ頷き、本格的に時間がやばくなってきたのか急いで支度をして出かけていった。
 結は授業が二限目からだったため、まだ時間に余裕があり、カップに残っていたコーヒーを口に含んだ。
 さっき、清那が何かを言いかけていた。良いことなのか、悪いことなのか。今日の帰りの時間を聞いてきたということは今夜、その話をしてくれるかもしれない。
 早く聞きたいような、聞きたくないような。そんな複雑な気持ちを抱えたまま冷めた苦いコーヒーを飲み込んだ。

 大学の昼休憩中、次の講義へ向かうためにキャンパス内を歩いていると窓越しの食堂に清那の姿を見つけた。食事を終えたあとに談笑をしているのか、数人の生徒と一緒にいる彼はその中の誰よりも背が高く、イケメンだ。それが自分の恋人だなんて、大学内で彼を見ると余計信じられない気持ちになってくる。
 結は自然と足を止めて彼の姿を見つめてしまっており、一体自分は何見惚れているんだと、ふるふると頭を振ってその場を立ち去ろうとした瞬間、清那の横にいる女性が目に映った。彼女はキャンパス内でも有名な美人だ。昨年の大学祭では確かミスキャンパスにも選ばれていた。そんな彼女が清那と仲が良かったことに驚いたが、それよりも衝撃的な光景が目に飛び込んだ。
 清那も彼女もスマートフォンの画面を見せ合いながら楽しそうに話をしている。もちろん清那も学校内で笑うことはあるが、いつもの笑顔は何処か他人と一線置いているようにも見えていた。だが、そんな彼が家で結と一緒にいる時と同じように柔らかな笑みを彼女に向けている。
「ッ……」
 ズキッと胸が痛む。昨日の朝、将来の話が出たときに感じた胸の痛みと同じ。清那は友達、清那は期間限定の恋人。わかっているのに、心の中のズキズキとした痛みはますます広がっていく。
 その光景から目が離せずにいると、窓の向こうの清那が突然、窓の外へと目を向けた。結の視線と清那の視線がバチリと合った瞬間、結はその場から一目散に逃げ出していた。確実に目が合ったのに逃げ出してしまったことに罪悪感が溢れる。だが、今、彼と合ったとしてもどんな顔をして、どんな話をすれば良いかわからなかった。
 結は人気のないトイレの個室へと駆け込んだ。鍵を閉めた扉へと背中を寄りかからせ、はぁはぁと乱れる呼吸を整える。さっき見た光景が頭から離れず、清那の笑顔と隣の女性の笑顔が脳内で交互に浮かび上がり、気付けばじわりと浮かび上がった涙が目尻から零れ落ちて頬を伝っていた。
「ふっ、ぅっ…なん、でっ…ひっ、くっ…うぅっ…」
 一度溢れた涙は止まることなく、次から次へと溢れ出てくる。ずるずるとその場にしゃがみ込み、腕の中に顔を埋めて嗚咽を漏らす。どうしてこんなにも涙が溢れてくるのか自分でもわからなかったが、決壊してしまった涙腺はコントロールすることができず、結はその場で声を抑えながら泣き続けた。
 どれくらいの時間が経ったのか、流れ続けた涙がやっとのことで止まり、ポケットからスマートフォンを取り出すととっくに講義の時間が過ぎてしまっていた。サボってしまったことに深い溜め息を吐きながらスマートフォンのロックを外すとそこには清那からのメッセージが入っていた。
『何かあった?大丈夫?』
 目が合って逃げ出したのは結のほうなのに、そのことを責めることなく優しい言葉をかけてくれる。何処まで清那は優しいんだ。その優しさに再び涙が溢れそうになるのを必死に堪え、結は震える指先で返事を打った。
『さっきはごめん、大丈夫』
 講義中だからすぐに返事はこないだろうと思ったのだが、清那からの返事は予想外にすぐ返ってきた。
『帰ったら教えて』
 その言葉に少し躊躇ってしまう。だが、仮にも恋人だ。逃げ続けるわけにはいかないだろう。上手く話せる気はしなかったが、結は覚悟を決めて簡潔に返事を打った。
『わかった』
 それだけを返し、スマートフォンをポケットへと戻す。はぁっ、と一つ息を吐いてトイレの個室から出て手洗い場で鏡を見ると、そこに映っていた顔はあまりにもひどいものだった。泣き過ぎた目は目尻まで赤くなっており、瞼も少し腫れてしまっている。
 バシャバシャと冷たい水で顔を洗い、再び鏡を見るがやはりそんなすぐには赤みも腫れも治まってはくれず、結は再び溜め息を零した。こんな姿で友達には会いたくないし、講義に出る気も起きない。結は少しの間そこで思案した末、再度時間を確認した。
(これは清那と上手く話せるようにするためだ)
 そう自分に言い聞かせて結が向かった先は昼から飲める居酒屋だった。講義をサボった上に昼から飲んでしまうなんて罪悪感もあったが、それよりも今はこのもやもやした気持ちを晴らし、清那としっかり話せるようにすることが最優先だ。お酒の力を借りればきっと上手く話せるはず。
 結は酒とつまみを注文し、届いたビールを流し込んだ。先ほど泣き過ぎたせいなのか非常に喉が渇いており、ジョッキの中身を一気に飲み干してしまう。すると、カウンター席の隣に座っていた少し年上の男性の笑い声が聞こえてきた。
「お兄さん、良い飲みっぷりだね」
「えっ、あ、あはは…喉乾いてて」
 苦笑いを浮かべると男性は何かを見つけたかのように結の顔をじっと見つめてきた。その視線は目元を見ているように思え、結は自分の目元にそっと手を当てた。
「あ、あのー…俺、何か変ですか?」
「あー、ごめんごめん、目、赤くなってるからどうしたのかなって」
「……やっぱ目立ちます?」
「ちょっとだけね。ねぇ、俺も一人で飲んでるからさ、もし良かったら一緒に飲まない?お兄さん、なんか悩んでるみたいだし、俺で良ければ話聞くよ」
 気さくに話しかけてくる男性はニコニコと人当たりの良さそうな笑顔を見せている。服装は派手目で、指にはごつい指輪を付けているが一見して悪い人のようには見えない。そして、何より今は少しでも気分を晴らしたかった。初めて会った人であっても酒の席ならばそこまで気負わずに話せて気分転換になるかもしれない。結がこくりと頷くと男性の表情は更に明るくなり、少し距離のあった椅子を近付けてきた。
「いいねいいね、ノリが良い子好きだよ。それじゃあ俺たちの出会いを記念して、乾杯しようか」
 追加注文した酒が到着し、ついでに何品か料理も注文する。酒を飲みながら会話していると彼の話は非常に面白く、三十分も経たないうちにすっかり打ち解けていた。手を握られたり、太腿に触られたりと少しスキンシップが激しいようにも感じたが、酔っ払った思考ではそこまで深く考えることもせず、ぐびぐびと酒を煽っていった。
「そういえば、結ちゃんって付き合ってる人とかいるの?」
「え、んー…いると言えばいるんですけど…」
「あっ、もしかして、目が赤くなってた原因ってそれ関係?」
「まぁ…」
 曖昧な返事をしながらぐびっとレモンサワーを流し込むと炭酸のしゅわしゅわとした感じがやけに喉に刺さるような感じがした。知らず知らずのうちに難しい顔をしてしまっていたようで、男性に眉間をぐりぐりと指先で押されてしまう。
「ほらほら、難しい顔しないで。お酒も飲んでるんだしさ、ちょっとお兄さんに話してごらんよ」
「……付き合ってはいるんですけど、相手が自分のことどう思っているのかよくわからなくて…」
「優しくないとか?」
「いえ、すごく優しいんです…優しすぎるくらい……」
 話していると鼻の奥がツンとする感覚があり、じわりと涙が浮かびそうになる。昼間見た光景がフラッシュバックし、心の中に暗い影を落としていく。グラスを両手で握り締めながら次の言葉が発せずにいると男性の手が結の手に触れた。
「大丈夫?」
「はい…すみません…」
「いいよ、ゆっくり話して」
「……今日、美人な子と一緒に楽しそうに話しているのを見ちゃったんです…」
「…浮気?」
 男性に言われた一言にグラスを握る手にぎゅっと力が入る。違う、と言いたかった。だが、あの光景を見てしまったら素直に否定することができなかった。あの時の彼は、いつも大学ではそんな風に笑わないのに結に笑いかけてくる時と同じような少し砕けた楽しそうな笑顔を見せていたからだ。もやもやとした気持ちが再び広がっていく。すると、男性が結の頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「そんな暗い顔してたらせっかくの可愛い顔が台無しだよ?ほら、お酒飲んで、そんなこと忘れちゃおう」
 こくりと頷くと男性はこの雰囲気を変えるかのように話題を明るいものへと変え、追加の酒も大量に注文した。結も昼間の出来事を消し去るかのように飲むペースを上げてしまい、気付けば足元がふらふらになってしまっていた。
 お店を出ると辺りはすっかり暗くなってしまっており、肌寒い空気が頬を撫ぜる。泥酔して真っ直ぐに歩けなくなってしまった身体を男性に支えられながら歩いていくとだんだんと人気がなくなっていき、気付けば辺りには誰もいない通りを二人で歩いていた。
「結ちゃん」
 視界がくらくらと歪む中、突然、男性が立ち止まった。彼に支えられていた結も必然的にそこに立ち止まるしかなく、いきなりどうしたのかと男性の顔を見上げると彼は結の顔をじっと見つめている。
「あの、どうしまっ…⁉」
 ドンッと背中に強い衝撃を感じ、一瞬息が詰まる。一体何が起こったのかと目の前を見ると男性が結の両肩を両手で壁に押さえつけていた。その雰囲気は居酒屋で見たものとは違い、野獣のような危険な雰囲気を漂わせている。頭の中で警鐘が鳴り響き、逃げなければいけないと思ったのだが、男性の手が結の顎を捕らえた。
「結ちゃん、君が付き合ってるって言ってた子、男の子でしょ」
「えっ…なんで…」
「浮気の話したとき、一緒に話してたのが美人な子って言ってたでしょ。だから付き合ってるのは男の子かなと思って。図星?」
「…男だからって何の関係が…」
「男の子がいけるなら、俺でもいけるよね。大学生なんてどうせヤりまくってるんでしょ?結ちゃんは可愛く鳴いてくれそうだよね」
「ひっ…!」
 男性の顔が近付き、その唇が結の唇に近付いてくる。
 嫌だ、怖い、助けて、清那…。
 恐怖に押しつぶされそうになりながら心の中で助けを求めるが、清那はこの場にはいない。
 近付いてくる相手から目を逸らすようにぎゅっと目を瞑ると脳裏に今朝の光景が蘇ってきた。ベッドで清那に抱き締められながら、気持ち良さそうに寝ている彼の唇に指で触れた。その唇は深夜、結の首に触れた。彼の柔らかく綺麗な唇は結に優しく微笑みかけ、結を笑顔にしてくれる。
 結は瞑っていた目をパッと開けた。
 こんなわけのわからない相手にキスされるなんて絶対嫌だ。
 ぎゅっと手を握り締め、相手の唇が触れそうになった瞬間、右手で男性の腹に拳を打ち込んでいた。
 まさか殴られるなんて思ってもいなかったであろう男性が僅かに身をかがめた隙に逃げ出そうとしたのだが、逆上した男は結の胸倉を掴んできた。そして、何の躊躇いもなく彼は結の頬を殴り、彼の付けていたごつい指輪が当たってじんじんと痛みが広がっていく。
「結ちゃん、面白いことしてくれるじゃん」
 男性の瞳は狩りをする獣のように煌々と輝いており、この状況を楽しんでいるようにも見える。相手が再び結の顎を掴み、噛みついてこようとした瞬間、結の名前を呼ぶ声が響いた。
「結!」
「せ、な…?」
 まさか清那が現れるなんて思わず呆然としていると、身体が強い力でぐいっと引っ張られ、気付けば清那の腕の中に抱かれていた。温かい腕の中で彼の心臓がバクバクと大きく音を鳴らせている。
「ハッ、お前が浮気野郎か」
「……」
「おい、浮気野郎。そこの結ちゃんは誰にでも尻尾振るような軽い奴だぞ。俺にべたべた触られても文句一つ言わなかったんだからな。とっとと別れたほうが良いんじゃないか?そうしたら俺がたーっぷり可愛がってやるからさ」
「黙れ!」
 清那の怒鳴り声が響く。今にも男に殴りかかりそうな勢いに、結は彼の服をぎゅっと掴んでその身体を止めた。
 それは、清那を喧嘩に巻き込みたくなかったからだ。もしこれで警察沙汰にでもなったら就活にも影響が出てしまうかもしれない。清那にもっと迷惑をかけてしまう。そんなの絶対にダメだ。
 彼の身体を必死に止めながら、『別れたほうが良いんじゃないか』と男に言われた言葉が脳内でぐるぐると回る。もし、男の言う通りに別れれば、これ以上清那に迷惑をかけずに済むのでは…。
 優しさで付き合ってくれている彼をこんな面倒事に巻き込んでしまったことに申し訳なさが募っていく。そして、一度ぎゅっと目を瞑ったあと清那のことを見上げて意を決して口を開いた。
「清那、俺…」
「駄目」
「えっ…?」
「別れるなんて許さない」
 清那は鋭い視線で男のほうを睨みつけており、決して結のことを手放さないというように抱き締める腕の力が強められる。だが、彼のその手は僅かばかり震えているようにも感じられた。
「なぁ、兄ちゃんよぉ、結ちゃんは今別れるって言おうとしたんじゃないか?いいのか、そんな無理強いして」
「……」
「お前のせいで結ちゃんは目真っ赤になるまで泣いてたっていうのも知らないんだろ?可哀想だと思わないのか?ハハッ、その様子じゃ、もしかしてセックスする時も無理矢理してんのか?結ちゃんを泣かせるのは楽しいか?」
 男の言葉に清那が何か言い返そうと口を開きかけたが、それよりも早く結が清那の腕の中から大きな声を上げた。
「清那はそんなんじゃない!」
「あ?」
「清那はお前なんかと違う」
 結は今にも男に飛び掛かりそうな勢いだったが、清那に抱き止められたため、視線だけで男を威嚇する。こんな状態で睨みつけても怖く見えないかもしれないが、それでも睨み続けていると男はニヤニヤした笑みをスッと消し、途端に呆れた表情を見せた。
「……チッ、興ざめだな」
 男は突然興味を失ったように両手を軽く上げ、もうこれ以上言い合う気はないという態度を見せた。相手からの攻撃的な態度がなくなったことに僅かばかり安堵したが、二人の傍に男が歩み寄ってきたことに再び緊張感が走る。だが、彼は殴りかかってきたりはせず、清那の肩を軽く叩き、耳元に口を寄せた。そして、清那にしか聞こえない声で囁いた。
「今日は諦めてやるよ」
「……」
 結には男が何を言ったのか全く聞こえなかったが、男の言葉を聞いたあとの清那の顔が強張っていることに不安気な視線を向ける。男は一度ニヤッと口角を上げ、その場を去って行った。
「せ、清那…」
「……帰ろう」
「う、ん…」
 抱き締められていた身体が解放され、代わりに右手首を掴まれる。少し痛くも感じたが、結は黙って清那の後をついて行った。
 家に帰るまでの間、清那は一言も喋らなかった。何度か彼の背中に向かって話しかけようとしたものの、口を開いては何も言葉にすることができずに口を噤んでしまい、結局家に着くまでの間、手を引かれながら無言で歩くしかなかった。
「ここに座って」
 家に着き、清那のベッドに座るように言われる。その声には何の感情も篭っていないようで、結の不安はますます大きくなっていく。すると、ベッドに座った結を置いたまま清那は寝室から出て行ってしまった。突然寝室で一人にされ、不安に押し潰されそうになりながら俯く。
 清那は絶対怒っている。それは当然だ。結が一人で飲みに行って変な男に絡まれ、こんな面倒なことに巻き込んでしまったのだから。
 自分の不甲斐なさに涙が浮かびそうになっていると寝室の扉が開かれ、清那が戻ってきた。その手には救急箱を持っており、結の横に座った彼はその救急箱から消毒液と絆創膏を取り出した。
「結、こっち見て」
 恐る恐る俯きながら清那のほうへ顔を向けると顎を優しく手で掴まれ、上を向かされる。そして、消毒液のついたコットンが頬へと触れた。
「痛っ―!」
 ズキッとした痛みが走り、我慢できずに声を上げてしまう。消毒液が沁み込む感覚にぎゅっと目を閉じ、再び開けるとコットンには血が付着していた。そこで初めて男に殴られた時に血が出ていたことを知った。きっと彼の付けていた指輪のせいだろう。
 清那は丁寧に血を拭き取った後、絆創膏を傷の上へと貼り付けた。そして、そのまま頬を優しく撫でられ、清那の暗かった目がフッと柔らかなものへと変わる。傷を癒すような優しいその手付きに緊張していた糸がぷつりと切れ、じわっと瞳に涙が浮かんだ。一度浮かんできてしまった涙は抑えることができなくなり、頬を伝い落ちていく。
「っ…うっ…清那っ…ごめん……ひっ、くっ…ごめっ…」
「うん、ゆっくりでいいから、何があったのか教えて」
「…う、んっ…」
 こくっと頷き、一つ息を吐いてしゃくり上げそうになる呼吸を整える。全部しっかり清那に話さなければ。そう思って涙の混じった震える声で話し始めた。
「…昼間、清那が美人な子と楽しそうに話してるの見て…なんかもやもやしちゃって…お酒飲んで気を紛らわせようと思って飲み行ったらあの人に話しかけられた…それで、帰り道でキス、されそうになって…相手のお腹に一発くらわせたら、殴られた…」
 話しているうちにあの時抱いた恐怖心が再び顔を覗かせ、抑えようとしていた涙がじわじわと溢れてくる。落ち着け、落ち着け、と心の中で願えば願うほどに視界はどんどん歪んでいき、声を震わせながらあの時の怖かった気持ちを吐露する。
「…ひっ、ぅっ…こわ、かったっ…殴られたことより…キス、されそうになったのが…怖くて…っ…嫌だった…」
 ぼろぼろと溢れる涙が頬を伝っていく。それを清那の指が優しく掬い取り、赤くなった目尻を親指で撫でられた。右手だけで撫でられていた頬は気付けば両手で包み込まれ、彼の温もりにますます涙が出てしまう。
 目尻に溜まっていた大粒の涙が流れ落ち、歪んでいた視界が一瞬だけ明るくなる。
 その瞬間、唇に柔らかいものが触れた。ちゅっと軽い音が鳴り、大きく目を見開く。目の前には清那の黒くて長い睫毛。すぐ近くにあったそれが離れていく。あまりの驚きに溢れていた涙が止まり、思考が停止してしまっていると清那が柔らかく微笑んだ。
「これは嫌?」
「……いや、じゃない…」
 清那からの初めてのキス。嫌な気持ちは何もなかった。それは柔らかく、結が流した涙のせいなのか、少ししょっぱかった。
 結が呆然としていると再び清那の顔が近付いてきた。そして、再び唇が重ね合わされる。今度は先程よりも長く、啄むように数回。体温がどんどん上がっていくような感覚と少しの息苦しさに薄く唇を開くと清那の舌がその唇を割り開いてきた。
「んっ…ふっ…っ…」
 唇の隙間から吐息が零れ落ち、口内に侵入した清那の舌が結の舌先に触れてくる。熱い唾液を纏った舌に口内を舐められると身体が勝手にぴくぴくと跳ねてしまい、縋るように清那の服を掴んだ。深い口付けがこんなにも心地良いものだとは思わず、先ほどとは別の意味で目尻に涙が浮かんでくる。
 ゆっくりと唇が離されると二人の間にはどちらのものかもわからない透明な唾液の糸が繋がった。
「これは?」
「へ…?」
 口付けだけで脳が溶かされたような気分になっており、清那が何を聞いているのか一瞬理解できなかった。ぽやんとした様子の結に清那は笑みを浮かべ、結のことを優しく抱き締めて耳元で囁いた。
「今のキス、嫌じゃなかった?」
「……嫌じゃない」
 結の反応に耳元でフッと息を零すような笑みが聞こえ、そのままちゅっと耳にキスを落とされる。軽いキスをした唇は耳の形をなぞるように動かされ、ぞくぞくとした快感のようなものが身体を這い上がっていく。清那の息遣いがダイレクトに脳に伝わってくるようで、結がきゅっと瞼を閉じると軽く耳を噛まれ、次いで低い声が響いた。
「これはどう?」
「ひ、ぁっ…そこで、喋るなぁっ…」
「嫌?」
 ぺろりと耳を舐められ、大袈裟なほどに身体が跳ねてしまう。結の返答を促すかのようにかぷかぷと甘噛みを繰り返され、結は快感の混じった声を上げた。
「ぁっ…嫌じゃないけどっ…んっ…嫌ぁ…」
「フッ…どっち?」
 自分でもわけがわからないことを言ってしまったが、清那に触れられること自体は何も嫌ではなかった。彼が触れた場所全てが気持ち良くなるような気がしたからだ。
 返事ができず口を噤んでいると清那が顔を覗き込んできた。彼の口角が満足気に上がり、その唇に目を奪われてしまう。薄く形の良いその唇がさっき結の耳を舐めてきたのかと思うと顔が熱くなっていき、恥ずかしさから視線を横へと逸らした。
「結、教えて。結が嫌なことはしないから」
 優しく囁かれ、逸らした視線を一度彼へと戻し、また横へと逸らす。そして、小さくぼそっと呟いた。
「……清那なら……何処触っても、いい…」
「本当に?」
「んっ……けど、耳は変な感じするからダメ…」
 その言葉に清那がクスッと笑い、今度は唇ではなく指先で耳に触れてきた。先ほどの口付けで敏感になってしまったのか、結はそれだけでビクッと身体を震わせてしまい、恥ずかしさで顔だけでなく耳まで真っ赤になってしまう。
 清那の指は耳から首筋へとなぞっていき、それは胸の辺りで止まった。そして、目をじっと見つめられる。
「結、俺は結のこと大事にしたいと思ってる。だから、結が思ってることも知りたい。あの男が言ってた、泣いてたっていうのは俺のせい?」
「……清那は悪くない…」
「嘘、しっかり俺のこと見て。昼間、俺が女の子と話してるの見たんでしょ?」
「……うん」
「それ見てどう思った?」
「……嫌、だった……ごめん…清那は優しいから俺に付き合ってくれているだけなのに…こんなこと言ったら迷惑だよな…」
 申し訳なさから徐々に消え入りそうな声になっていくと、清那が軽く溜め息を吐いた。呆れられてしまったのかと思い、俯くと両手で両頬を包まれ、再び唇に清那の唇が重ね合わされる。そして、軽い口付けの後に唇が離されると、こつんと額に清那の額が当てられた。
「結、俺が優しさだけで付き合ってると思ってるなら、それは間違ってるよ」
「え?」
「まず、昼間の女の子のことだけど、あの子は俺の従姉妹。最近猫を飼い始めたって言ってたから写真を見せ合ってたんだよ」
 従姉妹、と聞いて驚きと共に安堵感が広がっていく。清那もその子も美男美女でお似合いだと思ったが、従姉妹というのならばその顔やスタイルが良いのも納得できる。
「結が朝ご飯作ってくれたときに将来の話したけど、あれも結がずっと隣にいてくれたら幸せだな、と思ってしたんだよ。あの時の結の反応がちょっとおかしかったから気になってたんだけど、もしかしてあの場で他の子の話するなんて、俺がそんなひどい人間だと思った?」
「……ちょっとだけ…」
 フッと清那が笑みを零し、親指で目元を撫でられる。
「ちゃんと言わなかった俺も悪いけど、結は鈍感すぎ。俺は好きな子以外にキスしたりしないよ」
「……好き?清那が、俺を?」
「うん、友達としてじゃなく、恋人として。結のことが好き。結は俺のことどう思ってる?」
 清那から言われた『好き』という言葉が未だに信じられず、少しの間考え込んでしまう。今までいろんな人と付き合ってきたが、好きという感情がいまいちわからずにいた。こんな風に相手のことが気になり、嫉妬したり、泣いたり、そんな経験は今まで一度もなかった。しかし、清那がもし他の子と付き合うことを考えたら……それはすごく嫌だ。
「……好き…なのかも…」
「かも?」
「…うん、好きってよくわからなくて…今までも好きってどういうのかよくわからなかった…」
 自信なさげに告げると清那は呆れることもなく、微笑みを浮かべた。こんな近い距離で微笑まれるとドキドキと鼓動が早まっていき、顔も熱くなっていく。
「じゃあさ、試してみようよ。結が俺のこと好きなのかどうか。嫌だと思ったら突き飛ばしてくれていいから」
「試す?」
 どんな風にして試すのだろうか。そう思った瞬間、清那が結の身体をベッドへと押し倒した。視界が急に変わり、驚きで目をぱちくりさせてしまう。すると、清那が結の肩口に顔を埋め、耳元で囁いた。
「結、俺は結のことを抱きたいと思ってる。結の全部を愛したい」
 吐息混じりの熱っぽい囁き。それはじわじわと脳に響き、無意識にごくりと唾を飲み込んだ。正直、男同士のやり方なんて知らなかったが、清那がしたいことにはしっかりと答えたいと思った。
 覆いかぶさる彼の背中にそっと手を回し、小さく答える。
「良いよ、清那の好きにして」
 結の言葉に首元から安堵の溜め息が聞こえた。そして、彼は顔を上げ、結の顔をしっかりと見た後、唇を重ね合わせた。先ほどと同じように唇を薄く開けば彼の舌が口内へと侵入し、結の舌を絡めとっていく。熱い舌が口蓋や歯列をなぞっていき、時折じゅっと舌を吸い上げられると腰がびくびくと震えてしまい、重なった唇の隙間から吐息が零れ落ちた。
 口付けに夢中になっていると清那の左手が結の耳を撫ぜていく。耳の形をなぞるように動かされていたかと思ったら耳を塞がれてしまい、片耳だけだが塞がれたことにより口内で絡み合う舌や唾液の音がやけにリアルに脳内に響いて変な気分になってくる。
「んっ…は、ぁ…っ…清那、それ、やだぁっ…」
 口付けの合間に訴えると案外あっさりと手を外してくれた。外された左手は首筋を通り、服の上から胸を撫でてくる。膨らみも何もない胸を触って楽しいのだろうかと不思議に思いながら特に止めることもせずにいると、彼の手が服の中へと侵入してきた。服の上から触られていた場所を直に触られ、親指と人差し指で乳首を摘ままれるとぞわぞわと変な感じがする。女の子じゃないんだからそんな場所で感じるはずないだろうと思っていたが、絶妙な力加減で捏ねられ、時折摘ままれ、ビクッと身体が跳ねてしまった。
「んぁっ…!」
 自分のものとは思えない高めの声が上がってしまい、羞恥で口を塞ぎたくなったが、もっと声を出させるかのように清那はその場所を何度もくりくりと弄ってきた。
「ゃ、あっ…そこっ、へんっ…」
「気持ち良い?」
「わかんなっ…あぁっ!」
 清那の身体に結の身体のある部分が当たり、更に恥ずかしい声を上げてしまった。それは結の悩みの種でもあった場所。そこに清那の手がそっと触れ、ゆっくりと擦り上げられると今までに感じたことのない快感が身体を駆け巡る。
「結、勃ってる」
「う、そ…?」
「本当」
 清那に手を掴まれ、自身の股間へと導かれる。そこは確かに硬度を持っており、信じられないという表情で清那の顔を見ると彼は微笑みを浮かべ、結の額へと口付けを落とした。
「結、好きだよ」
「……!」
 その瞬間、感情が一気に溢れ出し、清那に対する気持ちにようやく気が付いた。
 清那のことが好きだ。
 かっこいいところも、優しいところも、朝に弱いところも、結との将来を考えてくれるところも、こんなはっきりしない自分を待っていてくれたところも、全部ひっくるめて清那のことが好きだ。
 そう自覚した瞬間、何故かこの状況が急に恥ずかしくなってしまい、結は両手で顔を覆い隠した。
「どうしたの?」
「うー…だめ、今見ないで」
「結、顔が見たい、見せて」
 顔を覆い隠している手にちゅっちゅっと口付けを落とされ、結は恥ずかしいながらも手を少しだけ下げてそこから目を覗かせた。恥ずかしさと清那のことを好きだと自覚したせいなのか色素の薄い茶色の瞳は涙でうるうると潤んでおり、清那の顔を見ると本当にキャパオーバーになりそうだった。
 再び目を隠そうとしたのだが、清那の手がそれを阻んだ。両手を一纏めにされ、頭上へと上げられてしまう。
「あっ!清那、やめっ!」
「ちゃんと顔見て抱きたい」
「うぅっ…」
 力で清那に敵うわけがなく、結は抵抗を止めるしかなかった。力を抜くと清那も掴んでいた両手を解放し、落ち着けるように結の頭を撫でた。
「服、脱がしてもいい?」
「……だめ」
「えっ」
 ここで断られるとは思っていなかったようで、さすがの清那も変な声を上げた。彼がそんな声を出すことなんて滅多にないため、くすくすと笑いが込み上げてくる。彼の反応で少し余裕ができた結は清那のことをぎゅっと抱き締めた。
「自分で脱ぐから、清那は後ろ向いてて」
「見てちゃ駄目なの?」
「だめ」
 きっぱりと言い切り、抱き締めていた腕を解く。結が嫌がることはやらないと言っていた清那は渋々といった様子ではあったが、ベッドから起き上がり結に背中を向けた。そして、清那自身も自分で服を脱ぎだした。彼がTシャツを脱ぐと綺麗に筋肉のついた背筋が現れ、それを見ただけでドキドキとしてしまう。
 清那のことを見つめていた視線を外し、結も寝転んでいた身体を起こしてTシャツを脱いだ。そこに現れた色白の肌と筋肉の目立たない身体に少しばかり悲しくなる。この身体を見て清那が幻滅したらどうしよう…。自分の身体に自信が持てずに自分で脱ぐなんて言ってしまったが、もしかしてこっちのほうが恥ずかしいことだったのでは。
 ぐるぐると考えてしまっていると清那が背中を向けたまま尋ねてきた。
「もういい?」
「ま、待って!」
 慌ててズボンと下着を一気に脱ぎ捨てるとそこは清那に言われた通り勃起しており、僅かながらに透明な汁も滲ませていた。顔がカーッと熱くなり、結はズボッと布団の中へとその身を隠してしまった。
(こんなところに隠れてどうするんだ俺…!)
 恥ずかしさのあまり、つい布団に潜り込んでしまった。真っ暗になった視界の中でこのあとどうしようかと考えているとずしっと重みが加わり、布団の上部が捲り上げられる。
 顔だけを出した状態で布団に跨る清那と目が合う。彼ももちろん服を着ていない。
「結、どうして隠れるの?」
「うぅ…」
「結?」
「…俺の身体見てガッカリしない…?」
「するわけないよ。言ったでしょ、結の全部を愛したいって」
 頭を撫でられ、結はおずおずと布団を下げた。二人の間にあった布団が退かされると結の身体が露わになり、それと同時に、必然的に清那の身体も見えてくる。彼の陰茎が視界に入るとドクッと心臓が大きく音を鳴らせた。それは想像以上にでかく、すでに勃ち上がって透明な液体を滲ませている。思わずそこに目線が奪われてしまっていると清那がクスリと笑いを零した。
「見すぎだよ」
「だって、お前のそれ、でかすぎ…」
「結のこと見てたらこうなった」
 さらっと恥ずかしいことを言われ、言い返すことができずに口を噤んでしまうとその口を清那の唇で塞がれた。舌を絡め合わせ、身体も密着させる。お互いの勃起した陰茎が身体に擦り合わされ、先走りの液体で触れた部分がじんわりと濡れていく。
 口付けも擦り合う身体もお互いが快感を求めるように動きが激しくなっていき、結はそのまま達しそうになっていた。だが、清那が突然動きを止め、真剣な顔で結の顔を見つめてきた。
「は、ぁっ…結…結の中に入りたい」
「……?」
 中に入る…?どうやって…?
 清那の言葉の意味がわからずにきょとんとしてしまう。女の身体のように入れる場所なんてないはずなのだが、何処に入りたいというのだろうか。清那の言ったことを必死に考えていると一つの答えに至った。
「入るって、口に入れたいってこと?」
 結には口以外に入れる場所なんて思いつかなかった。フェラチオなら確かに男の身体でもできる。清那のモノはかなり大きいため全部を咥えられる自信はないが、それでも半分くらいならいけるかもしれない。
 そんなことを考えていると清那がプッと吹き出した。そのままくすくすと笑いだし、結は何かおかしなことでも言ったのだろうかと不思議な顔をしながら清那のことを見つめる。
「結、男同士はね、ここを使うんだよ」
 そう言った彼の指が結のあらぬ場所、後孔に触れた。
「えっ⁉」
 信じられずに硬直していると清那の指はそこをふにふにと押し、本当に入ってこようとしている様子に首を横にふるふると振る。
「無理、無理、そんなとこ入らない!」
「大丈夫、準備してるから」
「準備…?」
 彼はサイドテーブルへと手を伸ばして引き出しを開けた。そこから取り出したのは透明な液体が入ったボトルと四角い箱。使ったことのない結にだってわかる。その箱はコンドームだ。まさか清那がそんなものを用意していただなんて。
 いや、もしかしたら前の恋人と使った余りかもしれない。清那の前の恋人の…。
「……」
 結は自分が考えたことに少し気分が沈んでしまった。清那に前の恋人がいたっておかしくない。その恋人と性交をしていたっておかしくない。考えてはいけないとわかりながらも一度思ってしまったことはなかなか消えずに暗い気分になってしまう。
 突然静かになった結を不審に思ったのか清那は結の顔と手に持ったものを見比べた。そして、結の考えていることがわかったのか、少し口角を上げてその箱とボトルを結の目の前に差し出した。
「結、よく見て」
「ん…?」
「未開封だよ。これは結とヤりたくて買ったやつ」
「えっ…!」
 付き合ってから今日まで、清那は身体の関係を望んでいる素振りなんて一切見せてこなかった。付き合う時に身体目的ではないと言っていたし、男同士なのだからそれが当たり前だと思っていた。よく抱き締められたりはしていたものの、それは性的な意味合いが含まれているようには思えず、首の後ろにキスされたときだって軽く触れたのみでそれ以上のことは何もしてこなかった。
 一体いつから清那はこれを準備していたのだろうか。
「結、実はね、俺は初めて二人で飲みに行った時から結のことが気になってたんだ」
「初めて二人で飲んだ時…?」
 結と清那が初めて二人で飲みに行ったのは、結が大学で初めてできた彼女と別れた時だ。あの時の会話はほとんど覚えていなかったが、楽しかった記憶とまた次の彼女を作れば良いや、と笑いながら言っていたような気がする。
 もし、本当にあの時から気になっていたとしたら、清那は結が何人もの女の子と付き合い、別れる度に泣きついてくるのを文句一つ言わずに見てきたことになる。
 途端に罪悪感が胸を覆い、申し訳なさから眉尻を下げて清那の顔を見つめると彼は結のことを責めるつもりはないというように瞼に口付けを落とした。
「結が女の子と付き合いたいのは知ってたから、こんな風に付き合えるなんて本当は思ってなかった。付き合ってからも俺が欲を出して結を怖がらせたりしないか不安だったんだけど、もし、結とこういうことできたら良いなと思って、気付いたら買ってた。けど、結が嫌だって言うなら止めるよ」
 清那はずるい。こんなことを言われて断れるわけがないのをわかっていながら最後の判断は結に委ねてくる。正直、尻に何かを入れるなんて恐怖でしかなかった。けど、清那なら、受け入れられるかもしれない。いや、受け入れたい。
 結はまだ残る恐怖心を隠すように笑顔を見せ、清那に口付けをした。
「良いよ、清那。俺も清那とヤりたい」
 恥ずかしさもあったが、脚を左右に開いて清那が触れやすいようにすると、清那は結の頭を撫で、透明な液体の入ったボトルの封を開けた。トロッとした液体が清那の手の平の上に落ち、少し温めるように指で捏ねてから液体を纏った指が結の後孔へと触れてくる。
「んっ…」
 二本の指が皺を広げるように動き、そのうちの一本がゆっくりと中へと侵入してきた。滑りもあるため指一本ならば痛みはほとんど感じなかったが、やはり異物感は拭えない。結は彼の指を締め付けないように大きく息を吐き、深呼吸を繰り返した。
「平気?」
「んっ、だい、じょぶ…」
 指は徐々に奥へと埋められていき、第二関節くらいまで埋まった辺りで突然、内壁をトンッと叩かれた。
「んぁっ…!」
 そこを指先で叩かれた瞬間、感じたことのない刺激が身体を駆け巡った。性感帯を直接触られるような強い感覚に目を白黒させていると清那の指が再びそこをトンットンッと叩き、出したくもないのに勝手に甲高い声が上がってしまう。
「ゃ、あっ…そこ、へんだからぁっ」
「ここ、結の気持ち良いとこ?」
「んっ、あっ、わかんなっ…ひぅっ!」
 びくびくと身体を震わせていると一本だった指が二本へと増やされ、その二本の指が先ほどの場所を挟み込むように擦り上げてきた。強すぎる快感に目の前が白く明滅し、呼吸が上手くできずにはくはくと口を動かす。触れられてもいない陰茎からは気付けばたらたらと透明の液体がとめどなく溢れ出しており、それは薄い下生えすらもぐっしょりと濡らしていた。
 勃起できないことに悩んでいたのが嘘だったかのように、そこは清那から与えられる刺激によって痛いほどに勃ち上がっている。後孔内の刺激だけでもこんな風になってしまっているのに、清那は意地の悪いことに陰茎を左手で擦り上げてきた。
「ゃっ、ぁっ…!」
 先走りの液体に塗れた陰茎を上下に擦られ、裏筋や亀頭の括れをぐりっと押される。それと同時に後孔内の弱い部分を強く押された瞬間、頭が真っ白になる感覚に襲われた。
「イっ、ぁあっ…!」
 二箇所からの刺激に耐えることができず、身体をがくがくと震わせながらびゅくっと白濁の精液が白い腹の上に飛び散った。どろりとした液体が腹を伝ってシーツへと落ちていくが、そんなことを気にしている余裕などもちろんなく、細かな痙攣と霞んだ思考の中ではぁはぁと荒い呼吸を繰り返す。
 結が快感に震えている間、清那は結が落ち着くのを待ってくれていた。少しずつ震えが収まっていき、強張っていた身体の力が抜けた瞬間、二本だった指が三本へと増やされ、その圧迫感に微かな呻き声を上げる。
「うっ、ぁ…」
「結、あと少し頑張って」
 三本の指が後孔を拡げるように動き、慎ましく閉じていたそこが少しずつ受け入れる器官へと変えられていくような感覚に陥る。射精したばかりで脳内はぼんやりとしていたが、三本の指で内壁を擦られ、前立腺を押されればすぐに現実へと引き戻された。
「ゃ、ぁあっ…!」
 強すぎる快感に涙が勝手に溢れ、視界を歪めていく。シーツをぎゅっと掴んで耐えていると三本の指がずりゅっと突然引き抜かれた。物量を失った後孔は結の意思とは関係なくひくひくと収縮を繰り返し、それはまるで中に入れてほしいと訴えているようだった。
 清那はコンドームの袋をビリッと破り、自身の十分に勃起した陰茎へと付けた。ゴムに覆われた陰茎の先端を蕾へぴとりと当てると結がビクッと身体を跳ねさせ、震える瞳で清那を見つめてきた。入れて良いとは言ったがやはり恐怖心は完全に消し去れてなかったようで、シーツを握りしめる手は力を入れ過ぎて少し白くなってしまっている。
「結、怖い?」
 小さくふるふると首を振っているが、その瞳には明らかに恐怖の色が浮かんでいる。彼を落ち着けるように清那は結の唇へと口付けを落とし、優しく頭を撫でた。
「手、背中に回して」
「……いや…」
「どうして?」
「…清那のこと傷つけそうだから」
「フッ…大丈夫だよ。ほら、こっちのほうが結も安心するでしょ?」
 シーツを掴んでいた手を掴み、肩へと掛けさせる。肌の触れ合う箇所が増えると清那の言葉通り、先ほどより安心感が増し、結はおずおずと自らの脚も清那の腰へと回した。
 くちゅっと淫猥な音が鳴り、陰茎の先端が僅かに蕾の中に入り込むと結は少し眉間に皺を寄せたが、浅く息を吐いて清那の黒くて美しい瞳を見つめた。
「いいよ、清那、きて」
 こくりと頷いた清那がぐっと腰を押し進めると解された孔が彼の形に広げられていき、指とは比べ物にならない質量のものが狭い穴を抉じ開けてくる。
 息苦しさと痛みに襲われ、結は苦悶の表情を浮かべた。先ほどまで勃っていた陰茎は痛みのせいなのか萎えてしまっており、額には冷や汗が浮かんでいる。
 結の状態に清那は一度抜いたほうが良いかと思い、腰を軽く引いたのだが、それを結の脚が阻止した。
「ぃ、や…抜かないで…」
「けど…」
「いいの…大丈夫だからっ……清那、お願い…」
「…うん」
 中途半端な状態で止まられているほうが苦しく、結は彼の腰を自身の脚で押し、早く中に進むように促した。ずぷっと亀頭の膨らんだ部分が孔の縁を広げ、中へと入ってくる。そして、一番太い部分が通り過ぎた瞬間、ずぷぷっと一気に中へと押し入ってきた。
「いっ、あぁっ…!」
「くっ…」
 反射的にぎゅうぎゅうと締め付けてしまい、清那が苦し気な声を漏らす。清那の肩を掴む手にも力が入ってしまい、無意識に爪を立ててしまった。
「ゆ、いっ…力、抜いて…」
「ぅあっ…どうやって…ゃあっ…できなっ……んぅっ」
 力の抜き方がわからず、助けを求めるように清那を見つめると唇が重ね合わされた。熱い舌が口内に入り、結の舌と絡まる。互いの荒い息遣いが唇の隙間から零れ、口付けに意識を持っていかれると強張っていた身体の力が徐々に抜けていき、その瞬間に清那の陰茎がズズッと奥に進んだ。
「んぁっ…は、ぁっ…はぁ……はいった…?」
「ん…全部じゃないけど」
 清那の言う通り、陰茎は完全には埋まりきっていなかったが、それ以上奥に入ることはできず、清那の陰茎の大きさを改めて実感する。
「は、ははっ…やっぱ清那のおっきい」
 全てを収めてあげることができないのは少し悔しかったが、清那と繋がっていると思ったら痛みや苦しさよりも喜びのほうが大きくなり、ぎゅっと清那に抱きついた。彼の胸の鼓動が近くで聞こえると安心感が増し、何故か瞳に涙が浮かんでくる。
「結?泣いてるの?苦しい?」
「ううん、大丈夫……へへっ、なんか嬉しくて」
 瞳に涙を浮かべたまま笑顔を見せると清那も幸せそうに微笑んだ。それと同時に中に埋まっているものが少し大きくなったような気がして、結はそれをきゅっと締め付けた。
「清那、動いて、清那のでいっぱいにして」
「うん」
 最奥まで埋まっていた陰茎がずるずると引かれていき、張ったカリが前立腺を擦ると痺れるような快感が腰を駆け抜けた。ゆっくりと引き抜かれていく陰茎は再びゆっくりと中へ押し戻っていき、そのスピードは少しずつ速まっていく。肌と肌のぶつかるパンパンという音とローションの粘着質な音が結合部から鳴り響き、耳からも彼に抱かれているような気分になってくる。
 痛みで萎えてしまっていた結の陰茎も内壁を擦られることで再び勃起し、カウパー液を垂れ流しながら清那の鍛えられた腹筋にその先端を擦りつけていた。
「あっ、ぁあっ…んっ、清那っ…きもちぃっ…あぁっ」
「うんっ、俺も、気持ち良いっ」
 どちらともなく唇を重ね合わせ、結が舌を伸ばせば清那がそれを吸い上げた。強く吸い上げられると喉の奥から引っ張られているような気分になり、連動するかのように全身がぴくぴくと細かく痙攣する。生理的な涙が目尻からこめかみのほうへと落ち、枕をしっとりと濡らした。
 大きくぐちゅんっと最奥を突かれればその度に目の前に星が飛んだかのようにチカチカと明滅し、その感覚が短くなっていく毎に全身が解放を求めているようだった。
「せ、せなっ…イっ、きそっ…んっ、ぁあっ、イっちゃっ…」
「っ…ちょっと、我慢して」
「ふっ、ぇ…あぁっ⁉」
 今にも果てそうになっていたのだが、なんと清那が左手で結の陰茎の根元をぎゅっと握ってきた。これでは射精したくてもできなくなってしまい、結の瞳から大粒の涙がぼろっと零れ落ちる。
「や、ゃだぁっ…イきたいっ…せなぁっ」
 堰き止められた精液が中でぐるぐると回っているような気がして清那に縋りつくが、彼は手を放してくれず、パンパンと穿つ速度を早めてくる。
「あ、ゃあぁっ、せなっ、ぁあっ、せなぁっ…んんっ」
 イけない苦しさに喘ぎと涙の入り混じった声を上げると清那が噛みつく勢いで結の唇を塞いだ。舌を絡められ、呼吸が上手くできずに脳が白んでいく。その瞬間、パンッと最奥を大きく穿たれた。
「ッ――!」
 ビクビクッと全身が大きく跳ね、頭が真っ白になる。精液を堰き止められたまま絶頂し、背中を仰け反らせると清那の右腕にぎゅっと身体を抱き締められた。清那の低く呻くような声が遠くのほうで聞こえたような気がすると、次いで彼の身体がビクッと震えた。
「ゃっ……あっ……ぁ……」
 中でイかされたせいなのか絶頂の波が収まらず、ピクピクと震えながら重ね合わされた唇の隙間から震える声を零す。舌先まで全てが痺れているような感覚に舌が上手く動かせずにいると、清那の唇はそれを慰めるように深い口付けからちゅっちゅっと啄むような軽い口付けへと変わった。
 意識が朦朧としている中、解放を許されなかった結の陰茎を清那の手が根元から先端へと擦り上げ、腰がビクッと跳ね上がる。そして、その手が離されると堰き止められていた勢いのない精液が先端からトロッと溢れ、清那と結の腹の間に流れ落ちた。
「ふっ…うぅっ……」
 涙腺が壊れたかのように涙がぼろぼろと溢れてくる。身体はずっと小さな痙攣を繰り返しており、少しの刺激でも大袈裟に反応してしまい、コントロールすることができなくなってしまった。そんな結を慰めるように清那は結の頭を撫でた。
「結、ごめん、抑えが効かなくなった」
「っ…うぅ…清那のばかぁ…」
 ぐりぐりと彼の肩口に頭を押し当て悪態を吐くが、身体はまだふわふわとした状態から抜け出せておらず、少しでも油断すればすぐに意識が飛んでしまいそうだった。
「…っ、く…ぅっ…優しくするって…清那、言ったのに…」
「ごめん、嫌だった?」
 その言葉にはふるふると頭を振った。自分がおかしくなってしまうのではないかと思ったが、決して嫌などではなかったからだ。寧ろ、清那のあんな姿を見ることができたことに少し嬉しささえ感じてしまったくらいであり、これが惚れた弱みというやつだろうかと心の中で自嘲する。
 肩に押し当てていた顔を上げ、彼の顔をじっと見つめる。
 結の瞳は涙で潤み、長い睫毛にもその雫が付いている。目尻も赤く、顔には快感の跡がまだ色濃く残っていた。
 その表情に結の中に埋まったままだった清那の陰茎がぴくっと反応したが、さすがにこれ以上は無理だと結は一瞬顔を顰める。だが、次の瞬間には悪戯でも思いついたかのように軽くニッと笑みを浮かべた。疲れ切った身体は徐々に限界へと近付いており、瞼も落ちてきていたが、これだけは伝えなければと掠れた声で囁いた。
「嫌じゃなかったけど、今日はもう無理…また今度ね…」
「またシても良いの?」
「うん…清那のあんな姿…俺しか見れない特権だから…これから、いっぱい見せて……」
 意識が次第に霞んでいき、もう瞼を開けていることができなかった。清那が今日見せた結を抱く姿。それを思い出しながら彼の温かい身体に身を寄せるとすぐ近くでとくとくと鳴る心臓の音が聞こえ、その心地良さはまるで子守歌のようで結を眠りへと誘っていった。
「結っ」
「……ごめ…限界…」
 清那に力強く抱き締められるのを感じながら結の身体は遂に限界を迎え、温もりの中で意識を手放した。

 ◆

「んっ…」
 カーテンの隙間から零れた朝日が瞼に当たり、その眩しさで夢の世界から現実へと意識が浮上してくる。身体は温かいものに包み込まれており、瞼を閉じたままその温もりに顔を埋めた。
 落ち着く香りと心地良さにこのまま再び眠りに落ちようとほんの少し身じろぎしたのだが、その瞬間、腰と後孔に鈍い痛みが走り、小さく呻き声を上げた。痛みによって眠っていた脳が徐々に覚醒していき、それと同時に昨夜の出来事を思い出す。
 清那とセックスした。
 そのことを鮮明に思い出し、結はパチッと瞼を開けて目の前にいる人物を見つめた。彼はまだ眠っているようで静かな寝息を立てている。薄く開いた唇を見つめていると身体が熱くなるような気がしてそこから視線を外すが、視線はすぐに戻って再びその唇を見つめた。
「……」
 数秒間じっと見つめた後、結は首を伸ばし、そこに自身の顔を寄せた。そして、ちゅっと軽い口付けを彼の唇へと落とし、微笑みを浮かべる。
「んぅっ…」
「…⁉」
 清那が小さく呻き声を上げ、結は慌てて身体を元の位置に戻して寝ているふりをした。昨夜、しっかりと好きで恋人同士であるということを確かめあったが、眠っている相手にキスをしたのがバレるというのはなんとなく恥ずかしく感じてしまう。清那は寝ているしバレてないと思うが、心臓はバクバクと大きく音を鳴らしていた。
 そうしているうちに清那も目が覚めたようで胸に埋まる結の頭を優しく撫で、ちゅっと額にキスが落としてきた。その唇は額だけではなく唇にも落とされ、結は無意識に唇を薄く開けてしまったが、昨日のように舌が入ってくることはなかった。
「結、好きだよ」
 独り言のように呟かれたその言葉にドキッと心臓が跳ね上がる。昨日も聞いたが、こうして改めて言われると恥ずかしさもありながら幸せな気持ちも溢れていく。だが、結はここで一つ気付いてしまった。
(あれ…俺、清那にちゃんと好きって言ってない…?)
 好きかも、とは言ったがそれは好きという感情がどういうものかはっきりとしていない時に伝えたものだった。そこからセックスする流れになったのだが、最後のほうは意識が朦朧としながらも、記憶に残っている限りでは彼にその言葉を告げてはいない。態度で示したつもりではいたが、言葉にしなければ結が清那のことをちゃんと好きだということが伝わないのではないだろうか。
 清那は三年もの間、自分の気持ちを隠して結に優しく寄り添っていてくれていたのに、ここで言葉にして伝えないのは彼に申し訳ない気がしたし、何より結が言葉としてしっかりと伝えたいと思った。
 結が清那の腕に収まって寝ているふりをしたままぐるぐると考えていると清那が起き出す気配を感じ取った。今伝えなければ駄目だ、と布団から半分身体を出した彼の服の裾を掴んだ。
「結、起きてたの?」
「ん……清那、もう一回キスして」
「んっ、いいよ」
 清那が身を屈め、結の唇へと口付けを落とす。軽い口付けだけをして離れていこうとした清那の唇を舌先でぺろっと舐めると彼は少しだけ驚いたような表情を見せた。
 結は柔らかく微笑み、告げた。彼とのこれからの未来を想って。
「清那、俺、お前のことが好きだ」
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年下が責める系のお話が多めです。 予告なくr18な内容に入ってしまうので、取扱注意です! 全話独立したお話です! 【開放的なところでされるがままな先輩】【弟の寝込みを襲うが返り討ちにあう兄】【浮気を疑われ恋人にタジタジにされる先輩】【幼い主人に狩られるピュアな執事】【サービスが良すぎるエステティシャン】【部室で思い出づくり】【No.1の女王様を屈服させる】【吸血鬼を拾ったら】【人間とヴァンパイアの逆転主従関係】【幼馴染の力関係って決まっている】【拗ねている弟を甘やかす兄】【ドSな執着系執事】【やはり天才には勝てない秀才】 ------------------ 新しい短編集を出しました。 詳しくはプロフィールをご覧いただけると幸いです。

隠れSubは大好きなDomに跪きたい

みー
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⚠️Dom/Subユニバース 一部オリジナル表現があります。 ハイランクDom×ハイランクSub

とろとろ【R18短編集】

ちまこ。
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ねっとり、じっくりと。 とろとろにされてます。 喘ぎ声は可愛いめ。 乳首責め多めの作品集です。

魔王に飼われる勇者

たみしげ
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BLすけべ小説です。 敵の屋敷に攻め込んだ勇者が逆に捕まって淫紋を刻まれて飼われる話です。

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