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本編
終幕。
しおりを挟む鱗粉が舞う中、楽しそうに恵舞が笑っていた。美しくも禍々しい獣人の姿だった。
「すいません、こっちで片付けるのでどうか見逃してもらえると」
痺れを齎す煌きに口元を覆い、蒼念は申し訳なさそうに頭を下げた。
真田が腕組みそれを見下ろす。守ノ内は肩を竦め、白服の上着を雪妃の頭に被せた。
「勝手にやってもらって良いんですが、長引くようなら斬りますよ」
「え…いや、そこを何とか」
「もしくは他所でやってもらえませんかね。あの粉、いい迷惑ですよ」
「あはは…光の君も、そんな顔してますかね」
微動だにしない華奢な姿をちらと見て、蒼念は恐縮ですと更に頭を下げた。冷酷だと聞く中枢の君主の抑揚のない表情が、最悪な状況をより彷彿とさせる。
「紫庵が生んだものは全て滅する。それは変わらぬ」
「マアマア、ヒカリサン。若者にお任せデス、それより避難するデスヨ」
「何故か、アル」
「あの鱗粉、よろしくないデスネ。ヒカリサンも獣化してしまうデス」
アルフォンスの腕が光の君の頭上へとかざされる。終わりだとしても、次に響いては互いに良くない影響だった。
「ルーリーサンが付くデスカ。アナタも印があるデスネ、粉を吸わないよう行くデス」
「あん?何だよそれ」
「行くデス。ヒカリサンを頼むデスヨ」
「良いけどよ、あんたらは平気なのか?」
「平気デス、そのはずデスネ」
サアサアと促され、ルーリーの重たい腰が上がった。訝しむ顔は悠然と立つ光の君の頷く姿に従う他なかった。
淡く結界のようなものを纏うふたりを、守ノ内は苦笑して見送った。
「お嬢さんも下へ行きますか」
「ユキチャンは見届けるデスヨ。そろそろ扉が開くデス」
「扉って、またどこかに?勘弁してくださいよ」
「ンフフ。もう、ひとりでは行かないデス、終わりの扉デスネ」
「はっきりしろ。陛下に影響があるなら待つ必要もない」
「ウゥン…そこはお任せするデス」
紫庵の加護が抜けた今、智恩も智慧も獣化した仲間を討てるのかどうか。
ひらひらと舞い兄弟を翻弄する蝶のようなふたりを、雪妃は悲しくも見上げた。
「助けられないの?紫庵さまも居ないのに、何で」
「そうデスネ、残ったままなのはあまり良くないデスガ」
「何とかしてよアル先生。わたし、ちょっと行ってくるよ」
「待って、お嬢さん」
話せば分かると、いつもの余裕もなかったが雪妃は掴まれる腕を、守ノ内をもどかしくも見る。
困ったように微笑んだ男が小さく首を振ってみせた。
「放っておいて良いと思いますが、お嬢さんはそうですよね」
「放ってはおけないよ。何かわたし、狙われてるみたいだし」
「ええ。二人三脚ですよ、私も行きます」
出ます、と守ノ内は真田に微笑む。
厳めしい顔は大仰に肩を竦めた。任せる事に問題はないが、斬り捨てるばかりの守ノ内とそれを許さない雪妃と、どう収拾をつけるのか。
「行ってこい。忠義を果たせよ」
「ふふ。我らが隊長に従ってきます」
「おい…」
煌きの中を悠然と歩む高い背が楽しそうに見えた。隣の緊張も抱く上着を被った姿を支えて、守ノ内はさてと天井を見上げる。
「斬ってはいけないなら、どうしますかね隊長」
「正直分からん。けど、紫庵さまも居ないならどうにか戻るんじゃないの?」
「戻りますかね。居なくなってから獣化というのが気にかかりますけど」
「うむ…取り敢えず話をしてみて、アル先生も発破かけないと。絶対あれ、知ってるんだよ」
「ふふ。困ったお人ですね」
じとりと猫背の医師を振り返ると、手を挙げニカリとしている。
「斬りかかるならアル先生にね。どうせ、多少手荒にしても大丈夫なんだから」
「おや、良いんです?」
「ギリギリまで何もしてくれないだろうし、良かろうや」
「心得ました。喜んで」
「ウゥ…聞こえているデスヨ、老体は労るデス」
トホホと項垂れアルフォンスは嘆いた。
光の君は避難し、最後の四神は戦意もなく呑気にも黒い溜まりの中寛いでも見える。後は終幕を待つのみだった。
「モリノウチサンに斬られる前に、引かないとデスネ」
「まだ企みがあるのか。勝永の前に俺が斬るぞ」
「ヒィ…間に合っているデス」
様子を見てくると、逃げるようにアルフォンスは階段を下った。鼻を鳴らし真田はそれを睨み見る。
いつでも出られるように気力の回復を。ふらつきそうな脚を気合いで仁王立ちさせて立っていた。
***
「祐なら上で、大陸の子たちとアレコレやってるよお」
煙る朝焼けの下、急ぎ駆けつけたパキラは喉元まで出かかった言葉を飲み込む。あんたはここで呑気に何をやっているのか、と思うが、そもそも童顔なこの上官はそういう人だった。
「…は。後藤さんは引き続き三の丸の警備に当たるとの事です」
「うんうん。安心だねえ、もう終わるみたいだし?ボクらは待機だよ待機」
三階となる広間ですっかり気の緩んでいる望月へと敬礼して、パキラは階段を駆け上がる。
君主は無事で、真田も守ノ内もついている。そこに不安のカケラもなかったが、自分の目で確かめておかなければ気が済まなかった。
元帥の隊員たちの詰める階を急ぎ抜け、やはり呑気にもニカリと見えた胡散臭い医師に渋い顔で会釈をする。
「上に行くデスカ。パキラサンまで獣化してはユキチャン、泣いてしまうデス」
「は?獣化…?」
「アンシェスサン、来てるデスカネ。加護をもらっておくデス」
ポンと頭を叩き奥へと行ってしまう痩せた背を憮然と見送る。
もうヘトヘトだと一階で座り込んでいるはずのアンシェスの元まで駆け戻るはめとなり、無理やり絞り出させて淡い結界を身に纏った。
「ご存知のように、長くはもたないですからね。お気を付けて」
「確認したらすぐ戻る。祐さんの許可をもらったら、三の丸の警備に加わるぞ」
「本気ですか?僕はもう座ってたいんですが」
「気合いだよ、今のうちに回復しとけよ」
「タフですねえ軍曹は」
通信状態の悪い端末を床に置いて、アンシェスは壁にぐったりともたれかかった。気絶したフリでもしてこのまま眠りたかった。
「無茶をする人ですし心配の種ですもんねえ。でも、きっと無事ですよ」
慌ただしく駆けていくパキラをアンシェスは苦笑混じりに見送った。
***
華美ではないが立派な天守の最上階は、あちらこちらが無残にも崩れていた。
軍に入りたての頃の一度だけ、来た事のあった広間をパキラは唖然と見渡す。
宙を舞う獣人ふたりと、先程の大陸の兄弟が更に荒らしていた。状況が飲み込めないままで真田の元へと駆け寄った。
「祐さん、これは」
「おう。おまえだけか、下はどうなってる」
「は…後藤さんが引き続き。真田隊は待機してます」
「そうか。あとはここだけだな」
「あいつ、何やってるんです?」
阻むように立つ兄弟の後方で何やら叫ぶ雪妃を怪訝と見る。側に空色の男を認めて安堵はするものの、やはり状況は掴めなかった。
「説得でもしてるのかもな。頃合いを見て落とす」
「説得?獣人をですか」
「やって無理だと分からないと分からん奴だろ、それでも諦めは悪いが」
煤だらけの真田を横目に、パキラは何となく察する。南と北の視察で見た覚えがある容姿の獣人だった。
そして獣化とは、と思わず身構える。
「祐さんは大丈夫なんですか、この鱗粉が?」
「さあな。ドクは印があるからとルーリーを下がらせてた。俺たちにはないからな」
「印が…それでオレも」
「こっちは良い。部下を斬りたくない、おまえも下がってろ」
淡く包む光は気休め程度だろうか。真田は顎で階段を指し示した。
苦くも頷き、パキラはにこりとしてこちらを向く守ノ内へと更に渋面になる。最も頼りになるが、一番任せていられない男だった。
「おい、出てくんなよ。巻き添いで斬られちゃ堪んねえだろ」
「でも、このままじゃもっと良くないでしょ」
「ぶん殴って黙らせるから、ユキも色男を大人しくさせとけよ」
天井高く、鱗粉を撒きながら亜科乃は口元を歪めていた。
憎き相手まで中々辿り着けない。攻撃手段も殴るか蹴るか、ぼんやりとする意識の中でそれだけが巡っていた。
「亜科乃、寝ぼけてんなよ。やられる前に逃げるぞ」
邪魔をする人間が叫ぶ。
誰だっただろうか、酷く気が削がれる男だった。隣でひらひらしていたのも、もうひとりの人間の方へと舞い降りていった。どうでも良いが不愉快だった。
朝日が目を焼くようで亜科乃は更に天井へと浮く。
迂闊に迫ると恐ろしいのは、目の前の男より目標近くの男の方だった。
「あかのん、降りてきて。何とかしよう」
不愉快さを増させる女の声に、亜科乃は翅を振るう。痺れ弱ったところを潰す。それしかなかった。
「翅だけ落としても良いです?面倒そうですし」
「ま、待ってよ。痛いのはダメだよ」
「翅くらいなら多分良いよ、ちぎってやろうぜ」
翅だけと言いつつ両断されては困る。
智恩は手を出すなと再三釘を刺して、首の黒いマフラーを口まで巻いた。痺れはじわじわと全身を蝕んでいく。
「ユキ、降りてきやしねえからこの際、ちょっと手伝ってよ」
「おう、どうしたら良い?」
「囮になって。おい、テメエが側に居るからビビって来れねえのもあんだろ。離れてろよ」
「おや、離れませんよ。何を言いますか」
余計に密着する守ノ内へと智恩は舌打ちする。埒が明かなかった。
恵舞の方は大人しく智慧の元へと寄っている。ひしりと抱きしめられ困惑する弟を苦く見て、黒く戻った頭をガシガシとかいた。あれのように懐柔できる気が全くしなかった。
「囮ね、任せといて」
守ノ内を押しのけて雪妃は天井を見上げる。鎖やら厄介なものがないのなら、上手く逃げてここまで誘導できそうだった。
「そんなのしなくて良いですよ。翅を落とせば済む話です」
「あのね、かわいこちゃんは丁重にと何度話せば分かってくれるのよ」
「ええ。丁重に斬りますよ」
「そうじゃなくてだね」
「元帥の奴が戻ってきたらやべえんだ、早く頼むよ」
「そうだよ、パパは聞いちゃくれなそうだからね」
守ノ内の顔が俄かに歪む。
雪妃はその背を叩いて、ぐっと身を沈めた。壁のでっぱりを踏めば上まで行けるだろうか。少し前に出れば亜科乃なら向かってくる。そう思って畳を踏みしめた。
「分かりました。でも、おひとりではいけませんよ」
「おわ、やっぱり?」
「追い込みましょう。お任せください」
畳を蹴る前に体が浮く。
にこりとした守ノ内に抱えられて真っ直ぐ、亜科乃へと跳んだ。斬るでないぞと呻いて、雪妃はその腕に掴まった。
やや引きつった顔がひらりと避ける。
壁を蹴り、守ノ内は猛然と迫った。ひいと叫ぶ声も出ずに、雪妃は亜科乃へと手を伸ばす。
「あかのんも、チーちゃんにヨシヨシしてもらいんしゃい」
するりと抜けて、亜科乃の長い脚が鋭く伸びる。払いのけた守ノ内の手の側で嫌な音が鳴った。
「こ、こりゃ。丁重にだよ」
「ええ。丁重に」
「馬鹿者、ボキッて聞こえたんですが」
バランスを崩しながら亜科乃は逃れる。フラフラと舞い、振り向きざまに鱗粉を撒き散らしていった。
「吸わないで、被ってたのはどうしましたか」
「あ、下に…」
「伏せててください。どんなものか分かりませんが、良いものではなさそうです」
苦笑と共に守ノ内は握ろうとした刀の柄の上で手を止めた。蓋をするように手を置かれては、笑みを深めるしかなかった。
「すみません、折るだけにしておきます」
「おいい、やっぱりそうじゃないか」
「あ、いえ。あれは払ったらそうなっただけですよ」
「もう。どうなってんの、その手は」
「ふふ。お嬢さんは加減知らずなのに、不思議ですね」
こんな時でも指を絡め微笑む物騒な男を睨み上げる。
亜科乃は隅まで逃れると、再び鱗粉を撒き下降した。じっと見上げてくるもうひとつの嫌な気配の塊と、その横の小さな人間。よく知ったような近しい雰囲気に、丹念に粉を撒いておいた。
「ありゃ、パキちゃんだ。大丈夫かね」
「印がどうのと言ってましたよね。祐も居ますし、任せましょう」
おーいと呑気にも手を振る雪妃を渋い顔が見上げる。朝日を受けて舞う粉が目に滲みた。
「遊んでるな。早く済ませろ」
「へい親分。パキちゃんをお願いね」
「おまえにお願いされる筋合いはねえよ。阿呆かよ」
「へいへい。粉があかんらしいから、気を付けてね」
守ノ内が苦笑して壁を蹴り、亜科乃を追う。捉える事など容易いだろうに、と真田は嘆息を漏らした。
「全く…じゃあ、後藤さんの所に行って良いですか?」
「おう。頼む」
「は。あ、そういえばガルシア元帥は?」
「あの人は把握できん。そのうち戻るだろ」
「は…行ってきます」
敬礼し、パキラは畳に倒れ込む亜科乃の側へと降り立つふたりを振り返る。大丈夫そうだな、とそのまま階段を駆け下りた。
「チ、手ぇ焼かせやがって」
肩で息をしギリと唇を噛んだ亜科乃を智恩は見下ろす。
昔から少しも言う事を聞かない。それでいて、ある意味従順にも後をついてくる。単純ながら未だによく分からない幼馴染だった。
「もうお終いだ。帰るからな」
「チーちゃん、戻し方をアル先生に吐かせるから待ってね」
「ああ、良いよこのままでも。静かで良いわ」
「へ?う、うん」
「生き辛えかもだけど何とかなるだろ。まだ残ってたら、紫庵の野郎の屋敷で適当に暮らすわ」
恵舞を連れて智慧も歩み寄る。
ぴとりと寄り添う嬉しそうな顔に、雪妃はこちらも気が付かなかったと苦笑した。若者たちの繋がりを、不本意とはいえ乱してしまった事を申し訳なくも思う。
「ユキ、世話をかけた」
「ううん、わたしは何も」
「終えたら話をと言った。今のうちに少し、良いか」
朝日を受ける黒髪が見慣れず、やや違和感すら覚える。雪妃は頷き、掴む守ノ内の腕を怪訝と見遣った。
「話ならこの場でどうぞ。私も聞きましょう」
「…貴様に話す事はない」
「私も特にはありませんよ。では、どうぞお帰りください」
微笑む守ノ内に智慧は口を噤む。
力を失った今、余計にこの男が恐ろしい。押し潰されそうな気迫を、智慧は硬く目を閉じ振り切った。
「帰る。ユキも、一緒に」
「へ?わたしも?」
「救うと言った。大陸ならおまえも自由だ」
「う、うん。そうだね、大陸は広いから」
「息苦しく生きる必要はない。ユキの人生はユキだけのものだ」
恵舞の腕を優しく解いて踏み出す智慧を、ううむと唸り雪妃は見上げる。
この先どこでどう過ごすかまで考えていなかった。
守ノ内も大陸へ行くと言えば来てくれるだろう。そうなると、中枢での仕事はどうなるのか。白虎も受け入れてもらえるのだろうか。アルフォンスはどうするのか。光の君も、また。
色々と思うところはある。
しかし、自分がどうしたいのかまでは思い至れなかった。
「まだ勝手を言いますか、弟さん」
「勝手は貴様だろう。ユキを縛るな」
「縛ってなんていませんよ。お嬢さんは自由です。私はそれに付き従うだけです」
「それがそうだと言ってる。貴様が居るから、ユキは」
「あ、あのですね。ちょっと落ち着いて」
「ユキ、行こう。柵はもう要らない」
差し伸べられる白い手を雪妃は息を呑み見遣った。
しがらみ、と反芻する。確かに流されここまで来ているが、守ノ内と共に生きる事に何の不安もない。こちらに落とされてからずっと、一緒に過ごしてきたのだ。
「あの、ねチエちゃん。行くなら勝永も」
「何故だ。禍いの権化だ、必要ない」
「禍い?わたしはいっぱい助けてもらってきてるのに」
「己が招く禍いを己で払っているだけだ。他人を助けるような殊勝な奴じゃない」
「でも、そんな事もなくって」
「他にも同じ事をしてるだろ。それは誰にも同じだ。そいつと居ても、ユキは幸せにはなれない」
首を傾げる守ノ内を見て、智慧は苦くも吐き捨てた。
悪魔のようなこの男にだけは、渡してはならないと思う。外面の良さに騙されても、招くのはいつも不幸だけなのだ。
「随分な言われようですが、私はお嬢さんだけですよ。妙な事を吹き込まないで」
「今はそうかもな。だが前はどうだった、もう忘れたのか」
「前、ですか。何の話でしょう」
「どうせユキにも話していないんだろ。必ず繰り返す。貴様はそうだろう」
「何の話?勝永の昔の彼女さん?」
居ても別におかしくない話だった。
特に気にもかけていなかったが、雪妃は智慧の剣幕から少し怪訝としてしまう。
「昔がどうだったとかは良いよ別に。かく言う吾輩も色々、その、ございまする事でございますし」
「そうです。過去より現在未来ですよ。弟さんはいつの話をしてるんです?」
とぼけている訳ではないのだろう守ノ内の顔もまた、怪訝と傾げられる。
伸ばした手を握りしめて、智慧の鋭い目元が更に細まった。シラを切っているのではない。この男にとって、きっと些末な事なのだろう。
「親も、俺たちの妹も、中枢の白服もだ。そいつは人を斬る事に何の躊躇いもない」
「え…?」
「そんな奴といて幸せになれるはずがない。ユキだって、いつ斬られるか分からない」
「ふふ。聞き捨てなりませんね、私がお嬢さんを斬るなんて有り得ませんよ」
「どうだかな。危険は避けて然るべきだ。中枢がそもそもそうだ。獣に有益なユキを、貴様らは処分する算段だったんだろ」
「ええ…?そうなの?やめてよ」
思わず真田を振り返り、雪妃は厳めしい顔が俄かに歪む様を見逃さなかった。隣の守ノ内も困ったように眉を寄せる。
混乱する頭では到底理解できない話だった。
「どういう事なの?」
「いえ、そんな事私がさせるわけないじゃありませんか」
「させないって、そうだったって事?おい、聞いてないよ」
「すみません。実行はさせないので、話も要らないかと」
「馬鹿者、大事な所。もう、君たちって本当に…」
本当に、と雪妃は後ずさった。
皆変わらず接してくれていたように思う。とても信じられなかった。
「紫庵の野郎の封印までさせて、後はどうでも良かったんだよなあ。ユキは単純だし、テメエは女誑しだしよ」
「…よしてくださいよ。そんな事は、させないと言っています」
「ははあ、成る程ね。そんな話が」
「違いますよお嬢さん。そんな話も浮いただけです。勝手な真似はさせません」
「良いよ、そりゃ厄介だもんね。敵の回復タンクだった訳だし」
そっと触れられる信頼していた手にすら寒気を覚えた。それでも雪妃は、やや強張った笑みを守ノ内へと向ける。
(どうでも良いよ、どうせこれで終わるんだから)
あれこれ巡らせた思いも霞むようだった。
いつからそんな話になっていたのか。橘の聖女だなんて発表されてからなのだろうか。獣たちに慕われ、いい気になっていた頃からだ。きっと、全てはお互い様なのだ。
「わたしだって、獣のみんなが幸せに暮らせたらって思ってたし。でもそれは、アコちゃんの意志とは反対だったからね。仕方ないよ」
「そういう所だ。ユキは中枢に居るべきじゃない。この先いくらでも利用されて消される。そうなんだろう」
「消されるのは困るよ。そういう事なら、トンズラしないと」
「いえ、王様にも他が当たりますから。お嬢さんは何の心配も要りませんよ」
「他って?まだ何かあるの?」
聞いても分からないからとおざなりにしてきた結果とはいえ、あまりにも出てくるものだった。立ちくらむ思いで雪妃は階段を駆け上がる音を遠く聞いた。
さらりと靡いたのは菫色の髪だった。
カッちゃん、と呟くシロツメに守ノ内が眉を顰める。
「何で来るんです、シロ」
「守りやすいようによ、カッちゃん。でももう終わったの?」
場違いなほどの軽やかな声だった。
あれもだ、と智慧が小さく呟く。雪妃は頭痛を覚えながら守ノ内から離れた。
「もっちさんはどうしたんです、屋敷で待つものだとばかり」
「あたしだって、待つばかりじゃ居られないのよ。カッちゃんも気が気でないだろうし」
「また暴走してるんですか。私は無理だと言いましたよ」
「何の話?愛してるって言ったじゃない。終わったら改めてプロポーズしてくれて、あたしたち、ついに結ばれるんでしょ」
恍惚と見上げるシロツメは変わらず可愛らしいなと、雪妃はぼんやりと眺めた。
夢の続きをずっと見ている気分になる。
若く瑞々しい姿になって、念願のイケメンと良い仲になって。皆にチヤホヤされて。
夢の世界では幸せで、全てを忘れられる。惨めで哀れな自分は存在しないのだ。
「違いますよ。私はお嬢さんです。勘違いも甚だしいですよ」
「え?お嬢さんって誰?」
にっこりと微笑みシロツメは首を傾げる。ぞっとするほど、華やかな笑みだった。
「雪妃ちゃんなら、王様に食べられちゃうじゃない。消える人なんて関係ないわよ」
「…シロ、それこそ関係ありませんよ。お嬢さんは消えません」
「そう?でも、それが世界の意思なのよ。誰にも覆せないんでしょ?」
「関係ありませんよ。ねえお嬢さん、いつもの妄言です。気にしないで」
空色の瞳が揺れる。
雪妃は諦観したように後退り、笑んでいた。
話はさっぱり分からないが、その必要もないと思う。長い夢が覚めようとしているのかもしれない。
「お嬢さん、待って」
「そっか、紫庵さまの言ってた終わりの始まりって、こういう事なんだ」
元通りになるだけ。
自分の人生はやはり、あちらなのだ。
苦しくとも投げ出したくなっても、その中で生きる意味を見出だし精一杯全うする。目を背けても、それが自分の人生だった。
「楽しかった。また、これからも頑張ろう」
懐かしい景色が脳裏に広がる。
便利だけれど狭い空の大都会。前よりはもう少し前向きに、家族とも向き合える。胸を穿つような痛みも心地良かった。
「少し予定と違うデスガ、扉が開くデスネ」
「ドク、陛下は?」
「もうお休みになったデス。ミナサン、そうなるデス」
「そうか。あんたを斬っても変わらないか」
「ンフフ。また次デスネ、斬るのは勘弁して欲しいデス」
ひょこりと現れるアルフォンスを真田は呆れ顔で横目に見る。最後まで食えない男だった。
「人の幸せとは難しいデスネ。今回は誰も救われなかったデス」
「フン。訳の分からん奴だ」
「そういうモノデス。自分の事だって中々、分からないモノデス」
朝日の差し込む天守に胡散臭い乾いた笑い声が響いた。真田の嘆息と共に硬く閉じられた目は、そのまま開かなかった。
「お嬢さん、嫌ですよ。こんな終わり方は」
側に居るのに届かない腕が宙をかいた。
黒い煙のあがる空が向こうに見える。亜科乃の背の翅が震えて陽に煌めいた。
咄嗟に柄へと伸びた手より早く、白い影が飛ぶ。再生しない腕を揺らし、白虎の脚が翅をちぎった。舌打ちし、智恩は尚噛みちぎろうとする牙の前へと躍り出た。
「やめろって。もう終いだ」
「終いにしないのはそちらであろう。聖女殿への度重なる仕打ちは見逃せぬぞ」
「クソ、亜科乃やめろ。もう庇いきれねえぞ」
ふわりと浮いた雪妃へと、亜科乃は翅を振るう。低く唸った白虎が牙を剥いた。
不意に一陣の風が吹き抜け、智慧がギリと奥歯を噛みしめた。
「邪魔ですね。退いてください」
「守ノ内…!」
「お嬢さんの居ない世界に意味はないんです。お終いだと言うのなら、もうそうしましょう」
ごろりと転がる白虎の首、黒い溜まりの中に亜科乃の残された片腕が白く浮いた。
「テメエ…」
「先に手を出したのはそちらですよ。退いてください」
「チ、どいつもこいつも」
「あなたもです。王様なら階下ですよ、行ってください」
「…カツ、何をしている」
冷ややかな声は崩れた高欄へと向けられる。音もなく戻ってきた鶯色の双眸は、把握できないままに振るわれる一閃を避け畳へと降り立った。
「獣人がまだ居たか。嫁はどうした」
「どうもしません。全部斬ります」
「そうか。全部とは、天守ごとのつもりか」
「煩わしいもの全部です。あなたも、斬りますよ」
「カツ、落ち着け。何があった」
「何もありませんよ。黙って、行って」
辟易と守ノ内は鞘走る。
頭に血が昇っている訳ではない。自分でも冷静だと感じていた。
ただ、今にも消え入りそうな雪妃が、その心がどこかへと向けられている事が受け入れ難かった。
「皆、消えてしまえば良いんです。こんな世界は、要らない」
「カツ…」
その呟きは初めて見かけた時、まだ十にも満たない少年が吐き捨てた言葉と重なった。
獣から逃げ惑う人々の中でひとり立ち尽くしていた少年は、誤って向けられた白服の刀を奪い、全てを斬り捨てていた。阿鼻叫喚の中で返り血も浴びずに、穏やかに笑みすら浮かべて。
しかし今は苦しげに顔を歪め刀の柄を握っていた。彼の苦悩を誰もが知り得ない。
「カツ、斬るな。嫁を先に取り戻せ」
「黙って。もう手遅れなんです」
「らしくないぞ、まだそこに居る」
「居ないんです。お嬢さんはもう、行ってしまったんです。私を置いて」
「諦めるな。まだ居る」
「私のせいです。いつだって、私が離してしまってるんです。側に居ると言ったのに」
崩れてくる天井から智慧は恵舞の手を引き逃れる。禍いだと苦く呟きが漏れた。いつだってあれが求めると、全てが消えるのだ。
「亜科乃、よせ。もう良いだろ」
執拗に向けられる亜科乃の憎悪を守ノ内が察せない訳がない。凶刃は容赦なく満身創痍の身へ届く。
かろうじて転がり避けて、智恩は亜科乃の前へと出た。血飛沫を浴びて、漸く聞き慣れた声がリーダー、と呼んだ。
「…おい、今頃かよ。遅えな」
「リーダー、何で、オレは…」
「ったく、テメエはちっともオレの言う事を聞かねえんだからよ」
「リーダー…」
血を吐く智恩を蒼然と亜科乃は抱えた。
斬るなら綺麗に断てよ、と苦笑する声も掠れていた。
「ごめん、リーダー。オレのせいだ」
「そうだよ。まあ、気にすんな。家族だろ」
「嫌だ、リーダー」
「ハハ…泣くなよ、きめえな」
「煩えな、テメエもきめえよ、血だらけで」
「はあ、智慧は生きてっか?あいつだけでも、逃げてオレの分まで…」
「バカか、皆で逃げるんだろ。家族なんだから」
「ああ…そうだな」
淡く光る雪妃を横目に智恩は笑みを浮かべる。
紫庵が彼女こそ暗闇にある灯火だとよく言っていた。それを頼りに始まり、終わるのだと。
「やっと会えたのになあ…」
「智恩、生きろよ。まだ終わりじゃない」
「煩えなあ、無茶言うなよバカ智慧が」
「バカはおまえだ。ユキが救ってくれる」
「おう…オレたちの女神様みてえなモンだしな」
不思議と襲ってこない痛みが笑みを深めさせる。温かな光だった。
悲鳴もなくシロツメが床に伏せる。その首もまた、微笑んでいるように見えた。薄れいく意識の端で、刀を弾いたフレディの険しい表情を認める。バケモノ同士、派手にやってるなと智恩は目を閉じた。
「最後ぶん殴れなかったのは心残りだけどよ、休もうぜ。紫庵ももう居ねえんだ」
「…そうだな」
「地獄でまた会えるかもな。皆揃って殴りに行こうぜ」
智慧の歪んだ顔をニヤリとして見上げる。意識はそこで途絶えた。
次々と倒れていく皆を、ただひとりアルフォンスは頭をかいて眺める。酷い結末だと紫煙を吐き出した。
「上手くいかない事ばかりデスネ。それもまた、この世の常デス」
アルフォンスは嘆息混じりに踵を返した。
暗雲が太陽を隠していた。降り出す雨の音だけが世界を包む。
向けられた冷ややかな殺気もすぐに消え失せた。
扉が開き、そして閉じる。
崩れ落ちるのか、晴れ渡り元に戻るのか、誰も知らない。
静まり返った中、のんびりと猫背だけが歩いていた。
この世界の終幕だった。
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【第二部】結ばれる恋人編 完結
【第三部】二人の休息編 完結
【第四部】愛のエルフと力のドラゴン編 完結
【第五部】魔女の監獄編 完結
【第六部】最終章 完結
誰も要らないなら僕が貰いますが、よろしいでしょうか?
伊東 丘多
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ジャストキルでしか、手に入らないレアな石を取るために冒険します
小さな少年が、独自の方法でスキルアップをして強くなっていく。
そして、田舎の町から王都へ向かいます
登場人物の名前と色
グラン デディーリエ(義母の名字)
8才
若草色の髪 ブルーグリーンの目
アルフ 実父
アダマス 母
エンジュ ミライト
13才 グランの義理姉
桃色の髪 ブルーの瞳
ユーディア ミライト
17才 グランの義理姉
濃い赤紫の髪 ブルーの瞳
コンティ ミライト
7才 グランの義理の弟
フォンシル コンドーラル ベージュ
11才皇太子
ピーター サイマルト
近衛兵 皇太子付き
アダマゼイン 魔王
目が透明
ガーゼル 魔王の側近 女の子
ジャスパー
フロー 食堂宿の人
宝石の名前関係をもじってます。
色とかもあわせて。
転生メイドは絆されない ~あの子は私が育てます!~
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息子と一緒に事故に遭い、母子で異世界に転生してしまったさおり。
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第二王子に厳しい躾を始めた一介のメイドの噂は王家の人々の耳にも入る。
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王女の夢見た世界への旅路
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侍女を助けるために幼い王女は、己が全てをかけて回復魔術を使用した。
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なぜ、少女は異世界へと連れてこられたのか。
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長い間更新をさぼってしまってすいませんでした!
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